駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

ミン・ジヒョン『僕の狂ったフェミ彼女』(イースト・プレス)

2022年11月14日 | 乱読記/書名は行
 初恋の人に再会したら、フェミニストになっていた!? 主人公「僕」の視点で描かれる「彼女」の姿、そこには今を生きる私たちの「現実」が詰まっている…韓国でドラマ化、映画化も決定した話題作。愛も権利も譲れない、あなたのための物語。

 ずっと以前に買っていて積んであったのですが、やっと読む順番が回ってきました。読むとなったら半日で読めました。ソフトカバーでライトな装丁だし、著者と懇意だという訳者の訳も軽やかで註も的確で、一人称小説なので読みやすい、というのもありますが、ホントあるあるで「そーいうとこ!」の膝パーカッション乱打で、深刻にはなりすぎないけれど深い内容に我が意を得たりとバリバリ読み進んだら、あっという間にゴールだったのでした。
 私は『冬ソナ』第2世代で2001年から10年ほど韓流にハマり、韓国語にも韓国文化にも多少造詣があるつもりですが、ホントに日本語、日本文化と近いですよね。語順が自由なのもそうだし、今回は特に現代語としての外来語の取り入れ方や略語の作り方のセンスがほぼ一緒!ってのにホント驚きました。訳註が本当に行き届いていて、でも決してうるさくなく、韓国の「今」を上手く解説してくれていて理解が深まりました。そして文化的にも中国の影響下の儒教圏ということもあって本当によく似ているんだけれど、違うところもたくさんあって、今は(今までも?)韓国の方がずっと先に行っていることも実によくわかりました。私はパッションの在り方なんかが「韓国はアジアのラテン系だから」と表現するのがいいのでは、という説を以前から唱えているのですが、島国日本の農耕文化より半島だけど大陸寄りで狩猟文化で肉食なのかな、とか思うんですよね。だからちゃんと女性が強い、賢い。うらやましい限りです。イヤうらやんでるだけじゃダメなんだけどさ。
 なのでホントおもしろく読みました。以下わりと自分語りもかなり混ざりますが、細かい感想をねちねち語らせていただきます。

