駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇宙組『神々の土地/クラシカル ビジュー』

2017年11月23日 | 観劇記/タイトルか行
 宝塚大劇場、2017年8月18日15時(初日)、21日13時、26日11時、27日11時、31日11時、9月1日13時、23日11時、24日15時(前楽)。
 東京宝塚劇場、10月17日18時半、19日18時半、21日11時、24日18時半、31日18時半、11月3日15時半、5日15時半、7日18時半、12日11時。

 1915年、冬。ロシアでは民衆の不満が鬱屈しテロルが頻発、革命の気運がかつてないほどに高まっていた。皇帝ニコライ二世(松風輝)の従兄弟で将来を嘱望される有能な軍人ドミトリー・パブロヴィチ・ロマノフ(朝夏まなと)は皇帝一家の身辺を護るため、ペトログラードへの転任を命じられる。ペトログラードではラスプーチン(愛月ひかる)という名の怪僧が皇后アレクサンドラ(凛城きら)に取り入り、政を思うまま操っている。アレクサンドラの妹で故セルゲイ大公の妃イリナ(伶美うらら)は、ドミトリーに皇帝一家の相談相手になって事態を好転させてほしいと願っていたが…
 作・演出/上田久美子、作曲・編曲/青木朝子、高橋恵。ロシア革命を題材にしたミュージカル・プレイ。宙組七代目トップスター朝夏まなとの退団公演。

 大劇場初日の感想はこちら、その後の反省文はこちら、「ル・サンク」を読んだ上での感想記事はこちら
 初日の我が身の不明を恥じるばかりですが、それでもやはりやや地味でわかりづらくメジャー感に欠けるのではないか、と個人的には思ってはいて、たとえばこれがベスト・オブ・ベスト宝塚歌劇作品だ!とかはやっぱり言えないと思うのですけれど(まあそんなことは誰にもどんな作品に対しても言えないのかもしれませんが)、でもたとえば『All for One』をひとつの地平と考えるならもう一方の極北の作品の誕生に我々は立ち会ったのであろう、と思うので今は感慨深いです…少なくともくーみん(この呼び方もぼちぼち失礼だよなと承知しているのですが、こじらせすぎてもう上田先生とか書けませんすみません)にとっては「すっかりミュージカル流行りの昨今の宝塚」に対して思うところや意志や主張のほぼすべてをこの作品に込めた現時点でのベストだったのは間違いないでしょう。でもまだ彼女には引き出しがたくさんあって、それはたとえば次の月組のショーで披露してくれたりするのでしょう。本当に本当に楽しみです。
 いろいろ、散々、書いてきたし日々つぶやいてきたので、ここではもう個々の役者やキャラクターについてちょっと語るだけにしようかなと思っていたのですが、ひとつだけ。「宝塚ジャーナル」の記事は素晴らしかったけれど、一点だけ、この作品ってカタルシスがないかな? カタルシスという言葉が最近ちょっと狭く使われすぎじゃないかな? とだけ、引っかかりました。
 ヒーローが勝つ、とか主役カップルがくっつく、とか悪役が報いを受ける、というような展開にスカッとする、みたいなことのみを差しているように聞こえることが多い気がしますが、本来はむしろ主に悲劇に対して心が動かされることと、それによるある種の気持ちの浄化を差す言葉、現象のことだと思うので、この作品にはむしろカタルシスがありまくるのではないかというか、あの最後の盆回しによるカタルシスのためだけにすべてが作られたと言ってもいい作品なのではないか、と個人的にはちょっと思ったのでした。
 なので、『星逢』のときも『金色』のときも、全然ハッピーエンドじゃないかもしれないけれどカタルシスはあったと思いましたし、これらの作品を主役を贔屓としていて何度もリピートせざるをえない人はホント心が毎回ポロポロで大変だろうなと心配する一方で、毎回浄化されてある種の幸せを得ているのだろうな、とも思っていました。自分もいつか、贔屓が主演のくーみん作品に通ってボロボロになってみたいものです…贔屓が特にいなければわりとフラットに観られるかもしれませんし、そもそもそんなに回数観ないからセーフだし、端に出ているとなるとそれはそれで別の意味で忙しくて大変なんだ、ということは今回学びました(笑)。だから私は現時点ではやはり『月雲』が一番好きかな、ごく個人的な意味においてちょうどよかっただけですけれどね。次点は『』。
 とまれこうまれ、くーみんと宙組さん、楽しくも濃い夏と秋をありがとうございました。もう冬ですね…

 まぁ様、ご卒業おめでとうございます。本来は『TOP HAT』のジェリーみたいな明るさ、軽やかさが身上のスターさんかなと思いますが、何せ芝居もちゃんとできる人なので、今回のドミトリーのようなある種の辛抱役も変にしんねりしすぎることなく、チャーミングに演じてくれたのがとにかくよかったなと思いました。
 結局は彼は殺人に手を染める、クーデターを企む、しかしそれは成功せず革命勃発の起因となり、そしてさらに結局はその革命によって樹立された国家も今はないことを我々は知っている…という、空しさの極みみたいな展開なワケですが、それでもそれを背負ったのがこのまぁ様演じるドミトリーであったことに、我々は一筋の光明を見るのでした。
 世が世なら、明るく闊達な青年として社交界で楽しく生き、また有能な軍人として活躍し政務にも就いたことでしょう。もちろんそれでも悲しい顛末に終わる恋をしたかもしれない、でもこんなふうに想いを雪に埋めて国を去るようなことはなかったろう…そう思うと本当に悲しい、せつない、淋しいです。ドミトリーのために泣いてあげたいです。
 でも彼は決して不幸ではなかったのでしょうし(そもそも当人以外に幸不幸は結論づけられないものだと思うし)、まぁ様自身も組替えを経てテル時代を経て大きな大きなトップスターになり、歴史にその名を刻んで去っていきます。作品にも恵まれ、組子を育ていい組に仕立て、愛され慕われ去っていく花道…今後のご活躍と幸せを祈らずにはいられません。
 一度くらい、最初のチュー迫りが成功して、そのままふたりで手に手を取って逃げちゃえばよかったのにね…! 

