駒子の備忘録

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『エリザベート』

2019年08月24日 | 観劇記/タイトルあ行
 帝国劇場、2019年6月11日18時、8月21日13時。

 東宝版前回観劇の感想はこちら、直近の宝塚月組版感想はこちら
 私は特に『エリザ』ファンではないし帝劇『エリザ』ファンでもないので、素直にちゃぴ目当てで(笑)出かけてきました。ちゃぴシシィ以外のキャストはなるべく違う人を観たかったので、一回目の観劇ではトート、ルキーニ、フランツ、ゾフィー、ルドルフがそれぞれ井上芳雄、山崎育三郎、平方元基、香寿たつき、木村達成で、二回目が古川雄大、成河、田代万里生、剣幸、三浦涼介でした。二回目はちゃぴのお誕生日当日だったんですねえ、めでたやな。
 一回目に観たときには、帝劇『エリザ』が久々で、宙組に月組と続いていてもう一生分観たと思っていたけれど意外とその差異がおもしろく思えて、かなりのめり込んで観てしまいました。二回目の方がどセンターの観やすいお席だったにもかかわらず、自分のコンディションのせいかはたまたキャストに合わせて演出が多少違うせいか、ないし一回目から日がかなり経っていてちゃぴの演技も少し違って感じられたからか、「こんな話だったっけ? てかヘンな演出で何を見せたいのかよくわからんな…?」と混乱したままに終わりました。不思議なものですね。
 何せ私は来日版とか現地版を観たことがないので、本来どういう作品であるのか、とかは全然語れないのですが、宝塚歌劇で上演するにあたりトートを主役にしシシィとフランツとの三角関係に仕立てたイケコは天才、かつその翻案は正解だったと私は考えています。ただ、外部でやるならシシィが主役だし、トートとのラブストーリーにしない形ももちろん成立すると考えています。そういう意味で帝劇版も楽しく観ていますし、今回の一回目観劇が今までで一番納得できた、気がしました。

 やはり一番感動するのは「私だけに」かなあ。帝劇版を前回観たときのことを綺麗に忘れているのですが、枕元の聖書だか詩集だかに挟んだペーパーナイフで自殺しかけるのは宝塚版オリジナルだったんですね? 帝劇版にはないんだ!ということにまず驚き、それもいいな、その強さ健やかさがいいな、さすがちゃぴだなと思う一方で、もともとシシィってウィーンではかなりメランコリーなキャラクターだと捉えられているんだと、これはウィーン旅行をしたときの肌感覚なんかでも感じていたので、死に惹かれるとまではいかないまでも死に近い描写がもともとなくてあとから足されたものなんだ、ということを意外に感じたりしました。
 死にかけて、死ねなくて、「なんで私が死ななきゃなんないのよ」と切り替える、のではなく、ひとりになってちょっと冷静に考えて「なんで私ばっか従わなきゃなんないのよ」となるシシィの方がいいな、と私には思えたのです。
 その前のバートイシュルでのフランツとの「嵐も怖くない」で、宝塚版と歌詞が違ってわりと最初からふたりが違うことを歌っちゃっているのがそもそもいいな、と思うんですよね。宝塚版だと、あそこでフランツはちゃんと王室の義務とかいろいろ言い聞かせてるじゃん、それを承知でシシィも嫁いだはずじゃん、なんで自由に生きたいとかあとからわがまま言うの?って感じになりかねない流れがありますよね。初演から21年、世相が変わっているせいもあってその空気はますます強くなってきているように私には感じられます。昔の方がシシィの生き方は観客に素直に受け入れられやすく、今はわがままで考えなしだと言われやすいキャラクターになっている気がします。
 でも帝劇版では、フランツが王族の義務や生き方を歌う一方で、シシィはシシィの望みを変わらず歌っていて、ふたりして最初から「一度私の目で見てくれたなら」と言い合っています。そう、フランツの方だけが正しいのだ、なんてことはないはずなのです。王族に生まれた以上国家と臣民のために個を犠牲にして働くべきだ、という考え方がある一方で、王族に生まれた者自身がまずハッピーでなければ国民を幸せにすることなどできない、やりたいことも我慢して不幸せなままでいい為政者になどなれない、私は乗馬をすると幸せになれる、だから「馬に乗ります」…というのもまた、正しい考え方なのです。
 けれど一般的に女子供の意見って取り上げられにくいじゃないですか。黙殺されがちです。そして年長者が、ないし男性が、女にだけ意見を押しつけてくる、服従を強いてくる。それに対してシシィはなんで?と怒っているだけなんですね。それはものすごく自然なことに私には思えました。この怒りは、ちゃぴがやっているせいもあるかもしれませんが、『BADDY』のグッディ怒りのロケットと同じものだと思うのです。
「私だけに」って、これまた原詞を知らないので勝手な解釈で語っていますが、そして日本語訳としても今ひとつこなれていない訳だといつも思うのですが、これは生命についてももちろんそうなんだけれど、「私は私のものなので、誰からも何ものからも侵されないものなので、ちゃんと尊重してください、そこから始めてください」という人権の歌なんだな、と今回私は思ってしまったんですよ。特に女は、こうして声高に歌わないと、女にも人権があることすら思い起こしてもらえないわけですよ。世間とか男とかに、です。でも、男も女も同じ人間で等しく人権があるのです。今の日本はそもそも誰の人権も尊重がおろそかなかなりヤバい国になりはてていますが、少なくとも『エリザ』のこの国この時代においてはそこまでではなく、ただ女性の人権が無視されがちだったのではないでしょうか。そこにシシィは怒り、抗議し、戦ったのではないでしょうか。
 彼女はただのわがままなお転婆娘などではなかったのです。「自由に生きたい、ジプシーのように」というのは、別に勝手気ままにやりたい放題したいという意味ではありません。人はひとりで生きているのではないのだから、誰かと暮らす上でルールや妥協や譲り合いは必要で、それはシシィだってきちんとかつ愛情深く躾けられた素直でまっぐな子供なのだから、必要があれば自分を曲げることだってちゃんとできるのです。いい大人になるということはそういうことです。
 でもそれは、その生活を共にする者同士が平等に、お互いを尊重し合い話し合い譲り合い合意して決定するものであるべきです。どちらかが一方的にただ押しつけられ縛られるなど、不平等で不当なことです。シシィはそのことに怒り、私を縛るな、私は私だ、私の話を聞けと叫んでいるのです。作品が違いますが「僕の叫びを聞いてくれ」なわけなのです。
 これは今なお私たちが聞き届けてもらえないでいる、私たちの魂の叫びです。それをシシィは、怯まず、あきらめず、大声で歌い上げている。そしてちゃぴはきちんと高音が出ていて、伸びやかですがすがしい。だから私は感動したのでした。