 わりと序盤の註に韓国のコミュニティサイト「メガリア」なるものの解説があって、「女性が受けてきた差別的な言動をそのまま男性に返すことで差別構造を示すミラーリングと積極的な社会参加によって社会の変化に寄与」したものだそうなんですけれど、この小説はそのミラーリングが全編に渡って機能しているわけです。つまり主人公はまあまあフツーの男性で、さすがに暴力は振るわなさそうでそこはまあまともなのかなと思うのですが(男のまともさの基準の低さよ…)、逆に言えば要するにその程度のまともさしか持ち合わせていないので、まったく視野が狭く独善的で甘えん坊でひとりよがりでナチュラルに差別的で、そして自分が差別的であることにはまったく気づけていない、実に愚かな人間なわけです。訳者あとがきによればこの手法には『痴叔』という短編小説の先行例があるそうで、それは植民地時代の朝鮮で親日派の主人公が独立運動家を批判するものなんだそうです。さもありなん…それが今回、「フツーの男」の主人公が「フェミニストである彼女」を批判する構造になっているんです。素晴らしすぎますね…! ホントもう、五行に一回くらい「だからそーいうとこだって!」「逆にして考えてみろよ!」って読みながら叫ぶありさまなのです。イヤ素晴らしい一冊でした。
 ラスト、お見合い相手がちゃんと断ってくる人でよかったよ、と思いました。不幸な結婚がひとつ減ることは世界の幸福総量のためにいいことです。さらにラストは、主人公が暗闇を見つめて終わるのでした。ホントいいラストですね。見つめるの、考えてみるの、大事。「暗闇の中で、何かを探すように」とありますが、ホント恋人といえど赤の他人にアレコレ言う前に人はまず自分を見つめ直し、まず自分の真の望みを知るべきだと思うのです。
「たまにほんと、何のために生きてるんだろうって気になるよ」
「じゃあ一回ちゃんと考えてみないとね。本当に望んでいることは何なのか。他人が望むことじゃなくて、自分が望んでること」
 という会話も作中にありますが、つまるところ人生とはそういうもので、まして結婚なんて他人とするもんなんだからなおさらまず「自分」が確立されていないとできるわけがないじゃないですか。たとえできても上手くいかないに決まっているというか、少なくとも一方に負担がかかり不満がたまるものになりがちというか。なのにみんな流されて、周りが望んでいるからとかみんなするものだからとかいう理由にもならない理由で結婚したがって、あげくなんか思ったように上手くいかないとかジタバタしている。不幸すぎます。でも当然の結果だとも思います。
 自分は本当に結婚したいのか、何故結婚したいのか、どんな結婚をしたいのか、をせめて一度はちゃんと考えて、それで婚活してほしいと思います。その作業をするだけで結果は全然違うと思います。それは自分を見つめ直すことにもなるし、別に無理に結婚しなくてもよくない?という気づきにつながることだってありえると思うのです。
「だげどほんと、正直さ、考えると怖くならない? 将来、旦那も子どももいなかったら寂
しいんじゃないの?」
「その代わり、私がいるはず。たぶんね」
 という会話も出てきますが、ホンそれだと思います。これは女性側の話だけれど、旦那と子供ができて自分がなくなるくらいならそんな結婚なんて意味ないのです。そういう結婚はするべきではない、そのことに人は早く気づくべきです。そして一方男性側は、結婚して妻と子供ができても自分が夫であり親であるという意識が持てないままの人が多すぎる。だから家庭の負担が偏るんです。そんなに変われないなら結婚なんかしない方がいいのです。そんな結婚は結婚相手を不幸にするものだし、それで自分をも不幸にするし、結婚そのものが不幸で哀れです。結婚に対して不誠実すぎる、結婚に失礼すぎる。
 私の最愛の小説のひとつ、タニス・リーの『銀色の恋人』に
「おいていかれたら、わたしには何も残らないのに」
「全世界がありますよ」
 という会話があります。そう、本当なら真に愛する人というものは全世界に匹敵するもので、全世界と引き替えにしてもその人を選ぶ、というのが真の愛でしょう。でも一方で、その人を失ったからといって全世界が残るのもまた人生というものです。何故なら「自分」があるからです。人はすべからくそうあるべきです。半端な者が寄り添い合ってひとつになるのも美しいけれど、ひとりで立てるふたりが寄り添って倍どころか十倍にも百倍にもしてこそ、でしょう。成人するというのは歳が十八歳になるとか二十歳になるとかいうことではなく、「自分」というものを確立すること、その選択や結果の全責任を負えるようになること、そして生きていく限り変化し続ける「自分」なるものとつきあい続ける覚悟を持てるようになること、そういう「自分」と折り合いをつけて人生を歩めるようになること、のことだと思います。そういうことができないままに歳だけとって大人になった気でいる人間のなんと多いことか…もちろんそういう教育が施されていないという社会の不備もあるんだけれど、女性の方が、男性社会でもまれるうちに自発的に気づき(あるいは気づかされざるをえず)、自分とはどんな人間か自分の望みは何かに関して意識的になることが多いんだと思います。それで余計に女の側に負担がいく世の中になっているんですよね…ホント甘えんなよな男ども、と言ってやりたいです。
 ところでもちろん私は結婚していないのですが、非婚主義者だったことは一度たりともありません。今でもいい相手がいれば結婚したいと思っています。私はわりとラブラブな両親を見て育ったので、結婚に素朴な憧れを抱いて育った素直な子供だったのでした。
 一方で、うちの両親の在り方がかなりレアケースであることにもまた早くから気づいていました。だってお友達のおうちのお父さんお母さんは決してこんなじゃなかったからです。全然ラブラブしていないのがほとんどで、照れ隠しも半分はあるんでしょうが、愚痴ったりいがみ合ったり無視したりといったところばかりでした。
 うちの両親は中卒で田舎から出てきて働き始めてそこで出会った相手と職場結婚したようなイージーなカップルでしたが、今でも本当に互いの一番の良き理解者であるようで、昔から子供たちに対しては放任主義に近く、いつもふたりでキャッキャウフフしているようなところがありました。でもこれはたまたま上手くいったケースなのであって、彼らが独身時代に己を知り己の望みを知り相手を吟味し綿密に相談し合い婚姻という社会契約に至ったのだ…とは子供の目からもとても見えませんでした。
 だから子供の私は学習したわけです。うちの親みたいに何も考えずに結婚して上手くいくなんてのはあくまでレアケースであって、ほとんどが齟齬を来しなんなら破綻する。だからよく考えて結婚しなければならないのだ、と。それでその後大人になってそれなりのおつきあいをし、結婚を考えたこともありましたが、たまたま結婚には至らず今も独身でいる、ということです。
 でも、それこそお年頃で結婚の話題が出るなどしたときに、周りが本当に何も考えていないのには心底あきれてきました。優しい人が好き、みたいなのはあまりにも漠然としていてほとんど意味がないし、三高云々みたいなのも何も考えていないに等しいわけです。イヤそういう条件を相手に望んでもいいんだけれど、自分が何故それを望むのか、ということに考えが至っていないなら、それは世の流行りか何かにただ流されているだけにすぎません。
 既婚の知人にその相手と結婚した理由を尋ねても「たまたま、タイミングだよ」とか言われることが多かったのにも本当にイライラしました。そんな程度で結婚して上手くいくわけなんかないじゃん、そんなアンタのくだらない愚痴なんか聞きたくねーよ惚気なんだとしても右から左だよ、と、別にやっかみではなく本気で思っていました。名前やライフスタイル、金銭感覚や貞操観念、食の好み、子供を持つかどう育てるかといった展望、親兄弟のことなど、今後の人生をひとつの共同体としてふたりでやっていこうというならふたりが摺り合わせなければならないことは山とあるはずです。もちろん全部を事前に相談するなんて無理で、都度話し合っていこう、という姿勢がありえるのはわかります。でも現状、事前にあまりに話し合い、摺り合わせがなされていなさすぎて結婚してしまうカップルのなんと多いことか…そら離婚率も上がろうというものです。
 もちろんダメなら別れればいい、というのはある。でも男女の経済格差がまだまだ埋まる気配すら見えないこの世の中で、離婚が選択できないケースも多く、主に泣いて我慢するのは女性、という状態が端から見ているだけでもホント我慢なりません。そもそも欧米では(出た!と言われてもいい。少なくとも小説その他からの聞きかじりの知識ですし)婚姻は社会契約の類として、結婚前の互いの固有の財産とか離婚時の分与の条件その他いろいろ話し合って文書にしておくことも多いというじゃないですか。なんで維新で文明開化のときにそのあたりも取り入れなかったのヘルジャパン?ってなもんです。
 人はみな対等で尊重されるべきだという人権教育を、まずきちんと。そして男女ともに成人したら独力できちんと自律し、将来を見据えて、それで愛があって一緒にやっていけそうな相手と出会ったのなら結婚を。もちろん別姓が選択できるように。もちろん同性同士でも結婚できるように。もちろん事実婚のカップルにも同等の権利が与えられるように。現状、すべての平等がなされたとしても、まだ戸主をどちらにするかみたいな問題があるわけで、そもそも国にそこまでゴタゴタ管理されるのが気にくわないというのもあるし、マイナンバーが振られたんだからひとりひとりで管理はできるわけで、法律婚は廃止、までいくのが最終的には正しい気がします。でもまあそれは段階的に、ね。とにかくいくつだろうと、なんなら何回目だろうと、あるいはしてもしなくても、他人からとやかく言われない、そもそも他人のことをとやかく言うのは人権侵害でNGだという意識が行きとどいた社会を…ということを、はるか遠い理想ではありますが常に望み続けていきたい、と私は考えているのでした。
 ところで、帯の惹句にもされている「世の中が私をフェミニストにするんだよ」という台詞が作中にありますが、私がこのフェミニストなる言葉を知ったのはおそらく小学校低学年の頃、少女漫画からだったかと思います。
 おそらくプレイボーイのキャラクターに対する形容として。ある種の冷やかしだし誤用でもあるということはすぐ理解できて、でもこの場合は、彼は女性も人間だときちんと捉えていて優しく誠実に応対しているのである、それは本来は当然のことなのであって、こういう男だけがフェミニストと冷やかされたりする現状の方が間違っているのである、未だ間違ったままの社会を正していくためには人はすべからくフェミニストであるべきなのである…といった意識を、いつの頃からは覚えていませんが私はかなり早くに持っていました。だから自分がフェミニストである、と自称する、宣言することに私はあまり抵抗を感じたことがありません。バックラッシュみたいなものはどうやら私の頭の上を通り過ぎていったようで、自分はフェミニストだと言いづらい空気がある、みたいなことを感じたこともほぼありませんでした。鈍感なだけかもしれません。でもツイッターのプロフィールにも初期からてらいなく掲げているし、それで誰かに凸られたこともありません。幸せなことですね。もっと大変な思いをしながら、前線で活動している方も多いことでしょう。私はデモにも参加したことがなく、そういう意味でなんら活動は出来ていないのですが、引き続きフェミニストであり続けるつもりですし、自分がそうであることを決して隠さないつもりです。
「女性も人間です。すべての人間にしかるべき尊厳を認めることが求められています」という、いたってシンプルな真理をこんなにも理解できない人間がこんなにも多いことに絶望するときもありますが、真理で正義なのでいつか必ず勝利します。引き続き行動し続けるしかありません。
 私の弟も結婚していず子供を持っていないので、私には甥や姪がおらず、親しい従兄弟やその子供たち、みたいなつきあいもありません。昔は一族にはひとりくらい、いわゆるオールドミスの、なので一族の恥みたいに扱われつつも当人はいたってのんきにかつ幸福に暮らしている年齢不詳の、妖精みたいな女性、たとえば一族の幼い子供たちに「お話のおばさま」などと慕われ憧れられられるような女性がいたものだと思うのですが、私はたとえばそういう存在になりたいのですが(とはいえいい相手がいたらあっさり結婚してやりたいとも思っているわけですが)、何せ親族が周りにいないので、お友達仲間の間でそれになることを目指したい、とか考えています。ツイッターなどから知り合った宝塚歌劇ファン友達なんかは私より年下の方がほとんどなので(なので数少ないお姉様方にはまた甘えさせていただき頼りにも指針にもさせていただいているのですが)、より苦しく厳しい生き方を強いられていることも多いのではないかと思うのですよね。なんせ私はバブル最後っ屁世代で、私が就職した次の年からまず女子の就職が厳しくなり、やがて氷河期が到来した、ギリギリ逃げ切れた世代だからです。新卒で入った会社に勤め続けて定年退職が見えてきて、絶賛ローン支払中ですが終の棲家のつもりでマンションも買ったし、細々とではありますが貯金もしているつもりです。独身で子なしでも負け犬なんかじゃないつもりなのです(古い)。
 なるべく健康に、元気に楽しく幸せに暮らしていきたいし、そういう姿を周りに見せて、ひとりでも楽しく幸せに生きていけるじゃん、と示したいのです。別に自慢したいとかうらやましがられたいとかではなくて、そういう生き方があるってことが誰かの希望になったりすればいいな、と思うのです。何より私自身が幸せな人生を送りたい。そして今までのところ、それはまあまあできているつもりです。
 それは、私が自分自身をよく知っているからです。自分の望み、希望を知っているし、それを叶えるために努力し行動してきたし、独力でどうにもならないものやタイミングが合わず手に入れられなかったものについては潔くあきらめてきた。負け惜しみかもしれないけれどそれはそれで仕方ないと思っていて、そこにこだわったり誰かのせいにしたりしてグチグチ言うことはしない。だからそんなに不満がなく、もちろん不幸ではなく、むしろ満足していて幸せだし、今後もそうありたいと思っています。
 まず、自分で自分を大事にする。そして同じように周りの人も大事にする。誰のことも踏みつけにしない、踏んでいることに気づいたらとりあえず謝って足をどかす。自分と同じように周りの人にもなるべく幸せでいてほしい、世界が平和で幸福に満ちていてほしい。そういうことを願っています。それがフェミニストたる私の願いです。フェミニストの願いってそういうものだと思うからです。
 この小説の「僕」も、「ただただ真っ暗」な「目の前」を見つめ、まず自分を知り自分を大事にすることから始めるといいと思います。誰かに世話してもらったりチヤホヤされることを要求するだけじゃなくて。まあよくよく見つめた末にそれが自分の希望だとなったならそう求めて動いてもいいけれど、おそらくそうではないだろうから。というか他人に要求するだけでなく、まず自分で出来ることがあるはずだから。してもらうばかりじゃ関係性は作れない。まずは自分というものをしっかり把握して、そうしたらそこから世界は違って見えてくるはずで、違った愛も生まれることでしょう。そうして次はもう少しいい恋愛が出来るといい。私はロマンティストなんでそこは全然否定しません、むしろ奨励したい。でも今のままだと単なる不幸の再生産に直結するので、目を覚ませ男!とビンタしてやりたくなるわけです(暴力反対!)。
 この「彼女」は偉いですよね、手は出さないもん(笑)。その代わり優しくも親切でもなくて、「僕」が求める説明を全然しないんだけれど、そこがいい。彼女は今までもさんざんやってきて全然通じないことにもう絶望しているんだろうし、そもそも聞く気も理解する気もないのに説明を要求する方があつかましいのです。でも小説ってつい女が男に説明し通じなくて疲弊して…みたいな場面を描きがちだと思うんですよ、でもこの小説はそうじゃないの。そこがいい、新しい。
「彼女」はそれなりには「僕」を愛していたのかなとも思うんですけれど、一番はやはり安全で安心だと思えたから、なんでしょうね。これまた一見酷い、とか言われそうですが、男ならそんな選択をする人は掃いて捨てるほどいるはずなので、「彼女」が女だからそうしてはいけない、ということはないはずなのです。オナニーグッズがあろうとセックスは相手が必要なものですし、そもそも泣き落としに近い勢いで口説いたのは「僕」の方です。利害がなんとか一致している間はつきあえた、というだけのことです。彼女が彼から得た快楽を寿ぎたいです。ホント良く出来た小説だなあ。日本にもこういうモチーフの作品は増えてきたけれど、なかなかこの域のものはない気がします。ホントさすがです。
 日本でも無事に翻訳され出版されて、私たちが読めるようになって、よかったです、ありがたいです。早くこの物語が過去のものとなりますように。一歩ずつ、がんばっていくしかないですね。