 ゆうりちゃん、ご卒業おめでとうございます。私たちの綺麗な人、とはもちろん呼びたいけれど、さようならとは言いたくない気持ちでいっぱいです。
 確か三姉妹だったと聞いていますが、美女揃いなんでしょうか、それで自分の美貌に無自覚というか無頓着な人に育ったのでしょうか。その在り方がまず美しい、というのがあるし、外見より何より中身の素直さ、真面目さ、たとえ不器用でも愚直に努力する姿勢が美しく愛らしい娘役さんでした。その美しさをくーみん始め劇場スタッフが愛したのでしょう。
 トップ娘役にならずに退団していく有望な娘役さんはたくさんいますが、わけても愛され、惜しまれ、この先も長く記憶され語られる娘役さんでいることでしょう。何故なら生の舞台で彼女を観てきた私たちが長くしつこく語り続けていくことは間違いがないからです。
 単純に、いわゆる娘2がいた方が物語に広がりが出るはずですが、上手く書けない作家ももちろんいるわけで、たとえば『白夜』での使われ方とかホントなんだったのかなとか思っちゃうわけですが、たとえばくーみんは、トップ娘役が他にいたとしてそれでもこの物語を書きイリナにゆうりちゃんを当てただろうか、物語の構想はなんとなく以前からあったにせよいろいろ状況が確定したからそれに合わせて今のこの形になったのだとしたらそもそもはどんな構想だったのだろうかとか、でも結局はこの形でよかったよね、そしてこのイリナはドミトリーの、ゆうりちゃんはまぁ様の確かに相手役だったよね、と思うと、ホント不思議な縁だとしか言えません。もちろんそれ以前に『翼』があったことも、ご縁でしたね。
 私は当初イリナという人がよくわからなかったし、よくよく考えるとやや身勝手に取れるところもあるキャラクターなのかもしれませんが(主にドミトリーに対して)、そういうところも全部ひっくるめて、この時代のこの社会に自分に求められるものを見つめ応えようとしつつ自分らしくも生きようとした、ひとりの人間だったのでしょう。そして女性としてとても生っぽくもあったと思う。それを描ききった脚本だったし、体現しきった役者でした。
 くーみんが送る言葉で語ったように、私たちもまたどんな経緯で今このときの退団となったのかは知らないのだけれど、彼女が満足して幸せでいてくれていたらいいな、と思います。

 次期トップスターのゆりかちゃんには期待が大きいです。しかし私には、東京公演でけっこう周りが演技を変化させる中で、いい意味で変わらないでいたのがりんきらのアレクサンドラで(しかしこれも終盤はかなり変化しましたが)、悪い意味で変わらないのがフェリックスだったように見えました。くーみんはダメ出ししなかったのかなあ、それともこれでいいと思っているのかなあ…
 例えば、まあ例に出すのもどうかと思われるかもしれませんが、冒頭の夜会の場面でのかなこの台詞とか途中から格段に良くなっていて、それはもう当人が明らかに明晰に発声しようとシャカリキに意識しているのが丸わかりなくらいで、つまりは私は彼女はかなりくーみんに絞られたんだろうしできないなら台詞を言う役を他に替えるとまで言われたくらいなんじゃなかろうか、と勝手に思っていて、そしてそれにかなこはちゃんと応えたんだと思うんですよ。かなこのちょっとこもった不思議な声の中でできる最大のことをやっているように今は聞こえます。
 でもゆりかちゃんの、やはり冒頭、イリナに語る台詞がまず良くないんだよねえ…こもるし滑って流れている。あそこに何故指導が入らないのかがわからない。
 そこのテクニカルな部分以外は、逆に言えば私は満足しているのです。毎度偉そうな言い方でホントすみませんが。でもフェリックスって難しいキャラクターだと思うし、お話への関わり方も中途半端なんだけれど、そういう在り方を求められているキャラクターを、埋もれちゃったり邪魔しすぎちゃったりしないでいる存在感で成立させる、ということはやはり今のこのゆりかちゃんでないとできないことなのではないかもとものすごく高く評価しているのです。フェリックスの複雑さ、ある種のおもしろさをものすごくうまく表現してくれている役者さんだと思いました。
 トップスターになってしまえば回ってくる役柄はある種限られてくるし、粗が目立たなくなるものだとも思うので、心配はしていませんし、この先どんなものが見せてもらえるか楽しみです。二番手がキキとなる変化も見逃せませんしね。星組で抜擢されてあっぷあっぷしていた若手のころから見ていますが、やはり組替えがいい方に出たケースだと思います。新しい色の組を作っていってほしいなと期待しています。

 そして次期トップ娘役のまどかちゃんは、本当に成長しましたよねえ。オリガという役がよかった、というのもあるけれど、キャラクターが成長するのに合わせて、それをきちんと芝居で見せられる役者に成長したし、痩せて垢抜けて艶やかになってきました。上げられすぎだろう、というくらいに場数を与えられてきましたが、ちゃんと応えてきましたよね。こちらも同期のじゅりちゃんが組替えしてくる化学変化も楽しみです。
 ちょっと前は本当に丸く幼く見えたのでロリコン臭を心配していたのですが、もうそんなことはないと思うし、持ち味としては単に可愛いだけのキャラよりもっと濃かったり大人びているヒロインの方が合うタイプだと思います。まずはマリアそしてユーリですが、その先も上手く役に恵まれますようにと願っています。
 そしてそれはそれとして、でもたとえばららとかまいあとかも、全員が全員トップ娘役になることはないとしても、上手く起用してくださいねとしか言えません。やっぱりトップ娘役があまりに就任が早く結果的に卒業も早くすることになるのは、あまりにももったいないことだと思いますし、新鮮さとか愛らしさも大事だけれど芸事としての習熟にもっと時間をかけさせてあげてほしいと思うのですよ。それでゆっくり咲く花もたくさんありますよ? 芸があれば可愛さも幼さも演じられるんですから…私たち女性観客は女性の若さの安易な消費には敏感ですし嫌悪を抱きます。劇団には心していただきたいです。

 愛ちゃんのラスプーチンは今回のMVPと言ってもいいかもしれませんね。二枚目じゃなくても、悪役ないし汚れ役と言っていい役であっても、役者としてやりがいがあると果敢にチャレンジする姿勢、そして存分にそれをやってみせたことに感服しました。意外にテレやな愛ちゃんにはスターとしてキザることの方がむしろ鬼門なのかもしれず、それはそれででもちゃんとできないと今後さらに困ったことになるのでそこはがんばっていただきたいですが、今回はとにかく立派でした。
 ところでマリア皇太后の夜会でラスプーチンがイリナに耳打ちする言葉は「あなたは彼を取り戻したいと思っている」というものだったそうですね。これは私が愛ちゃんのお茶会で聞いた話で、ゆうりちゃんのお茶飲み会でも出た話題だそうですが。実際にはマイクに乗っちゃうとまずいので愛ちゃんは発声していないけれどそうしゃべっているていで演技しているし、ゆうりちゃんもそう聞こえたていで演技をしているそうです。なのでこれは「ル・サンク」には書かれていないけれどくーみん指定の台詞なのでしょう。
 私はもっと、たとえば「あなたは美しい」とかなのかしら、とか想像していました。それは単なる事実の描写に聞こえるかもしれないけれど、褒めているようにも蔑んでいるようにも呪っているようにも聞こえたことでしょう。あるいは「あなたは彼を不幸にする」とか「あなたは国を亡ぼす」みたいな方向性かな?と。
 ラスプーチン性豪説ってのがあるのもあって、もっと卑猥なことを言っているのかと思っていた、という人もいたなー。「あなたを抱きたい」とかね。その方向もアリだったかもしれませんよね。ことほど左様に、いろいろ考えさせられる芝居だったのでした。

