北海道の稚内では初雪の知らせだそう。こういう話は東京でも話題になるのです。
寒くなるのは分かっているのだからせめて暖かい話題にでもすればよいのに。
ボクシングのフライ級タイトルマッチ、内藤大助vs.亀田大毅戦を見ました。
もう新聞やネットでは相当書き込みがあって、話題になっていますが、試合そのものはチャンピオン内藤が手数やテクニックで優勢に進めましたが、後半は反則減点もあり、プロレス張りの投げありとタイトルマッチらしくない、荒れた試合となりました。
パフォーマンスや盛り上げということもあるのでしょうが、試合前からの亀田サイドの罵詈雑言にもめげず、リングの場で決着をつけた内藤選手の方が多くのファンの支持を得たようです。
亀田大毅も進む道を間違えなければ強くなる要素は充分持っているのですが、どうなることか。
※ ※ ※ ※
それにしても、戦う前からの亀田サイドの悪口や凄み方はちょっと尋常ではなくて気になっていたところ。
内藤選手が勝った後のコメントで「僕はいじめられっ子だったから。いじめられっ子がいじめっ子に勝ったということでしょうね」と言っていたのが印象的でしたが、亀田サイドの振る舞い方は、それまで戦ってきた相手選手に対しても、どこかいじめっ子の風があったように思いました。
学校でのいじめ事件になると目をつり上げるマスコミも、自分たちに都合良く盛り上げる要素にはあまり批判もせずに持ち上げるという姿勢にこそ、いじめがなかなか無くならない原理そのものを見たような気がしています。
いじめを見過ごしたり、おもしろがったりする心理はそういうちょっとしたところに潜んでいるのではないでしょうか。
もっともマスコミとしては、これで世間から亀田サイドに批判が集中すると見るやこんどはそちらに荷担するのかも知れませんが。
感情的にならずに冷静にものごとを見たいものです。
※ ※ ※ ※
中国に『荘子』という古典がありますが、ここに「木鶏(もっけい)」というお話がでています。
それによると、紀渻子(きせいし)という人が闘鶏の好きな王のためにシャモを飼って調教をしていました。十日経って王が「もうよいか」と問うと、紀渻子は「まだです。空威張りして気を出し過ぎます」と答えました。
また十日経って王が「もう良いか」と訊ねると「まだ駄目です。相手の姿を見たり声を聞くと興奮するところがあります」と答えました。
また十日経つと「まだです。相手を見るとにらみ付けて圧倒しようとするところがあります」
そしてさらに十日経ったところでまた王が訊ねると、紀渻子はようやく「まあなんとかよろしいでしょう」と答えました。曰く「もう他の鶏の声がしても平常心を保ち、見ていてまるで木彫りの鶏(木鶏)のようです。徳が充実をいたしました。この鶏に向かって行くものはなく、見ただけで逃げて行くことでしょう」と答えました。
これが「木鶏」といわれた故事の由来です。人間こうありたいものですがねえ。
寒くなるのは分かっているのだからせめて暖かい話題にでもすればよいのに。
ボクシングのフライ級タイトルマッチ、内藤大助vs.亀田大毅戦を見ました。
もう新聞やネットでは相当書き込みがあって、話題になっていますが、試合そのものはチャンピオン内藤が手数やテクニックで優勢に進めましたが、後半は反則減点もあり、プロレス張りの投げありとタイトルマッチらしくない、荒れた試合となりました。
パフォーマンスや盛り上げということもあるのでしょうが、試合前からの亀田サイドの罵詈雑言にもめげず、リングの場で決着をつけた内藤選手の方が多くのファンの支持を得たようです。
亀田大毅も進む道を間違えなければ強くなる要素は充分持っているのですが、どうなることか。
※ ※ ※ ※
それにしても、戦う前からの亀田サイドの悪口や凄み方はちょっと尋常ではなくて気になっていたところ。
内藤選手が勝った後のコメントで「僕はいじめられっ子だったから。いじめられっ子がいじめっ子に勝ったということでしょうね」と言っていたのが印象的でしたが、亀田サイドの振る舞い方は、それまで戦ってきた相手選手に対しても、どこかいじめっ子の風があったように思いました。
学校でのいじめ事件になると目をつり上げるマスコミも、自分たちに都合良く盛り上げる要素にはあまり批判もせずに持ち上げるという姿勢にこそ、いじめがなかなか無くならない原理そのものを見たような気がしています。
いじめを見過ごしたり、おもしろがったりする心理はそういうちょっとしたところに潜んでいるのではないでしょうか。
もっともマスコミとしては、これで世間から亀田サイドに批判が集中すると見るやこんどはそちらに荷担するのかも知れませんが。
感情的にならずに冷静にものごとを見たいものです。
※ ※ ※ ※
中国に『荘子』という古典がありますが、ここに「木鶏(もっけい)」というお話がでています。
それによると、紀渻子(きせいし)という人が闘鶏の好きな王のためにシャモを飼って調教をしていました。十日経って王が「もうよいか」と問うと、紀渻子は「まだです。空威張りして気を出し過ぎます」と答えました。
また十日経って王が「もう良いか」と訊ねると「まだ駄目です。相手の姿を見たり声を聞くと興奮するところがあります」と答えました。
また十日経つと「まだです。相手を見るとにらみ付けて圧倒しようとするところがあります」
そしてさらに十日経ったところでまた王が訊ねると、紀渻子はようやく「まあなんとかよろしいでしょう」と答えました。曰く「もう他の鶏の声がしても平常心を保ち、見ていてまるで木彫りの鶏(木鶏)のようです。徳が充実をいたしました。この鶏に向かって行くものはなく、見ただけで逃げて行くことでしょう」と答えました。
これが「木鶏」といわれた故事の由来です。人間こうありたいものですがねえ。