駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇月組『月雲の皇子』再演感想

2013年12月29日 | 観劇記/タイトルた行
 銀河劇場、2013年12月18日マチネ、23日ソワレ(前楽)。

 バウ初演の感想はこちら
 自分で読み直して、思いのほか当時の自分が褒めて熱く長く語っているのにけっこう驚きました。私としては手放しで満点と褒めきれる作品ではなかった、という印象がけっこう残っていたつもりだったのですよ。
 でも再演が発表されたときに、バウで観たからもういいや、とはならず、もう一度観たいと思ってチケットを取ったのだから、そしてその後に飛び込んできた追加チケットも手に入れてまで複数回観に行くことにしたのだから、やはり心に強く残っていたのだろうなあと思います。
 そして再度観て、やっぱりいろいろ新しい発見ができていろいろ考えられて、よかったと思いました。時間がなかったこともあるのか脚本・演出の変更点はほとんどなかったように見えましたし、その意味では私が初演時に感じた問題点は持ち越しだったと言えるのですが、生徒の成長が感じられたし、東京で初めて観たという観劇仲間と盛り上がれたのも楽しかったのです。
 のちのち、エポック・メイキングな作品、ターニング・ポイントとなった作品と言われるようになるやもしれません。たまきちの主演作としても、上田先生のデビュー作としても。
 うん、観ておけてよかった!

 というワケで今回はちょっと趣向を変えて、キャストというかキャラクターについて語ってみたいと思います。
 毎度のごとく長い、ほぼ自分のためだけの御物語となりますが、お時間ありましたらおつきあいください。

***

 木梨軽皇子の珠城りょう。私が彼女をたまきちではなくりょう君、りょう様と呼ぶ日が来るのが今から楽しみです。
 認識したのは『ラストプレイ』新公できりやんの役をやるんだって、と聞いたあたりからだと思いますが、この新公は生では観ていないので当時は知識として知るのみ。『HAMLET!!』がすごく良かったのは印象に残っていて、以後注目してきました。
 まったく好みのラインではないスターさんなので自分でもどうして好きなのかよくわからないのですが、もっさりしていると言ってもいいくらいに大柄なところ(最近はぐっとシャープになってきましたね。でも決して線が細くなりすぎることはないであろうのが頼もしい!)、まっすぐで温かそうなところ、不器用そうで真面目そうなところ、明るく温かな声にすごく惹かれます(劇中に何度もある「穴穂」「穴穂よ」という呼びかけのなんと温かだったことか!)。
 縁あってその後の新公をけっこう観ていますが、『アルジェの男』が良かったなあ。あれは新公そのものもすごく良かった…!
 そんな、新公主演の経験もみっちり積んだところでいよいよ決まったバウ初主演作は、厳密な意味では当て書きではない企画だったようですが、これがまあニンにぴったりでしたよね。
 しかも木梨は、主人公にありがちなただただ白く正しく優しいだけの男、みたいなんじゃないところがよかった。二幕の彼は明らかにダークサイドに堕ちた人間になっていたからです。そんなところにたまきちが挑戦できたのもとてもいいことだったと思っています。
 ただ、私が唯一この作品の欠点、弱点と感じていたのはまさにこの「木梨がダークサイドに堕ちる」点で、彼が何故そうまで豹変したのか、その理由が説明されていないし、納得できる類推もできないという点でした。
 実際には、長くつらい暮らしの果てに徐々に心が凍ることはあると思います。でも作品としては、何か直接的なきっかけ、事件があることにした方がわかりやすい。それがなかったのは弱点だったと思うのです。

 彼は幼いころ、いまだ泣き虫だった弟の穴穂を連れて父王の土蜘蛛退治を見に行きました。戦場で殺されていたのは、言葉も通じない毛むくじゃらの化け物などではなく、自分たちと変わらないごく普通の人々たち。それでも彼らは父に、大和に従わないから討たれているのだ、ということが理解できる程度には、彼はもう大人だったのです。そうして彼は「世界というもののありようを知った」のでした。
 賢く優しい彼にとって、それはつらい現実であったことでしょう。そして長じて彼はどうしたか。病床の父親に代わり土蜘蛛討伐の先頭に立って弟たちと共に戦う皇子になりました。戦場でふと、咲き誇る花に心奪われて目の前の敵に止めを刺すことも忘れ歌を詠んでしまうようなところがあるにせよ、剣を取らずに歌と夢に生きるようなのどかな暮らしはしていません。
 それは卑怯で、中途半端なことでもあったでしょう。そういう意味でも彼の優しさは弱さなのでしょう。でも彼はまだその程度には子供であったとも言えると思うのです。自分だけの意志で自分だけの生き方を貫けるほど強くも鈍くもなかったし、大人でもなかったのです。
 夢々しい理想家なだけのキャラクターでは、たまきちの無骨なまでの頼もしさは生かされない。わずかな違和感を感じながらもしっかりと現実を生きる木梨の健やかさこそ、たまきちにぴったりの役でした。
 そんなふうに、このままでいいのだろうか、ではどうすればいいのだろうか、「とまどいもためらいも」抱えて悩み迷いながらもどうにもできず、彼は真摯に弟たちと共に父を支え、国とため民のため、日々忙しく働き生きていた。そこへ、三輪山の巫女となっていた「妹」衣通姫が九年ぶりに都に帰ってくる…