 そしてずんちゃんゾバール、いい役でしたねー。ファンも増えたろうな。そして本当に上手い、熱い。
 姉への執着、という要素が、より理論派っぽい(そしてなんかやたらとセクシーな)あきものエルモライと、より野卑っぽいそらのマキシム(ホントええ声…!)とのいい対比を出していて、絶妙でした。
 上背がなくて肉厚な感じのずんちゃんゾバールが、すらりと背が高いんだけど薄っぺらくてひょろりんともしているあっきーコンスタンチンを殴りつけるからいいんだよね…! もちろん私は贔屓のこういう役も観てみたいしできると思っているのですが、でもこの構図はこの組み合わせでないと生まれなかったんだよなと思うと、絵面の素晴らしさに震えます。大階段の使い方といい、今回の舞台はとても絵画的だけれど、目が喜ぶ作りというのは大切なことですよね。
 ずんちゃんは歌えるし踊れるし明るいスターオーラがあるし、なんでもできるスターさんになってきました。宙組の中では背は高くない方だけれど、進撃の95期においてこの先組替えがないのだとすれば、いつかさらに大きなことをしてくれる存在なのかもしれません。期待しています。
 
 皇帝一家に行くと、ニコライまっぶーとアレクサンドラりんきら、はともに敢闘賞ものでしょう。本当に本当に上手い。
 ただ、アレクサンドラについてはお友達がおもしろいことを言っていて、私も新公で普通に娘役がやるとかえって微妙なものなんだなと思ったりしたものでしたが、なので男役にやらせることには意味があると思うのだけれど、たとえ地味で神経質と言われようとあのイリナの姉であり娘2格たりえるキャラクターとして、もっとキラキラしたスターオーラが出ちゃう路線男役がやった方が良かったのでは?という意見を聞いて、ははぁなるほどなと思ったのでした。確かくーみんはこの役を、たとえばハナちゃんがやるような役だと説明した、とどこかに出ていませんでしたっけね? それはヒロインと言うよりむしろ一枚目みたいな意味だったのかもしれませんが…確かにりんきらは美しいし上手いけれど、そういうオーラを出す方向ではやっていなかったと思うので、さてどうだったのかな?と思いました。たとえば愛ちゃんと役を入れ替えるとか?
 でも本当にいい役だったし、素晴らしい演技でした。キモのキャラクターだし、ここにあえてりんきらを配すくーみんの信頼感が窺えました。史実があるとはいえ、あんなにまで成長し広い視野を得たオリガを結局は捕らえてしまう母の愛、その狂乱と悲しみをりんきらアレクサンドラ見せてくれました。泣きました、せつなかった…
 ところでこういう女性って夫より息子第一になっちゃいそうなものなんですけれど、アレクサンドラが常にニコライ第一なのも個人的にはツボでした。だからこそ皇帝もっとこうなんかこう…イヤ優しくていい人なのはわかるんだけどさあ、もう…ってのがまた絶妙に上手いまっぶーで、たまりませんでした。
 次女タチアナのららもまたいいんですよ、台詞は一言二言しかないけれど、ちゃんとずっとタチアナとして芝居をしていて。ママに冷たいおばあさまにプンスカしたり、パパの従弟のドミトリーお兄ちゃんの晴れ姿にキャッキャしたり、そんな彼と姉との婚約を本当に祝っていたり…いじらしかったです。
 アレクセイはりずちゃん。ららりずは『翼』でもシューマン一家の子役でしたね。新公マリアが良かったことが印象的だったけれど、娘役ちゃんとしてはややファニーフェイスなところが少年役にはいいのかなあ。ツィンカでの生意気な皇子さまっぷりから素直でいい子な部分もあるところ、姉の婚約披露の場で父の思わぬ発言にショックを受けるところ…本当に伝わりました。ところで血友病というのは今は完治するというか対処法がある病気なんでしたっけね…?
 マリアすっしぃさんはそれこそ締めの台詞が圧巻です。組長だからこその言葉でもあるのかもしれません。あと鉢植えで煙草の火を消すところに毎度笑いが生まれるのが、本当に素晴らしかったです。

 せーことあおいちゃんはこの手の中年女性役を手を変え品を変え引き受けてきているのだけれど、今回もさすがに上手いです。
 その中にまだ若く、しかしもしかしたら彼女たちより聡明な、とりあえず口数少なく立っていられるアリーナしーちゃん、という在り方がまた素晴らしい。これでご卒業、もっと芝居をさせてあげたかったけれど…これまた美しい人でした。二度ほどお茶飲み会に参加しましたが中身はシャキシャキよくしゃべる人で、楽しかったなあ。
 さお、りお、かけるが老け役に回っての芝居巧者っぷり、今の宙組の布陣ではありがたく貴重な存在です。あとモンチもね。
 イワンの「待っとります」、しみるよね…私たちの気持ちを代弁してくれていますよね。けれど彼もまた、ドミトリーは来ないだろうと思っていたのかもしれません…
 そして彼の神様への叫びね! かけるはツィンカの活動家のバイトもしているので、あれはイワンの息子が軍から脱走して身を転じたのかなとか思ったりするのですが、とにかく息子は帰ってこないことでしょう。だって神様には血も涙もないのです、だから息子を父のもとに返すことなどしないのです。神なんて妄想の産物にすぎないのです、悲しい…
 けれどイワンも、そして大公邸の使用人であるポポーヴィッチも、貴族を憎むばかりではなかったことでしょう。彼らが革命に参加したとは思えません。ポポーヴィッチはむしろ、投獄され処刑されたイリナの亡骸を引き取って弔うくらいはしたかもしれません。セルゲイの隣、ロシアの大地に…
 民衆と言えど一枚岩ではなく、「正しき国」なんてものはきっとなくて、暴力的に始まった革命が作った政府は結局100後の今は、ない。これはそんなところまで描いてみせている物語なのでした。

 そしてドミトリーの同僚、りくウラジーミルはホントいい子ですよ結婚したいよ! 気取り屋のドラ息子、でも気が使えるんだよ気が利くんだよ! コンスタンチンがゾバールに殴られたときに椅子を蹴立てる勢いで飛び出すし、ガッチナ宮殿ではオリガに一番に気づくし、常に皇太后の身辺警護を怠らないし。なんてことない役なんだけれど、りくの温かさが出ていました。
 そしてもえこロマンには何度謝っても謝り足りないわ、ホント死なせちゃってごめんね…(ToT)スカステの同僚トークでもありましたが、三人組の弟分で末っ子で、実際の兄たちとはちょっと違うタイプのちょっと年の離れたお兄さんができてただただ嬉しい、青年というよりやっと少年期を抜けたくらいのいい子で、異性の胸に目が行っちゃうお年頃の若さで。ホントのもえこには意外とこういうやんちゃな面がなくて演技としては苦労したのだろうけれど、でもちゃんとやって見せていました。また三人の中で一番おっきい子がそんな感じなのがいいんだよね、この絵面も完璧です。
 数々のナレ死がある作品ではありますが、ロマンの扱われ方の悲しさがまたたまりません。どうしてもイリナが生きていたこと、そんなイリナをドミトリーが抱き寄せてしまうこと、そんなふたりからオリガが顔を背けること…に焦点がいってしまう場面ですからね。でもウラジーミルがまた驚きすぎないショックの芝居をちゃんとしているのがいいし、それを告げるコンスタンチンもつらい以外の何物でもないだろうけどやりすぎていないのがまたいいのです。でもちゃんとその死を悼んではいるからね…成仏してくれ。

