いのちのパン

 「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:31-37)

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 イエスと群集との、全くかみ合わない会話。

 群集が欲しいのは、どこまでも食べるパン、腹を満たすパンである、要するにマナである。
 ところがイエスが世に来て与えたいと思っているのは、そのようなものではない。
 それをイエスは「いのちのパン」と呼んだ。
 「わたしがいのちのパンです」。

 マナは食べると無くなってしまうので、マナが再び天から降ってくるのを待つよりほかない。
 今ここでイエスと言い合っている群集もそうで、施しを得たら、ただ次の施しを求める。
 これではいつまでたっても自分で食うということができない。
 だが、それができるだけのものを与えてくれるのが「いのちのパン」である。

 この「いのちのパン」は食物ではない。
 だが、それを「食する」ことによって、食べていけるだけの力を得ることができるのである。
 だから「わたしに来る者は決して飢えることがな」いと、イエスは言っている。
 それは全くの自力で食えるようになる、ということでは全くない。
 「わたしは決して捨てません」とあるように、神の御力に常に依っているのであり、そのことは、イエスという「いのちのパン」を食した人にとっては自明のことにすぎない。
 イエスを信じる人というのは、「いのちのパン」を食したそのような人々のことである。

 一方で群集についてイエスは、「あなたがたはわたしを見ながら信じようとしない」と言っている。
 イエスを目の前にしても、全く「見えない」。
 見えないから、無くなる食物であるマナを求めてしまう。
 だが、そんな彼らの中にも、あるときイエスが「いのちのパン」という本来の姿に見えてくる人が出てくる。
 それが神の御恵みなのであり、「父がわたしにお与えになる者」はそのとおりにたぐり寄せられて、「いのちのパン」に預かるのである。

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