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『ディミジャガ』初日雑感

2022年11月13日 | 日記
 宝塚歌劇星組『ディミトリ/JAGUAR BEAT』大劇場公演初日を日帰りで観劇してきました。
 お芝居の原作小説『斜陽の国のルスダン』は、通販で購入して読みました。ラジオドラマは未聴。もともと同人誌で発表されたものだそうで、商業版はB6判ソフトカバーで180ページほどとコンパクト。読みやすく半日ほどで読み終えましたが、作者と駐日ジョージア大使なんかとの鼎談も収録されていて、なかなか勉強になりました。やっぱりまだアメリカ南部の、「我が心のジョージア」のジョージア州の方をつい想起してしまい、ああ旧グルジアの…なんかトルコとかあそこらへんの…?みたいな失礼な、はなはだ心許ない知識しかない私なので。
 歴史的にはルスダンの母親のタマラ女王が、その時代の王国の版図も広く最盛期の王として名高いらしく、それを引き継いだルスダン女王は美貌を謳われはしても評判はあまりよろしくないそうで、それを不思議にかつ不憫に思った作者が資料を集め、多分に想像も含めて書き上げた小説だそうです。王宮にはルーム・セルジュークの王子が人質として来ていて、彼もまたその美貌が有名だったそうで、やがてルスダン女王の王配になるのだが…という史実と、隣国との戦争の歴史との間の、ドラマとロマンを空想で埋めてみた、ということでしょう。それを、ラジオドラマ・ファンの生田先生が取り上げることになった、というのが舞台化の経緯のようです。
 私は、小説はオチが甘いと思いました。ルスダンの視点で描かれているので、その後までもっときちんと知りたかった、総括して終えてほしかったと思ったのです。対ホラズム戦はこれで一応決着としたとして、その後この国はどんなだったのかとか、彼女の息子と甥の王位争いはその後どうなったのかとかまでちゃんと見せてくれないと、決着がついた気がしないじゃん、と思えたのです。なので舞台はそこまでやって、たとえば『ロミジュリ』の天国場面みたいな、ディミトリとルスダンがあの世で再会してスモークの中再度愛を確かめ合って、完…みたいになるのかしらん?とか、うっすら考えつつ、まあまずは観てみましょうよと劇場に出向いたのでした。
(ちなみに舞台は小説のラストをほぼ踏襲していましたが、ディミトリ主人公だとこれは正しいなと感じました。後述)
 で…うーん、生田先生の手腕にちょっと期待しすぎちゃったかな、というのが今の私の感想です。このあとは生徒が演技で埋めてくるとは思うんだけれど、それでも脚本で、つまり台詞でもう一押し丁寧に、状況や各キャラの立場や心理や感情を描写してあげないと、単にあーなってこーなって、ってだけで展開するスペクタクルなだけの話になっちゃって、ドラマとして萌えないし盛り上がらないしなんなら原作を読んでない観客にはこれじゃわからないし全然伝わらないよ、と私はちょっと思っちゃったのです。台詞も歌詞も練れていないし、ポエムも足りなかったし、とにかく脚本がなんかちょっと残念でした。以下、そんな話を覚えている限りねちねちと語りたいと思います。完全ネタバレですし、ご覧になっていない方にはわかりにくい点も多いかと思います。記憶違いも多いことでしょう、すみませんがご留意ください。私が次に観るのはもう月末なのですが、そのとき掌を返していたらそれはそれですみません…イヤもっと良くなる芽はあると思うんですけどね、でも現行の脚本と演出のまんまじゃいくら生徒ががんばったって無理だろうという点も多いと思うぞ…がんばれ生田くん!