 そして帝劇版のトートは、シシィを宝塚版のような、ほぼ男女の恋愛に近い形で愛しているのではありません。木から落ちたシシィを迎え入れるとき、宝塚版であるような一目惚れめいた動揺を、帝劇トートはほとんど見せません。なのに「おまえの命奪う代わりに生きたおまえに愛されたい」とか、宝塚上演の際に増やされた「愛と死の輪舞」を歌うのは本当はヘンなんだけれど、まあトートはシシィに出会ってある種の感慨を受けはするので、ここはまあいいのかもしれません。
 私は芳雄トートは以前も観たことがあったので、今回は古川トートに期待していたのですが、意外や圧倒的に芳雄トートがいいと思いました。古川くんは弱い、優しすぎる、ソフトすぎる気がしました。ニンではない。むしろフランツが観たかったです。
 芳雄トートは偉そうでした。ザッツ王様、黄泉の帝王です。それが、ちゃぴシシィの、「私は私の主人なのであり、誰にも何にも侵されない」とすっくと立つ強さと呼応しているようで、ものすごくシシィとトートの表裏一体感を感じて、正解!と思えたのです。トートとシシィの関係は男女のラブみたいなものではなく、トートはもうひとりのシシィであり、人間が誰しも人生の最後に出会う死そのもの、死神その人、その人の死…であるように思えました。
 古川トートもシシィに恋していなさそうで、それはよかったんだけれど、ソフトというかただ薄ぼんやりとたたずまれると、強く輝き激しく戦うシシィと呼応していなくて、もうひとりのシシィとしてのトート、に見えなくて、あれれ?と感じてしまったのかもしれません。
 何度か誘惑に現れて拒否されて引き下がるときも、「まだ私を愛してはいない」のときも、このトートはフラれて落ち込む男のような真似はしません。なんかまだ機が熟していないんだな、とだけ判断してすっと退いている、ように見えます。だからこそ、シシィの真意の像みたいに見えるのかもしれません。ラストも、宝塚版の、最終答弁でフランツに図星を指されて動揺してあわててルキーニにナイフを渡す、みたいな流れではなく、それこそ今度は単に機が熟したのでルキーニにほとんど無造作にヤスリを渡す、みたいな感じなので、それもいい。最後はやっぱりシシィと抱き合いキスしますが、やっと想いが通じたラブラブハッピー!みたいな表情はもちろんしませんし、それはシシィもです。迷いながら悩みながら最後まで生き抜いた、ただ知らない人にたまたま刺された、だから死んでしまったのだけれど、そういう運命だったのだろうし受け入れよう、後悔がないわけではないがたらればを言っていたら埒が開かないのでこれで終わりとしよう…という、満足と諦念、みたいな薄い笑みを浮かべているように見えました。それが、おもしろいなと思ったしいいなと思ったのです。すべからく人生とはそうあるべきである、と思えたからです。

 ルキーニは、私が育三郎が好きだってのもあるかもしれませんが、育三郎ルキーニの方が好きでした。成河ルキーニはうるさすぎました…声量のことではなく、演技として。
 私には今回のお話はシシィのものに思えたので、これはルキーニの回想とか妄想なのだという枠組はいらないな、と感じたからかもしれません。あと、演出もちょいちょい違っていた気がして、成河バージョンの方が露悪的だった気がして、私はソフトな古川トートとの組み合わせで観たので、余計に違和感しかなかったのかもしれません。

