イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
裏切りということ
「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
……
その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」
イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
……
ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。
ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」(ヨハネ13:
21,25-27,30-31)
---
イスカリオテ・ユダがイエスを裏切る場面。
ユダが出て行くとき、イエスは「今こそ人の子は栄光を受けました。」と宣言する。
イエスの栄光とは、極刑たる十字架に架かること。
十字架に架かって単に死ぬことが栄光なのではない。
そうではなく、十字架に架かって御自身の罪なき肉を御父に捧げて、信じるすべての人への罪の赦しを与えること、ここにこそイエスの十字架の栄光がある。
何故、ユダはイエスを裏切ったのだろうか。
マタイ福音書に書かれているように、カネに釣られたのだろうか。
それとも、ユダはもっぱら処世のことばかり考えていて、祭司長側に取り入ろうとしたのだろうか。
単純に「サタンが入った」からだろうか。
確たることは分からない。
が、イエスはかねてよりユダについて次のように言っている。
「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(ヨハネ6:70)
「悪魔」をすら、イエスは十二弟子に選んだのである。
そうすると、イエスはユダが裏切ることをはじめから承知した上で、弟子として選んで彼を愛したのだろう。
そして、やはり裏切られる。
というより、イエスにとっては、身内から裏切り者が出ないとイエスが捕らえられる機会が訪れない、というのもあるのかもしれない。
イエスが捕らえられてのちには、ペテロの否認(ヨハネ18:16-27)もある。
十字架への道とは、愛した者にさえ次々に見捨てられて、足蹴にされる道である。
それは、御父と御子だけの関係の中で、御子イエスにしかできない罪のなだめの捧げものをするためであって、すなわちイエスは信じるすべての人を、それでも愛したのである。
そしてそのことは、こうしてイエスが切り開いた道をあとから歩む者のお手本、型である。
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その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」
イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
……
ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。
ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」(ヨハネ13:
21,25-27,30-31)
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イスカリオテ・ユダがイエスを裏切る場面。
ユダが出て行くとき、イエスは「今こそ人の子は栄光を受けました。」と宣言する。
イエスの栄光とは、極刑たる十字架に架かること。
十字架に架かって単に死ぬことが栄光なのではない。
そうではなく、十字架に架かって御自身の罪なき肉を御父に捧げて、信じるすべての人への罪の赦しを与えること、ここにこそイエスの十字架の栄光がある。
何故、ユダはイエスを裏切ったのだろうか。
マタイ福音書に書かれているように、カネに釣られたのだろうか。
それとも、ユダはもっぱら処世のことばかり考えていて、祭司長側に取り入ろうとしたのだろうか。
単純に「サタンが入った」からだろうか。
確たることは分からない。
が、イエスはかねてよりユダについて次のように言っている。
「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(ヨハネ6:70)
「悪魔」をすら、イエスは十二弟子に選んだのである。
そうすると、イエスはユダが裏切ることをはじめから承知した上で、弟子として選んで彼を愛したのだろう。
そして、やはり裏切られる。
というより、イエスにとっては、身内から裏切り者が出ないとイエスが捕らえられる機会が訪れない、というのもあるのかもしれない。
イエスが捕らえられてのちには、ペテロの否認(ヨハネ18:16-27)もある。
十字架への道とは、愛した者にさえ次々に見捨てられて、足蹴にされる道である。
それは、御父と御子だけの関係の中で、御子イエスにしかできない罪のなだめの捧げものをするためであって、すなわちイエスは信じるすべての人を、それでも愛したのである。
そしてそのことは、こうしてイエスが切り開いた道をあとから歩む者のお手本、型である。
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