 さて、舞台はいつともつかない、廃墟のようにも見える城塞か城壁のセットが薄暗い中にあるだけで始まります。まず組長のみきちぐが物乞い役として、全体の語り部のような存在として登場するのですが、まずここの台詞が要を得ずポエジーもなくただ長い。もっと工夫してほしいです。小桜ちゃん、ルリハナ、うたち(みんなさらに可愛くなったなー!)の3人が率いるリラの精たちも娘役の出番として貴重ですよ、でもアバンとして長い。だってこのあとすぐお話が始まるんじゃなくて、こっちゃんディミトリがメインになるアバン場面がまだあるじゃん。それは長いよ…彼が1曲歌う、それは主役だしトップスターだし別にいいよ? でもこの歌の歌詞がまた意味がないんですよ、詩も哲学もないの。こっちゃんの歌唱力とドラマチックな楽曲と、何より尺の無駄遣いなの。全然「つかみはオッケー!」ってならないんですよね。それでなんか私はすでに嫌な予感を感じてしまったのでした…
 歌い終えて、こっちゃんが暗転の間に舞台のリラの木の下?に寝転んで、そこにひっとんルスダンが彼を探しにやってきて、お芝居本編が始まります(これは上手いと思いました)。ディミトリはルーム・セルジュークの王子で、ジョージアとの和平の証として、実のところ人質としてこのジョージアの王宮に送られていて、周りの冷ややかな視線を逃れてひとりでいることの多い、憂愁の王子であることが語られます。そう、こっちゃんって稀代のヒーロー役者なんだけれど、実はこういう屈託のあるヒーローもとても上手くこなす演技力があるわけです。
 ディミトリは決してスーパーヒーロー・タイプの主人公ではない。両国の友好の差し障りとなることのないよう、目立たぬよう常に息を潜めていて、このあと戦闘場面などがあるにしてもバリバリ活躍してみせるようなタイプじゃない、主役としてはとても難しい役どころですが、こっちゃんはさすがそれを魅力的に見せる力量がある人なのでした。なのでそれを脚本は全力でサポートしなければならないわけですが、それがまず全然足りていないと感じたのでした。
 ディミトリの歩き方の癖を熟知していて、彼の足跡から彼の居場所をいつでも突き止めてしまう王女ルスダンは、屈託のない明るい少女で、ディミトリに懐いていて、慕っていて、彼を家族のように大事に想っています。それは彼女の兄で現国王のあかちゃんギオルギも同様です。なのでディミトリは控えめにはしていますが、境遇としてはまあまあ恵まれているのでした。それは描けていたと思う、でもここで、たとえば周りの廷臣たちや女官たちを使って、国王一家はディミトリを厚遇しているけれど廷臣たちは所詮彼をスパイだとみなして警戒している、とか、ディミトリとルスダンは仲良しで相思相愛でなんなら幼いながらに良きカップルだけれど、王女は国のために近隣諸国の王や王子に嫁ぐのが定めだし、かわいそうだけれど彼らの恋は実らないだろうと同情し静観している…とかの描写を入れたいです。ルスダンは天真爛漫だけれど、少なくともディミトリの方はそういう事情を十分わかっていて、自分の想いを押さえ込もうとしている…というのがもっとないと、続く展開が効いてこないと思うのです。
 さて、そんなわけでディミトリはギオルギの信任も篤く、彼に呼ばれて席を外す。一方、残ったルスダンはギオルギの「妻」、くらっちバテシバと残されてなんとなく居心地が悪い。史実では彼女はギオルギとの間にすでに男児を産んでいて、これがのちにルスダンの息子と王位争いをすることになるようなのですが、今回の舞台ではこの子供の存在はカットになっていました。それはまあいいんだけれど、地方の農村の人妻だった彼女をギオルギが見初めて宮廷に連れ帰り「妻」に据えた細かい経緯は原作にもなく、ここは補完が欲しかったと思いました。彼女の夫はどうしたのか、たとえばギオルギが殺したのか、とかも知りたいし、それが何年前のことなのかもけっこう重要なことのはずなのです。あと結局正式な結婚をしていないんだけれど、それは何故なんだとかどうなんだ、とかも。そのあたりがいろいろあいまいで、甘いしもったいないです。この件に関しては当人同士の想いがどうだろうと、本来は人妻を拉致ってきた男の方が悪いに決まっているんですが、廷臣たちは女の方を悪女だ淫婦だと忌み嫌い蔑み、結果そんな女に入れ揚げ惑わされている王もだらしがない、と見下して従わないので、王も彼らの尊敬を得られず苦労している、というのが現状なのでしょう。 それでバテシバは、愛しているからこそ彼と別れここを去る、とルスダンに告げる。ギオルギの方も、自分のわがままで彼女に肩身の狭い思いをさせるのはもう限界だ、彼女を自由にしてあげよう、と離別を決心したとディミトリに告げます。ただこのくだりも言葉が足らなくて、ギオルギは廷臣たちの要求に屈して、政治的な立場を守ることを優先してバテシバを手放すようにも見えかねない台詞になっちゃってるんですよ。でもそれじゃダメじゃん。ここのふたりの愛の形の在り方が、「愛しているからこそ別れる、遠くで暮らしてしても愛し合い続ける」というスタイルが、のちのディミトリとルスダンの選択に重なる、という構造になってるんだからさぁ。
 さらにギオルギはディミトリに、ルスダンを好きかと問い、ディミトリは言いよどむんだけどギオルギはお見通しで、しかし高貴の身は義務を伴うのであって、ふたりが結ばれて結婚するなど夢のまた夢、王女は国益のために他国へ嫁ぐのが習い、とディミトリに釘を刺すわけです。ここももっと、しつこいくらいにやっておいた方がいい。ディミトリとしては、わかっていたつもりだけれど改めて言われるとつらい、みたいな感情があるはずだし、でも結婚はさせられないが終生彼女を守り力になってやってくれと言う兄王の信頼はありがたいし嬉しい…というところなはずで、そういうアンビバレンツな状況であることをもっときちんと描いておくべきだと思うのです。今、甘いしぬるい。
 トビリシの町の市にお忍びで出かけるディミトリとルスダン。町は活気にあふれている。物乞いがルスダンに「女王になる」という予言を告げる、けれど彼女はそんな未来などありえないと否定する。兄は健在なのだし、自分はいずれ他国にお嫁に出されるのだから、と…天真爛漫に見えたルスダンもまた、自分の立場を弁えていて、ディミトリとの甘い未来などないと覚悟していた、立派な王女だったのだ…というのはけっこうハッとさせられるしせつないしいい展開なのですが、バテシバの息子の存在をカットしちゃうと、いくらギオルギがまだ若くてこれからちゃんとした王妃を迎えて跡継ぎの王子を作ればいいってったって現時点では王位継承者はルスダンしかいないじゃん、それなのに他国に嫁に出しちゃっていいの?という気はします。普通、甥だの従兄弟だのがわらわらいてあれこれ王位争いになるものなのに、ここの家系は後継者かいなさすぎるのがむしろ問題なのでした。
 オレキザキのチンギス・ハーン率いるモンゴルが攻めてきて、ギオルギ王も自ら出兵します。ディミトリも従軍し戦います。ギオルギは右目がほとんど見えなかったそうですが、ここでありちゃんアヴァクからそれをディミトリに知らせて、王の右目となって彼を守れ、と言わせる改変は上手いなと感心しました。そして、流れとして当然なまでに、ディミトリはギオルギを守り切れず、ギオルギは致命傷を負ってしまう…
 自分の命が長くないと悟ったギオルギは、ルスダンとディミトリを枕元に呼び寄せ、ルスダンの他国への嫁入りは中止だと告げ、代わりにふたりで結婚して、女王と王配として自分のあとを継げと遺言する。ふたりはもちろん取り乱す。結婚できることは嬉しいけれど、それがギオルギの死と引き替えだなんてひどすぎるし、何よりルスダンは兄と違って王になる教育をまったく受けていないのです(この観点、カットされていましたがあった方がいいと思いました。ルスダンが廷臣たちに拒否されたのは女だからというよりは帝王教育を受けていなかったからだと思うので)。ここ、私は原作を読んだときに『ベルばら』のアントワネットとルイ16世の即位のくだりを想起したんですよね。偉大な王の孫息子とその妻として、どちらかというとのんきに暮らしてきたのに、いざ即位と言われて「世界全体がわたしの上におちかかってきそうだ…」って震えた、アレです。そういう盛り上がりがもっと欲しかった。嬉しいけど、怖い。ありがたいけど、困る。そんなジレンマ…
 ジョージアンダンスは正直私には良さがよくわからなかったけれど、ともあれ華やかな戴冠式と結婚式の一方で、廷臣たちが小娘の王なんて、外国人の王配なんてとケッとなっている様子も描かれ、その差異や温度差の描写は上手いな、と思いました。ことにギオルギ・ラブだったアヴァクにはその傾向が強い。こういうキングメイカーって、キングつまり自分が仕える相手が理想的な君主になってくれなかった場合、めっちゃ暴れますよね。父のひろ香くんイヴァネは王でなく国に仕えるのだ、と息子を戒めますが、アヴァクは承服しかねている。お話のポジションとしては悪役になるキャラクターを、ありちゃんが楽しげにやっていてとても良きでした。
 婚礼の夜の場面もよかったです。初夜を描くとかそういうことではなくて、政治的に必要だったので流されるようにここに至ってしまったけれど、巻き込んでしまってごめんなさい、みたいなことをディミトリにきちんと言うルスダン、というのがとてもいい。その上で改めて、ふたりは愛していると告白し合い、ともに生きていこう、運命を共にしようと誓い合う…美しい。大事な儀式です。
 さて、おそらくはルスダンの父親もそうだったのでしょうが、女王の王配は共同統治者として議会に参加するなどある程度の政治的権限を持たされることが普通だったようで、ルスダンもディミトリに対してそれを要求しますが、廷臣たちは彼が外国人で信用できないから、という理由で拒否します。彼は人質としてこの国に来るときに改宗もしているというのに(なのでディミトリというのは洗礼名だと思うので、幼き日に初対面のルスダンがつけた名前、とする改変はちょっとどうだろう、と私は思いました…あと全体に、宗教の話はもうちょっと踏み込んで描いてもいいのではないかと思いました。後述)、これまた『ベルばら』の「私はいつまで経ってもオーストリアの女なのです」ってヤツです。でも彼はルスダンと廷臣たちとの間に溝を作りたくない、と身を引き、女王の私的な相談役に留まることを選びます。これがこのキャラクターのなかなか特異なところで、つまりこのあとも彼は活躍する場を持ちづらい、全然ヒーロー然としていない主人公なんですよ。でもそれをただの軟弱なヘタレ男、みたいに見せないこっちゃんの演技の絶妙さには唸らされました。こんなに王者然としても、その気になったら軟弱なヘタレの芝居もちゃんとできる人なんですよね。その上でのこのギリギリの按配の演技がいい。それに対してかえってイカイカしちゃう若いルスダン、ってのももっと出てもいいかもしれないくらいです。
 このディミトリの境遇を作るために、はたまたまいけるの出番を作るために、結婚式にディミトリの父エルズルム公が出てきてガハガハしちゃうのを見せるのとかは、すごく上手いと思いました。
 ともあれ日々はなんとか平穏に過ぎ、ふたりの間にはひよりんタマラも生まれて…
 で、せおっちホラズム帝王ジャラルッディーンとぴーナサウィーがばーん!と銀橋から登場します。確かにだいぶ遅い登場ですが、インパクトを作ってもらえていて良きですね。ジャラルッディーンはルスダンに求婚めいた書状を送り、ルスダンは拒絶し、両国は戦争に突入する。エルズルム公はホラズムが台頭してくるならジョージアとの友好関係は破棄していいんじゃね?みたいな日和見をして、息子に帰ってこいとか言ってきたりする。一応、父親としては息子の身が心配で言っているのでしょう。朝水パイセンの間者を庭師として送り込み、ディミトリに接触させる。けれどディミトリは拒否する、だが会話している姿をアヴァクに見られてしまう…このあたりは原作ママではありますが、実によくできていますよね。スリリングです。
 この前だったかな、アヴァクは密偵としてゆりちゃんカティア、さりおセルゲイ天飛ムルマンをスパイとして送り込み、ディミトリを見はらせていたのでした。ユリちゃんはホントこーいう方向性の方がいい娘役さんだと思います、濃い悪女メイクがよかった! でもタマラにはちゃんと優しいのもよかった!
 そのタマラが馬に蹴られそうになるところを命を賭して救う…という形で登場するのが白人奴隷のかりんさんミヘイルなんですが、金髪で白いお衣装というのもあるんですが、なんか扉が開いたら登場しませんでした? すでに記憶があいまいなんですが、それが『ベアベア』のときの登場シーンのようで、スポット当たってるってのもあるんですけどもうまばゆいばかりの輝きで、キター!ってなりましたホントこの人が好きすぎて甘くてすみません。しかし馬とその騒動をあんな映像で見せるくらいなら、全然別のエピソードに改変しちゃってもよかったのでは…? 崖に咲く花を取ろうとしたタマラが転げ落ちるのを身を挺してかばった、でもなんでもいいわけで、実際にやって見せられる行為は他になんでも思いつきそうなものですが…私は正直ちょっと間抜けに感じてしまいました。でも生田先生はお洒落な演出技法だと思っていそうだな、すみません…
 ともあれルスダンは娘の命の恩人だとミヘイルに感謝し、ミヘイルは美しい女王にそんなふうに声をかけられて舞い上がり、そこをアヴァクに利用されるわけですが、プログラムのあらすじにあるほど「ルスダンもまた、この勇敢な奴隷を寵愛するように」ってのはなかったし、なくていいんじゃないのかな…女王が奴隷を寵愛したのは史実のようですが、このくだり、宝塚版ではどうするのかなと思っていたらほぼ原作ママでしたね。ディミトリが母国の間者と話していた、自分との離婚も考えていると聞いたルスダンが、ディミトリの真意はあくまでジョージアとルスダンのためだったにもかかわらず、誤解して裏切られたと絶望し、ひとときの慰めをミヘイルに求めた…というのはわかるんだけど、ホラ宝塚歌劇ファンってこういう点は超潔癖で保守的だからさ。てか初夜場面でも腰掛けるくらいしか使われなかったベッドを、ひっとんとセクシャルなダンスして乗っかり使っちゃうかりんさんったら…!(笑)
 まあおそらく未遂でディミトリに発見されて、ミヘイルはあっという間に切り捨てられちゃうわけですが、それがさらにルスダンを逆上させたのでした。ここ、もうちょっと盛り上げられる気もしましたけどねー…あとここのルスダンの「誰かいませんか」って台詞、ちょっとアレでは? 総じて廷臣たちにも使用人たちにも丁寧な言葉遣いをしている女王ですが、なんかこんなときに…ってちょっと間抜けに感じました。ともあれミヘイルの死体は放置はちょっとだけでちゃんと回収されてよかったです。つい『フィレンツェ』のオテロさんのことを思ってしまったので…
 ところでディミトリが投獄されたのはプログラムによれば王宮の牢獄ではないんですね。言及ありました? のちにトビリシがホラズムの手に落ちたときに、なんでここは平気なの?とか思ったんですよね…でもこの牢獄にジャラルッディーンが自ら乗り込んできちゃうのはよかったです。とてもこのキャラっぽいと思えました。ルスダンに求婚した彼は美しい若者に目がないらしく、ディミトリに対してもまずその美貌を褒め称えますが、ともあれ彼らはある種の奇妙な友情を築いていくのでした。ジャラルッディーンはジョージアの敵ではあっても、人として男として戦士として将軍として、非常に有能で勇敢でおおらかで誠実で気持ちの良いところがあり、憎めない人柄なんでしょうね。だからディミトリも素直に認めたし、ジャラルッディーンの方も単に綺麗なだけの若者とおオモチャ扱いせず、ディミトリの思慮深さや聡明さ、優しさに価値を見出していったのでしょう。別にそうくだくだした描写はないんだけれど、ことせお変換というのもあるし、せおっちはこの役を本当に魅力的に作り上げていると思いました。
 ただジャラルッディーンがディミトリをほとんど同胞のように扱うのって、要するに改宗したといえど彼が元はイスラム教徒で、同じアラーの徒だろ、ってのが大きいんじゃないかと思うんですよね。それくらい宗教って彼らにとっては大きいことなんだと思うんです。ジャラルッディーンはルスダンを娶れたら当然改宗させる気でいたでしょうしね。原作にはそこまで記述がありませんが、ディミトリにしたって改宗はものごころつかない頃のことだったとしてもショックなことで、母国から物理的な距離が離れたことより何より改宗の方が見捨てられた感、隔絶された感がしたんじゃないかなと思うんですよね。現代日本人からしたらわかりづらい感覚ではあるのですが…でも十万人の殉教や踏み絵場面をやるくらいならこの問題から目を背けられないはずで、安易にカットしない方がよかったのではと個人的には思いました。原作には出てこない、ディミトリの本当の名前、母国での呼び名に言及するくらいならなおさらです。
 とにかくホラズムは猛攻しトビリシを陥落させ、ルスダンは都をクタイシに移す。連合軍を結成させても惨敗、そこへジャラルッディーンの使者としてディミトリが現れる…
 ディミトリはルスダンにジャラルッディーンとの結婚を勧めます。彼らの結婚はもう破綻したも同然だし、この結婚で両国が和議に至れるならその方がいい、という判断なのでしょう。けれどそれはジョージアが負けること、ホラズムに取り込まれること、民が改宗させられることを意味する…女王としてルスダンはその提案が呑めない。拒否の回答を持ち帰らせる前に、ディミトリにその後生まれたふたりの息子の姿を見せるルスダン。これはいいシーンですよね、でもまさかミヘイルの子…?とか一瞬でも思わせないようにしてほしいところではありますが。
 ともあれこのルスダンの覚悟を受けて、ディミトリは新たな決心をするわけです。そこも弱いんだよなー、もっとドラマチックな変換なのにー! まずその前の、ジャラルッディーンの妻になってもいいから生きていてほしいと願うところに、愛する女をよその男にくれてやるのかって葛藤があったはずでさ。それでも生きてさえいてくれればいい、ってんで使者の役目を引き受けたわけじゃない。自分が言えばルスダンも聞く気になるかもしれないから、ってさ。でもルスダンは降伏を良しとしなかった、最後まで戦うと言った、なら自分にも出来ることがある…ってんで、ジャラルッディーンの信任を裏切ってホラズムの情報をルスダンに流すことにしたわけです。
 でもここが歌なんですよね、それじゃ彼がその手紙に何を書いたか伝わらないよ…こっちゃんは上手いよ、でも歌われると観客は歌詞を聞くんじゃなくて歌声を聞いちゃうんですよ。そしてここの歌詞は他と同じく特に明瞭な内容ではない。これじゃ弱いんだって! せめてその伝書鳩を受け取ったルスダンに手紙の中身を復唱する台詞をつけないと生田くん!
 さらにこのときのアヴァクの描き方が甘い! まず手紙の内容が真実だって彼がこんなにあっさり信じるわけないじゃん、彼はディミトリを嫌っているし信じていないし裏切り者だと思ってるんだから。でももし真実ならこの情報は有効だ、これでホラズムの隙を突ける、戦いに勝てる。しかしそうなったらホラズムはおかしい、どこかに内通者がいるのではといぶかしむだろう、そしてディミトリに疑いの目を向けるだろう、ディミトリの立場は悪くなるだろう、疑われて罰せられるだろう。それを承知であの男はルスダン女王にこの手紙を寄越したのだ、自分の命を賭して女王とジョージアを救おうとしているのだ…!と「デ・カルチャ!」って(違)なる流れなんじゃん。そのドラマチックさがないよ、一足飛びに進みすぎていて、置いていかれる原作未読の観客が多数出ていましたよー! だいたいホラズムって国名が出てくる回数が少なすぎです。今どことどこが戦っているのか、という状況説明はもっと丁寧にしないと駄目だって!
 ディミトリの情報と、占領されたトビリシ内のジョージアの民たちの呼応もあって、トビリシを取り戻すルスダンたち。その報が遠征先のジャラルッディーンに飛び、それでも彼は簡単にはディミトリを責めない。彼の仕業だという証拠はないし、彼を信頼し愛しているからです。ホントいいんだよねこの人、このせおっち。でもディミトリは毒杯を仰いで、自分がしたことだと告白し、ジャラルッディーンの腕の中で死んでいく…2番手の腕の中で死ぬトップスター、なんてベタベタな構図を、まさか今の星組で観られるとは思いもしませんでしたよ…! これはGJです生田先生!!
 解放の祝祭に湧くトビリシ。ルスダンの元にディミトリの死を知らせる書状が届くが、彼女は読もうとしない。アヴァクは小娘とみなしていたルスダンが仕えるに足る真の女王になったこと、その王配ディミトリが決して裏切り者の外国人などではなかったことをついに認める。ここも上手かった…シビれました。アヴァクが認めた王配の権利をディミトリが手にすることはもはやない、それでも…という…実にせつない…
 ふたりでよく遊んだリラの木の下に立つルスダン。ディミトリの足跡があった気がした、けれど彼はもういない…ルスダンは彼が守ってくれたこの国を守り続けていこう、と決心し、庭を歩み去る。ルスダンが下手花道にハケていくのと入れ替わるようにして、上手花道から現れ銀橋に佇んでいたディミトリが本舞台に出てくる。でもここ、完全なるすれ違いじゃなくて、たとえば『グラホ』の回転扉のアレみたいな、一緒にいるのに目が合っていない、みたいな演出があってもせつなくてよかったのになー、と思いました。
 ともあれこれはディミトリの物語なので、彼の死をもって終わるのは作品として正しく、小説に感じたような物足りなさはこのラストシーンには感じませんでした。最後は幕が下りるのではなく、ディミトリの後ろ姿を残したまま紗幕だけが下りて暗転し、そのあと明るくなるとディミトリは消えていてリラの木がただ紫にけぶるだけ…という、『ホームズ』で味をしめたかな?という演出の終わり方でした。その後幕が下りて終演アナウンス、という形でした。
 まあホント芝居は日々全然変わるものなので、今後の進化・深化に期待しますが…そして私は生田先生に期待しすぎるのはやめねばと思いますが…次の観劇を楽しみに待ちたいと思います。