 フランツも平方さんの方が好きでしした。万里生フランツは、あえてそういう演技をしているんだと思うのだけれど、声とかめっちゃまろやかだけど結局人の話を聞いていなくて頑固で皇帝の義務第一のつまらない男、に見えました。私はシシィはトートと恋愛しない分フランツとはがっつり恋愛しかつこじれてほしいのですが、このフランツだとなんかこじれるまでいかないな、と感じたのでした。平方フランツの方がもうちょっとシシィに譲ってくれそうな甘い優しい気配がありそうに見えて、でももちろんそうはならなかったわけで、そのすれ違いのせつなさがいいなと思えたんですよね。歌はもちろんどちらも達者でノーストレスでした。

 ゾフィーもたぁたんがよかったです。というか私はウタコさんの現役時代に間に合っていないのだけれど、すぐ下にカナメさんがいたこともあって、歌の人と言えばカナメさんでウタコさんは芝居の人だったのでは?という印象なんですね。なのでゾフィーをやるような歌唱力がある女優さんだと思えたことはなかったし、実際歌がけっこうつらく聴こえて、うーむむむ…となってしまったんですよね。たぁたんは歌も演技もさすがとても上手くてこちらもストレスがありませんでした。

 というわけで一回目の観劇の方がキャストは総じてよく感じられたのですが、ルドルフは三浦くんが素敵だったかもしれません。なんかすごくまっすぐ美しく立つ人ですね。体幹がしっかりしているというか。ビジュアルも端正で。望ましい、多くの人が考えるルドルフ像、な気がしました(まあ理想の、というか世界で一番のルドルフは私は贔屓でもう観てしまったのでそこは別格だし比べられないのですが)。
 でもなんか、「闇広」って別に妖しいナンバーでもなんでもないんだな…?という不思議な印象を受けました。いやキスとかちゃんとしてるんですけどね、でもなんか別にBLっぽくないな、という…(^^;)

 宝塚版にない場面や、歌唱でも細かいフレーズが違っていますが、シシィが地中海だかの島で「パパみたいになれなかった」と歌う短調は、寂しくて悲しくて染みましたね…
 逆に、ほぼ宝塚版と同じだけれどやはり心に響くのが病院場面かな。いまっちのヴィンディッシュが素晴らしいというのももちろんありますけれどね。
 結局のところシシィは、「自由に生きたい」とは言っていますが、本当にしたかったことは別にひとりで世界を旅して回るとかではそういうことではなくて、愛する人と家族になって楽しく仲むつまじく暮らしたかっただけなのではないでしょうか。シシィは自分の父親と家庭教師の浮気にも母親の不満なんかにも気づいていなかったのだろうし、自分が育った家に不服はなく、仲のいい家族だと思っていて、そういう家庭を自分も夫と子供たちとで作りたかっただけなのではないでしょうか。馬に乗ったり旅をしたりと楽しみつつも、政治や外交その他の王家の仕事もちゃんとやる、くらいの覚悟はあったでしょう。
 でも、アレもダメコレもダメ、ああしろこうしろと一方的に言われるだけで、自分の話を聞いてもらえず、子供たちも不幸に育っていくようで、もうどうしていいかわからなくなっちゃっていた感じなのかな、と思うんですよね。それでより不幸であるはずの病人を慰問することで自分を慰めようとするのかな、とかね。不幸ですよね、悲しいことですよね…「あなたの方が自由」には泣かされますが、その瞬間からだってシシィはいろいろふっきって本当に自由に生き出すことだってできないこたないと思うんだけれど、不器用で、やはりいろいろなことに囚われていて、できないんだろうな…と、せつなくなり、私はシシィのために泣くしかないのでした。
 美貌であるとか、生きた時代とか、もちろんいろいろ特異なんだけれど、シシィはやはりある意味で普通のひとりの女性であり、『エリザベート』はそんな彼女の生き様を描いたものなのだから、今なお繁く上演され女性観客の多くに支持されるのでしょう。だからやはり、ルキーニをヘンに使ってヘンに露悪的にしたりしなくていいと思うんですよね…なんか逆撫でするような演出があるのは気に障りました。人生の厳しさを表しているつもりなのかもしれませんが、そんなこたじゅうじゅうわかっている大人の女が観に来る芝居なんだからそんな余計な小細工は必要ないんですよね。そのあたりをわかっていなくて、おもしろいことをやった気になって喜んでいるんであろうイケコって、ホントただの男だしおバカだしお坊ちゃんなんだな、と思います。たとえば宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』を植G以外の演出家で観たいよ、と思うように、帝劇『エリザ』もぼちぼちイケコでない人に演出させてみてもいいのではないでしょうか。これはお友達が提案していたことですが、慧眼だと思います。別に観客は演出家目当てで観に来るんじゃないですからね。日本の場合はまずキャスト、そして演目でしょう。ましてここまで育ったタイトルです、別の演出家の全然違う解釈と演出のバージョンが生まれてもいい頃合いなのかもしれません。
 その上でまた、「死が人を愛する。だが、人が死を愛することなどあるだろうか?」と考えてみたい、と思いました。



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