北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

子供を託せる人

2008-05-11 22:34:14 | 古典から
 先日知人のAさんと飲んでいて、今私が死んだら子供のことを託せるのはAさん、あなただけなのでよろしくお願いします、という話題になりました。

 そう言えば、どこかの中国の古典でそういう話があったように思って、気になって古典を引っ張り出して見ました。すると、あった、ありました、孔子の論語にありました。直接には思い出せなくても、キーワードを頼りにネットで検索できるのですから、「知」はいよいよ我々の身近になりました。

  

 さてその一節は、こういうもの。

 曾士(そうし)の曰わく、以(もっ)て六尺(りくせき)の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨(のぞ)んで奪うべからず。君子人か、君子人なり。(「論語」泰伯第八)

 このなかの六尺(りくせき)の「尺」とは長さではなく時間の単位で、約2年半くらいのことだそう。だから「六尺の孤」とは親を亡くした15歳くらいの子供のことですが、文脈的には君主の若君のこと。

 意味は「曾士が言われた『小さい孤児の若君をあずけることもできれば、諸侯の国家の政令を任せることも出来、大事にあたっても〔その志を〕奪うことが出来ない。これこそ君子の人だろうか、〔確かに〕君子の人である』」というものです。(参考:岩波文庫「論語」金谷治訳注)

 この一節、短い言葉では託孤寄命(たくこきめい)などとも呼ばれ、秀吉から遺児秀頼のことを託された前田利長の話や、その前田利長の臨終に際して「太閤からそう言われて、論語を勉強してきたが、これをあなたに差し上げるから熟読せよ」と言われながら、「あの話を聞いたときは無学で何を言っているのか分からなかったが、今ようやく分かるようになった」と臨終の際に慨嘆した加藤清正の話などが伝わっています。


 実際、本当に心から相談をしたいと思ったときに、相談できる人が何人皆さんの頭に浮かぶでしょうか。普段は仲良く話したり飲んだりする友達はいても、本当に物事を相談できる相手って、一人いるかいないかではありませんか。

 まして今自分が死ぬとなったときに、子供を託そうというつもりで周りを見回してみて、その信頼に足ると思える人がいるとしたら、その人こそ本物だということです。

 人間、ある程度の年齢になってくると、そろそろ本物の友を見つけることを考えた方が良いですし、逆に、友から託すに価すると思われるような自分になれるでしょうか。

 自分がそんな風になれるかどうか、と思うと冷や汗が出てきます。

 修行が足りません。 

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