「どうしてその道が私たちにわかりましょう」

 「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:4-9)

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 トマスはイエスに問い続ける。
 懐疑主義者トマスのこの姿勢の方が、盲従のペテロよりも好ましいのではないか。
 今の世においては、特にそうだ。

 このころ、イエスは十字架と復活の道をいよいよ歩み始めたばかりの頃である。
 だから、トマスが「どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と言うのは、もっともなことだ。
 イエスがその十字架と復活によって開通させた狭き道は、ここでイエスが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と明確に語るとおり、「真理」とか「いのち」というものに続いている。
 山を海に入れと祈ってそのとおりになる、ということは物理的にないかもしれないが、それくらいの大きな変化がその人の内側に起こって彼はよみがえるのである。
 これが、イエスの切り開く道であり、救いの道である。

 ピリポは、イエスがその救いの道を作るために来たことを、まだ知らない。
 さらに、イエスは「もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。」と言っているが、ピリポを始め11人ともこの時点では、イエス御自身をすら知っていない。
 ゆえに、父のことも今はわかろうはずもない。

 だが、復活のイエスに出会うときに、イエスを知り、父を知り、そうしてイエスの道をはっきりと見いだすこととなるのである。

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