「また夢を?」
 と穴穂は木梨に声をかけますが、ここは「歌を?」とした方がよかったかもしれません。ここでは夢を見ていたというよりは昔を回想していたのだし、確かに冒頭では歌っているのだけれど、それは舞台演出としての定番パターンとも捉えられてしまうものなので、台詞の形で歌を詠ませておくといいのではないかなあ。
 でないとのちに「この世界には二種類の人間がいる。歌を詠む者と、言葉を弄する者だ」という鍵となる言葉が出てきたときに、「え? で、木梨はどっちってことなの?」ってなっちゃうので。現状では彼はその時点まではただの「夢を見る者」になっちゃっているので、どちらなのかわかりづらいじゃないですか。
 ただもちろん、木梨を簡単に択一的に「歌を詠む者」としたくはなかった、という作者の意図も感じられはするのですけれどね。ただ彼は、ただの夢見がちな夢想家とかではないわけじゃないですか。彼の見る「夢」はむしろ「夢物語」の「夢」です。この「物語」という言葉はまた、「歌」と「弄される言葉」の両方にかかるものでもある。
 ううむ、今ここで書いていて、この作品は単純な対立構造とか、善と悪とか白と黒とかの対比の構造になっていないところがいいのだと思っていましたが、そういう意味ではこの木梨に対するあいまいな台詞も正しいのかなあ、と思えてきたぞ。これはそんな「物語」をテーマとした作品なのですからね。

 さて、かつては日に焼けて焼き栗そっくりだったおてんばな妹が、国を守る神の妻となり、今やその美しさが衣服を通してからでも光り輝くと言われる姫となって帰ってきました。
 舞競べに勝って榊(だったかな?)を下されたとき、彼はもちろん彼女の美しさに心震わせたでしょう。
 でも妹たちをまき王宮を抜け出して、博徳先生の学問所に出てきたときの彼女は、昔のままのお茶目で朗らかな少女でした。帰り道、どちらが彼女を自分の馬に乗せるか「兄弟喧嘩をしませんか」と言い出した穴穂の方が、木梨よりもほんの少しだけ早く、彼女のことを異性として意識してしまっていたのかもしれません。それくらい、木梨の中ではまだはっきりとした意識はなかったのだと思います。
 けれど女王に知られ叱られ遠ざけられ、今の立場や身分の違いを突きつけられ、そうして木梨にできることは何もないのでした。

 穴穂の雨乞いの儀式に生贄として引き出された土蜘蛛の子供ティコをもらい受け、衣通と遭遇したときには、木梨は目も向けず控えることしかできません。
 衣通の様子を木梨に聞かれて、ティコにはうまく答えられません。土蜘蛛には「綺麗」「美しい」という言葉がないのでした。でもそうした観念はある。それは母親のようなもの、雨を受けて花咲く笹百合のようなもの、糸をいっぱいに伸ばして月に向かって空を飛ぶ蜘蛛のようなものなのでした。
 ティコに衣通の美しさを語ることで、木梨の中に衣通への新たな思慕が芽生えたりもしたのでしょう。
 食料に替えられる翡翠をもらったお返しに、ティコは月蜘蛛の美しさを木梨に教えて、家族のところに戻ろうとします。そしてそれを一矢で仕留めたのが穴穂なのでした。
「まだ子供だ!」
 それはそうです。しかし子供はいずれ大人になり、大和に弓引く者となる。敵は早いうちに倒すにこしたことはない、という意味で穴穂はまったく正しいのだし、木梨もこれまで戦場でさんざん似たようなことをやってきたはずなのです。「私には忍びぬ」とだけ言って今同じことができない彼の優しさは確かに弱さであり、国を滅ぼしかねないものだと言われれば確かにそうなのでした。
 鈍重になりかねないまっさらな優しさもたまきちなら演じられたろうけれど、こういう弱さ、脆さ、繊細さを与えられた役に扮したこともまた、たまきちの財産になったのではないかなー。
 (ちなみにここのやりとりがやや冗長だったのが残念だったかな。台詞を聞くより話の進みを追いたいときにまだるっこしいときがありました。文芸ならいいけど、演劇だからさ)

 そうして木梨は、笹百合を手に、衣通を訪れることしかできません。別に何をどうしたいということもなかったのです。しいて言えば、ただ静かに泣きたかったのでしょうが、それができそうに思える場所が彼には他に思いつけなかったのでしょう。きょうだいだからこその甘えです。
 そして「泣いておられるのですか」と聞かれるとかえって嘯く。それ以上偽りの言葉が言えなくて、だから抱きすがることしかできない。木梨は衣通を背後から抱きしめたけれど、それは体格としてそうなっただけであって、抱きしめられたがっていたのはむしろ彼の方だったのです。
 あるいは、自分以上に自分の心をわかってくれる「妹」を大事に抱きしめ、心を彼女に預け、明日からはまた大和の皇子として土蜘蛛と戦おうと決意したのかもしれません。
 そして一方で、このとき衣通を抱きしめてしまったことで、触れてしまったことで、それまであくまで恋愛以前だった彼女への意識が、何か形あるものに変化してしまったということはあるかもしれません…
 このあと三人して『あかねさす紫の花』を思わせる三重唱で「眠りたい、せめて今夜はすべて忘れさせて」と歌いますが、そこにセクシャルなものを取ろうと思えば取れるけれど、これはむしろこういう場面での慣用表現みたいなものだよな、と思えました。
 木梨も穴穂も、もしかしたらすでに妃のひとりやふたりいてもおかしくない歳なのかもしれず、そういう性愛の利用法(というのかなんというのか)を知っているのかもしれませんが、基本的にはとにかく清潔なところがまたいいんですよねえ…