 …というワケでの、コンスタンチン・スモレンスキーさんです。澄輝日記8になりますかね。以下長いです。
 私は単なる好みというか性癖(笑)として、たとえば雨に濡れた子猫を拾っちゃうような実はいい人ヤンキー、みたいなヒーロータイプのキャラクターよりも、そのテの物語の中でいかにもヒロインの恋の当て馬に使われちゃいそうな、ヘタレ優等生みたいなキャラクターを死ぬほど愛しているんですよ。いい人なんだけど…って言われちゃうような、優しすぎて損しちゃうような、自分から身を引いちゃうようなタイプの。
 だから中の人が贔屓でなくても、キャラクターとしてコンスタンチンを好きだったと思うのですよね。でも周りのお友達は、私が中の人のファンだと知っているからか、「あっきーのコンスタンチンよかったよ、あっきーだからいいんだよ!」みたいな形で褒めてくれることが多く、それはそれで嬉しいのだけれどフクザツ…みたいな想いを勝手に抱いていました。
 初日かな?の記事に書きましたが、たとえばゾバールとか、たとえばラスプーチンとかアレクサンドラとか、番手や役の比重を別にしてそういうタイプの役が回ってくることはないのかなあ? それはあの人のためになっているのかなあ? 特にその未来のために? とかね。まあ私がついつい穿ってついつい心配しちゃうタイプだからこその話なんですが。
 私だって新公を観て物足りないかな?とは思いましたし、だからそれはやっぱり中の人がちゃんとがんばっていいコンスタンチン像を作っているからなのだろうなと思ったけれど、一方で、いかにもな当て書き感というか、ニンというかイメージというか、そういうものが上級生についてはファンの中ですでにあって、それでそう見えてるだけなんじゃないの?とも思ってしまうんですよね。優しそうだからピッタリだよね、みたいな、さ。くーみんはコンスタンチン、ウラジーミル、ロマンのすみ分けに関しては「コンスタンチンはおっとり」と表現していたそうですが。
 初日数日前のお稽古入り待ちのお隣歩きでコンスタンチンのキャラクターについて尋ねたときに、眉根を寄せて困ったように笑いながら「優し~~~い、人です」と答えてくれたことが私はすごく強く心に残っていて、そしてそれはやはり当人からしても自分よりずっとずっと優しい性格の役、という認識があったということだと思うので、あたりまえですがただまんまやっているわけではないはずなのですよ。
 でも、似合うことも事実なんだ…似合いすぎる、絵になりすぎる…! だからやっぱりこういう配役をするくーみんは悪魔なんだと思うし、意外にビジネスライクにしか生徒を見ていないのかもしれないけれど(個人的にべったりしたつきあいをするタイプではない、という意味で。だってゆうりちゃんの連絡先を知らないって書いてたし)、逆に言えばどんな本質も出てしまうのが稽古場なんだろうし、それを見て作品のことも生徒のこともよくよくいろいろ考えて(これまた、自作の出来しか考えていないタイプの作家ではないと思うので。宝塚歌劇団は生徒を育てるための作品作りをする面もあることを理解しているタイプの作家だと思うので)配役しているんだろうな、と思います。だからこそのあっきーコンスタンチンなのでしょう、いろいろないろいろな意味で。
 だって欠点が特にない、ちゃんとして見える役ですからね! それは長所や特徴もない、ということになりかねない。そういうことを突きつけないでほしい、思い当たらなくもないんだからさ。でもそういう部分も全部引き受けて役を務めるべきだし、それだけでないところを見せてみろ!という愛の鞭なんですよね、わかってはいるつもりです…でも苦しいの…(TOT)
 でも、物語の鍵となる、とても大きい役をいただけていることには、やはり感謝しかありません。そしてそれに十分応えていたと思うのでした。