 さて、ショーはヨシマサ、ショルダータイトルは「メガファンタジー」。「♪マジ!マジ!マジック」みたいな歌詞もありましたが(笑)、幻想とか魔法とかいうより幻覚と言った方がいい、サイケでサイコな、ギラギラのビカビカのゴテゴテのノンストップ・ジェットコースター・ショーでサイコーでした。あと500万回観たいです!(笑)私がこうなるのって珍しいと思うんですよね、むしろ引きそうなものですが…これはもう圧巻でした、だってもう問答無用の突っ走りでしたもん。例によって映像からスタートしますが、カワイイもんでした。なんかさあ、もうさあ…!
 基本的には、ひっとんクリスタル・バードが片翼を奪われ、彼女に惚れたこっちゃんジャガーが取り戻そうとするんだけど…みたいな流れです。で、まあ星々を巡っていくようなのですが、別にSFではない、というかなんというか、なんかもう、もうさあ…!
 とにかく衣装も電飾もセットもギランギランでビカビカでカラフルでパワフルなんですよ! どんだけ予算注ぎ込んでんねんって感じ。そして緩急も何もない、ずーっと剛速球(笑)。でもまあ見たいスターとか追っかけてるから忙しいし、そもそも舞台にいつもわりと人が多いし、だからとにかくあっちもこっちも見たくて忙しいんだけどだんだんハイになって笑うしかなくなる…みたいな押し流されっぷりなのでした。
 細かくはまた別にゆっくり語りたいなと思うのですが、これまで2番手娘役格をほぼ一手にやってきていたくらっちがちょっと引っ込んでいて、小桜ちゃんがクピドという通し役をやっていて(そしてめっかわだった! ホント可愛くなりましたよねえ!!)、さらにゆりちゃんやルリハナやうたちがちょいちょいいいところをやっていて、鳳花るりなちゃんなんかも歌手起用されていて、娘役起用が下級生に下がってきていたのが印象的でした。逆に男役の路線はまだ微妙なボカし方をしていたので、階段降りであかぴーのあとにかりんさんがくらっちと一緒に降りてきたことやラインナップでせおっちの隣、あかちゃんの内に入ったことにむしろ仰天しましたけどね。あとどこかでさりおと稀惺くんがシンメだったのもとても良き!と思いました。綺麗で華がありますよねえ、期待大。
 プロローグのロケットセンターのうたち、可愛かったなー! マシーンガールもすごくよかった。パラダイスガールとしてメイド服でイチャイチャしてたゆりちゃんとルリハナ、最高! てかここのブラックボーイはさすがにもっと若手でもよくない? 目が足りないんですよ! ここの青いドレスのひっとんもめちゃめちゃよかった。
 ぴーの女豹も綺麗でよかった! このお衣装は私はらいとの記憶が…花組の『CB』か? 中詰めも、かりんさんはくらっちと渡るのにぴーはピンなんだ? そしてあかちゃんは渡らないの!?と思ったらリプライズ場面があったり…ひっとんのダルマは優勝。編み上げブーツの性癖もだよね、と理解。
 からのありちゃんとかりんさんのBL場面ですよ(BL言うな)ごちそうさまでした! いい汗だったなーかりんさん!(笑)イヤありちゃんを誘惑する黒水仙みたいな悪い顔、サイコーでした。
 治安が悪い三角関係と銃とひっとんクリスタの死がトートツにつっこまれ、うたちのカゲソロのもと、ジャガーが翼そのものになってクリスタルバードと再会してデュエダン、美しい…のあと、もう階段出てるし階段飾りみたいな娘役も出てきたしもうパレード…?と思ったら下手スッポンからセリ上がってくるかりんさん、最高です。グラムロックスターってこんなか?と思ったのはナイショだ。そこからのもう一盛り上がりがまたうるさくて、せおっちセンターの娘役群舞にこっちゃんセンターの男役群舞(腕まくり黒燕尾)、ひっとんがガンガン歌う中爆踊りする男役123、というのもよかった! ユウホハルトが朗々と歌いまくるのも良き。
 エトワールは都優奈ちゃん、ダブルトリオは全員男役。せおっちの大羽根はまたもお預けでしたが、なんかもう本当に、本当に…どーしたんだヨシマサなんの薬をキメたんだ、って感じなのですが、最後の咆哮と終演映像のオマケまでついて、ホント体感たっぷり5時間、「まだやんの!?」って思うと次もまためくるめく場面…ってのの連続の、ものすごいショーでした。
 カテコのこっちゃんもやや放心気味でしたもんね…今後はセーブも覚えて、怪我のないよう、でも引き続き元気に公演し続けてもらいたいものです。
 はー、こんな時間だ。ああでも楽しい日帰り遠征でした。これが今年の大劇場公演のシメとは、めでたいものです。どうかご安全に…! それだけを深く熱く願います。