 そして父王が死に、王位を継ぐことになり、青(夏美よう)の思わぬ糾弾があり、穴穂の思いもよらぬ裏切りがあった。
 裏切り、という言葉は違うかもしれません。木梨は穴穂の出生の秘密をまったく知らなかったはずですし、穴穂の意図も真意もまったく理解できなかったことでしょう。何が起きているのかよくわからないままに、ただ衣通を救うためだけに、罪を認め、被った。
 自分たちは確かにあの夜、会った。それは巫女に兄弟といえど男と交わることを禁じた法を破ることではあった。しかし「情を通じる」とか、「汚らわしい契り」とか、そういうものでは断じてなかった。その後に何かが芽生えてしまっていたとしても、後ろ暗いことはまるでない。なのに何故そういうことになってしまうのかわからない。ただ姫を流刑になどさせるわけにはいかない。
「私が強いたのです。私が、嫌がる姫に力ずくで強いたのです」
 そうして伊予に流され、土蜘蛛たちに拾われた木梨に、何が起きたのか。問題はそこです。

 自分が知っている穴穂からは考えづらいけれど、彼が自分を廃してでも王位を欲しがったというのはありえるかもしれない、と木梨は考え至るようにはなっていたかもしれません。穴穂もまた衣通を愛するようになっていたのかもしれない、とも考えたかもしれません。だから自分が邪魔になった、だから自分は追い出された。
 ならば仕方かない。彼らの幸せを願って自分は別のどこかで暮らそう、木梨ならそう考えそうなものなのでは?
 そして土蜘蛛に拾われて、木梨は当初は狩りや農耕などを彼らに教えて平和に暮らしていたそうじゃないですか。穴穂が望むものは穴穂にやろう、自分は流れ着いた場所でやっていくしかない、と、あきらめ半分に思っていはずでしょう。なのに何故、剣を作り始めたのか? 心を凍らせ、悲しみも怒りも憎しみに変えて戦い始めたのは何故なのか?
 穴穂が王になり衣通を妻にしたと風の噂に聞いたから? なのに衣通が変わらず手紙を送ってくるから? 穴穂の土蜘蛛討伐が激化しているから?
 でも自分を拾ってくれた土蜘蛛たちに命の犠牲を強いてまで、大和と戦おうとする理由としては弱いのでは? 何かもっと、きっかけになる大きな事件があったのでは?
 穴穂のために、穴穂が作ろうとしている「物語」のために、大和に討たれる土蜘蛛になってやる、というのも、自分ひとりならまだしも、今や仲間と呼んでいいみんなの命を賭してまで、あの優しかった木梨がやることとは思えません。
 ここが埋まらない。それが作品としてのほぼ唯一の弱点と言っていいと思います。木梨の豹変に納得がいかないから、観客はその後の彼の無謀とも言える行動が、別の真意あってのものなのではないかなどと考えながら観ることになる。観客の感情移入を負うべき主人公の言動原理が明確でないのは構造上つらい。
 それに比べて穴穂の行動には筋が通っています。だからわかりやすい。だからみんなが穴穂穴穂言うんですよ。穴穂ももちろんいいキャラクターなんだけれど、ただの類型的な悪役とかライバルとかではないところが素晴らしいところなんだけれど、物語は主役立ってのものだと思うし私はたまきち好きなので、この点だけが歯がゆいのでした。

 木梨は衣通からの手紙もいつしか読まずに捨てるようになり、増える仲間を統率して武器を鍛え、穴穂との、大和との決戦に向かいます。
 そこへ、衣通がやってくる。七年たっても変わらず美しく、ただ静かに真実だけを語る、月の女神のような女。
「花が日輪に向かって咲き、河が海に向かって流れるのは何故かと、お問いになりますか」
「蜘蛛は歌わぬもの、獣は文字を持たぬもの。そうすれば偽りの言葉も歴史を欺く大和の物語からも心解き放てる」
 ふたりの話は平行線のままもの別れに終わります。宴で我が妃と呼び満座の中で接吻して見せても、すべて偽り。
 もちろん木梨は衣通のことをふっきれてなどいません。だからこそ宴でパロの剣から彼女を守るのだし、こんなこともするのだし、パロの自分への思慕を利用してでもパロに彼女を託し逃がそうとする。
 それでも大和との戦いをやめようとはしない。結末はわかっているのに。何故?