 コンスタンチンは経済的にも恵まれた愛情たっぷりの家庭でおっとりのんびり育って。だから現行政府への具体的な不満や鬱屈があってクーデター計画に加担しているというよりは、留学で見識を広めたり他国の社会情勢なんかを知るにつけ、専制政治というシステムに疑問や不安を感じての参加だったのかもしれません。
 ウラジーミルとは子供のころから家族で行き来があったのかな、それとも士官学校からかなとか想像できる気もするのですが、ドミトリーやフェリックスとはどんな出会いをしたのでしょうね? 一緒にいる場面は実はごく少ないのだけれど、良識派として尊重されているのかしら、それともフェリックスからは意外と弱腰だとなめられていたりしたのかしら…でも一応軍人なんだし、銃も扱えないフェリックスよりは武闘派と言ってもいいかもしれないんだけれどな(だって任官式で踊っていてニヤリとしちゃうのは誇らしくてハイになっちゃうかららしいですからね!)。てかフェリコンってのもたぎりますよね…おっと脱線。
 でもフェリックスはある種の美意識でもってあえて軍属にならなかったのかもしれないし(単に干されていたのかもしれないけれど)、そこを特になんの疑問もなく祖父も父も軍人だったから、と士官学校に進み入隊し近衛騎兵になっちゃう鈍感さがコンスタンチンにはあるように思えます。
 そうなの、まっすぐさ故の単純さや鈍感さ、残酷な優しさ、そしていい意味でも悪い意味でもある甘さ、が身上のキャラクターですよねコンスタンチンって。ドミトリーやイリナという、複雑に生きることを強いられた主人公たちと対比されるためのポジションのキャラクターだから当然なんだけれど。私の後輩がいみじくも言った「女を口説くのに花一択! その想像力のなさ!」ですよ(ちなみに彼女もまたそんなボンボンっぷりがいい、好き、と褒めてくれていたのです)。そう、彼はまっすぐ穏やかに生きてきたのであろう分、知る世界が狭いのです。世の中には恐ろしい飢えや貧困、暴力が存在することを本当の意味で知らない。知識としては知っていて、でも愛や誠意でなんとかなるものだと思っている。だから愛する人には花を贈っちゃうのです。
 ところで赤い薔薇はコンスタンチンがラッダのために、彼女に似合うと思って選んだものだそうなのですが、ちょっと意外な気がしないでもない…確かにラッダは情熱的な女性だし、恋、情熱とくれば薔薇しかも赤なのかもしれないけれど、もっと可愛らしい花を選ぶこともありえた気もしませんか? もちろんペルシャ産ということにも意味があるのかもしれませんが…こんな単純そうなコンスタンチンにも、何かそんな裏というか奥というかに隠された情熱があるような人間としてくーみんは考えていたのかしらん…
 それはともかく、当初は本当にファンがスターに送るようなプレゼントとして、ただ花を渡していただけなんじゃないかと思うんですよね。オリガには「なかなか想いが届かない」とか言ってるんだけれど、実際にこの時点でコンスタンチンがラッダに何か言えていたのだろうか、と思わないではいられないモジモジっぷりが愛おしいです。ホントこの場面での姿勢の悪さもたまりませんしね。宮廷で端然としているときとは真逆の、自信のなさの表れなのでしょう。
 当然口説くなんてレベルにいきつけていなくて、ただあなたの歌は素晴らしいと思います、とか、なんかそんなことしか言えていなかったんじゃないでしょうか。まだまだ恋の全然手前、みたいな、さ。ラッダもおもしろ半分にあしらっているようなところがあったのかもしれないし。いい金ヅルになるなら相手してあげてもいいけど、くらいの。
 でもコンスタンチンには、金目の物を渡してラッダをものにする、なんて発想がまったくなかったんだと思うのです。そういう手段があること、世の中に主に貧しい女に対してそういうことをする金持ちの男がいることはさすがに知ってはいたでしょう。でも自分たちのことには結びつけられなかったんでしょうね。そして自分が知る世界、生きる世界では、それは主に貴族同士の男女の話かもしれないけれど、花を贈り詩を贈り、互いに笑顔と好意と敬意を捧げ合って初めて次の段階へ進むものなのです。だからそれに準じた。
 でもゾバールたちはそんな形の愛があることを知らない。愛を知らないと言ってもいい。両親を亡くして弟ふたりと残されたラッダが、金で身を売って自分たちを養ったことがあることも彼は知っているに違いないのです。彼女を買った男に愛なんかなかったことも知っている。金持ちなんて、貴族なんてみんなそんなもんだと思っているのです。
 あるいは、そうじゃないと困るのです。姉としてだけでなく、自分だけが知っていたラッダというものがあったのに、コンスタンチンが現れてから自分が知らない顔を彼女がときおりしていることがあるのにゾバールはもう気づいていたのかもしれません。だから牽制する、威嚇する。雄同士の縄張り争いです。
 でもコンスタンチンはゾバールに喧嘩を売られても買わない。「彼女を侮辱するな」とだけ言ってゾバールをラッダから離し、でも背を向けるんですからね。ラッダを自分の背に庇ってゾバールに対峙するとかはしないの。そういうふうにこれは自分のものですと表現するような人ではないの。そこがまたたまらない。けれどそこがまたゾバールの癇に障るのでしょう、だから殴る。
 倒れ伏して、投げつけられるゾバールの言葉に、脳裏に反論はひらめくしだから立ち上がるんだけど、けれどコンスタンチンは反射的に言い返したり手を出したりすることをしない人なのです。嫌味な恋愛遊戯をしているつもりはまったくないから、そこは反論したかったことでしょう。でもゾバールたちの暮らしや事情を全然知らないということについては事実だなと思いもしたのでしょう。だから黙って引き下がる。
 周りに冷やかされても気にしない、そういう強さはある。ただ去り際にラッダに声をかけて、でもラッダのつらそうな横顔を見たときに、言いたかったことが言えなくなって、とりあえずみたいな謝罪を口にして去ることになる…
 あーんやっぱり追っかけてったウラジーミルがガッと抱き寄せちゃった方が話が早かったかもしれませんよね!? イヤなんの話がだよって言われちゃうかもしれませんけれどね!? イヤしかしあそこのしょんぼり退場ホントたまらん…
 ツィンカの男女もまた、冷やかすの半分期待半分で注視してるんですよね、そこがまたたまりません。そこで爆発していたら何かが違ったかもしれないんだよ、でもそうしない人なのそうできない人なの、これまでにも機会はたびたびあったのにそうならなかった人なの、それをうちの人にやらせるくーみんが憎い…イヤすみません脱線しましたこれはそういうお話なんでしたね…
 きっとそのあと、アレクセイが壊したギターの弁償に古いギターをドミトリーがどこからか調達してきて、コンスタンチンに渡したんですよ。そしてミーチャに返してやってくれって言ったんですよ、あれはラッダの古いギターだったんですしね。それでコンスタンチンはまた花束持って行ったんですよ、きっと。ちょっとしおしおと、でもせめてこれだけは返したい、って。会うのはこれが最後かもしれないから、って花を渡して。それでラッダの中で何かが決壊したんですよ…

 任官式やツィンカの序盤では皇女様ということでやや距離があったオリガに対しても、おそらくはその後ドミトリーを介して親交を深め、問題ある皇帝一家の娘だけれどとりあえず普通の愛らしいお嬢さんなんだな、という認識になって敬称もつけないで呼ぶような気やすい仲になっている感じが、物おじしない上流貴族って感じでまたいいです。マリア皇太后の舞踏会でゆみちゃんパクーニナをさらりとダンスに誘うような、ノーブルでそつない部分も彼には確かにあるのであり、こちらの方がホームと言えばホームなのでした。
 でも、その後も彼はツィンカに通い、ゾバールたちの目を盗んでラッダとのあの後逢瀬を重ねていったのでしょう。
 次にふたりの姿が描かれるのはお話の中では9か月後のことで、重大な任務の前でもちょっとでも時間が取れたらラッダに会いたいコンスタンチンほんと可愛いなとニマニマしちゃうんですけれど、さらに「ねえラッダ、弟さんには僕たちのことを話そう」ですからね! 「ねえ」もたまらん、「弟さん」もたまらん。殴られた相手やで!? どこまで優しく礼儀正しいの?
 でもそのあとの「たとえ周りが」の「周り」は自分の周りのことをコンスタンチンは言っているのだと私は思いました。ラッダの弟だけでなく自分の家族、属する階級の人々が反対するであろうことも彼はちゃんとわかっている。けれどなんとかできるとも思っている。その明るさ、優しさ、見通しの甘さが悲しくて、でも嬉しくて愛しくて、ラッダはキスで彼の口をふさぐしかない。それで彼は一度この話を打ち切ろうと駅に向かおうとするのだけれど、ラッダが怒っていると誤解しているようなので、そうではないと安心させるために任務を告げてしまう…
 ロマンが迎えに来てわちゃわちゃするから、ラッダをつけていたゾバールたちの姿にコンスタンチンが気づかない、という展開が本当に上手い。必要かつ自然に偶然を作り話を転がすのがくーみんは抜群に上手い。あと余談ですが、観劇に来たOGとかがあとで楽屋であっきーに「あそこにゾバールたちがいて聞いてたんだよ、ラッダが漏らしたんじゃないよ」って教えてくれるって、みんなどんだけ甘やかしてるの!?(笑)わかってるよ演じてる人なんだから。でもラッダは釈明する暇がなくてコンスタンチンは真相を知らないで苦しんでいるかもしれないから、だからみんな親切に教えてくれるんだよね。なんて愛されキャラなの…