 



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モナコ公国モンテカルロ・バレエ団『じゃじゃ馬馴らし』

2022年11月12日 | 観劇記/タイトルさ行
 東京文化会館、2022年11月11日19時(初日)。

 振付/ジャン=クリストフ・マイヨー、音楽/ドミートリー・ショスタコーヴィチ、装置/エルネスト・ピニョン=エルネスト、衣裳/オーギュスタン・マイヨー、台本/ジャン・ルオー(ウィリアム・シェイクスピアに基づく)。全2幕。
 この日はキャタリーナ/エカテリーナ・ペティナ、ペトルーチオ/マテイユ・ウルパン、ビアンカ/ルー・ベイン、ルーセンショー/レナート・ラドケ。

 バレエだとジョン・クランコ版が有名なんだと思いますが、なんせシェイクスピアのストプレも翻案ミュージカル『キス・ミー・ケイト』も観たことがなく、一応あらすじは調べてきたので役や話の流れはわからないことはないのですが、うーんそれでもやっぱりよくわからなかったかな…
 抽象的なセット、モダンな衣装、スタイリッシュなダンサーたち。でもやっぱり主役たちは乱暴で暴力的で、それをコミカルかつアクロバティックなバレエ技で表現していてそれは圧巻なんだけどやっぱり痛々しく、観ていてなんかあんまり楽しくなかったのでした。そして2幕はだいぶ元の戯曲から改変されているのでは…シェイクスピアの芝居にあんな場面があるとは思えないんですけれど…そしてラストは何故か「ふたりでお茶を」でした。うーむむむ…
 四階正面席一列目どセンターを取りましたが、これでB席13000円でした。お高い授業料でした…






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『バイ・バイ・バーディー』

2022年11月11日 | 観劇記/タイトルは行
 パルテノン多摩、2022年11月10日18時(大楽)。

 1960年代のアメリカ。若くして音楽会社を立ち上げたアルバート(長野博)は窮地に立たされていた。アメリカ中、いや世界中の女性の心を鷲づかみにしているスーパー・ロックスターでクライアントのコンラッド・バーディー(松下優也)が召集令状を受けたというのだ。スターの徴兵とあっては会社が立ち行かなくなってしまう。アルバートの恋人で秘書でもあるローズ(霧矢大夢)は入隊前に最後の曲「ワン・ラスト・キス」を作り、発売企画としてラッキーな女の子ひとりにコンラッドの「ラストキス」をプレゼントする、という破天荒なアイディアを思いつく。さっそくオハイオののどかな町に暮らす少女・キム(日高麻鈴)がラッキーな相手に選ばれた。キス企画に反対するボーイフレンドのヒューゴ(寺西拓人)始め、スターがやってくることで小さな町は大騒ぎになり…
 脚本/マイケル・スチュワート、作曲/チャールズ・ストラウス、作詞/リー・アダムス、翻訳・訳詞/高橋亜子、演出・振付/TETSUHARU、音楽監督/岩崎廉。エルヴィス・プレスリーの徴兵騒動をモチーフにしたティーンエージャーのミュージカル。1960年ブロードウェイ初演、63年には映画版も公開され、2009年にはリバイバル上演もされた。全2幕。

 きりやん、樹里ちゃんが出るミュージカルということで気になっていて、でもKAATも多摩も遠いしなあ…と手を束ねていたところ、大楽をダブって当てたので譲りたいというお友達が現れて、ホイホイ出向いてきました。駅から劇場までの通りはもうクリスマス・イルミネーションになっていて、ピューロランドの宣伝なのか光るでっかいキティちゃんの像もあって、なかなか楽しげでよかったです。
 というか、楽しい舞台でした! なんか周りのジャニーズファンが、主役の出来には目をつぶってやってくれとかたわいない作品だからとかやたら言い訳するんで、そうなのかなとか思いつつ観たのですが、ウェルメイドなラブコメ・ハッピー・ミュージカルでザッツ60年代ブロードウェイ・ミュージカルで、いいじゃんいいじゃん!と私は大満足しました。そりゃたわいないと言えばたわいないお話ではあるけれど、破綻してるとかはないししょーもないというレベルの話でもない、と私は思いました。まあ今上演するなら、ショー・ビジネスの世界より田舎で既婚の教師としてのんびり豊かに暮らすというライフスタイルや、徴兵や徴兵逃れ、あるいは戦争で文化にダメージを与えること、なんかに対してのもっと批評的・批判的な視点・視線とかがあってもいいのかな、とは思いましたが、おそらくそういうことを考えていない演出だからこそこの楽しい仕上がりなんだろう、とも思えたんですよね。つまり実にまっすぐてらいなく、可愛く元気に楽しくこの作品世界を展開させていて、その素直さ、健やかさ、いじらしい視点がいっそレアで貴重で稀少だな、と思ってしまったんですよね。お話の中の騒動そのものを、実はくだらないとか思っている…みたいな意地悪な目線がまったくないのです。コレはホントなかなかないことだと思います。もう一押し、さらに色目を派手めにしてガチャガチャ度を上げてよりハッピーに爆発させる方に進んでもいいかなとも思いましたが、まあそうやって望みすぎるとキリがないし、とにかく全然ダメダメとかではないんで(どんだけ低く見ていたんだ…)、私は本当に楽しく観ちゃいました。
 長野くんは『プロデューサーズ』で観ていてあのときはよかった記憶があるのですが、今回は歌は歌えていましたが(音は外さない、というレベルだったとは思うけど)とにかく芝居が棒で、あまりの大根っぷりに仰天しました。え、わざと? ハコが大きいから大仰な演技をしているってこと? でもすごくきちんきちんと、ハキハキと、抑揚なく台詞を読み上げる…みたいな演技で、とにかくものっすごく嘘くさくて、どうしたどうした?と思ってしまいました。上手い下手というより演技の方向性が謎だった気が…それともホントはこのキャラが好きじゃない、とかなのかなあ? それが出ちゃってる、とかなの…??
 そう、アルバートはマザコンで仕事の思い切りも悪く、恋人と8年つきあっても「まだ準備が出来ていない」とか言って結婚しようとしない、実にうだうだしたどうしようもない男です。これをチャーミングに見せる技と愛嬌のある役者で観たかった…というのは、ありました。でも長野くんキャスティングだからこそ大楽とはいえあんなデカいハコが埋まったんだろうし(満席のあの劇場を私は初めて見ましたよ…)、相手役にきりやんが呼ばれたのでしょう。だってアルバートもローズもいうてもアラサーのキャラだと思うし、20代の俳優が演じても不思議はないわけです。OGでもちゃぴとか花乃ちゃんとかあーちゃんとかきぃちゃんとか、まあ誰でもいいわけです。でもあまり若すぎて相手と齟齬が出ないように…ってんで選ばれたんじゃないの? 知らんけど。で、そのきりやんローズがもう絶品だったわけですよ! なのでもう万事OKなのです!!
 きりやんはさあ、ホントさあ、現役時代こそ職人肌でそんなにアイドル人気はないトップスターだったかもしれないけど、歌えて踊れて芝居ができるショースターで外部ならもっとこういうブロードウェイ・ミュージカルのヒロインを端からバンバンやってのけるくらいの、華と実力と器量を兼ね備えた女優さんなんですよ。でも、意外とそういうお仕事をしていない。なんで?みたいなすんごい小さいハコでナニ?みたいなワケわからん小難しい芝居に出たり、ミュージカルでも結局母親枠とか中年女性枠の役を担っちゃったりしている。もったいない…とずっと思ってきましたが、今回はもうこれまでのそうした不満がすべて解消される、胸のすくようなヒロインっぷり! 大ナンバーがいくつもあり(カットしないでくれてありがとう…!)、基本的にアルバートにキレたローズが引っ張る話なので、ぶっちゃけ完全に主人公なんですよ!
 てかタイトルロールはバーディーだけど、アルバートよりもバーディーよりもローズの物語なんですよねそもそもこの作品は。キムとの世代を超えたシスターフッドっぽい描写もあったし、それはアルバートの母親メイ(田中利花)とも作れないこともないんだから、今やるならもうそういう方向にシフトして、ファースト・クレジットをローズにして宣材のセンターにバーンと置いて、そういう作品としてやるべきなんですよねえ。そういうガールズ・エンパワーメント作品に今でも立派になっていると思いました。もちろん「~の妻」「ミセス~」になることだけを目指すローズの価値観って今からしたら古いんだけど、当時のことでは他に選択肢がなかったんだろうし、愛する人と結ばれて永遠に、というのはいつの世も真実であるわけで、要は描きようなんですよ。
 だからラストは、アルバートにもっとちゃんとプロポーズさせてほしくはあったかな。「既婚者を募集してるんで」じゃ、既婚って立場がほしいだけかい!ってなっちゃうでしょ。だからローズはそこで出した手をさっと引っ込めて、それをアルバートが再度さっと握って「冗談だよ。ローズ、愛してる。僕と結婚してください」とちゃんと言って、それでローズが承諾して指輪をはめてもらってアルバートに抱きつく…とかじゃないとダメですよ!
 あとは、ローズ自身がはねのけているからいいっちゃいいんだけど、このスペイン人差別はホント酷いな、とは思いましたが、これも現実の描写としてアリなのでしょう。とにかくきりやんローズはパワフルでタフでチャーミング、わさわさしたスカートの赤いドレスが似合うこと!(でももっとバンバン着替えてくれてもいいのよ? 旅先設定なので、とか要らないんだよ寂しいじゃないのもったいない!)仕事も出来るし空気も読めるし、そんな彼女が好きだと言うんだからアルバートにもどこかいいところがあるのだろうと思える、そんな説得力のあるキャラクターになっていて、ホントに絶品でした! 彼女あっての作品だったと思います。
 もちろんティーンエイジャー・パートも大事で、これがまたみんな上手くて仰天しましたし、心地良かったです。寺西くんもジャニーズなのね。アンサンブルもみんな元気で良きでした。
 樹里ちゃんはキムのママ役なのでそんなにはっちゃけた出番はありませんでしたが、実にちょうどいい感じで、贅沢でした。それはパパ役の今井清隆も同じで、そりゃナンバーもあったけどやはり贅沢な起用だと思ったぞ。でもこういうところに手を抜いてない感じが素晴らしい、とも思いました。予算が潤沢な制作なのか…? あまりアミューズっぽさもない気もするけど…
 そんなわけでホント、あまり期待していなかったからかもしれませんが(オイ)、実に楽しい舞台を観られて、拾いものをした気分でした。最後列でしたがどセンターで、やや遠いけど観やすかった、というのもあります。ドールハウスみたいなキムの家以外はセットがわりと簡素で、抽象的でお洒落なのもなかなか好印象でした(美術/伊藤雅子)。
 大楽なのでカテコのラインナップに指揮者さんとスウィングふたりも出ていて、ご紹介があり客席から拍手が贈られ、あたたかに終われて本当によかったですね。カテコがしつこすぎないのもよかった(笑)、ジャニーズファンはお行儀がいいなあ。幸せな観劇になりました。





