駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『グッド・バッド・ウィアード』~韓流侃々諤々リターンズ21

2020年11月16日 | 日記
 2008年、キム・ジウン監督。ソン・ガンホ、イ・ビョンホン、チョン・ウソン。

 一枚の宝の地図を巡って、コソ泥やら賞金稼ぎやら闇市の用心棒やら日本軍やらが入り乱れる、アジアン・マカロニ・ウェスタン、とでも言いましょうか…
 イ・ビョンホンとチョン・ウソンの馬術が素晴らしいことはわかりました。スタントと撮影が大変だったろうなあ、馬が怪我していないといいなあ。
 感想は以上です(笑)。ちなみに、「いい奴」がチョン・ウソンで「悪い奴」がイ・ビョンホン、「変な奴」がソン・ガンホです。

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和泉かねよし『新装版 メンズ校』(小学館ベツコミフラワーコミックス全8巻)

2020年11月14日 | 乱読記/書名ま行
 海まで5分、1日2本のフェリーあり。徒歩ではほぼ脱出不可能の全寮制名門男子校・私立栖鳳高校は別名・アルカトラズ刑務所日本支店。超ド僻地で繰り広げられる恋もHもやりたい盛りの男子高校生たちの狂宴の行方は…

 テレビドラマ第1話は見てみたのですが、私がなにわ男子の誰ひとりとして知らないからか、今ひとつノリきれなかったので、原作漫画を読んでみました。ちょっと前の作品で、映像化に合わせて新装版が出たようでした。
 しかし変わった作風の作家さんで作品ですよね…男の子主人公の少女漫画って別にそんなに少ないわけではないけれど、これは少女漫画ではない気がする…といって、では少年漫画誌か青年漫画誌に載った方がよかったんじゃない?とも思いにくいのです。読者であるこちらとしてもどの立ち位置でどのテイストで読んだらいいのか、困るような…そして結局この作家さんは常に一風変わった作品を描いていて、高校で先輩や同級生にキャッキャウフフみたいなタイプの少女漫画は全然描けない人なのでした。不思議…
 だからこれも、リアルでもないしドリームでもないし、露悪的でもないけれどあるあるというほどでもない、もちろんBLでもない、けれどまあ青春模様を描いているのでなんとなく読めてしまう、不思議な作品だなと思いました。
 エリカのエピソード、というかこういう作品において人の死を扱うのはなかなか難しいものかと思いますが、それこそ人生においてはないこともないものなので、そこはすごく丁寧に、真剣に扱われていて、好感を持ちました。
 あとは、私はメガネに甘いから(笑)野上くんとミキちゃんのパートをもっと見たかったですけど、まあ全体としてはこのバランスくらいでいいのかな…
 なんにせよ、とまどいつつも楽しく読みました。


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須藤祐実『夢の端々』(祥伝社フィールヤングコミックス全2巻)

2020年11月14日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 伊藤貴代子、85歳。認知症で家族の顔さえわからなくなる日々の中、突然訪ねてきたのは、忘れられるはずもない、かつての恋人・園田ミツだった。貴代子とミツは、戦後の女学校時代に心中を図った恋人同士だったのだ。心中が失敗しても恋愛関係は続いたが、貴代子は28歳のときに見合い結婚を決めてしまい、ミツは傷つくが…離れたふたりの人生が再び重なるようになるまでの恋愛の軌跡を、時代を遡って辿るドラマチック一代記。

 端正とは言えない絵柄で、デッサンもちょっと不安定で、決して上手いとは言いがたい気はするのですが、味がある絵を描く作家さんですね。このサイズのコミックスにするには画面の密度もだいぶないけれど、それもまた味に見えます。得だなあ。
 お話の始まりは2018年、平成30年です。そこから遡って第2話冒頭は1988年、昭和63年、さらに第3話になると1969年の昭和44年になって…という、スリリングな構成です。
 ふたりは昭和8年生まれのようなので、20年生まれの私の母親より半世代くらい上の青春を送った感じでしょうか。美人でお金持ちでクラスの人気者の少女と、地味で目立たない文学少女、みたいなふたりが出会い、心を通わせ、でも時代は女の自由を許す空気はまだまだ全然なく、「この体はいつもだれかの物なんだわ」「お国の物だったり親の物だったりやがては夫の物 家の物…/でも本当はこの体も心も自分だけの物のはずだわ」「だれかに傷つけられるんじゃなくて/どう傷つくかを自分で決めたい」「だから一番幸福な時期に死ぬことにしたの」と心中するために山に登り、薬を飲み…ふたりで生きてみることにして山を下りようとし、しかし遭難して大怪我をした…
 そのせいばかりでもないけれど、その後もいろいろとふたりの関係は捻れていって…というのは、時代のせいばかりとも言えないし、そりゃ人生いろいろあるよとしか言えなかったりするし、やっと再会して、けれどまた思わぬ別れがあって…というのも、やはりザッツ・ライフな気がする、せつなく美しい物語です。
 ラスト、もう2ページあれば最後に見開きで抱き合うふたりの絵を入れられたのにな。
 貴代子の娘も孫もひ孫もみんな女ですが、彼女たちが少しは生きやすい世の中に、今、はたしてなっているのでしょうか…
 上下巻で綺麗に対になる装丁が美しい本でした。

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『ブロデューサーズ』

2020年11月12日 | 観劇記/タイトルは行
 シアターオーブ、2020年11月11日18時。

 かつてヒット作を生んだブロードウェイのプロデューサーであるマックス(井上芳雄)は、今は落ちぶれて破産寸前。マックスの元を訪れた気の弱い会計士レオ(この日は吉沢亮)が帳簿を調べると、舞台が成功するより失敗した方が利益を生むことに気づく。マックスは、わざと舞台を失敗させて資金をだまし取る詐欺を思いつき、レオを巻き込んで、最悪のシナリオと最悪のスタッフと最悪のキャストを集めて大失敗作を作ろうとするが…
 1968年の同名映画をもとに2001年にブロードウェイで舞台化され、その年のトニー賞において史上最多の12部門で最優秀賞を受賞したミュージカル。脚本/メル・ブルックス、トーマス・ミーハン、音楽・歌詞/メル・ブルックス、オリジナル振付/スーザン・ストローマン、日本版振付/ジェームス・グレイ、演出/福田雄一。全2幕。

 15年前(!)にヒロインのサエちゃん目当てで観たときに感想はこちら
 そのときも、ブロードウェイにはゲイもユダヤ人も英語がしゃべれない外国人も多いだろうに、この作品が笑ってウケてもてはやされるだなんて、アメリカ人ってオトナなんだなあ、でも日本人には難しく、なんといってもピンときづらく笑いづらいのではなかろうか…とか思ったものでしたが、もしかしてそのときも、笑っていたのはいわゆるWASPのしかも男性だけ、だったりしたのでしょうか。この作品はその後ウェストエンドやカナダ、ドイツ、オーストラリア、韓国などで上演されたそうですが、今でも、特に欧米で上演されているのでしょうか。もはや、ポリコレ的にNGな作品なのではないでしょうか。
 この15年にしても、あらゆるマイノリティ差別解消運動に対するバックラッシュはすさまじく、その運動の前進距離は微々たるものだということが明確にされただけのような気がします。そのわずかな前進の中で、ゲイのアーティストに芸術性がないということはないことや老婦人にも性欲はあって当然なことが、やっと正当に認められたのではないでしょうか。だからこんなふうにちゃかされても笑えません。あるいは、正当に認められるべきだと明確になってきたのにもかかわらずまだまだ侮蔑されたりいじられたり嘲笑されたりしがちなのに、それをさらにこの作品で目の当たりにして、笑えるはずがありません。少なくとも私は不愉快に感じました。
 それにこの15年というごく短い間ですらも、世界に戦争がない日は1日もありませんでした。常に世界のどこかで紛争が、戦争が、内戦が起きていた。なのにヒットラーを模した人物がセンターに立ってみんなで「戦争に行こう!」と歌い踊る劇中劇がある、というのは、それがどんなにショーアップ場面として楽しくできていても、やはりダメなんじゃないでしょうか。
 というか、もしかしたらこれはこれで笑えないこともないかもしれないけれど、でも今これを再演するより、もっと気持ち良く笑える楽しい作品を新たに作ればいいだけなんじゃないの? 笑いってこれだけじゃないはずなんだから、次に、違うのにいったら? という気がしてしまいました。
 それでも、どうしても、この笑いをやりたい、というのだとしても、せめて1幕はもっと刈り込んであと20分は短くし、2幕はもうちょっと台詞を足さないと、現代に観るには1幕はスローテンポすぎ間延びしすぎていて、2幕ははしょりすぎてドラマとしてよくわからない点があり、要するにやっぱり再演のための手の入れ方が不足していると思いました。この演出家が好きそうな下ネタがどうとかより、とにかくそちらの方が私は気になりましたね。きちんと手をかけられていない、ブラッシュアップできていない気がしたのです。もちろん契約の問題もあるのかもしれません。そのままやれ、でないと上演は許可せん、という契約なのかもしれない。でもなら契約しちゃダメだよね。現代的に改変できないなら現代で上演する意味ないもん。そもそもの映画を観ればいいんじゃない?ってなりますよ。
 どのナンバーも尺が長いのは古き良きミュージカルならでは…というより、もはやただ古いだけだと思います。いくらミュージカルが歌と踊りを楽しむものだとしても、2番も3番も同じことを歌っている暇があったら次の場面に行ってほしい、お話の先が早く観たい、となるのが現代人の心理でしょう。3時間10分の時間の重さは50年前とはだいぶ違うはずです。
 お話の根幹の興業詐欺にしても、計画と違って舞台がヒットしちゃってもそれはそれで儲けが出るんだろうからいいんじゃないの?という気がしてしまうのです。これはそもそも、出資者たちとの契約を、舞台がコケても出資金は戻さない、としていて、そして出資金はたくさんガメて製作費はケチって浮いた金を懐に入れる気だったのだ、みたいな説明がちゃんとないと、詐欺の意味がよくわかりませんし、舞台を当てる気のなかったマックスが、当たった場合は儲けはすべて出資者の山分けでプロデューサーたちの実入りは増えない、というような条項をうっかり入れさせられてしまっていて、それがネックで舞台がヘンに当たっても彼らの懐は暖まらないのだ、というような説明がないと、彼らが何にしょんぼりしているのかワケわかりませんよね? あと、結局マックスはなんの容疑で捕まっているのか、とかね。契約不履行? それは契約のどの部分?? 出資者の老婦人たちが詐欺だと訴えているわけではないんですよね???
 でも、レオが帰ってきてくれて、マックスがレオにプロデューサーの帽子をかぶせてあげて、ロングラン大ヒットおしまい、というのは、美しいし、うっかり感動しちゃうわけですよ。だからなんか、いろいろもったいないな…とは、思ってしまうんです。

 さて、キャストはもうもったいないくらいの芸達者揃いでした。ミュージカルキング芳雄は申し分なく、これが初舞台だか初ミュージカルだからしい吉沢くんはあまりに歌って踊れるんで、私は仰天しました。舞台にちゃんと立てているのも素晴らしい。映像出身者って立ち方が怪しいというか、カメラの前でしか立ったことがないから舞台で客席から観ると無防備だったり美しくない立ち方しかできないことがままあるものです。でも彼はそんなことはありませんでした。ただ顔が小さすぎるせいかスタイルが悪く見えたのと(レオの役としては正しかったのかもしれません)、気持ち猫背に見えるというか、学年の上がった娘役が見せるデコルテの美しさみたいな磨き上げられた美しい姿勢はできていなかったというか、な気はしました。例えば大ラスやカーテンコールなんて、役を離れてバリッとカッコ良く踊っちゃってもいいと思うのですが、そういう場面でもやや垢抜けなかったので、そこはもしかしたらまだ技量が足りていないのかもしれません。でも基本的な地力はなんら問題ないですね、今後もミュージカルの舞台にバリバリ出てほしいなあ、と思いました。
 そしてウーラの木下晴香ちゃん。めっかわでした! 英語がしゃべれない、天然お色気売りの、背が高くてスレンダーだけど胸はある(政治家の女性を「細身で巨乳」と評した大学教授が炎上中ですが、さっさと干されろとしか言いようがありませんね。しかしこのキャラはこういう役どころなのでこう表現せざるをえないのであり、なのでそもそもその根本が問題なんだと思うのです)北欧美人を、めちゃめちゃニコニコ的確に演じていて、上手い!! そして華がある!!! いくつか舞台は観てきましたが、お姫さま系ヒロインよりちょっとパンチのある役の方が生きるのかもしれないなー! 彼女の舞台ももっともっと観たい、とファンになりました。
 そして事務所を片付けろ、綺麗にしろと言われた彼女が壁も床もデスクもソファも本棚もぜーんぶ白くペンキ塗っちゃったのを、マックスたちが「いつやったの?」と聞き、それが2幕冒頭だったのでウーラが「休憩中」と答える、というギャグが一番おもしろかった気がします。あとは、滑ることに意味があるものすら本当におもしろくなかった…フランツの佐藤二朗なんかもしかしたらいろいろアドリブを入れているのかもしれませんでしたが、なんせ客席が全然あったまってなくてしらーっとしているので、全然響いていなかったと思います。あとビンタの笑いはそれこそ古くて笑えません。楽しくないよ、やめようよ…
 ロジャーの吉野圭吾、カルメンの木村達成も達者で手堅く、アンサンブルもみなさん素敵でした。春風ひとみは役不足だったかもしれません。

 開幕したばかりなので、この先意外と好評でよかったね、みたいなことになるのかもしれませんが…なるならそれはその方が好ましいのかもしれませんが…でも、せっかくのこのキャストならまた違う作品をいずれ観てみたいものだ、と思ったのでした。





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『アナスタシア』初日雑感

2020年11月09日 | 日記
 宝塚歌劇宙組大劇場公演『アナスタシア』の初日と2日目11時を観劇してきました。以後、毎度おなじみ現時点でのごく個人的な感想ですが、完全ネタバレであれこれねちねち語らせていただきます。
 ちなみに、梅芸版をコロナ休演の合間に幸運にも観られたときの感想はこちら。そのときの心配は、半分は払拭されもう半分は残ったかな…という印象です。主に脚本、台詞の問題なので、なんとか東京公演までの間に追加修正できませんかね稲葉先生…!?というのが、主な議題(笑)です。

 そんなにこと細かに覚えていないのですが、総じて演出や装置やお衣装、舞台転換などの展開などすべて、ほぼ梅芸版を踏襲していたのではないかと思います。その上で、タイトルロールたるヒロイン・アーニャからトップスター演じるディミトリに主人公をシフトすべく、新曲「彼女が来たら」が書き下ろされ、ちょいちょい出番も増やされているのかな? まあこれは私の贔屓目もどうしてもあるのかもしれませんが、ゆりかちゃんの存在感と好演もあって、ちゃんと彼が主役のラブストーリーになっていて、かつ良きまかまどで、それはとても良かったと思います。
 歌唱もとても良くて、誰も歌えない『メイちゃんの執事』の中でもゆりかちゃんもひどくて、座席から転げ落ちそうになったことなど本当に昔のこととなりました。もちろん場数の問題もあるんだろうけれどちゃんとお稽古してるんだろうなあ、人って上手くなるんだなあ、その上でもちろんハートが大事なんだよなあ、と本当に感動しました。簡単にはあんなふうにはこの大曲たちを歌いきれませんよ? ずんちゃんは問題ないだろうと思っていましたが、「バラードを歌い上げちゃう(笑)」と言われていたキキちゃんも手堅く、大ナンバーがある故に女役として起用されたのであろうそらももちろん素晴らしく、そして何よりまどかが本当に絶品なので、この「ザッツ・海外ミュージカル! かつキラキラ・ディズニー・コンテンツ!!」を宝塚歌劇においてもきちんと成立させていて、感心しました。
 久々に宙組のコーラス力をこれでもかと堪能させてもらえたことも嬉しかったです。音楽は残念ながら録音でしたが、指揮に御﨑先生が入ってくださったこともとても大きいと思います。初日開演前、オケピットは暗いしチューニングの音も聞こえないし、やはりオケはいないよね…と寂しく思っていたら、開演アナウンスより前に御﨑先生がピットからひょいっと顔を出してライトが当たって会釈して、私はそれに拍手しながら感動でもう泣きそうになりました。ゆりかちゃんの開演アナウンスにも指揮者の紹介はありましたが、ピットはやはり暗いままで、ああこれは生徒の歌きっかけのためだけにいてくださるんだなと思うと、『ピガール』のときには本舞台から銀橋に架けた二本の橋による演出を優先したのかもしれないけれど、今回は本当に「歌入り芝居」ではなく「ミュージカル」だろうからこれは嬉しい配慮…!と心震えたのでした。
 そう、だからこそ…そもそもオペラの流れを汲んだような、楽曲優先の海外ミュージカルと比べて、普段の歌入り芝居に慣れているファン、観客のためにも、圧倒的に芝居が、というか芝居のための台詞が足りない、と感じました。ソコ足せ、って私言ったよねイナバ!?とちょいちょいキレそうになり(届いていません)脳内脚本赤入れビシバシしながら、の観劇となってしまいました…今回は「ル・サンク」に脚本は載らないかな? 倍とは言わないけど1.5倍増しには…イヤ、1.3倍で十分収まる。そしておそらく全体の尺にはそんなに響かないはずです、そんなものはなんとでもなるはずです。台詞、ガツンと足しましょう! 足りてません!!
 もちろん役者は演技で埋めてきますし、リピートするファンは萌えで補完してきます。でも1回しか観ない観客だって多い、まして今のこのご時世では。なのに「ハッピーエンドでよかったけど、なんかふわっとしたお話だったね?」って首傾げさせて帰しちゃっていいの? ダメでしょ? 「めっちゃキュンキュンした、おもしろかった! もう一回観たい!!」ってならせなきゃダメでしょ? その「キュンキュン」を演出する丁寧さが今、圧倒的に足りていません! もっとネチネチ、かつズバリ、台詞で言わせてどかんと盛り上げなきゃダメ!
 想像して補完するタイプの観客にしたって、それだけじゃ「でもこの解釈で合ってます…?」って不安になるんです。そんな思いを客にさせちゃ商売としてダメでしょ!? これこれこういうことなんです!萌えるでしょ!?ドヤ!!って、押しつけがましいくらいにわかりやすく演出と盛り上げなきゃもったいないですよ、所詮(オイ)ディズニーアニメエンタメ原作ですよ? ばーんと、がーんといかんかい!!
 それができれば、スカピン級のハピエン愛され娯楽海外ミュージカルとして再演されていく演目になる未来…も、ないこたないのではないかしらん? ま、役があまりにも少ないのはなんとも…ですが。だから宝塚歌劇としては本来は別箱公演向きなんですかね…(><)

 introduction、じゅっちゃんの少女時代のアナスタシアとすっしーマリア皇太后によるアバン。初日ふたりとも珍しくめっちゃ緊張していて、こっちまで緊張したなー! それはともかく、私は今までずっと何故マリアは革命を逃れられたのだろう?とか思っていたのですが、このころすでにパリに移住することにしていたのですね。嫁のあおいちゃんアレクサンドラとも折り合いが悪いし、実権をもえこニコライに譲ってのんびり隠居…と考えたのでしょうか。そして『神土地』でアレクサンドラを悪し様に罵っていたあおいちゃんがそのアレクサンドラを演じるおもしろさよ…(笑)そして「お祈りを」と言うたびに愛ちゃんラスプーチンの影がよぎる心のざわめきよ…
 ところで、ここでマリアがオルゴールをプレゼントして語る「強く、何も恐れない」を、のちにアーニャと再会したときにアーニャが口にして、マリアは彼女が本物のアナスタシアだとやっと確信する…という流れはあっていいと思うのだけれど、いかが?
 夢のように、幻のように、白いお衣装で美しく現れる姉姫たち。あられオリガ(美しい! 娘役転向大正解)、ひろこタチアナ(びっじーん! カワイイだけじゃなくなってきました。素晴らしい)、かのちゃんマリア(ホント華がある! でも顔はちょっと痩せすぎちゃった? しーちゃんみたいでもちろん綺麗だけど、いつもぱーんと丸くにこやかで可愛いのがいいのよ…?)、そして白い軍服のロマノフ一族の男たちはあきも、しどりゅー、あーちゃん、こってぃ。この4人は同じメンツでのちにディミトリの詐欺仲間というか昔なじみの小悪党に扮します。それもミソ。
 やがて時は経ち、1917年…(映像の年号は席によっては見づらい。なくてもわかるけどあった方がいいと思うので何か工夫してほしいです)アナスタシアはじゅっちゃんからまどかへ。皇太子アレクセイはらら、かーわーいーいー! しかしホントは子役しかも男の子役なんてこのクラスの娘役にはもったいないんだけれど、なんせ役がないので…(ToT)
 ここで貴族の女たちが、のちに2幕のネヴァクラブの客の女たちが、色違いでお揃いのドレスを着ているのが本当に素敵です。ミュージカルの様式美!という感じがします。
 家族で記念写真撮影、そして革命の足音、血と炎で赤く染まる宮殿…しかしここであまり露骨に見せないのはともかくとして、暗転したあとになら「皇帝一家が銃殺されたぞ!」みたいな新聞売りの少年(笑。ありがちでしょ?)の台詞とかがあってもいいのでは? そのあとの、パリで報告を受け取って絶句するマリアも「ひとり残らず…」とかしか言わないので、まったく史実を知らないしこのお話についてなんの予習もして来ていない、アナスタシア伝説なんてそもそも知らないフツーの人(例えば観せたとしてうちの母親とか)には、実は何が起きたのかよくわからないままに話が進むことになりかねませんよ? もっとあからさまに言っておいた方がいい。あと、「ひとり残らず」なんてことより、「ニコライ…アレクセイ、オリガ、タチアナ、マリア…アナスタシア…!」と名前を呼ばせてほしい。姉姫たちは名前を全然呼ばれていないんですもの、それは寂しいことですよ…
 
 そして『ピガール』に引き続き、オケピットから銀橋センターへ主役が現れてライト当たって拍手入ってさあ本編始まるよ!ってな演出、ホントたまりません。地味で薄汚れた服装をしていてもちゃんと主役登場!とわかる演出と、もちろんトップスター本人の華と押し出し、大事。ここでボリシェビキに追われるずんちゃんヴラドをディミトリが助けてあげるくだりは、梅芸版にもありましたっけ…? 記憶がない。なかったんだとしたら、いい変更だと思います。
 やがて時は1927年へ、キキちゃんグレブ登場(上司らしきさおゴリンスキーのやらしさがまたたまらん)。道路掃除か何かしているまどかアーニャと偶然出会いますが、ここ、流れる音楽の尺の問題もあるんだろうけれど、本当はもうちょっとなんとかしたいですよねー。まあ別に本当に単純に一目惚れ、ってんでも全然いいとは思うんですけれど、私はグレブがアーニャに「おっ、美人じゃん」とか思うのとほとんど同時に「あれ? この顔、この瞳…」って、幼い頃から肖像画とか報道写真とかでさんざん見せられてきた皇帝一家の面影を見つけて、驚いたり動揺したりそんなワケないかと思ったりしているのだろう、と思うのですよ。本当はそういうモノローグを入れる尺が欲しい。あと「震えてるじゃないか」「ありがとう」って会話、変でしょ。「ありがとう、大丈夫よ」とか付けて初めて「震えてるけど、大丈夫ですので、気を遣ってくれてありがとうございます」って意味が通るんじゃん。雑なんだよ…(><)
 私は梅芸版を観たときに、ヒロインが相手役と会う前に別の男に会うという展開はどうなんだ、宝塚版ではキキまどが出会う前にまかまどの出会い場面を作ろうよ、と思いました。それで、のちに「幾千万の群衆の中」で歌われるパレード、皇帝一家の馬車、沿道で見守る群衆、馬車の上のまどかアナスタシアと沿道のゆりかディミトリ…というアバンをひとつ作れば?と書きました。これは違う形で改善されたようです。後述。 
 さて、グレブが革命の理想を演説でぶつも、未だ貧しい暮らしの庶民代表のディミトリは「ケッ」とばかりにスカします。似合うなー、てか上手のソコに佇むゆりかちゃん、『オーシャンズ11』とかでさんざん観た(笑)。それはともかく、この作品は特に政治的イデオロギーを語るものではないけれど、革命がそんなにすぐ大成功して世界が一変してみんな幸せになれた、とかそういうことは実は全然なくて、下々は引き続きつらいばっかりだ、みたいなことを語る視点は大事だなと感じました。
 ただ、この「ペテルブルクの噂」のナンバーだけでアナスタシア伝説について説明するのは、やはり無理があると思います。コーラスはめっちゃクリアで力強く、歌詞もしっかり聞き取れるんだけど、でも改めて台詞で抑えたおいた方がいい。物語の根幹の設定だからです。皇帝一家は銃殺された、でも末娘のアナスタシアだけが難を逃れて生き延びているという噂だ、パリにいるマリア皇太后は懸賞金を出した、でも未だ見つかっていないらしい、はたしてアナスタシアは本当に生きているのか…?とレニングラード市民たちは噂している、いう状況なんだということを、今、観客にきちんと伝えきれていないと私は思います。
 そしてここでのディミトリとヴラドとの会話にしても、「アナスタシアのことを考えていたんだ」とかじゃわかんねーっーの。「生きてるわけないじゃん、生きてたとしても本物を探し出すなんて手間だろ、偽物を仕立てりゃいいんだよ、誰か似た歳格好の娘を探してきてアナスタシアですって名乗らせりゃいいんだよ、マリアは年寄りだし孫が生きていると信じたがっているんだから騙されるはずだ、俺たちは懸賞金をがっぽりもらってバッくれようぜ、さあ適当な女優探しだ!」ってなことを、これくらいダイレクトに、しっかり、台詞で言わせてほしいのです。演出はディミトリたちの思惑と計画を観客に明示し、観客に彼らに精神的に加担させつつ事態の推移を見守らせるよう仕向けなければなりません。手抜きダメ、絶対。

 懐かしのユスポフ宮殿(笑)、ここでもきゃのんエビ様せとぅーの強め姉さんたちに関して、娼婦まがいの下町仲間なんだろうということも名前もわからせなくても別にいいけど、今ここでアナスタシアの振りができる女優のオーディションをしているんだ、ということはもっとはっきり言わせなきゃダメ。「女優じゃないからできないよ」みたいな台詞じゃ彼女たちが女優じゃないことしか示せてないじゃん、ディミトリたちがオーディションしてるんだってわかんないじゃん、今一言も言ってないじゃん。「結果は知らせるよ」ってなんの結果?ってなっちゃうじゃん。そういう手抜き、ダメ、絶対。些細なことだけれど、こういうところを雑につないではいけません。
 あとエビ様に(ちょいちょいダンサー起用しているのは本当に大正解)「あんたたちがしてることは違法よ」とか言わせてますけど、アナスタシアになりすませようとするのって、法を犯しているかどうかとかより単純に嘘で、詐欺で、犯罪だから。法律ってのは時の為政者によってコロコロ変えられちゃうことがあるんだから、まして帝政が廃されたばかりの今の混乱期に、違法かどうかが何かの脅しになるとかとても思えません。「あんたがいい男じゃなかったら通報するところよ」みたいな台詞の意図はわかる、でも「違法よ」はいただけません。多分彼女たちだって言えた義理じゃないくらい法を犯した暮らしをしているに決まってるじゃん。そうじゃなくて、ここで言わせたいのは、家族を探している哀れな老婦人を騙して金をせびり取ろうとするなんてあんたたちって人としてサイテーね、ってな詰りでしょ? こういう雑さが私は気に障って仕方がないのです。
 しかしこのあとにディミトリが歌う新曲「彼女が来たら」は、もともとの海外版にも入れたいと思いつつ入れられないで終わった曲だそうですが、とてもいいです。『WSS』でトニーがマリアとの恋の予兆を歌う「Something’s Coming」に通じますよね。そしてここの歌詞に「♪パレードの馬車の上 恐れもなく 微笑み浮かべているような 彼女」というものがあります。この時点ではなんのこっちゃでも、のちに「幾千万の群衆の中」場面になったときにこれが効いてくる。これはイイです。
 そして、ここは台詞は特に足さなくていいんです。よしんば歌詞が聞こえなかったり意味が取れなかったりしても、ディミトリがなんかキラキラしてて恋の予感に震えているってことは観客に十分伝わると思うので、それでいいです。これは彼の物語、彼が主役の舞台なんですよ、というアピールタイムとして正解。そしてそこにアーニャが現れる…
 でもヴラドの「あいつら!」だけじゃわからない。「あいつら、本当に通報しやがった!手入れだ!」みたいにしなきゃ。サツが来たんだ詐欺がバレたヤベぇ捕まる、ってなるから「監獄なら食事には困らないだろ」ってなジョークになるんでしょ?
 でも現れたのはアーニャでした。彼女は記憶をなくしていると語り、でも誰かがパリで待っている気がしてならないので国を出たいと言い、自分自身を取り戻したいと「夢の中で」を歌う。これがまたすんばらしくて、まどかの本領発揮だわ!とシビれました。しかしここでディミトリが長椅子に寝っ転がるのは、人の話を聞こうとしないお行儀の悪さをちょっと感じて、そんなキャラじゃないのでは?とちょっと引っかかりました。
 そしてディミトリとヴラドは、こいつアナスタシア女優に使えるんじゃね?と盛り上がる…ここも台詞が足りてなくて、彼らの意図が明確にされておらず、良くないです。ちょいちょいブリッジのところがリプライズになってるんだけれど、そこをモノローグとかにするとかなりわかりやすくなると思うんですよねえ…

 さて、きゃのんたちは実はやっぱり通報というか密告をしていて、それはアナスタシア役を奪われ稼げなくなった腹いせなんだろうけれど、グレブに対してあれこれ言う台詞もみんな全部わかりづらくて、聞いていてイライラします。「あんな小汚い掃除婦が王女さまなら私だって貴族さまだよ」みたいな言い回しは英語構文ではよくあるんだろうけれど、日本語に全然なじんでいませんし、とにかくもっと直接「ディミトリって詐欺師がなんか変な女をつかまえてきて皇女だって名乗らせようと企んでるんスよ逮捕しちゃってくださいよダンナ」みたいな台詞をズパリ書きゃいーんですよ。
 新政府は帝室再興を望むような空気が民衆の間に生まれるのを恐れているので、アナスタシア生存説なんてものはつぶしていかなければならない。グレブは部下に捜査を命じる…シャキシャキ歌い踊るボリシェビキ男女がスターどころで目が楽しいです。顔採用だな、さお…(笑)

 再びユスポフ宮殿。「やればできる」はいかにもミュージカル!な楽曲で、テンポ早いし歌詞細かいしアクション多いしで実はとても難しいんだと思うんですけれど、三人はさすがの技量と呼吸の合いっぷりを見せてくれて、とても楽しいナンバーに仕上げているのが良き、です。そしてここで、ふたりが与えた「アナスタシア知識」にはなかったそれらしいことをアーニャがポロポロ言うので、ふたりはちょっと不思議に、そしてもしかしてもしかしたら?いやいやいや…みたいに思うようなくだりももっとちゃんと欲しい。
 ちなみにアーニャが優雅な宮廷ふうのお辞儀を教えられもしないのに披露してみせるくだりでの、ディミトリのお辞儀に関する言及ものちのちにつながるポイントなのでした。なのでもうひとつ、「人に頭を下げたことなんざそれが最初で最後だ」みたいな駄目押しを入れておいてもいいかもしれません。後述。

 グレブの事務所に引っ張られるアーニャ。「私は何を犯したんですか」もまたわかりづらい台詞で、言わせるなら「私はなんの罪を犯したとされているんですか」かな? でもこういう皮肉な言い回しも英語特有のもので、日本語にあまりなじまない気がします。「私はなんの容疑で連行されたんですか?」の方がわかりやすいかもしれません。そしてそれに対してグレブがズバリ「皇女詐称なんかやめろ、危険だぞ、逮捕され死刑になるぞ」みたいに言わないのは、まあ立場の問題もあるし新政府のやり口でもあるんだろうけれど、やっばりわかりづらくて歯がゆく感じました。夢を見るな、誰かになろうとするな、ってのもいいしわかるんだけで、抽象的すぎる気がするなー…もちろんそうやって言葉をどんどんわかりやすく単純にしていくと、細やかさや豊かさや文学性、哲学性みたいなものがどんどん薄れていっちゃうんだけど、でも大衆芸能なんだからエンタメなんだからまず伝わんなきゃ意味ないんですよ。カッコつけるのやめてとにかくまずわかりやすく書け、飾るのはそれからだ、と言いたいのです。
 「ネヴァ河の流れ」の歌詞もなー…「♪革命に感情はいらない」って、誰も感情の話なんかしてないじゃん、トートツなんだよ…むしろ夢などないとか愛などないとかにしちゃったら?(リプライズでは「♪愛はいらない」という歌詞になっている箇所がありましたよね) あと「♪死んだと母は言った」のあとに続く「でも信じている」の主語は誰なの? 「でも」とあるので「母」とは別人の、つまりグレブってことかという気がするし、ならば「でも僕は信じている」としたい。「言ったけど、信じてた」という意味の「でも」なら父を信じていたのは母になり、ではグレブは?となってしまって、聞いていて混乱します。丁寧に誘導してほしい。しかもここ、要するに、皇帝一家の銃殺を命じられたグレブの父親がその任務を遂行するにあたり、一家の中には幼い子供もいてかわいそうだったけどやった、全員殺した、「♪生き延びた者などいない」、でものちにそんな自分を恥じ、蔑み、自殺した…ってことを説明している…んですよね? でも処刑を見ていた息子のグレブは、父は間違ったことなどしていない、父の息子として彼のように俺もなる、立派な軍人として役人として生きて革命を押し進める、「王族は潰えた」、だから皇女の振りなんかするのはやめろ…って歌っているんですよね? なら「♪自分は引けたか引き金を」ってなんなんだ。その迷いや疑問をここに入れると、また論旨が歪むでしょう? それに、そもそも父親は誇りある人間だったからこそ自分を恥じて自死したのだ、という解釈って、ありません? なのに自分を蔑んで死んだんじゃない、「♪信じている彼の誇りを」ってなんなんだ。せっかくキキちゃんがしっかり聴かせるよう歌っているのに、歌詞がそもそもあいまいなんじゃダメなんですよ…もっと整理して気持ち良く感動させてほしいのです。そうだったのか、つらいね、しんどいねグレブ…って気持ちに観客をさせないとダメなんだと思うのです。
 ところで梅芸版では冒頭のアナスタシアはオルゴールを取りに戻ったあとひとりで炎に巻かれていましたが、今回は兵士がひとり走り込んでくるのを見せてから暗転します。それがグレブの父親なの? なら彼は皇帝一家銃殺の命に背いてアナスタシアを助けたということなの? では彼が恥じ自分を蔑んだことってなんなの? 命令に背いたこと? 末娘しか助けられなかったこと? そしてグレブは父が皇女を助けたと知っていたの? ならば、民衆が与太話レベルでアナスタシア生存説を噂し出したときに彼だけはその信憑性を実感していたということになるし、アーニャと出会ったときにも「皇女に似ている…!?」という驚きの方が一目惚れより強かったということなの? このあたり、キャラクターの根幹にかかわる問題だと思うので、もっとクリアにしておいていただきたいです。
 一発ギャグのところは…がんばってください。私も作品としては全体にもっとロマコメな感じになるといいなとは思っていますが、それとコミカルな場面を増やすこととは別問題なので、別にここでがんばらなくてもいいのでは…と思いますがファンは楽しいだろうしキキちゃんも好きでやってそうだから、放置します(笑)。「絶対に笑ってはいけないアナスタシア」がんばれまどかにゃん!

 ネヴァ河畔の公園の場面。それこそ夜景眺めて語り合ううちに恋が生まれて深まって…なんてめっちゃベタなんですけどベタは大事です、いい場面です。悪仲間たちにアーニャとの仲をからかわれて「そんなんじゃないよ」みたいに答えるなんて、中学生か!(笑)そしてそこからアーニャの意外な武闘派っぷりが発覚する、ってのもいい(笑)。てか意外でもないやんちゃまどかがホントいい。生き生きしてて可愛いなー!
 記憶をなくして、パリを目指して、働きながらロシアの半分を歩いて移動してきたような彼女は、身を守るためにも強くならざるをえなかった(なので「やっぱこんな乱暴者、プリンセスなわきゃねーや」とディミトリがあきれる、なんて一幕があってもいいのかも)。片やアナーキストの父親の男手ひとつで育てられたディミトリは今も昔も貧乏暮らしで、父亡きあともひとり路地裏に棲み、小狡い知恵を生かして生き延びてきた、どちらかというと頭脳派だということなのでしょう。
 でもふたりとも、根っこは愛情深く育てられたまっすぐな人柄を感じさせるのが、いいですよね。スリもかっぱらいも悪いことはひととおりやって生きてきて、それでもディミトリは意外にスレたところがない。この品の良さ、そこはかとない精神的ボンボン感はゆりかちゃんの持ち味で、実に素敵だと思います。愛され資質ですよね。
 そしてディミトリは、この街のことならなんでも知ってる、きみは宮殿のプリンセスだったかもしれないけれど、それなら俺は下町のプリンスさ、お似合いだネ!と笑う…これ、のちにマリアが拾うので、ここまでディミトリに名乗らせちゃった方がいいと思います。今、仲間たちが「プリンス」と呼ぶだけでは弱い。
 ちなみにここでコロスのように踊る街の男女の4組カップルがいずれも素敵で、特にエビそらダンサーカップルは至宝でした。
 ただ、そのあとのくだりがまた台詞が足りません。アーニャがアナスタシア知識を暗記するレッスンは進んでいる、でも記憶は戻らないままで、でも自分が本当にアナスタシアみたいな気もするし、ただそう思い込んじゃってるだけなのかもしれないし、自分はいったい何者なのか…と不安になったアーニャは「私そんなに強くない!」みたいに急にキレるわけですが、今はその前にディミトリがたいしたことを言っていないのでトートツすぎます。もっとくだくだ覚えるべき知識を並べて、かつ安易に「きみならできるよ、大丈夫」みたいなことを調子に乗らせて言わせる、とかしないと。で、キレたアーニャをフォローするためにディミトリがオルゴールを渡すと、誰にも開けられなかった蓋が開く…ここは客席から笑いが起きていましたが、むしろ観客はふたりと一緒になって「何故!? まさか本当に…!?」とハッとする流れにならなきゃならないんですよー。笑わせるところじゃないよー。百歩譲って「ディミトリがアレコレしてもダメだったのにアーニャがアッサリ開けちゃった!」ってほんわかした笑いは沸かせるにしても、そのあとは完全シリアスモードにしなきゃもったいないです。スモークこそ焚かれないけれど、幻のように現れる白いドレスと軍服の皇帝一家と親族の男たち、優雅なワルツ、あおいちゃんのせつなくも絶品なスキャット…泣かせるところですよここは!
 もしかして本当にアーニャはアナスタシアなのかもしれない、バリで待つ唯一残された家族のもとへなんとかして行かせてあげるべきなのだろう…そう考えてディミトリは金の工面にさらに奔走し(でも「残り物を売る」って何? 売るほどの物をディミトリが持っているはずもないと思うのだけれど…)、アーニャもガンガン仕事を増やして金を稼ぎまくる。けれど出国許可証を買うには全然足りそうになくて…ここ、ディミトリはそのときアーニャから受け取った給料を返すだけでなく、自分があれこれ売り払って捻出した金も、要するに現時点での全財産をアーニャに渡しているんですよね? それで、それでも足りないかもしれないけれどせめてきみだけでも行ってくれ、俺には無理だ、俺にはきみを連れて行けそうにない、ちょっと考えが甘かったホントごめん、誰か別のもっと頼れる人を探してくれ…となってるんですよね? でも今、受け取ったお金をただ返しているだけに見えません? でもそれじゃあたりまえのことすぎて、アーニャがダイヤモンドを渡す決心をするに至るきっかけにならないと思えてしまいます。あとここ、どうしても『メラジゴ』でフェリシアが「お金ならあるよ」と言い出したときとかの、悪い顔しちゃうスタンを思い起こさせてしまって(^^;)、仕方ないんだけどちょっとだけ、ダイヤに目がくらんでるように見えちゃうのが瑕疵なんですよね…もちろんそれもあるだろうけどでも、これでパリへ行ける!三人で行ける!未来が開けた!彼女と離れなくてすむ!ってことに喜んでいるんだと思うのですよ。さらにここの「きみが女の子じゃなかったら~」の言い回しも日本語としてはこなれていなくてわかりづらいので、余計に今ひとつラブく盛り上がりきらないのが残念なのでした。

 駅。アーニャを皇女アナスタシアと認めて挨拶するれいか様イポリトフ伯爵の役者としての凄みに、ひれ伏さないわけにはいきませんよね…でもここのヴラドの台詞の「この国では死んだも同然だ」は「今のこの国では~」としたいところです。かつてのこの国では、伯爵は社交と学問と芸術の華として生き生きと輝いていたのでしょうから。けれど体制が変わり、今では死んだも同然なので国を出るしかない、でも本当は亡命なんて誰もしたくないのだ、何故ならこの国こそ故郷なのだから、愛しているのだから…という流れで「惜別の祈り」になるんでしょ? 丁寧にお願いしますよ…しかしここのれいか様のアカペラからのコーラス・インは、素晴らしすぎてホント鳥肌ものです…!
 続く列車内の場面、プログラムでは「コンパートメント」ってなってるけどコンパートメントじゃなくない? コンパートメントって個室みたいになってるもののことじゃないの? でももう一等車も何もかもなくなってて、どの旅客もベタ並びの座席に座ってるんじゃん…ここで旅客のまなちゃんがちょっと起用されてるのは嬉しかったです。
 ここでヴラドが歌うのはナンバーリストのどの歌だろう? パリでのリリーとの再会に不安やら楽しみやら、を歌うずんちゃんがまたノリノリで素晴らしいんだけれど、自信をなくしかけたあとに歌う歌詞に「♪ヴラド・ポポフ!」とありましたが、「俺は」って付けないとトートツやで…と思いました(ホント細かくてすんません)。あと、ここでひろこ旅客女にかけるんだけどその隣にそら旅客男がいて(なんかカジノで変装したライナスみたいじゃなかった?(笑))、「ヴラド、あんたのリリーの人ソコにいるよ…」ってなるのがなんともおもろかったです。
 そこへ銃声…「何が起きたかわかるだろう」って、わかんないよ…貴族だってだけで射殺されるものなの? なんでズバリ言わないの? てかかなこまりな警官って美形すぎる、連行されたい…「ジャーンプ!」とか言って列車を飛び降りる三人、そのメンツじゃないのに『オーシャンズ11』のデジャブ…(笑)

 一方、グレブはゴリンスキーからアーニャを追えと命令される。この命令がまた今ひとつわかりづらい…「アナスタシアじゃなかったら連れ帰れ、見せしめにする」って言うけど見せしめに何をどうするの? 公開処刑とか? アナスタシアだったなら父親がやり残したことを完遂しろ、ってのはまあわかります。要するに殺せってことですよね。でもつまりグレブはどちらにせよアーニャを死なせなくてはならないということ? 選択の余地なさすぎない? 確か梅芸版では、本物の皇女なんかでなければ、妻とは言わないまでも囲うくらいできる、みたいな感じなかったっけ…? グレブはアーニャの命を救うためにも、自分の女にするためにも、アーニャに皇女アナスタシアであってほしくなかったのです。
 まあなんにせよ、ここではなかったかもしれないけれどグレブはちょっと自分勝手な恋の妄執に囚われていて、彼からしたらアーニャはヴラドみたいな似非貴族に騙されて皇女の振りをさせられているだけの純粋無垢な哀れな少女で、俺が救ってやらなければ、みたいな感じにすでになっちゃっています。拒否られるとか想定していない、その愚かさがまた愛しい。人を好きになったら、そんなふうに上からいっても絶対ダメなんだよ学校で教わらなかったのグレブかわいそうね…?

 三人は国境を越えて、やっとパリ近郊の田舎町へ。しかしトートツに運転手の話題を出すとかやめてほしい。トラックかなんかに乗せてもらったってこと? 最低限の説明をしてください。
 パリが近づき、アーニャとマリア皇太后の対面の日が近づき、それはもしアーニャがアナスタシア認定されたらもう雲の上の人でディミトリなんか二度と会えないような存在になるということです。だからヴラドはそれで彼が傷つくことを心配している。それに対して「意味がわからないよ」の返しじゃそれこそ意味がわからないんですよ、「なんでそれで俺が傷つくんだ?」とその前に入れないと。それで初めて、わからない振りをしてるだけだよディミトリ、でもわかってるはずだよホントはアーニャのこと好きでしょ?皇女でなければこのままずっと一緒にいられるのにな、とか思ったことくらいあるでしょ?でも彼女のためには皇女だったと判明した方がいい、祖母に認められて彼女と暮らした方がいい、だって家族だし、お金持ちで、もう困ることなどないだろうから、ど平民の自分とはもう身分違いで口もきけなくなるだろうけれど、そんなのたいしたことないさ傷ついたりなんかしないさ…って平気な振りしてみせて、ホント馬鹿ねディミトリ可愛いわ…って観客はせつなくなるんじゃないですか。それでディミトリのために泣いてあげたくなっちゃうんじゃないですか。そういうキュンキュン誘導を丁寧にやらなきゃダメなんです。
 丘を登ると眼下にパリの街…こういう映像使いはわかっていても気持ちいい。不安と希望を歌うふたりと、彼らを追ってパリに着いたグレブを見せて、幕。上手い。梅芸版はアーニャひとりだけだったかも? だからちゃんと宝塚歌劇ナイズできているのです。


 『ミーマイ』なんかもそうだけれど、2幕とっぱしは明るいナンバーから、ってのはミュージカルあるあるな気がします。一度アダージョになるのでそのあとから、でもいいと思うんだけれど、とにかく手拍子が入るのは楽しくていいですよね。ただ音楽的には裏打ちの方がよろしいのではあるまいか…でもそこまでスウィングしてる曲でもないんですよね、そして裏打ちには観客側のテクニックが必要だからなあ…ま、ゆりかちゃん会とかが仕切って切っちゃえばいいと思います。
 ところでここのアーニャのワンピは、この時代の流行りのローウェストなのかもしれないけど位置がなんとも…あと丈もなんとも…なんなら髪型もなんとも…せめてあの謎のサスペンダーみたいな飾りを取った方が良くないですかね…? 私は河底さんのお衣装はそこまでダメではないのですが(だが歌唱指導のずんちゃんのお衣装はやはり世界観を狂わせすぎていると思います…)、まどかを可愛く見せないとは何事!?プンプン!とはなりました。
 会ったことのない祖父の名がついた、祖母マリアがいつかふたりで渡ろうと言ったアレクサンドルⅢ世橋…けれどアーニャはここではそれを思い出さず、ただガイドブックを読むばかり。ディミトリは先にホテルに帰ると言い出しますが、「お湯を使いすぎないでね」ってわざわざ言うこと? バスルーム共有なの?まさか同室!?みたいな匂わせ? そしてそれに対して「気をつけるよ」って答えるならともかく「気をつけろよ」って何? たとえばスリに、とか何か対象を差してくださいよ。それとも私が聞き間違えているだけ?
 そしてこのあとのディミトリも、ただリプライズを口ずさむだけじゃなく台詞が欲しいのです。「ついにパリまで来てしまった、彼女は綺麗になってこの街に似合いに見える、やはり本当に皇女なんだろうか、そうしたら本当に俺たちはお別れなんだろうか、そりゃ彼女が幸せならそれで俺はいいんだけど、でも…」ってな迷いの表現を見せて、せつなさを盛り上げてほしいんですよ!

 一方、マリア皇太后のサロン。まっぷーレオポルド伯爵は皇帝一家亡きあとは唯一のロマノフの男で、マリアの相続人となる資格があるということなのかな? 財産譲渡の書類にサインをもらおうと日参しるものの、なしのつぶてといったご様子。まっぷーの爪痕の付け方がまたさすがすぎます。ただここでも、「アナスタシアが生きているなんて噂を、まさか信じちゃいませんよね? そんなこたあるわきゃありませんからね? アナスタシアだと名乗り出てくるのはどいつもこいつもみんな偽者なんですからね? あなたにはもう私しか親戚が残っていないんですからね?」みたいなことはもっと語らせた方がいいです。生存説の噂と、でも普通に考えてまずありえないとみんな思ってるということ、沸いてくるのは偽者だらけなこと、は何度繰り返して言っておいてもいいことです。
 伯爵のダンスの誘いに対するそらリリーの断り方はとても粋で、これがまたすごくバタ臭い(ところでこの表現ってまだ通じます?)言い回しなんだけれど、これはスマッシュヒットっぽく意味が客席にきちんと伝わっていて笑いが取れています。良きかな。
 マリアのところには日々、自称アナスタシアからの手紙が届きます。でも「今日は4通」じゃそれがわかりません。事前に開封とチェックがすんでいるというていで「アナスタシア様を名乗るお手紙が4通」とするか、手紙を読み上げるときに「陛下、私こそがアナスタシアです」とか足すかした方がいいです。何を読み上げているのかが事前にきちんと認識できていないと、いろんな人がいろんな手でアナスタシアを詐称しマリアから金を引き出そうとしているしょうもなさのおもしろさ、みたいなものが伝わらないじゃないですか。雑、ダメ、絶対。
 あと「陛下をあきらめさせはしません」だけだと中途半端でわかりづらいです。引き続き捜索を続けます、とか足すか、「あきらめたらそこで終わりですよ」みたいなのにする(笑)か、とにかく何かもっと知恵を使ってください。「あきらめてしまわれるのですか?」とかでもいい。でもマリアは心の扉を閉ざしてししまう…
 ところで「プライドが高い」って悪口とばかりも限らないので、マリア本人が自嘲として言うのはちょっと変かも。年寄りで偏屈で癇癪持ちで了見が狭くて口うるさくて…類語はなんでもあるので差し替えてもいいかと思います。
 そんなマリアの忠実な侍女であるリリーは、パリに逃げてきたロシア人たちで賑わうネヴァクラブで夜な夜な息抜きをしています。そらのショースターっぷりはさすがの一言です。でもここのロシア風の金と紫の派手なドレスを着たギャルソンヌもみんなみんな可愛くて、目がホント足りません。フィニッシュひとつ前にバーカウンターに上がってばん!と目を引いて、最後はちゃっかりリリーを抱いてポーズ決めるヴラド、最高(笑)。めっちゃヴラドっぽい。動揺するリリーもホント可愛い。そこからの「貴族とただの男」の競うようなずんそら芸達者ぶりも素晴らしく、コロスの男女もまた素晴らしい。「キスを待ってるんですけど?」と言って、最後はヴラドを逆壁ドンしてぶっちゅーってキス奪うリリー、最高(笑)。それを眺めるしかないグレブもまた。

 ホテル、アーニャの部屋。アーニャの夢に夜ごと訪れる皇帝一家の亡霊たち。本当に自分の家族なのだろうか? だが思い出せない、記憶は戻らない、自分が誰だかわからない。こってぃに抱っこされてめっかわのららアレクセイが言う、「みんな自分が誰か知ってるよ?」…アーニャは飛び起き、ディミトリがなだめる…のはいいんだけれど、コネクトルームかなんかにいらしたんですかね? そしてここの白のてろんとしたなんてことない寝間着みたいなのを引っかけただけのゆりかちゃんがめっぽうかっけーってのは、ホントいったいなんなんだ。宇宙の神秘だわ。そんなゆりかちゃんが白いネグリジェのまどかと白いベッドに並んで腰掛けてるだけで何か孕む気がするのはなんなんだ怖い。産まれる。
 真面目に語ると、ここからの「幾千万の群衆の中」のくだりはベタだけれどとても素晴らしい。ここのやりとりがちょっとあいまいなのは、ディミトリっぽい言い方でもあるし、いいと思うんですよ。味もある。彼もまたアーニャがアナスタシア本人であってほしいのかどうなのか、決めかねているんです。だからこういう言い方になる。そしてマリアにかこつけてほぼ告白しているようなものじゃですよ、これはときめきますよラブですよ!
 ただアーニャには「あいかわらず何も思い出せないの、自分が誰だかわからなくて怖いわ、私は誰なの?」と彼女が未だ記憶喪失状態にあることを、重ねて言わせておいた方がいいと思います。そんなアーニャに、かつて少年の日にしたお辞儀よりずっと優雅に美しく、跪いて敬意を捧げるディミトリ…たぎる…!

 オペラ座。着飾った観客たちが集い、ディミトリもばりっと燕尾で現れます。このゆりかちゃんがまた、あたりまえですが光り輝くようにカッコいい。さらにそこに、ロシア風のデザインのブルーのドレスのアーニャが現れる…
 私は忘れていてどなたかのツイートで見たのですが、梅芸版ではディミトリが靴紐を直すためにしゃがんで、ふと気づいたら目の前にドレスアップしたアーニャが立っていて、見上げて、美しさに打たれて…という流れだったそうですね。それもやればよかったのにー! 今回はアーニャはさらりと現れ、ディミトリの蝶ネクタイをちょっと直してあげて、ディミトリはエスコートの腕を差し出し、ボックス席へ向かいます。初日、トレーンが階段に引っかかっちゃって、ゆりかちゃんがまどかの腰に手を当ててかばったりゴソゴソやっている中で照明が落ちて盆も回りましたが、2日目はもうまどかががっとドレスの裾を持ち上げてスムーズに立ち去り、綺麗に暗転していました。それで逆に初日の照明さんの気遣いがわかったなあ、アクシデントがあったときのスタッフさんって本当にすごいです。
 バレエはロシアの作曲家チャイコフスキーの『白鳥の湖』。ダンサーは完全バレエ選抜チームで、かのちゃんオデットにキョロちゃんジークフリート、きよちゃんロットバルトと素晴らしすぎました。ひろことさらちゃんの白鳥も素敵。ここの歌はカルテットから、バレエのオデットを巡るシークフリートとロットバルトの三角関係と、バレエを観るアーニャを巡るディミトリとグレブの三角関係が重なる構成になっていて、実にニクいです。バレリーナたちのレベランスにSEで拍手が入りますが、観客が入れますんで大丈夫ですよー。てか入れたい、入れさせてくれ!
 バレエの出来が良かったからマリアもご機嫌なはずだ、というのがあっての「機嫌のいいときはないの」のはずなんだけど、笑いが取れてるからまあいいか。リリーはアーニャの気品に気圧されてつい臣下の礼を取り、本物かどうかまだわからないんだったとあわてて(という芝居は特にしていないけれど、した方がいいのでは…全体に、周りというか出てくる人みんな、噂なだけで本当はアナスタシアが生きているわけはないと思っている、という空気をもっと出しておいた方がいいと思うのです)立ち上がり、でも優しく「お嬢さん」と声をかけて送り出します。アーニャとマリアの対面は梅芸版でも描かれなかったけれど、見せてもいいと思うんだけどなー。マリアは顔を見てもくれなかった、とアーニャはディミトリに当たります。ここが梅芸版でも不明瞭でしたが、宝塚版でもそのままになっていて残念でした。アーニャはそもそも何に傷ついたのか? そしてだからどう八つ当たりになっているのか? それがあいまいだと観客はうまく萌えられないんですよ。そこを台詞で上手く誘導してほしいのです。
 詐欺で稼いで生き延びてきたディミトリと違って、真面目な肉体労働で生きてきたアーニャにとって、嘘を吐かないできたこと、というのは誇りのひとつだったのでしょう。でも、となるとアナスタシアを名乗ることは彼女にとってはなんだったのか? それが彼女にとって嘘でないというなら、未だ記憶が戻らないだけで自分は間違いなくアナスタシア本人であると自分自身も考えるようになったということなのか? でもそれを明言するくだりはありませんでしたよね? ずっと不安そうだったしね? それともディミトリたちにただ唆されて、信じ込まされただけだと考えているのか? それともディミトリたちに嘘を言わされた、アナスタシアの振りをさせられたと思っている? ということは自分はあくまで偽者で、アナスタシア本人ではないと考えている? とにかくそもそものここまでの心理的な設定がきちんとできていないのです、これではさらなる行き違いや八つ当たりは演出できません。
 それかもっと感情的に、「私やっぱりアナスタシアなんかじゃないんだわ。あなたたちもそう言うし、自分でももしかしたらって思ってたけど、でも全然自信なくて、おばあさまに会えばわかってもらえるはずだってここまで来たけど、顔も見てくれなかったじゃん! 肉親ならわかるはずなんて嘘なんだ、私なんでこんなとこまでのこのこ来ちゃったんだろう、てかなんで私を連れてきたのよ!? ディミトリの馬鹿、大っ嫌い!」とかでもいいんじゃないかなー。そして泣いて去るまどか…想像だけでキュン…でも今オイオイ何言ってんねん、ってなっちゃってるでしょ? 雑、ダメ、絶対。
 アーニャが立ち去るとマリアが現れる。「直接話しかけるとは何事です」とか言ってるけど、非常時みたいなものなんだから当然な気がしちゃうので、せめて「無礼ですよ」とか言わせてください。でもとにかくここのディミトリの台詞も弱いのが問題です。必要なのは「私が強いたのです!」(『月雲の皇子』の木梨軽皇子の名言byくーみん)ですよ、強くて熱くてエモい、ズバリとした言葉ですよ! 「そうですよ俺は詐欺師ですよ、俺が彼女を騙したんですよ!さーせんっしたねっ!!」とディミトリにもっと強くマリアに対してキレさせればいいのです。別に怒り演出じゃなくても、ぐっと耐えるパターンでもいいけど、でもとにかくもっとズバリ言わせなきゃダメなんです。で、でも騙したのは最初だけだ、だって彼女は俺たちが教えていないことも知っていた、本当のアナスタシア本人かもしれないんだ、でも彼女は依然記憶喪失のままで確証は何もない、証拠を出せと言われても困る、でも信じてあげられないか?だって家族だろう?唯一残された家族かもしれないんだよ?はるばるあんたに会いに来たんだよ、顔くらい見てあげてくださいよお願いしますよ信じてあげてくださいよ…って頭下げるの、どう? 子供のとき以来お辞儀をしたことのない彼が、です! 泣けません? キュンキュンしません?
 そのあとひとりになって、「…いや、そもそも悪いのは俺だ…」ってなるところも欲しいですけどね。