 お忍びで来るイリナを駅で迎えるのですが、警備についていたのは本当にふたりだけだったのかもしれません。例えばロマンが列車から降りるイリナを迎え、コンスタンチンは駅の外で車の用意をしていた、とかなんとか。ゾバールの手元が狂ったのももちろん、その役割分担も本当にたまたまだったのでしょう。そしてロマンが死んでしまった…
 イリナの一応の無事を伝えるためにも、よろめく彼女に付き添って離宮に向かうコンスタンチンの、頭の中はもうぐちゃぐちゃだったでしょうね…ドミトリーはイリナを抱きしめたけれど、ウラジーミルもまたコンスタンチンを抱きしめてくれたかしら。「おまえだけでも無事でよかった」と言って。それともコンスタンチンをなじって殴ったりしたのかしら…てかウラコンもいい…はっ、脱線。
 その後おそらくは上司に報告して、ツィンカに踏み込むことになって。ラッダに言った、ラッダはツィンカの歌い手だ、おそらくあの店に集う男たちは…とはなったと思うけれど、やっぱりコンスタンチンは一度はラッダを疑わざるをえなかったでしょう。スパイだったのか? 自分を利用したのか? そんなにも貴族を憎んでいたのか? 愛し合った日々は幻だったのか…?
 店に踏み込んだときから銃を持つ彼の右腕は下がり気味で軍人としてまるでなってなくて、それはもしかしたら彼が前線経験のない近衛兵で本当の修羅場を経験したことがなかったからかもしれないのだけれど、疑わしいとはいえ愛する人に銃なんかやっぱり向けられないわけで…
 なのにゾバールが発砲する。だからコンスタンチンも撃ち返し、その銃弾は過たずゾバールの腕を捕らえる。ラッダが身を挺してゾバールを庇う。だからコンスタンチンはもう撃てない、けれど態勢が変わったときに…
 何が起きたのかわからなくて、自分がしてしまったことがわかりたくなくて、「ラッダ…」とだけ言って絶句するコンスタンチン。駆け寄って、跪いて、ラッダの死に顔を覗き込んで。
 そんなコンスタンチンを、ミーチャが襲おうとナイフを振り上げる。ミーチャはいくつだったんでしょう。歳が離れた弟で、ゾバールとラッダは父親代わり、母親代わりだったのでしょう。そんな家族だったから、ラッダの心が離れることはゾバールにとっては伴侶を失うも同然でした。でもミーチャはコンスタンチンのことは嫌っていなかったと思うんですよね。そこまでちゃんと考えていないというか。ただ彼がくれた花を見つめる姉が幸せそうだったから、多分彼はいい人、くらいの認定で。世が世ならミーチャはアレクセイの友達になれたし、コンスタンチンの義弟になれたのです。
 でも今のロシアでは、ニコライ二世のロシアではそれは叶わない。だから彼はナイフを手にするし、ドミトリーは友を救うために少年に発砲し殺すのです。
 コンスタンチンがホントに間抜けですみません。全部ドミトリーにやらせちゃってすみません。ドミトリーに絶望させ、結婚とか融和とか無理だ、暗殺とクーデターしかないと思わせちゃってごめんなさい。みんなコンスタンチンが悪いのよ、くーみんホント鬼ですよ…
 ちなみにここでうなだれるあっきーが本当に体が柔らかくてすごーく小さくなれることに毎度感動していました私…ホントすんません…

 ウラジーミルの足の怪我が治るくらいの時間はあって、でも同じ月のうちに、ラスプーチン暗殺は敢行されます。準備なり見張りなりの形でコンスタンチンもウラジーミルもドミトリーに協力していたのでしょう。そこに至るまでに何があったのかしら。ラッダの亡骸を弔うことなんて、コンスタンチンには許されなかったでしょうね。それでもなんらかの決着をつけるために、彼もまた計画に参加したのでしょう。
 ドミトリーにやらせておいてなんだけれど、私にはフェリックスが「君が誰を愛しているのか、君が何を為さねばならないのか、君ははっきりとその目で見えているじゃないか」と言うその展望が見えませんでした。というか本当にそれなの? それしか道はないの? としか思えませんでした。
 フェリックスにとっては、ラスプーチンを殺しニコライを廃しドミトリーが皇位につけば、イリナを皇后に迎えることだってできるよ、それも含めて全部まるごと君を愛すよ、それが「君とともに世界手にする」ということだよ、ということなのかもしれませんが…
 でもイリナはやっぱりフェリックスのことがけっこう嫌いなんだと思うんですよね。というかそういう未来はやっぱり訪れなかったわけですよね…
 でも暗殺は決行され、「おめでとう」とドミトリーに握手しに行く前のコンスタンチンが、なんとなく晴れやかに民衆を眺めているのが、私はもう悲しくて苦しくてたまらなかったです。彼としてはやっとラッダやゾバールたち民衆の苦しみを我がこととして感じて、彼らのためにも決起したつもりでいるのかもしれない。新しい世界、より良い世の中を作る、そのために国賊ラスプーチンを始末し皇帝を挿げ替える、それがラッダの弔い合戦になるのだ…と思っていたのかもしれない。
 でもそんなことはないのです。殺人は殺人であり、いいも悪いもない。というかすべて悪い。そしてそんなことをしてもラッダは帰ってこないし、ラッダが望んでいた世の中もゾバールたちが望んでいた世の中も来ないのです。そのふたつは違うし、ラッダがひそかに望んでいた世の中を作るためにはコンスタンチンはドミトリーのクーデターなんかに加担していてはいけなかったのです。むしろその時点でロシアを去るべきだったのです。国なんか捨てるべきだったのです。ラッダはそういったしがらみすべてを捨てて愛し愛される者たちだけが平和に幸せに生きられる世界を夢見たはずなのですから…
 なのにコンスタンチンは間違えている。なのに成功を確信して浮かれ、瞳を輝かせ、ウラジーミルと頷き合いドミトリーと握手しに行く。それがつらい…
 憲兵に連行されて、彼の出番は終わります。どうでもいいけど手の上げ方なんか変でしたよね?(笑)中の人によれば彼はそのまま処刑されてしまったのではないか、とのことでした。りくはお茶会でウラジーミルのその後について思うところはある、としながらも結局明かさなかったそうですが、ぜひともボルジン家の全財産をつぎ込んで獄吏に賄賂をつかませて脱獄し、ついでにコンスタンチンを担ぎ上げてでも連れ去っていただきたいものです。だって生きていてほしいから…!
 その後は聖職者に転じてラッダとミーチャの墓守をして暮らす、でもなんでもいい。とにかく生きていてほしい。それが私の望みです。なんならフェリックスもここに大金積んで救ってくれていてもいいのよ…?

 最終第16場、神々の土地。軍人たち、活動家たち、宮廷貴族、皇帝一家や皇太后一派、民衆…すべての人々の魂がロシアの地に帰ってきて、しかしコンスタンチンとラッダの視線は合いません。ちょうどひとつのオペラグラスの視界に収まるくらいの距離で交差するのに、お互いに気づかないまま流れていきます。本編にはなかった、アレクサンドラが笑顔でイリナと睦み合うくだりはあるのに、本編に一時とはいえ確かにあったコンスタンチンとラッダの幸せなひとときが、再び描かれることはないのです。その非情さよ…! くーみんにとってはあくまでうたかたの、はかない一時の想いにすぎない…ということなのでしょう。
 けれどコンスタンチンとウラジーミルとロマンは、ただ軍人として雄々しく猛々しく踊っているのではありません。視線を合わせ笑い合う若者としても描かれるし、何かを探し求めてさまようような表情すら見せて、そして最後の最後に流れ去っていきます。最後にロマンが引っ込むのとほとんどかぶるようにして、ドミトリーが現れ、舞台に残っていたイリナと盆の対角線上で出会うのです。ドミトリーもまた彼らの仲間であったのだし、彼らにももしかしたら、こうやって最後の最後に誰かと残る生き方があったのかもしれない、と提示しているようにも思える演出です。
 本編で描かれていないだけで、ウラジーミルにもロマンにも、誰か想い想われる相手がいたのかもしれません。夢見た未来があったのかもしれません。しかしコンスタンチン同様、手を伸ばしてもつかめないままに、この世を去ったのかもしれません。死して魂となってこの土地に戻ってきてなお、つかもうと手を伸ばし、叶わず虚しく去っていっているのかもしれない…
 でもどうしようもない。すべての魂がこの大地に帰ってくる、ということは、すべての魂はこの土地に縛られているということです。タカラジェンヌにとっての宝塚歌劇の舞台、役者にとっての芝居の舞台。結局はそこに囚われ、縛られ、どんなにあがいても同じ踊りを踊り続ける…そんなことすら表しているのかもしれません。
 最後の最後にこの土地で再会できて、ドミトリーとイリナは幸せだったことでしょう。現世でも幸せに生きたから、ここにこうして来られたということもある。ではコンスタンチンは? 結局は不幸だったということなのかしら…大半の人間がそうして悔いを抱きながら生を終えるものだと、くーみんは考えているのかもしれないけれど…
 ラスプーチンは信者とルンルン踊りアレクセイは健康で元気はつらつとして一家を率い、フェリックスもまた母や妻や義母を伴ってルンルンと進んでいく。世が世ならあった健全で健康な姿、自然な姿の形で、彼らはこの大地に戻ってきている。本編での生き様とは少し違うのです。だからコンスタンチンたちもまた、本編とはまた少し違った、楽しく青春を過ごしながらも心から手を伸ばしたものには届かないで終わった魂として総括され、あの大地で踊り続けるのでしょうか。呪いのように。
 コンスタンチンとラッダが幸せになることなど決してない夢、はかない夢、ありえない夢…けれど想いは確かにそこにあったのだ、ということすら許されないようなはかなさ、幻として結論づけられている気がはます。そこもドミトリーとイリナの愛と対比になっている。そうですよね、わかります、でもね…と泣くことしか私にはできない。そしてこんなふうに泣かずにすむ、あらまほしき世の中を求めて、そしてやっぱりカタルシスを得て観終えるんだと思います。この作品は、そんな作品だったのだ、と今は思う私なのでした。

 中の人は、ラッダの中の人に少し早いお誕生日プレゼントのマフラーをもらってすぐさま身につけて出て来るような、あいかわらず本当に「あああやっぱりコースチャだよこのシンプルさ…!」と思わないではいられない人なのですが、その純真さをファンは愛してしまっているのでもう仕方ないんです、いいんです。
 似合う役でも、似合わなさそうな役でも、まだまだたくさん見てみたいです。たくさんのいい出会いがありますように。
 『不滅の棘』はまだきちんと予習できていないのですが、さてどうなりますことやら…? とりあえず月全ツ『鳳凰伝』の脚本がひどかったので、再演にあたり正しく手をかけてくれよキムシン…!と念じないではいられません。
 そしてありさちゃん、最後の相手役さんにいろいろ良くしてくださってありがとうございました。組のムードメーカーがいなくなるのは寂しいですが、さらなるお幸せをお祈りしています。


 レビューロマンは作・演出/稲葉太地。
 やっぱり『ルナロッサ』デジャブ感満載なのは感心しないし、プロローグの銀のお衣装も中詰めの金のお衣装もワサワサしているだけでスタイリッシュじゃないし、てかまたターバンかよだし、トータルでは凡庸なショーだったと思います。
 キャッツアイ場面での、トップスターの座を王冠にかけるような、それでいてそれに苦しむゆりかを描くとかホントどうかしてるとしか言いようがなくて許しがたいし。退団者ピックアップももっとあってもよかったんじゃないの?と残念だし。
 でもまぁ様にシンプルな黒燕尾を着せたこと、星空に中でひとり踊るような場面を入れたこと、群舞の娘役ちゃんのドレスをごくシンプルな白にして舞台稽古ではあった紫のリボンをやめたこと、壮大なホルスト「惑星」でのフィナーレと男役群舞…は評価したい。
 スター、特に若手の起用にはもうちょっとチャレンジしてもよかったんじゃないの?とは思いますが。あとパレードの階段降りのケチさ加減ホントやめて意味ない。
 でも贔屓的には初めての娘役ちゃんたちを引き連れてのひとり男役どセンター、初めてのひとり銀橋渡りをいただきましてありがとうございました。
 『AM』で愛ちゃんソロのスーツの場面に入っていなかったこともあって、個人的には久々のスーツの流れ者がたまりませんでした。端正だけど妖しい色気が出てきましたよね。ルビーちゃんに対してそうまで思うところがなさそうなのもいい。一晩で何人抱いて捨ててるの?って感じでしたごちそうさまでした。
 ところで出てないけどビジューハンターとコーラルの娘たちの場面は、歌詞が聞き取れない部分もあったせいもあって私には実は話がよく見えてないんですけれど、女が誘って男が本気になって、だけどいい気になってのお触りは禁止!ってことなの? 女が怒って男が謝って、から何が歌われ表現されているのかさっぱりわからなくて…イヤ私がまどかららまいあカワエエ、ばっかりで脳に情報が取り込み切れていないんでしょうけれど。
 サファイアの場面も、リフトは当然なくなってよかったんだけれど、では替わりに入ったあの振りがすごくスペクタクルでカッコいいかというと私はそんなふうには思えなくて、なんかもっといい振り付けのものにできなかったのかなーと思ってしまいました。
 しかしまぁ様は歌が本当に良くなりましたよね…! 退団公演のショーのありがとうソングはもはや定番ではありますが、いい歌詞、いい曲、いい歌唱でした。
 改めまして、ご卒業おめでとうございました。どんな道に進まれるにせよ、ずっとずっと幸せでいてください。それがファンの望みです。
 そして新生宙組も楽しみです。一方は早くも土曜に集合日なのですね、その間に少しはゆっくりできたのかな?
 『不滅の棘』の予習もせねば…新年が楽しみです!





