『いのち』ということ

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:24-25)

---

 「さばき」とはなんだろう。マタイ伝より。

 「また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ13:47-50)

 イエスのこのたとえ話にある「えり分け」が、さばきである。
 この世の終わりに、良いものと悪いものとの「えり分け」が行われる。
 つまり、この世は終わるということ、その終わりの際には必ずさばきが行われること、そのさばきとは平たく言えば天国にいくか地獄に堕ちるかということに関するものであることを、イエスは一貫して仰っている。
 死んだ人は誰であれ天国に行くなどということは、聖書のどこにも書かれていない。
 そうすると、人は死んだらどうなってしまうのか、という大きな不安がつきまとう。

 イエスは言う。
 「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
 イエスの言葉が聞こえて神を信じる人、イエスを通して神につながった人は、上に書いたさばきを免除される。
 そうであるから、その人は死ぬべき存在ではなく生きる存在へと変わり、第二のエルサレムに通じる永遠のいのちを既に享受している。
 「いのち」とは、死後についての大きな不安が取り除かれて安んじていることである。
 だから、元気だとかテンションが高いとかいうこととは、「いのち」とは全く無関係だ。

 イエスが来られて、「『死人』が神の子の声を聞く時」が到来した。
 ここでいう「死人」とは、すべての人である。
 そのすべての人を死から生へと救うため、神と人との仲介役であるイエス・キリストが人となって来られた。
 「そして、聞く者は生きる」、このイエスを介して神に通じたときに、さばきから解放されていのちを得るのである。
 イエスを介さずに神に通じる道はなく、イエスのことばなしに神の声を聞くことはない。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )