駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『NINE』

2020年11月18日 | 観劇記/タイトルな行
 赤坂ACTシアター、2020年11月16日13時。

 チャップリン以来の天才と称えられ、世界的な名声を欲しいままにしてきた映画監督のグイド・コンティーニ(城田優)は、常に華やかな女たちに囲まれ、繰り返されるスキャンダルも次回作へのインスピレーションになっていた。だが今や、撮影が迫る新作映画のアイディアに行き詰まり、苦悩の日々。あげく、元女優の妻ルイザ(咲妃みゆ)に離婚を切り出されてしまう。追い詰められたグイドは妻との関係修復とスランプ打開のため、ルイザを連れてベネチアのスパ・リゾートへ逃亡するが…
 脚本/アーサー・コピット、作詞・作曲/モーリー・イェストン、翻案/マリオ・フラッティ、演出/藤田俊太郎、翻訳・日本語字幕/小田島則子、訳詞/高橋亜子。1982年初演、全2幕。

 別所哲也グイドにOGのジュンちゃんやナツメさんで観たときの感想はこちら。のちにG2演出、松岡充グイドでも上演があったそうですね。このときはクラウディアがかしちゃんでラ・フルールがリカちゃんだったらしいので、私のアンテナにかかりそうなものですが、観ていないということはもしや、ハコが銀河劇場で行くのをやめたのかもしれません。アートスフィアで観ておいてなんですが、私はあそこが劇場としては大好きなんだけれどモノレールに乗らないと行けないという立地が大嫌いで、よっぽどのことでももう行かないことにしているのでした。でもいい演目やりますよね…そして確か最近は地下鉄が通るようになったんでしたっけ…? 最近でもなかったかも。なら、思い込みを捨てて今後は行くようにしようかな…
 ともあれ、内容に関しては例によってあまり覚えていないまま、でもなんかよかった記憶がうっすらあったので、今回も出かけてきました。

 ところでこのコロナ禍で在宅勤務時間が増え、ぶっちゃけ1日8時間みっちり自宅パソコンに張りついて仕事しているわけでもないので、テレビで放送している昔の洋画なんかをちょいちょい録画しては見ていて、それで『道』も先日見たんですけれど、まあ昔はこういう映画が名作とされていたんだよね…という歴史的な意義しか私には感じられませんでした。おそらく『8 1/2』は見てみてももっとピンとこないだろう気しかしません。
 この作品は、そんなフェデリコ・フェリーニの9本目の映画(処女作が共同監督だったので1/2としたそうな)で自伝的作品だった『8 1/2』をミュージカル化したもので、主人公は映画監督です。彼が母親(春野寿美礼。さすがの、変わらない美声でした)の9人目の子供だったことと40歳を過ぎても精神年齢が9歳くらいなことがタイトルの由来で、『モーツァルト!』のアマデみたいな9歳児リトル・グイド(この日は大前優樹)が舞台にいつもちょろちょろいるのがミソです。映画には他にも男性の登場人物がいるそうですが、ミュージカルは主人公と8人の女たち、の9人にほぼ絞ってしまっているところもミソ。今回はさらに女性アンサンブル8人が元カノになりマスコミ記者になり映画の端役たちになり、DAZZLEの9人(実際にはひとり休演していましたが)が黒子になったり心象風景を踊ったり撮影スタッフに扮したりしていて、とても粋でした。
 そして盆を生かした美術(松井るみ)が素晴らしくスタイリッシュで、8人の女たちの衣裳(前田文子)は素晴らしく色鮮やかで、本当にお洒落で素敵な舞台に仕上がっていました。
 バイリンガルやトリリンガル、かつハーフというかミックスというか、どちらもあまりいい言葉ではないように思えますが要するに日本以外にルーツを持つキャストが多かったこともあったためか、英語やフランス語やイタリア語やドイツ語が台詞にも歌詞にもガンガン出てきて、その日本語字幕は映画の吹き替えのように紗幕に映写されるという、これまたとてもお洒落で多国籍でインターナショナルな雰囲気の作品になっていました。でも字幕はもしかしたら端の席では見づらかったりしたのかしら…でもとても秀逸なアイディアだと思いました。
 オケは舞台の上手袖にいました。私はセンターブロック下手寄りの席で観たのでベストだったかなと思いましたが、上手席では聴こえ方が違ったかも。あと、マイク音量などずいぶんと上品というか、ぶっちゃけ小さすぎない?2階席とか聞こえてる?と気にはなりました。が、総じて何もかも好みの舞台でした。幕間にずっと波音のSEが流れていたのも素敵でした。