 大和の軍は多く強く、木梨は深手を負います。パロから、衣通がパロを庇って海に落ちて死んだと聞かされて、いよいよ彼に守るべきものはなくなりました。語るべきことは今やなく、ただ剣を振るうのみ。あとはただ、穴穂の手ですべてを終わりにしてもらいたいだけ、止めを刺してもらいたいだけ。
「命はお助けしよう」
 そう言った穴穂が最後に木梨の胸を貫いたのは、木梨の「穴穂」というだけの呼びかけに、終わりにしてくれ、死なせてくれという彼の想いを聞いたからです。彼は兄の望みを叶えてやったのです。
 そんなひどいことを穴穂に強いておいて、それでも木梨は穴穂が泣くのを止めようとしたりする。子供の頃から何度もした、涙が止まるおまじない。そして穴穂の腕の中で歌を取り戻す。
「私たちはあの娘を守れなかったな」
「泣いてなど…」
 泣きながらそう言う穴穂の、それが最後の偽りでした。その後に「物語」を書き換えさせたのは、偽りなどではなく、彼にとってはそれが真実だったからです。
 穴穂は木梨の亡骸を海に捨てさせます。塚を作らせないため、土蜘蛛たちの拠り所とさせないためですが、海には木梨を待つ衣通がいるはずだからでもあるのでした。
 海の彼方で、ふたりは幸せにしている。そんな「物語」を支えに、穴穂はこれからも生きていかなければならないのです。残された者は常につらい。弟の腕の中で死ねた木梨は、確かに幸せだったのです。


 穴穂皇子の鳳月杏。『ルパン』のエメットも良かったけれど、印象的だったのはやはり『アルジェ』新公のジャックかなあ。ゆうきの同期で陰に隠れた形になっていたと思うし、結局新公主演ができないままに卒業してしまった形になりましたが、その後絶賛ブレイク中ですよね。これって素晴らしいことだと思います。ぜひともこのタイミング、このチャンスを逃さずジャンプアップしていってほしいなあ。
 下級生主演の小公演の二番手、というのはままあることですが、ここで主役と違う色を発揮できたらむしろ強いと思うのです。これまたニンに合った、とてもいいキャラクターを振ってもらえました。
 完全な悪役でもベタなライバルでもない。主役である主人公の良き弟。でもただの毒にも薬にもならない親友役ではない。タイプは違うし性格も考え方も違うところはあるけれど、それ以上に似ているところがたくさんある、そして何より愛情と尊敬と理解で強く結ばれた、兄弟の役。
 この兄弟が、一方が理想家の優男で一方が筋肉自慢の武闘派、みたいな単純に対照的なキャラクターであったなら、この作品はここまで成功していなかったと思います。
 ちなっちゃんはクールビューティーに見られがちだと思うから、例えばそういう冷酷な悪役、みたいな役が振られることもありえたと思う。でも穴穂はそれだけのキャラクターではないのです。苦しいながらも実は立派な王道、覇道を進んでいる王者の役です。主役も張れる役なのです。意外と珍しいバターンだと思います。
 のちにちなつ茶の会販で買ったたまきちとのコラボ写真集がまた新たな扉を開けてくれちゃってタイヘン動揺したワタクシなのですが、本当に映りがいいふたりなんですよねー。どちらも同じくらいの背、肩ががっしりある立派なガタイ、でも顔は卵形と丸顔で、わんこ系の丸い目と涼しげな切れ長の目と、違っているからいい組み合わせで。そして組むことでえも言われぬ清潔な色気が不思議と生まれている…
 こんなこと書いたあとでなんなんですが、本編の兄弟がまったくBLチックでないところがまたよかった。本当に子供の頃からの仲良しで、少年から青年になりかけるころのまっすぐで健やかな男ふたり、というさわやかさで。互いに慈しみ合い尊重し合っているのがとてもよくわかる、あくまで健全で健康的な、美しく麗しい兄弟。違いについて口論が激化することはなく、自分の意見を押し付けたり相手の意見を無視したりしないふたり。素敵ですよねえ。
 実際のふたりは二学年差があっても同い歳だそうですが、そういう部分も出るのかな。普段のふたりがどの程度の仲良しなのか私には実はよくわからないのだけれど(小さいときから路線バリバリの下級生をどう思ってしまうかは難しいところなのではないのか、と私なんかは思ってしまうので)、舞台ではとにかくちゃんと優しい兄と元気な弟に見えました。そこが素晴らしい。本当にいい役でした。

 小さい頃は泣き虫だったのに、いつから彼は強くなったのでしょうね。成長するにつれ気の強さが開花したのでしょう。それでも兄を惰弱だと軽蔑するようなことになることはなく、兄を助けて強い国を作りたい、民を幸せにしたい、とまっすぐ、ほとんど無邪気に思っている。その思いを木梨もまた重荷に思うことはなかったでしょう。
 このまま何もなければ、青も手を出しようがなかったかもしれなかったのでした。
 だが父王の病は篤く、祈祷のために衣通が呼ばれた。その美しさに驚き、惹かれた。苦手な舞でなく、得意の剣を見せたかった。自分の馬に乗せたかった。
 でもまだ、ただそれだけだったと思います。木梨が衣通のところに行ったのを、実際に穴穂が見たわけではない。なのに青にそう言われて、そういうことができたのかと可能性に気づかされてしまったのでしょう。そして先に奪われたと思った、だからこそ欲しくなったのです。だから讒言に乗じてしまったのです。
 もちろん真の父親であるらしい青を処刑から救いたかったというのもある。そして自分が青の子であると認めることは、王の子でないと認めることです。王の子でなければ王位を継ぐ資格はない。自分が王位を簒奪して、自分の王統を切り開くしかないのです。
 穴穂はほとんど追い込まれるようにしてその結論に至ったのです。彼に選択肢はほとんどなかった。それが苦しくなかったはずはない。
 兄を追い、王になり、衣通を妻にしても、彼は幸せにはなれなかった。なんと悲しいことでしょう、なんと哀れなことでしょう。ああ、穴穂命(尊かな?)の側女になってお慰めしたい。日の高いうちからでかまいません!

 偽りを言わない妻からは愛の言葉を引き出せず、兄は土蜘蛛を率いて反乱を起こしてくる。外国の脅威を感じ国内の統一を急ぐ穴穂にこの七年の間、安らぎのときなどなかったことでしょう。心を開いて話せる相手はもう誰もいない。青でも、博徳でも駄目なのです。母にも甘えられず、弟たちに頼ることもできない。二幕になって現われたとたんに、時間の経過と現在の境遇を声や態度だけで十分示して見せたのは素晴らしかったです。
 一幕で緑を着ていた穴穂は、二幕で対照色である赤を身に着けるようになっていました。一方の木梨は基本的にはずっと青です。でもむしろ変わらなかったのは穴穂の方だったのではないでしょうか。だからこそ彼もまた苦しかったのです。木梨ももちろん苦しかったのだろうけれど、彼が変わってしまった経緯が語られないので彼の苦しさにはシンクロしづらい。でも穴穂の苦しさはわかる。
 そして彼はその道を突き進まざるをえない。そして結末はわかっている…

 大和の軍は圧倒的で、土蜘蛛たちを薙ぎ払いました。
 その頭領は、まさしく「お変わりになられた」兄だった。投降してくれれば命だけは助けたい、それは偽らざる穴穂の思いだったでしょう。だから穴穂は常に木梨の足を狙って剣を振るいました。
「ふたりの志はひとつではなかったのか。共に志し、夢見たものは安寧の世ではなかったのか。共にひとりの娘を憐れんだのではなかったのか」
 兄が嫌う言葉を弄してでも、彼を説得したかった。本当は穴穂は意外と言葉を弄することが得意でもなければ好きでもなかったであろうのに、兄のためにしたのです。
 でも木梨は心を閉ざし聞き入れなかった。あげく死に場所を求めてきたのです。ひどいよね、私は穴穂のために泣きました。死ぬであろう木梨のためではなく。兄を死なせなければならなくなる穴穂のために泣きました。彼の方がつらい、苦しい。
 そしてそのつらさ、苦しさの代償として、穴穂はその後の人生を手に入れるのです。命あってのものだねです、生き残った者が勝者です。生きていられてよかったね、と私は穴穂のために言ってあげたい。彼はそんなことを望んではいなかったのかもしれないけれど、それでも喜んであげたい。そして抱きしめてあげたいです。やはり側女に…(笑)
 彼は今までもこれからも、非常で非道な王だったということはないと思うのです。やるべきことを粛々とやる、きちんとした、むしろ賢王だったのではないでしょうか。
 でも人あたりの良さとか、明るい笑顔とか、そういうものはこれを機に決定的に失くしてしまったかもしれない。それで臣下や民に真意や善政が上手く伝わらず、のちに誅されてしまったのかもしれない。
 けれどそれもまた「物語」だと、思いついてしまったので、私はそう思いたかったりもするのでした。史実ではのちに大長谷皇子(朝美絢)が穴穂を誅して王位につきます。けれどそれものちの王が書かせた「歴史」であり、この弟は兄を秘かに逃がしたかもしれないではないですか。穴穂は父の故郷である外つ国へ逃れたかもしれない。剣を作るより機を織る方が好きだったアミルが、大和にいついて働いていたであろう彼が手引きしてくれたかもしれない。あるいはそんな「物語」を書いたのは彼だったかもしれない。そこでなら穴穂は、笑顔を取り戻せたかもしれない…
 そんなふうに思いたい。物語は常に残された者の心の安寧のためにあるのです。私は、そんな夢が見たいと思ってしまったのでした。


 衣通姫の咲妃みゆ。『春の雪』の聡子も素晴らしかった。とにかくしっとりと深い声がいい、佇まいがいい。なんとも言えない雰囲気と確かな演技力を持った娘役さんです。
 雪組への組替えはぶっちゃけチギ嫁ってことですよねと私なんかは思っていますが、幸せにしてください上手く使ってくださいいい仕事しますよこの娘はホント、ってなんか立ち位置不明ですが思わないではいられません。
 歌はどうかなと心配された『メリー・ウィドウ』も健闘しての再演では、歌声がより透き通るようで泣かされました。でも拍手を入れたいタイミングではなかった、公演後半やや無理めに入っていてそこはちょっと残念でした。