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宝塚歌劇宙組『HiGH&LOW THE PREQUEL/Capricciosa!!』

2022年11月09日 | 観劇記/タイトルは行
 宝塚大劇場、2022年9月1日11時。
 東京宝塚劇場、11月3日15時半、8日18時半。

 ムゲンの元メンバー・コブラ(真風涼帆)は元メンバーの幼馴染みたちと山王連合会を結成し、日々喧嘩に明け暮れていた。ある日彼らは、羅千地区で勢力を持つWhite Rascalsが主催するパーティーの招待状を手に入れる。敵を知る絶好のチャンスと盛り上がる仲間たちに、無意味な抗争を好まないコブラは胸騒ぎを覚えるが、逃げるわけにも行かず渋々同行すると…
 原作・著作/HI−AX、構想/平沼紀久、渡辺啓、脚本・演出/野口幸作。2015年のテレビドラマから始まり音楽、コミック、テーマパークなどに進出した「総合エンタテインメント・ブロジェクト」の前日譚をコラボレーション。

『クローズ』はわりと好きだったんですよ。原作漫画も確か知人にコミックスを借りてひととおり読んだし、映画はDVDもⅡまで持ってるし小栗くんの写真集も買いました。喧嘩とかアクションとかにはそれほど興味なくても、イケメンたちがわらわら出てきてなんかわさわさやってるのを眺めるのはそりゃみんな好きだよね、みたいな(笑)。
 なので『ハイロー』も存在は知っていましたし、いつかは履修したいと思っていたのですが、課金するほどではないと手を束ねていて、上演が決まったときに喜んでいた後輩たちもみんな円盤までは持っていなくて借りられず、結局ほぼなんの予備知識もないままにマイ初日を迎えました。なんちゃって近未来?かなんちゃって異世界?の東京?らしき場所で抗争を繰り広げているチームの男たちのお話、くらい。まあまあイケメン俳優が起用されていたりここから出世していった俳優さんもいるらしいけれど、誰が誰だかはよくわからん、そんな感じ。女子チームもあるけど重要視はされていないらしいこと、今回は前日譚でヒロインのカナはオリジナル・キャラクターであること…くらい? 『FWM』も観ましたが、楽曲についてはまったく知らないし全然覚えられなかった、というレベルでした。
 大劇場公演初日は頼んでいたお取り次ぎがお断りだったので観られず、しばらくしてからの観劇だったので、まあまあトンチキだけどショーみたいなものとして楽しめばいいのでは…というような感想ツイートも目にしていました。それも踏まえて、あまり構えず、また斜にも構えず、フラットに観てみたつもりです。
 で、もちろんキャラやストーリーは十分にわかったし、まあまあ上手く宝塚歌劇ナイズされているなとは思いましたが、それでもこれは『ハイロー』ファンが観た方が楽しい作品になっているのでは、とは感じました。知っている人はあの曲がこんなふうにアレンジされて、あのキャラがこんなふうに再現されて…ってだけで萌えるしアガるしブチ上がるんだろうな、と。私はスターのコスプレ度合いはまあまあ楽しめたけれど、物語やドラマを味わうという点では全然もの足りなくて、まあそんなに回数観なくてもいいかな…と判断してしまいました。のちにナニーロだけ眺めるというワザも発揮したのでけっこう間は保ちましたが、ショーも私にはやや凡庸なものに思えたので、ね…イヤこのオーソドックスさはこの芝居のあとものとしては優秀でしたけれどね。でも『グラカン』の方がいい出来に感じました。ただそれはトップスターや組子のポテンシャルや持ち味の問題もあるかな…頼むから宙組にもダイスケ以外のショーをくださいよ、Bはどうしてこんなに何年も何年も来てくれないの…?(ToT)
 それはともかく芝居の話に戻ると、カナの「死ぬまでにしたいことリスト」を叶えるためにコブラとカナの主役ふたりがSWORD地区を巡り、各キャラやチームを見せナンバーも披露する、という構成は非常に上手いと思いました。宝塚歌劇あるあるのパーティー(舞踏会)やお祭り(カーニバル)場面を入れて宝塚歌劇感を上手く醸し出したり、大人数を使ったりという手腕も上手いな、と感心しきりでした。これで卒業のあーちゃんに、今回の悪役というかラスボスにあたるキャラをオリジナルで当てるのもいいなと思いましたし、そのチームの在り方も違和感がありませんでした。また、苺美瑠狂の在り方も原作よりアップデートされているそうで、それも素晴らしいことだなと感じました。
 なので引っかかったのは2点だけかな。
 まず、パーティー場面が二度あるのは間抜けでしょう。最初のは仮面舞踏会であとのは開店記念パーティーだから、というのかもしれませんが、モブのお衣装は同じだし、細かい差異はあれどコンセプトとして同じなのだから場面として二番煎じです。またかよ、芸がないな、と私は感じてしまいました。ROCKY(芹香斗亜)の決め台詞らしい「パーリィタイム!(吐息)」を何度か言わせたかったのかもしれませんが、それでもどちらか一回に絞るべきだったと思います。
 それから、原作のコブラは無口なキャラとして有名らしく、今回はその原因がカナにあったとするお話になっていて、それはとてもいいなと思ったのですが(原作側ともちゃんと協議して進めて作ったエピソードのようで、公式として齟齬がないと思われるところもいい)、カナに「君は黙っている方が素敵だよ」と言わせるなら、その前のコブラは饒舌すぎるくらいにわあわあしゃべる演出にしなきゃ駄目じゃないですか。でもそれがぬるい、甘い、大ラスくらいしかそんなふうになっていない。それが残念でした。
 コブラはハナからどちらかというと口数の少ない、ぶっきらぼうな男子じゃないですか。考えていることや想いをペラペラ口にするタイプじゃないから、仲間たちもその真意を汲み取りかねているくらいです。それが、カナに対してだけは、あるいはカナの体調悪化に関してだけは心配して狼狽して、それでついつい口数が多くなる…のがいいんでしょ? 大丈夫か、痛くないか寒くないか怖くないかつらくないか、どうしたいんだどうされたいんだ、言ってくれればできることならなんでもやってやるぞ…とかコブラがわあわあ言うのに対して、女子ってそんなに弱くないから大丈夫だよ、とか、この病気はもうどうにもならないんだからそんなに気を遣ってくれても無駄なんだよ、とかの意味を込めて、カナは「君は黙っている方が素敵だよ」って言うんじゃないの? それでコブラは、別にカッコつけたいから無口になるんじゃなくて、仲間を守るために冷静でいること、目的を完遂するために無言実行のリーダーになることに目覚めて、無口な男になったのだ、それで原作『ハイロー』世界につながっていくのだ…ってことなのではないのかしらん?
 でも今、それが今ひとつそうなっていないじゃないですか。つまりコブラがカナに対してだけは取り乱し口数が多くなる、という芝居になっていない。わかりやすい演出が足りない。そこがもったいないんだよなー、と思ったのでした。
 それ以外は、あとはまあストーリーなんてあってないようなものですが(^^;)、主だったスターたちはちゃんと顔見せできているし、大階段始まりだしラストのリプライズもあって盛り上がるし、まあいいんじゃないですかね…というところだと思います。組子のファンがちゃんと観れば、出番の多寡とかいろいろ問題あるのかもしれませんが…娘役ちゃんも雪組『蒼穹』よりはしどころがありそうだし、楽しげでいいのではないでしょうか。
 とはいえ私はとにかく全編なんか気恥ずかしくて、奥歯を噛みしめて耐える場面多数、でしたけれどね…特に床屋場面は全編つらかった。他はキャラが立っているからファンタジーとして観られるんだけど、こういう現代日本のナチュラルな若者とか庶民とかってタカラジェンヌが最も不得意とするところだと思うのです(というか宝塚歌劇が最も不得意とするところ、ですよね)。ホント観ていてただただ恥ずかしかった…上手いとか下手とかではなくて、ただ似合っていると思えなくて私は観ていて気恥ずかしくなっちゃうんです、すみません。
 あとはやっぱり喧嘩その他ヤンキー文化全般が当然お行儀悪いものなので、わざわざ宝塚歌劇で観たいかなあ、とは思ったかな…PTAチックですみません。でもやはりただ荒々しいだけのものには萌えないんですよね私はね。世界はすでに十分に荒々しく、改善されるようにも全然見えないのだから、せめて宝塚歌劇でくらい理想的な温和な愛の世界を描いてほしい…と考えるタイプのファンなのですよ私はね。
 というわけで全体としてはnot for me作品だったので、あとはひたすらKOO(風色日向。てかずっと「クー」って読むのかと思っていましたよ…)を観ていました(笑)。この感じ懐かしいな、『風共』『ベルばら』がつらすぎてひたすらあっきーの顔ばっか観ていたときと同じ感覚だわわあヤバい…とか思いましたよ。でももともと顔が好きなのと、こういうキャラクターが好みなもんで、つい…まだだいじょぶですハイ(しかしらいと、ぱる、かりんさん、ナニーロにあたる雪組マイ若手スターが欲しいなあ…あがちんはもう立派な番手さんすぎるので。てか男役さんに好きな人がいないと観るのがちょっとつまらないですよね宝塚歌劇って。娘役さんは各組に好みの生徒がわんさといるんだけどなあ…)。でもホント垢抜けたし、首が長くて綺麗で長身で、そのスタイルの活用の仕方、見せ方を体得してきたようで、ホント目を惹きました。新公もお衣装やキャラに助けられている部分はあったかなとは思いましたが、大健闘していたと思いました。好き!(あっ)
 あとは、てらいなくやり通すキキちゃんがさすがだ思いましたし、ずんちゃんもホントなんでも上手いし、もえこやこってぃもハジけていて良き、と思いました。すっしぃもまっぷーもヘンに色っぽくてホント困るよね!
 そして話題のナルセンドウのメイナンツー(泉堂成)ね!! プログラムでは「ボーイ」となっていますが名前はズバリ「美男子」なワケで、一見あーちゃんリン(留依蒔世)のお稚児さんにしか見えないのですが、ここはフォロワーさんが唱えていた、リンの生き別れの、半分しか血のつながっていない弟説を採りたいです。もう何年も会っていなかった親の訃報が届いて一応葬儀に顔を出したらそこに彼がしょんぼり立ち尽くしていて、初めて弟の存在を知って放置もなんなので連れて帰って、とはいえ手下と同じに扱うのもなんだしあまりかまわないでいたところ、彼の方では兄と仲良くなりたい兄の役に立ちたいと知っている限りの手を尽くした結果がアレなのだ…という説です。人に好意を示す、人と親しくなる方法をアレしかしらない育ちの少年ってことです。ジルベールか!(笑)私は下手な愛人説よりこの薄い本(ありません)に萌え萌えになってしまい、以後そうとしか観られませんでした…私が観た回は登場時いずれも膝にしなだれかかっていたりといった密着バージョンだったので、それも満足でした。恐ろしい子…!
 あとは「出ちゃった」が似合うカナのかのちゃんのナチュラルな可愛らしさ、素晴らしさとホワイト・チャイナの絶品っぷりですよね! 最後の願いが「結婚したい」「結婚式を挙げたい」ではなく「ウェディングドレスを着たい」なのもとても良き。そして応えるゆりかちゃんコブラの優しさよ…! 等身大の男子のカッコ良さって表現するのがけっこう難しいものだと思いますが、さすが円熟期のゆりかちゃんはホントどんな男性像でもやってみせますよね。ホント素敵でした。


