お大切

 「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
……
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:1,34-35)
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 このブログで、私は毎回毎回、金太郎飴のように、十字架のこと、復活のこと、要するに「いのち」のことを書き続けている。
 今回は、そこからは外れたことを書いてみる。

 古来、日本のキリシタン達は、愛を「お大切」と言っていた。
 私が耳にした話では、当時のイエスズ会(?)が聖書を日本語に翻訳する際に、直訳して「愛」とはせずに「お大切」と、いわば意訳したとのこと。
 なぜかというと、当時の日本語では「愛」という言葉は良い意味合いではなかったからだとか。
 今日の日本でも、「愛」という言葉には茫漠とした印象を私は持つ。

 さてイエスが与える新しい戒め、それは旧来の律法とは全く異なる。
 「あなたがたは互いに愛し合いなさい」、つまり、互いに大切にしあいなさい、そういう戒めだ。
 この新しい戒めを遵守することにより、近年の心理学者マズローが指摘した「承認欲求」(周りからその存在を承認されたい欲求)を、互いに満たし合うことが叶うだろう。
 ベストセラー「悩む力」(姜尚中 著)という駄本にすら、「相互承認」という同様のことばが登場するが、それほど人は他人から承認されたがっている。
 だから、その人を承認して大切にするということは、その人を愛するということに直結する。
 イエスの「新しい戒め」は、理に叶っているのだ。

 ならばそうすればいいに決まっているのに、人はなぜ、こうも人を愛せないのだろう。大切にできないのだろう。
 「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
 端的に言えば、世に愛はない。
 この世においては、相手を大切になど、してはいない。
 一見大切にしているように見えて、実は自分「だけ」の利得を追い求めている。
 「金の切れ目が縁の切れ目」、これが世である。
 そうではなく、イエスがこの洗足の場面で大切にした人々は、「世にいる自分のもの」である。この「世」ではない。
 世のごく一部に、(やみを愛するのではなく)光の方にやってくる人がいる(参/ヨハネ3:19-21)。
 そのような人たちの中で、イエスが奴隷になって足を洗った如く互いに仕え合って、互いに承認し合う。これが本来のエクレシアである。

 ところで一方、「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:39)というイエスの言葉もある。
 この戒めは、本当に大切だ。
 だが、これは律法の戒めであり、「新しい戒め」とは全く違う。
 律法は、人を死に導く機能を果たすものだ。その意味で、本当に大切なのだ。
 神の完璧な秩序・律法を守ることができないという点で、全ての人間は罪の下にある。
 イエスが切り開いてくださった狭き道を歩むことができるならば、罪に死んでイエス同様よみがえり、罪赦されて解放が訪れる。
 そうしてその人は、「新しい戒め」を営むのである。

 イエスが与えられた「新しい戒め」は、互いに大切にし合うことで相手に喜びを与え、自分も喜びを得るものである。

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