 その浮世離れした持ち味は巫女役にはぴったり。でもその実、熱い血の通う身体をちゃんと持った女をリアリティを持って演じられる役者でもあると思います。神の妻から王の妻となり、そしてなお決して偽りの言葉を口にしないこの女の役には、ぴったりだったのではないでしょうか。
 言葉少なな彼女が愛する男にぶつける言葉は、技巧も飾りもない、単純で剥き出しの、まっすぐなものでした。
「私はあなたのものです」
「私をおそばに置いて、戦いを捨ててください。あなたをお慕いしております」
「あなたは死んでしまう、ふたりとも死んではいけない」
 言葉を弄することなどできない、子供のような純粋さが悲しい。 
 そして一度は神の妻とまで崇められた彼女が、自分を「哀れな土蜘蛛」とまでへりくだってした願いは、愛する男にはまったく聞き入れられませんでした。
 どうして女の言葉はいつも男に届かないのでしょう。こんなにもまっすぐな、真実の願いなのに。決して難しいこと、複雑なことを頼んでいるわけではないのに。神代も現代もそれは変わらない。このくだりに泣かない女なんかいないよね。でもここも拍手はいらなかったよ…

 ヒロインが主人公の腕の中で死ぬ、という構図はよくありますが、残念ながらこの作品ではそうはなりませんでした。どころか衣通の死は描かれることすらなく、パロの台詞で語られる形になる。木梨の腕の中で死ぬのはそのパロです。
 これはちょっとかわいそうな流れではあるけれど、話の構造上仕方ないとも思うし、結局のところ木梨の自分への愛を確信できないまま死ぬしかなかった衣通は本当にかわいそうで、これこそがこの作品が描きたかった真の悲劇だったのではないかとすら思えます。
 これは「物語」だから、海の向こうで結ばれて幸せに暮らしただろうふたりの姿を最後に見せる。それは穴穂が見たかった夢でもある。
 でも本当はそんな幸せな未来など、結末などなかったことをみんなが知っている。女は愛する男と結ばれることなく死んだ、それが真実です。これはそんな悲しい作品なのでした。

 衣通は何故、いつから、木梨を愛するようになったのでしょう。でも、そこには理由などほとんどなかったのでしょうね。
 小さい頃は穴穂の方が泣き虫だったのに、いつしか彼は勝気で勇敢な少年に育ち、衣通との別れに一番泣いたのは旅立つ当人よりむしろ木梨でした。その優しさが心に残っていたのかもしれない。「泣かないで」と歌うつたない歌が心を慰めてくれたのかもしれない。
 それとも舞競べで再会したとき、ちょっとだけ木梨の方の姿や顔かたちが好みだったのかもしれません。恋なんてそんなところから始まるのです。
 生贄として屠られそうだった土蜘蛛の子供を助けた木梨の優しさ、助けきれなかった弱さ、その嘆き、すべてを愛おしく思ったのでしょう。
 もちろんちょっと何かのタイミングが違っていたら、衣通が穴穂の強さや凛々しさに惹かれることもありえたと思います。本当は、夫婦として長く暮らす中で生まれてしまう情愛というものもあったと思います。でもそんな「たられば」は言っても詮ない。ここに子供が生まれなかったように、偽りの愛も育たなかったのでした。
 そして木梨を愛しく慕わしく思っても、彼女には何もできなかった。巫女だから、妹だから。
 禁を犯したことは事実だから、それが神の怒りに触れ王の命を損ねたのだと言われれば、罰を受けることにも甘んじようと思ったことでしょう。
 けれど木梨が代わりに罰を受けて遠流となり、自分は巫女の座から下ろされて穴穂の妃とされたとき、抗うすべは彼女にはなかった。
 彼女にできることはただ、偽りの言葉を口にしないことだけ。遠き地の兄に文を送ることだけ…
 男たちがどんなに歴史を書き換えようと、ひとりの女が愛を報われずにひとりで死んだことは変えられません。慕った木梨の腕の中で死ねたパロよりもっと、衣通は哀れでした。戦いに泣かされるのはいつも女です。男の歴史がどう書かれようと女の恨みが晴らされることはないのです。現代にまで続くリアルタイムの悲劇です。
 これはそんな真実を描いた怖ろしい作品でもあるのでした。
 いつか物語が書き換えられなくてもすむような、そもそも物語が書かれなくてもすむような世が、来るのでしょうか?
 女たちは、女たちだけが、それが反語だと知ってしまっているのではないでしょうか?
 それでも夢を見ずにはいられない。だから物語が生まれるのです…