 完全にぶっちゃけて言うと、40歳も過ぎて功成り名遂げてそれでも9歳児みたいなオコチャマだった、才能はあるのかもしれないけれど人としてなってなくてだらしなくてどうしようもなかった男が、やっと9歳児の自分に別れを告げて大人になる、あるいはなろうとするところで終わる、お話です。だから私が「ケッ」とならなかったということは、私はけっこうしろたんが好きなんだろうなあ(笑)。別にグイドがものすごくチャーミングな男に思えた、ということは全然なくて、それでいったら今も昔も人の妻であったことはないがゆうみちゃんがやっているというだけでルイザに共感する気満々で観るんですから、こんなにも愛と誠意を捧げてくれるちゃんとした妻をこんなにもないがしろにするサイテー夫、としか思えないわけです。でも、しろたんの見目の良さと、的確な演技によるダメさが、「ああ、こういう事態にもつれ込むのはわかる、仕方ない」という説得力を持ったのです。なので観ていて嫌な気にならなかった、それが大きいと思いました。
 でも、スランプでアイディアは全然沸かず、でも契約しちゃったから撮影チームは準備を始めちゃうし、プロデューサー(前田美波里。ダルマ姿も素晴らしい。でもダンスが危なっかしかったのは、やはり美脚やスタイルを保っていることと筋力や運動能力があることとはまた別なのでしょうか…そりゃさすがにいいお歳ですものね。もう少しお若い、50代くらいの女優さんがやっても全然いい役だとも思うし)は脚本を読ませろと迫るし、批評家(エリアンナ)はハナから酷評する気満々だし、愛人(土井ケイト)は夫と別れたからあんたも妻と別れて結婚してくれと迫ってくるし、母の幻は自堕落を責めてくるし、主演女優(すみれ)は役の説明をしてくれなきゃ出演しないと言うし…ともうわやくちゃなのも、すごくよくわかる(笑)。そらそうだ、だって仕事人としては今はホントしょうもない男なんだもん。
 そういう意味ではラ・フルールやネクロフォラス、クラウディアたち「働く女」に私は一番共感できました。もちろん私自身が妻より愛人より母よりまず働く女だからです。
 ラ・フルールはかつてはショースターで今は辣腕プロデューサー、グイドと組んで何作もヒットを経験していて、でもここ三作は外していて、それでも信じて資金を集め企画に乗った、アイディアも出す。ビジネスだけじゃなくエンタメへの愛もあり、ちゃんと仕事をしている女性です。ネクロフォラスも単に悪口を言っているだけなわけではなくて、冷静に問題点を上げてくれているのだし、これまた改善点やアイディアを提示しています。グイドが聞かないだけなのです。彼女たちの、新作映画につぎこんだ資金を回収するためにはグイドに自殺でもしてもらってその生命保険金を当てたい、と考えるクールさにはシビれました。そしてクラウディアは、おそらくグイドの処女作でスターダムにのし上がった女優で、けれどその後のグイドが同じような役しかくれないので自分のキャリアに悩んでいる。ものすごく美人で、それをもてはやされているスターなんだろうけれど、当人はもっと演技の仕事がきちんとしたいとあがいていて、ちゃんとレッスンも受けている。決して綺麗なだけのお人形ではないのです。私はすみれは『エニシング・ゴーズ』『二都物語』なんかで観ているのですがプロポーションが悪目立ちしていてあまり良かった記憶がなく、今回もちょっと身構えていたのですが、もうすごーくすごーくよかったです。もしかしたら役の幅を狭めるその美貌もスタイルの素晴らしさも、今回はこの役である説得力を強力に持っていたのはもちろんですが、ほとんどボソボソと言っていいくらい低く早くしかもけっこうつっけんどんにしゃべるのがもう本当に、女優さんのプライベートの口調、という感じがしてめちゃくちゃ説得力がありました。かつてはグイドのミューズだったのかもしれないけれど、そしてグイドは今でもその幻想にしがみついていて彼女を撮れば自動的にインスピレーションが得られると思っているけれど、でもそんなことはなくて、彼女はひとりの女優で、監督がいい役を書いてくれなければ今以上には輝けないし、実生活ではひとりの女性でちゃんと愛し合いともに暮らす人がもう別にいるのです。そういうことがグイドには全然わかっていない。それで自作の焼き直しか、万人が思いつきそうな思いつきのアイディアしか出せなくなっている。クリエイターとしてどん詰まっている男の周りで、女たちは働き、待ち、うながし、せっつき、手を差し伸べ…そして、どーもならんと判断してさっさと去っていくのです。まあ、あたりまえですよね。せつないとも、ざまをみろとも思えませんでした。そのスッキリさがとてもよかったのです。
 男で、白人で、イタリア人で、カトリックで、9番目の子供であることの生きづらさ、なんてこの舞台の観客のほぼ誰にもわからないことでしょう。でも私たちも私たちの生きづらさは抱えていて、それをどうにかやりくりして、そして観劇に来ているんですよ。なのにアンタはなんなの?と舞台上の人物ではありますが、舞台を観ていてグイドに言ってやりたくなるわけです。あるいはこういう作品を嬉々として作っているフェリーニに、世の男どもに。女は9歳ならもう子供ではないでしょう、というか子供でいさせてもらえないのです。女はそう育てられてしまう、なのに男はいつまでグダグダ甘えたことを言ってるんだ?とそりゃ言いたくもなりますよ。
 でも、グイドは今度こそ、ちゃんと、大人になることを決意する。そして物語は終わる。だから、まだただスタートラインに立っただけなんだけれど、まあいいか、と思えて、優しい気持ちで観終われる。そんな舞台になっていた気がしました。
 ラストシーン、それまで色とりどりの服を着ていた女たちはみんな黒を着て現れます。1幕で黒のスーツだったグイドは2幕では白のスーツになっている。他に白を着ているのはルイザだけです。グイドがリトル・グイドに別れを告げると、女たちの列からルイザだけが離れて、グイドに近づいてきて、そこで舞台は終わります。
 ブログを読むと、私は前回の観劇ではこれを妻だけが戻ってきて許してくれる、と捉えて、でもその甘さに怒り妻のために悔しくて泣いたようです。でも今回はそうは思いませんでした。ルイザは確かにグイドのそばまで来たけれど、それは特に何を意味しているとも思えなかったのです。ルイザがグイドを許したということではない。でもグイドがこのあと悔いてルイザに許しと再びの愛を請うたなら、ルイザは応えるかもしれない。あくまでそういう可能性、未来、希望を提示しただけのものに見えて、でもグイドが本当にそうするかはわからないしルイザが拒否することもありえるだろうし、でもいずれにせよそれはまた別のお話、と思えて、ただとにかくグイドがリセットしてやっとゼロ地点に戻ったこと、あるいはやっと達せたことを寿いで、ちょっとすがすがしく観終えられたのでした。
 それは男の甘えを許すこととは違います。でも、男がやっと女のレベルまで来たのなら、そこから一緒に考えてやらんでもない、というような感覚でしょうか。所詮私はシスヘテロの女でラブストーリーが好きなので、そんなふうに感じて、作品全体のスタイリッシュさへの好感もあいまって、とても気持ち良く観ちゃったのでした。

