肉がないイエスの十字架

 「そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」(2ヨハネ5-7)

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 さくじつ、「初めから聞いたこと」というタイトルの記事を書いた。
 、「あなたがたを惑わそうとする人たち」がいるので、それを確認しよう、そういう旨だ。
 今日の聖書箇所では、ヨハネは「お願い」をしている。
 「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行った」。
 では彼らこそ、「惑わそうとする人たち」なのだろうか。
 そうである。まったくもって、そうなのだ。

 イエスが人として来られたのでなければ、一切は無意味だ。
 「人」とは、罪深いアダムの肉、いずれ死ぬ肉を意味し、イエスは私たちと同じこの肉をまとってこの世に来られた。
 神はこの肉を極刑の十字架に架けて私たちの罪を処理し、そして死んだイエスをよみがえらせた。
 これが、私たちのアダムの肉が解放されるためにイエスが切り開いた道なのである。

 だから、「人間ではないイエス」が来られたということになると、一見ありがたいようで、実は何のありがたみもない。
 「肉がないイエスの十字架」が一体、何を救おうというのだろう。

 このような惑わしがあると、「初めから聞いたこと」を再確認することの必要性がよくわかる。
 ちなみに昨日引用した聖書箇所には、「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。」(1ヨハネ2:27)とある。

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 ほんじつの記事は、2007年10月18日の記事に筆を加えたものです。
 [初版]2007年10月18日
 [二版]2010年 3月 7日

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