 大中津姫の琴音和葉。私にとっての彼女は上手いけど地味なお姉さん娘役さん、というイメージだったので、むしろ『メリウィ』の方が驚きだったんですけれど、あんな華やかで愛らしい役もやってのけた後での今回の再演、さらに素晴らしかったです。
 允恭天皇の妃として、今や病床にある夫に代わり政務をとる女傑である一方で、若き日には渡来人の青との「過ち」を犯したこともある、生身の女。
 青は「過ち」と言っていたけれど(この卑屈な自嘲がいかにも男が言いそうなことに思えました)、本当は真実の恋だったかもしれない。昔のことだし、それは彼女にしかわからない。彼女は否定も肯定もしていません。
 ともあれ彼女は、女でした。女は誰でも愛せるものなのです。渡来人の男だろうと、土蜘蛛の赤子だろうと。父親が違おうと、木梨も穴穂も我が子、同じように愛した。そして自分が腹を痛めて産んだ子でなくとも、蛮族とされる土蜘蛛の赤子であろうも、衣通もまた我が子、同じように愛したのです。
 衣通の出自は公然の秘密となっていたようですが(少なくとももともとは孤児であり養女だと明らかにされているからこそ、「兄」の穴穂との婚姻は認められたのであろうと思えます)、それでも人目を避ける意味もあって、彼女を三輪山の巫女にしたのでしょう。美しく生い立ちつつあるのを見て、兄弟たちとは遠ざけようとしたのかもしれません。それでも恋の芽は摘めなかったのでした。

 女鹿(叶羽時)は天皇の言葉を伝えていたのではなく、大中津姫の意思を代弁していたのでしょう。そうやって彼女は政をまわしていた(女鹿が占いで裁決を下すくだりは本当に神憑いていたのかもしれないけれど)。でも世継ぎについては決めかねていたのでしょう。だから博徳が進言した雨乞いに乗った。そして天は、木梨を選んだかのように見えた。
 だが木梨は追われ、穴穂が王になり、衣通を妻としました。土蜘蛛との戦は激しくなり、皇太后として息子の政府を支えながらも、彼女にもまたこの九年の間、心休まるときはなかったことでしょう。そしてついに、穴穂が木梨と戦うという…
 大中津姫は衣通を木梨のもとへ遣わし、戦を避けて共に逃げるよう言いました。衣通が木梨に心を寄せていたことに、いつしか気づいていたのでしょう。でも今までは何もしてやれなかった。彼女は穴穂のことも愛していたし、王である穴穂には誰も逆らえなかったからです。
 同じ女として、愛していない男と添わねばならないつらさはわかっていたろうし、それを娘に強いるつらさを背負って彼女は今まで生きてきました。でもこれ以上はいけない。ふたりが殺し合うようなことになってはいけない。
「許してやってあの子を、別れの形見に」
 衣通がそれまで母親の自分への愛を確信することができないでいたとしても、このときには身に染みて感じたことでしょう。「皇太后様」「母上様」から「お母様」へ、呼びかけが変わって、そして娘は旅立っていきます。愛する男のもとへ…
 蜻蛉(夏月都)と共に衣通を見送る場面の幕切れに、拍手が沸いたのは自然なことだったと思います。すべての女の自然な感情です。

 蜻蛉は、衣通の侍女とされていますが、乳母でもあったのでしょうか。二十五年前、彼女には自身の乳飲み子がいたのかもしれません。夫は戦で帰らなかったのかもしれません。だから衣通について三輪山にも赴いたのかもしれません。彼女もまた、腹を痛めて産んだのではない「娘」に愛を注いだ女でした。
 娘を育て上げ愛する男のところへ旅立たせるまでの時間も夢なら、戦のない世で愛する男と女が睦まじく暮らすこともまた夢なのかもしれません。そんな「夢で、ございましたねえ…」だったのかもしれません。名場面でした。

 蜘蛛族の孤児パロは晴音アキ。これがまたいいキャラクターでした。復讐に燃える、背伸びして戦いたがる子供。そして少年のようでいて、実はすでに恋を知っている少女。
 例えば従兄弟同士が王位と女を争うという意味で構造の似ている『太王四神記』のスジニもそうです。キャラクターとしては類型的と言ってもいい。
 でもよかったなあ。はーちゃんの個性に合っている、というのもあるけれど、私は木梨が衣通を救うのにパロの自分への思慕を利用したところにシビれました。もちろんそれでパロも助かるのだし、幼い少女を戦場から逃がしてやりたいという程度の好意は木梨にもあるのです。
 でも彼が第一に考えたのはあくまで衣通の命です。愛する女の命を守るために、自分を愛してくれる女を利用したのです。その非情さ!
 ひどい男だよね、でも恋ってそういうものだよね。主役の男をこう描いちゃうこの作者が本当に好きだわ、と思えた瞬間でした。パロの方から申し出るように書くことはパロへの侮辱だと私は思う。
 ごめんパロ。でもそれがあるからこそ、ヒロインを差し置いて「愛する男の腕の中で死ぬ」ということをやらせてもらえたのが私は許せたんだと思う。普通はそれはヒロインのポジションですから。それを別のキャラクターがやるにはかなりの理由が必要です。それがあった。ごめんパロ。
 そして彼女の最後の言葉、「もう誰も憎みたくないよ…」に爆泣き。
 家族を殺された怒りを、恨みを悲しみを憎しみに変えて、ただひたすらに戦ってきた。でもそれって本当につらいことです。たとえ復讐が果たされても、愛する人が帰ってこないことはみんなが知っている。知っていて憎み続け、戦い続ける。
 つらいよね。でも他にどう生きていいかわからなかったんだよね。衣通のように、剣も持たず、ただ美しくいたかったよね。でもそれはできなかったんだよね。
 愛する男に愛されないなら、せめて彼が愛する女を守ってやりたかった。でもそれもできなかった。どうしてだろう、どうすればよかったんだろう。彼女はむしろ自分を庇って死んでしまった。
 衣通を守ると約束したのに守れなかった、それをただ謝りたかっただけなのに、だから戦場に戻ってきたのに、斬られてしまった…
 衣通のように生きたかった。でも彼女も死んでしまった。どうしたらよかったんだろう。答えがないまま死ななければならない者の無念さ、悲しみが、確かにそこにはありました。
 その死を見取って、だからこそ木梨は、もう死ぬしかなくなったのかもしれません。衣通が死んだからでもあるけれど、パロの死も負ったのです。そういう意味で報われてもパロは喜ばなかったろうけれど。
 ここにはそんな悲劇がまたひとつ、あるのでした。