 色には意味があると聞きますが、ルイザの緑は自然とかのイメージもあるけど確か嫉妬の色では? カルラが赤なのはわかりやすくて、情熱ってことですよね。下着イメージの服でもあるし。クラウディアのソワレはコーラルピンクでしたが、もっと赤とははっきり違うとわかるピンクでもよかったのかも。ラ・フルールのスーツの青は知性かな? ネクロフォラスのオレンジ、スパのマリア(原田薫)の黄色、サラギーナ(屋比久知奈)の紫はなんでしょう? 母親の黒は喪服かな、すでに亡くなった人というイメージかもしれません。それか、カトリックとか神性?
 しかしゆうみちゃんは素晴らしかったなあ! 『窮鼠』に続いて妻の役でしたが、芯があって、含みもありそうで、もう別の恋人がいてお腹に子供が宿ってる、とか言い出しそうな気迫も感じました。母親役は別にいるから、というのもあるけれど、ただの聖母みたいな妻でも耐えるだけの辛気くさい妻でもないところがよかったです。元女優という華もあり、けれど今は夫を支える影に徹している強さ、賢さもきちんと感じられる女性像でした。カルラのことも把握していてクラウディアには電話もできる、すごいキャラクターをゆうみちゃんは的確に体現しきっていました。イタリア語も上手かったし、何より歌がものすごーく良かった! どっちもものすごく難しい歌だと思いましたが、それをただ朗々と歌うんじゃなくて、芝居歌として1幕はものすごく丁寧に、2幕は圧巻の情熱で歌ってみせて、ハートにビンビン響きました。
 グイドが、神学校に進んだのに海岸にいた娼婦に性を教えられて人生を狂わせた…ってのはまあわかるんだけど、それより大事なのは映画との出会いだったはずで、そこは語られないんですよね。でもそこに前後してルイザとの出会いがあったはずなんです。新進の映画監督と女優、そして恋…だからこそ彼らは結婚したのです。グイドがそこを思い出せるのなら、まだ映画監督としてやっていけるしルイザの夫としても生きていける、ということなんじゃないかな、と思いました。だからそこが語られないのがむしろミソなのかもしれません。

 アンサンブルにはあみちゃんとしーちゃんがいて、ことにあみちゃんはラ・フルールのアシスタントか秘書みたいな役どころもやっていて印象的でした。
 いい作品だったので、自分があらかた筋を忘れたころにまたいい配役で観たいな、と思いました。



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