 アーニャはホテルで荷造りをしています。ところでなんで? どこへ? まさかロシアに帰る気? あとあのぬいぐるみみたいなの、何か伏線ありました? そして何故そこにマリアが来ることになったの? 彼女の気が変わったのは何故? その前にそうさせるディミトリの台詞を十分に置いておかなきゃ不自然です。ご都合主義に思えて引くのでやめてほしい。雑、ダメ、絶対。
 DNA鑑定などできないこの時代に、昔話ができようとふたりだけの秘密の呼び名を知っていようとオルゴールを持っていようと、なんの証拠にもならないかもしれません。アーニャの記憶は戻っていないのだし、彼女自身も確証は持てるものでもないでしょう。でも家族が欲しい、家族に会いたいという気持ちは真実です。だから嘘でもいい、今は信じたい…確信よりはむしろそんな半信半疑の想いで、それでも目の前の人物が好きだから、それでマリアもアーニャも抱きしめ合うのではないのかしらん…
「パリに来られなかった家族みんなの分まで、一緒にバリをお散歩しましょう、おじいさまの名の付いた橋を渡りましょう」…泣けます。でも「みんな」だけだと伝わらないから、足してください頼みます。「オレンジの香り…」…泣けます。

 ディミトリはアーニャの幸せを寿ぎ、彼女を家族のもとに返せたことだけを褒美として、報奨金も受け取らずに去ります。ここは梅芸版にはなかったんだったかな? 足して正解、男の痩せ我慢の美学は最高の萌えのひとつです。そしてアナスタシアが見つかったと公表され、記者会見とお披露目の場が用意される…
 マリアは「彼のことはいいの? あなたのプリンスは?」みたいなことをアーニャに言うのだけれど、このときアーニャ自身は今後の生活についてどう考えているんでしょうね? これから祖母マリアと暮らしていくんだとして、ディミトリとは最後にもう一度くらい会うつもりだったのか? それともホテルでの別れが最後で全然いいと思っていたのか? ディミトリが報奨金を受け取らなかったことを聞いて、彼を追おうとするアーニャ。そこへグレブが現れる…実によくできてますよね。そしてアーニャは彼に対して、我こそはアナスタシア、と高らかに名乗るのです。その直前に、ディミトリと生きるためにアナスタシアとしての人生を捨てる決心ができているからこそ、言えることなんだと思います。
 アーニャの強さ、高潔さに打たれて、そして自身の愛に負けて、グレブは銃を下ろす…泣けますね。ところで梅芸版ってその後自決しませんでしたっけ…? わあジャベールみたい、愛していたけどそれが認められなくて誇りの方を選んで死んじゃうんだね、とか思った記憶があるのですが、幻想…? でも宝塚版ではこう改変した、ということならもちろん正解だと思います。もちろん今後、新政府内での彼の立場は悪くなり、なんなら粛正されてしまうのかもしれませんが、それはまた別のお話なのですからね…
 続くつなぎの場面のリリーの台詞もややわかりづらいです。相続などの法的書類も記者会見の用意もお披露目の場も何もかも整って、あとは当人の登場を待つのみ、ということなのでしょうけれどね。でもアーニャは現れないだろうと感じて、マリアはひとりで会見に出て行く。彼女が戻っても、彼女が継ぐべき帝国はもうこの地上にはありません。ならば彼女を縛り付けても無意味です。アナスタシア探しはこれでおしまい。彼女がたとえ本物のアナスタシアでなかったとしても、まだどこかに別の本物のアナスタシアが生きているんだとしても、みんな死んでしまったんだとしても、離れていても想いがあれば家族はひとつ、そう思えるようになったから…マリアはそういうふうに現実を受け入れることにしたのです。それをあきらめと言う人もいるかもしれません、けれど悲しく寂しく美しい、立派な決断なのでした。
(盛装、お披露目、記者会見となると『ローマの休日』そして『ノッティングヒルの恋人』をつい思い起こしますね…)

 アレクサンドル橋に佇むディミトリは、豪華なホテルを出て、どこか下町で暮らしていく旅支度姿です。ここにやってくるアーニャは、ティアラやネックレスは置いてきていて、髪もちょっと乱れているくらいになっているといいと思うんですけれど、いかが? そして周りのバリの男女も、何事かとちょっと遠巻きにしている芝居が欲しいです。いくらパリでもこんなド派手なドレスで街中を歩く娘はフツーいないのですから。
 そしてここの芝居、もうちょっとたっぷりやってほしいんだよなー! ディミトリの強がる台詞とか、ホントたまらなくキュンキュンするじゃないですか!! イヤイヤ馬車からブンブン全力で手を振るよ私ならね、って観客みんなが思うところじゃないですか!? その強がりが自分への愛を確信させて、アーニャも強く出るんじゃん!
 しかしファーストキスというのは和製英語なのかなとか私は思っていたんですけどどうなんですかね? だって欧米の人ってもっと小さい頃から家族とかともチュッチュしてるでしょ?(偏見ですかすんません。イヤ甘酸っぱくていいのですまどかが言うから特にね…)
 そして梅芸版にあった、ディミトリのトランクにアーニャが乗って目の高さを同じにして、アーニャからするキス…!というのに是非ともしてほしかった。なんならまどかならまだそこから爪先立ちになるから!!
 あと「許しませんよ」だけじゃ何を?ってなっちゃうでしょホント雑なんだよ! 「私をおいていくなんて」「私から離れるなんて」とか足すか、「私の命令に逆らうなんて許しませんよ。キスして、ディマ!」とか言わせて、でも自分からキスしちゃうんだっていいじゃん。どう? キャー!!!
 たださらにちゃんと考えると、この台詞は、「あんたはプリンセスなんだから俺みたいなド平民にもう気軽に笑いかけたりしちゃダメなんだぜ」と強がって一歩引いてみせているディミトリに対して、だからこそあえて上から言っている冗談口なんだけれど、そもそもアーニャはアナスタシアであることを捨ててここへ来ているので、もう上から発言する立場にはない、とも言えます。とすると、「もう馬車に乗ることはないの、プリンセスはやめることにしたの。それでも私を好き? それでもキスしてくれる?」というようなことを言ってトランクに乗って目を閉じてキスを待つまどか…でもいい! キャー!! で、キスのあと、「アーニャ!」「ディマ!!」と抱きしめ合う、とかね。呼称フェチなんでこの「ディマ」使いはぜひやりたいところです。
 ともあれ、ラブラブのふたりを見て周りの男女は冷やかすか肩すくめるかして去っていき、代わりに皇帝一家の幻たちが現れる。幻の雪が降り、いつかの幸せだった12月がパリの地に蘇る…心霊写真かよ、という無粋なつっこみは止めにして、記念撮影、そしてお伽話の本が閉じられ、ハッピーエンドでおしまい。美しい…!!!


 実は遠征予定はもうなくて、あとは東京でいいかなとか考えていたのですが、なんなら全然明日も観たいまた観たいすぐ観たい、何も直っていなくてもブーブー言いながらでも全然観たいです。それくらい好きな作品になりました。ロマンチックな、とても素敵なミュージカルだと思います。『ピガール』のような小芝居タイプのアンサンブルではないけれど、そのあたりももっとたくさん観たいし、やはり曲がとても良くて、帰京してからも常に脳内に流れています。あの可愛らしい、美しい世界にまた浸りたい…そう思えることはファンとして、とても幸せなことだと感謝しています。
 フィナーレについては、いずれまた。もう疲れました、何字あるのコレ…長々失礼いたしました。記憶違いや間違いなどあればご指摘ください、みなさまのご感想などもうかがえれば幸いです。
 




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