 アミル(千海華蘭。少年時代の木梨の二役も素晴らしい)はしかし、そんなパロを愛していたのでしょうか。それにしては衣通のために織った衣装をパロに着けさせるのは無神経すぎやしないか?
 私は、アミルはパロが木梨に想いを寄せていることを知っていて心配している、良き仲間の青年、だったのではないかと思っています。
 明るく優しく賢く、人の心が気づかえる思いやりのある青年。真面目で器用で、本当は鋼を鍛えるよりも美しいものを作ることの方が好きな青年。
 パロが死んだときのからんちゃんの絶叫はそれはそれは素晴らしいもので、涙なしには聞けません。でもやっぱりそれは愛する女が殺された男の悲嘆というよりは、仲間の子供が戦いの犠牲になったことへの抗議の嘆きだったのではないかなあ。「戦争なんてくだらねえ!」(by『誰鐘』アグスティン)ですね。

 同じく蜘蛛族の女戦士ガウリは咲希あかね(鬼灯との二役も素晴らしい!)。ガウリはどんな女だったのだろう。
 ヤシュ(貴千碧)は彼女にフラれてものも食べられなくなったことがあったそうだけれど、何がダメだったんだろう。でもガウリは木梨にはそこはかとなく好意を寄せているようにも見える。でももちろんまったく表には出していない。
 むしろ戦で亡くした恋人がいqのでしょうか。それで自分の「女」を封印しているのでしょうか。まあ単に最初っから強い男勝りのさっぱりした女だ、ということもありえます。ガウリは逆にしつこく書き込まれていないことが私はよかったな。
 そしてちゅーちゃんの素晴らしい身体能力でなされるダンスと殺陣が圧巻!
 彼女たち土蜘蛛に飛ぶことを教えた木梨の罪は、もしかしたらけっこう重いものです。飛ばなければ落ちることも滅ぶこともないかもしれないのだから。でもガウリたちは木梨が倒れ別動隊が全滅しても逃げ延び、いつかまた立ち上がったことでしょう。
「今は飛ぶさ、月までも!」
 名台詞でした。

 そして渡来人の史部・博徳は輝月ゆうま。ハッチさんと同期ですよね?の堂々たる芝居! その演技力も素晴らしかったけれど、このキャラクターが本当に出色だったと私は思います。ここにまゆぽんを得たときに、この作品は勝ったも同然となったのではないでしょうか。
 難しい役です。故国を追われて大和に流れつき、青のように女王の寵を得て子をなすこともなく、ただ学識のみで政府に仕えた。居場所を確保するために時の王に阿る一方で、文字という技術を伝え歴史書を編むことで「真実」を残そうとしている。そしてその真実が時の為政者によって書き換えられるものであることも知っている、人当たりが良さそうでいて実はとても冷徹な男。
 博徳は学問に熱心だった木梨の方を好もしく思っていました。けれど穴穂を疎んじていたということではないし、それは彼が兄を追って王位に就いたからといって変わりません。媚びもせず責めもせず、ただ変わらず穴穂の側にいる、その治世を見守る。穴穂にとっては呪縛である一方で、確かに支持とも思えたものだったでしょう。
 博徳が穴穂のもとに残ってくれてよかった。そしてそんな博徳に最後になお「なんのための偽りを?」と言わせちゃうこの作者は本当にすごいと思うのでした(そして「わからん」と答える穴穂の正直さが好きだ。やっぱり彼はいい王様になったのではなかろうか…)。


 物語。嘘。偽り。フィクション。創作。捏造。希望。理想。夢。真実とは違うもの、でも真実と同じ重さを持つもの。
 それがなんのためにあるのか、宿題に出した作品。これは、そんな作品なのでした。
 スターの個性を輝かせ、新たな魅力を引き出し、適材適所で下級生にまで役があり、歌があり効果的なリプライズがありショーアップ場面があるミュージカルになっている。無意味な飾りはない。
 尺の関係かもしれないけれどフィナーレはなく、それもよかった。そしてファンでない人が観ても、おもしろい舞台だったと思います。作者はまずはそれを目指したそうですが、見事に達成されていたと思います。
 いい舞台が観られて、よかった。これが今年の宝塚納めになりました。幸せです。


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