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4 コメント

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初めまして (紫音)
2017-11-23 19:05:42
駒子様、初めまして。

毎回、貴女様の深〜い考察力にウンウン頷きながら楽しく拝見させていただいております。
いつもコッソリとお宅にお邪魔させていただいておりましたが、今回初コメ失礼致します。

私の初観劇は遡ることウン十年前、柴田先生の「川霧の橋」です。(自分は東京観劇組です)駒子様と同世代なのかな?ともう、勝手に親近感を抱いております(笑)
私も柴田先生の作品大スキーです!!

長い間、宝塚歌劇から離れておりましたが、宙組がまぁさまの体制になる直前にファン復帰しました。

「神々の土地」は東京で2回観劇しました。
先に観劇された方からは、盛り上がりに欠けるような、暗いストーリーだったと伺っておりましたので、「へぇ、そうなの?」って思ってまずは1回目を拝見しました。

確かに、ご覧になられた方々からそういうご意見が多いのも解るような気もしないではなかったのですが、そこはあまり気にならず。私は寧ろ、あの限られた時間の中でくーみん先生(こちらの呼び方、私は好きですw)史実とフィクションをドラマチックに上手くまとめたな!という思いの方が強かったです。

芝居の冒頭から悲劇しか想像出来ない、物寂しい讃美歌の調べ、季節外れの雷鳴、途切れ途切れの蓄音機、良い意味で客席を不安にさせる雰囲気作りが絶妙でした。

また、生徒さんの使い方が素晴らしくて、無駄遣いがどこにもありませんでしたよね。
適材適所ってこういうことを言うのかなってぐらい、生徒さんの個性と持ち味に上手く当てはめたくーみん先生の手腕に脱帽するばかり!(先生の信者ではありませんがw)

2回目の観劇は、話題になった例の歌劇とル・サンクを読んでからもう一度。
「美しいものを見ることには価値がある」「教科書なんてくそくらえ」「わが麗しのイレーネ」


これが実に深い!!
普通にお芝居のセリフとして受け取れる一方で、
くーみん先生のうららちゃんへの精一杯のラブコールにも受け取れました。
「教科書なんてくそくらえ」
表向きはドミトリーとイリナの置かれた立場だったり、これが正しい(と、多数派が思われている)通例、常識などを指しているのだと思いますが、
「くそくらえ」はくーみん先生が近年のミュージカル傾向、歌うま至上主義を唱える劇団や、我々宝塚ファンに対して一石を投じた言葉だったように今は思えてなりません。
歌うまが全て!と言い切れないところが宝塚は面白い…とは私は思うのですが…少数派かもしれませんが。

さらに「くそくらえよ」ってうららちゃんに言わせるくーみん先生、ニクイですよね、上手い!(笑)


歌わせようと思ったら、彼女のキーに合わせてフォローも出来た筈で、あえてヒロイン格に歌わせなかったのは、くーみん先生の意地だったのかな。悪意はないけと、ちょっとした皮肉を込めての「くそくらえ」だったのではないのかと、私は受け取れました。

ヒロインが歌わなくても、組子全員がフォロー。こんな舞台も有りだなって思いました。
歌える人には歌を、踊れる人にはダンス、芝居上手には芝居でガッツリ魅せる。

今までの宝塚の常識からしたら、教科書通りではないのかもしれませんが、分業制で組子さん各自がいいお仕事をされた結果、こんなに素晴らしい舞台を創りあげた宙組さん、ブラボーです!
Blu-ray版も何度もリピートして観ています。素晴らしい!!

長文乱文失礼いたしました。
全部読みました (ちーこ)
2017-11-23 23:12:39
こんばんは。自分のレポが終わるまでは…と我慢していたのですが、レポが上手く書けず、諦めて、全て読ませていただきました。
もう、首がもげるほど頷きまくりでした。素晴らしいです。完全同意です。自分のレポが微妙で不完全燃焼でしたが、こちらで完全燃焼しました。遠征の時も含め、何から何までお世話になり、ありがとうございました。
コメントありがとうございました! (紫音さんへ)
2017-11-25 15:49:14
いつもご愛読いただいているようで、お恥ずかしいですが嬉しいです。
コメントありがとうございました。
確かに適材適所が素晴らしい、とてもクオリティが高い作品だったと思います。

ご指摘の三つの台詞、確かにいずれも味わい深かったですよねー。
「美しいことを見ることには価値がある」と言うジナイーダの生き方、ザッツ・高等遊民みたいな思考は、
そのまま息子のフェリックスに受け継がれているのだけれど、なかなか理解され難いだろうな、とか。
「見ること」に価値はあっても「美しいもの」そのものには価値がないとしているのかな、とか、
いろいろ考えさせられました。

「教科書なんてくそくらえ」の強烈さもものすごかったですね。
女性はそもそも罵倒語を禁じられているようなところがありますが、まして清く正しく美しいタカラジェンヌ、しかも娘役、
なかなかこういう台詞を言わされることはないはずです。
でもあの美しいイリナが、教科書に従って勉学を積んできたはずの彼女が、
最後の最後に言うからこそ意味がある…うなりました。

「我が愛しのイレーネ」もね! そしてそれに対してなお「イリナよ」と返すイリナと、それでも最後に「イレーネ」と呼んだ去っていくドミトリーね…!
選択制夫婦別姓問題なんかにも絡むことだと思いますが、
名前というのはアイデンティティーに直結するもので…
一方で愛称とかはそれを呼ぶ人との関係性も表すもので。
私は呼称フェチなので、これまた心にぐいぐい来ました。

卒業生の中で一番に活動再開を公表したのがゆうりちゃんというのは
なんとなく意外な気もしましたが、まずは歌の仕事というのも当人のやる気を感じます。応援したいですね。

また是非いらしてくださいませ~!

●駒子●
お役に立てたのなら (ちーこさんへ)
2017-11-25 15:53:24
幸いです。が、私はちーこさんの(みやっちさんの)ブログも引き続き楽しみにしていますよ?
お茶会レポも素晴らしかったです。ニマニマしながら読みました。
何かと不手際も多かったかと思いますが、遠征、楽しかったようならよかったです。
あと、入会ありがとうございました! 私がお礼を言うことではないけど(^^;)。
むしろ、おめでとうござまいます、かな?
これからも楽しく応援していきましょうね。
コンスタンチンの幸せを祈りつつ…あるいはロドリーゴの…あるいはまこちゃんの…あるいはルドルフの…
次のお役との出会いも楽しみです!

●駒子●

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