自治基本条例の第五回検討委員会。
今年度の委員会はこれが最後で、これまでのまとめと今後の展開について意見を交換します。
今日はその自治基本条例の検討に先立って、環境関連で市民参加に詳しい、釧路教育大学の講師である平岡俊一先生の講演を聞きました。
平岡先生は、学生時代から温暖化対策に関する国連の会議(COP6)等に出席して関心を深めていました。
そんなときに京都府城陽市で市民参加によって環境基本条例・基本計画を策定するという話があり、市民が参加するということに感銘を受けて参画。
城陽市では徹底した市民参加による策定作業が行われ、行政が誘導することもなく、当時としては先進的な条例の制定が実現したそうです。
しかしあまりに多くの時間と回数という、多大な労力を使い、関係者は皆疲弊したり、行政とも衝突したのだそうで、本当に苦労をされたそうで、おそらく他の自治体のどこでもできるような作り方ではなかった、と回想されました。
市民がすべての作業に深く関与することが本当に正しい市民参加の姿なのかについては疑問が残るところ。
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その後いくつかの自治体から同じような依頼を受けて環境条例づくりに参画したものの、自治体のその後をフォローしてみると、条例が十分に生かされていない自治体も見受けられたそう。
システムさえあればよいのではなく、それを動かす担い手が理解して使いこなせなければ意味のないものになってしまうという点が反省材料だ、とのこと。
当然ながら、条例などは作った後に使いこなせるような運用のシステムが必要になるのであって、市民にも関心を継続してもらわなくてはいけません。
役所の転勤による担当者の交代を、市民が補完できるだろうか? 市民参加における「市民」とは誰か? 市民に求められるマインドや力量とは何か?
市民との関係が問われます。
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続いてはお爺さんがご出身という愛媛県内子町(人口18500人)での経験。
基幹産業の衰退と、道の駅の成功のなか、地元には「石畳を思う会」ができてグリーンツーリズムが生まれ、今では年間80万人の観光客が訪れるまちになったそう。
その原動力は、コミュニティビジネスに取り組み人材が町内の各方面から次々現れたこと。
例えばそれまではただの主婦だったのが、プレゼンが上手で三セクの広報部長になったり、カリスマ農家がいたり、前町長がNPOを作って自然エネルギー導入活動をしていたり、元助役がペンション経営…などなど。
地域での活躍は、仕事人の顔だけではありません。
地域づくりが始まるには、学習会→議論(行政からの提案)→試行事業→行政支援による本格的事業→各方面に派生…というサイクルがあるといいます。
参加の基礎としての、地域社会の自治力と学習・熟議文化に裏打ちされた内子町の地域社会の自治力の高さ、それを前提にした暗黙の役割分担がある。
小さいまちほど束ねやすいということもあるかもしれませんが、大きなまちだってやってできないことはないはずです。
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さて、そんな平岡先生からの講演を聴いた後に始まった今年度最後の自治基本条例制定委員会。
自治基本条例とは、市と市民との合意形成や、市と市民が一体となった政策決定のための理念やルールである、という意味や、情報共有や市民参加の継続実践を保障するものだ、といったこれまで語ってきた理念についてのまとめが説明されました。
また、検討のテーマとして、情報公開や市民参加、予算の編成過程、争点となる政策の取り扱い、権力(者)の統制などについても説明され、これらを釧路なりに同アレンジしてゆくかについてはこれからの課題です。
そうした議論の中で、自治基本条例策定についてのコンセンサスはあるだろうか、という議論になったところで一部委員会から、「この条例を作ると市役所には履行義務が発生するだろうけれど、市民の側を変えることができるだろうか」という意見が出ました。
同様に、「市民だけではなく、NPOなどの各種団体においても、運営したりお金を稼ぐ力がなく、自立が難しい」という意見も。
また、「いまだになぜ作らなくてはならないか、の理由が分からない。敢えて新しい条例を作らなくても既存の指針や取り決めなどを運用すれば目的な達せられるのではないか」という意見も出されました。
要は、条例の作成過程そのものが市民を巻き込んで自分たちで作り上げたものだという自覚に訴えなければ、結局は市役所だけの自己満足に終わるのではないか、という危惧の念でもありました。
他の委員からも、「私もニュートラルで、どちらがいいか決めかねている」という発言がありました。
議論の中で論点となりそうな点もあるだろうし、逐条を検討する中で、本当に制定する意義があるかどうかを平行して議論しようという事になりました。
何事も、すんなり決まってよいことと、すんなり決まらずに議論を尽くしたことで良くなることがあります。
自治基本条例ともなると、一般市民の生活からはややかけ離れたところにある理念的なものでもあるので、その意味はもっともっと市民に公開や伝達をして、議論が出るような気運を作る方が良いに決まっています。
あまり拙速な結論を出さなかったことで、却ってよかったのではないか、とも思ってきました。
市民の皆さんとも意見交換する場を作りたいものですね。