 ファッシーノ・モストラーレは作・演出/藤井大介。
 …フツーでしたよね、前述しましたが『グラカン』の方が断然好きでした。でももしかしたらそれはこっちゃんのポテンシャルによるものだったり、組としての芸風の違いによる印象の差かもしれません。
 でも冒頭の銀橋ズラリのチョンパは素晴らしいなと思いましたし、未だにミキちゃんの歌声で脳内再生される「カプリチョーザ」はやっばりアガるし、『FWM』に続きキキちゃんと組んで踊ることが多いかのちゃんに残留を決めたのか!?とときめいていたら同時卒業が発表されてしょんぼりでしたがとにかくナポリ場面の蹴りの振りが切れ味サイコーで素晴らしいし、じゅっちゃんの歌姫起用が全編素晴らしいし(近年稀に見る2番手格娘役の起用っぷりでは? おとくりもここまでではなかった気がします。次期への布石ならめでたい。まあ私はそんなに好きじゃないんですけど…すんません…)、ずんちゃんの女装は正直またかいって気はしたけどもえこの歌が超絶素晴らしいヴェネツィア場面もいいし、フィレンツェと言われればそうなのかもしれないけどなんかよくわからない南国チックなお衣装の中詰めも楽しいし(三組デュエダンにひろこが入るなんて嬉しい! しかしこのあたりはさくらやひばりよりむしろさらちゃんの方が正統派娘役枠なのではと私は考えているのですが…てかひろこには新公ヒロインやらせなかったんだからもうあとはエビちゃんみたいなダンスリーダー格になるしかないのでこういう起用はどうなの? うーむむむ…)、これまたまたかいみたいな三角関係のミラノ場面はオチがなかなか新鮮でよかったし、だよねコレだもん次で辞めるんだよね、と大劇場公演時に確信したローマ場面も美しく、フィナーレの「ミ・アモーレ」もハマっていて素晴らしいと思いました。歌謡曲は上手く使うと宝塚歌劇にホント合うと思う。まあ以前星組でも使ったけど『ホッタイ』のお衣装をまた宙男に着せるのはどーなんだ、とは思いましたけどね…
 そうそう、ヴェネツィアのさよちゃんさらちゃんもよかったけれど、全体に男女のデュエットソングが多い印象で、新鮮に感じ、とても良いと思いました。りっつと朝木ちゃん、ずんちゃんとさくらちゃん、プログラムにないけどプロローグも確か男女で歌っていましたよね?
 あ、それからキヨちゃんのロケットセンター、フィオレSはホントに素晴らしかったですね! あとナニキョロのアマリアンテねごちそうさまでしたこの時期ならではのダルマですよね! あとはあーちゃんのエトワールね! エトワールは歌上手娘役枠であるべきだと考えているけれど、歌上手男役の卒業公演なら許容されますよね。客席からも惜しみない、心からの拍手と早めの手拍子が湧いていて、本当に感動的でした。歌のお仕事、続けてほしいなあ…
 全編通してさらちゃんが本当に仕上がっているなと思いました。娘役力が出てきたというのかな。それ以前ももちろん可愛かったけれど、ずっと太ったり痩せたり不安定だったというのもあるし、何よりまだ「娘役」ではなかった印象でした。それが、自分の個性を生かしつつ、宝塚歌劇に求められる娘役のルリルリができるようになってきたんだと思うのです。上級生が抜けて立ち位置が上がっているというのもありますが、ホントどこでも目を惹きました! さくらちゃんやひばりちゃんってちょっとエキセントリックだから、美人美人したひろことシンメで並べるならむしろさらちゃんの方が映りがいいと思うのですよ。新公の長のご挨拶も立派だったし、ホント娘役も新公卒業してからが華だよなあ、と思ったりしたのでした。今後にさらに期待したいです!
 なので、かのちゃんはホントもったいないなあ、次はショーなしだしなあ…とホント悔しいです。二代に渡って5年とかやってほしかった、ホントそれだけの大器だったと思うんですけれどねえ。意外と組替えが精神的にしんどくて、ゆりかちゃんに助けられて心酔しちゃって早くに添い遂げを決めちゃったんでしょうが、そしてそれもわからなくはないんだけれど、でもホントもったいないと思ってしまうのですよ…ぐちぐち。でもここで辞めちゃうんじゃのちのち長い歴史に埋もれていってしまうんだよね…そういうの、長く観てるともう見えちゃうからさ…のちのち語られることも少なくなっちゃうんですよ絶対に。写真集も出ないし「歌劇」の表紙にもならないままだし、ホント残念だし寂しいのです…
 次のボンドガール、期待したいと思います!!!


 最後に『ハイロー』東京新公の感想を簡単に。
 やはり全体に若い分、学芸会感も増し増しで奥歯割れそうに噛みしめて観たのですが、キョロちゃんとひばりちゃんのザッツ青春!な主役カップルはまあ好演でしたよね。ふたりとも新公初主演よりあたりまえですが格段に進化していたと思いました。
 あと、そろそろ新公主演も来るかな?という大路くんのスモーキーが雰囲気あってよかったこと、ナルセンドウの日向もノリノリにクドくてよかったこと、奈央くんの村山も健闘していたのが印象的でした。あとましろんのリンね、よかったね! まあ前述したナニーロのROCKYといい、キャラが立っている方がやりやすいんだろうな、とは思いましたが。愛未ちゃんのKIDAとかもよかったし。逆に仁花の美星ちゃんとか、なんかメイクが残念でもっと可愛くなるのに…!と歯噛みしました。現代の若者役が難しいのは娘役さんも同じかな?
 東京マイ初日が新公になってしまったため、あまり細かく本役との比較ができず、印象薄めで申し訳ございません…長の長はバイフーの花宮沙羅ちゃん、素晴らしいご挨拶でした。キョロちゃんのご挨拶の間、泣くのをこらえているんだろうけどメンチ切ってんのかコラみたいな目つきの悪さになっていたナニーロがただただ愛しかったです。みんなよくがんばりました。
 感染状況がまた怪しくなってきていますが、どうぞ完走できますよう…あとちょっとだ、がんばれ! 引き続き応援しています。





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 追記。
 勢い(? )あまってSSを書きました、すみません…





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