北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

自分の覚悟はどこにある

2011-09-26 23:45:42 | Weblog
 先週末に開催された建築士会全道大会を皮切りに、市内を始めあちこちでお話をする機会をいただいています。

 明後日の夜は市内のPTA研修会で、テーマは「教育と父親の役割について」と題して1時間ほどお話をします。

 子供との関わりの中で、普段からの、そしていざと言うときの父親の役割について考えてきたことについて聞いてくれた方のお考えもぜひ聞かせていただきたいものです。

 話は私の子供のことが発端となって、父親としての自分について考えさせられたことが中心です。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは当時はプロイセンと呼ばれたドイツの鉄血宰相ビスマルクの言葉。

 自分のつたない経験を全てのように思うことは慎まなくてはいけないと心がけてはいるものの、それでもやはり自分の身に起こったことは強い印象を持つものです。

 要はそこから何を学び、それをきっかけとして一般的に敷衍(ふえん)できることは何かを学び取れば良いのではないかと思うのです。

 
    ※     ※     ※     ※     ※


   【自分の決断の結果には責任をもつべし】


 ほんの一端だけお話すれば、人生には自分自身の覚悟が問われる場面があるということ。

 苦しくて困った時には専門家や友人から、「こうすべきだと思うよ」、「こうした方がいいよ」などとアドバイスを受けることがあるでしょう。

 しかしそれらのアドバイス通りにやってみて巧くいかなかったときはどう考えるでしょう。

 アドバイスをしてくれた人を恨んだり文句を言ったりしますか。あるいは「言われた通りやったのにうまくいかなかったのだから責任を取れ」と言うでしょうか。


 今はそんなことをする人も案外いるのかもしれませんが、本来は自分の悩みを解決するときには様々なアドバイスをもらったところで、最後に決断するのは自分自身に外なりません。

 そうした決断に対する結果の責任を負うのも自分だと考える、責任を他人には求めない、それを覚悟と言います。

 この精神を今は誰も語らなくなったような気がします。 
 
 
 勉強などは学校であっても社会に出てからであっても、自分自身を高めるために行うものであって、その結果については自分自身が責任を負う覚悟をもってしなくてはならないはず。

 それなのに、「先生の教え方が悪いから」「ちゃんと指導してくれないから」と自分以外に責任を転嫁するなんて、自分の行く末に対する覚悟ができていないのだと言えるでしょう。


 
 詩人茨木のり子さんの詩、「自分の感受性くらい」の後段の一節は、

  初心消えかかるのを
  暮らしのせいにはするな
  そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

  駄目なことの一切を
  時代のせいにはするな
  わずかに光る尊厳の放棄

  自分の感受性くらい
  自分で守れ
  ばかものよ


 …でした。心にしみる良い詩です。


    ※     ※     ※     ※     ※


 はてさて、では今日の自分に覚悟はあったのか。

 この際「日に三度吾が身を省みる」しかありますまい。 



 週末は全国まちづくり会議で埼玉へ行き「港町のまちづくり」について話をし、週明けは市民大学の開講に合わせた講演が予定されています。

 再来週は恵庭市で自転車のまちづくりについての講演。この間、生涯学習についての学習会や市議会議員の皆さんとの勉強会などもあります。

 秋は勉強の秋です。
  
コメント
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