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駒子の備忘録

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こまつ座『紙屋町さくらホテル』

2022年07月08日 | 観劇記/タイトルか行
 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA、2022年7月7日18時。

 昭和20年(1945年)12月19日の午後、東京巣鴨プリズンと、その7か月前の同年5月15日から2日後の17日までの広島市紙屋町の紙屋町さくらホテルを舞台に展開する、移動演劇隊さくら隊の物語。
 作/井上ひさし、演出/鵜山仁、音楽/宇野誠一郎。1997年に新国立劇場中劇場のこけら落とし公演として初演され、以後何度も再演されてきた舞台の5年ぶりの再演。全2幕。

 会社がある神保町にさくらホテルというものがあって、まあこれはどこにでもあるチェーンで安いのかなんなのかどこも外国人バックパッカーの定宿になっているようなホテルなんですけれど、それと似たタイトルなのでずっと気になっていました。実在のタカラジェンヌが登場人物になっているお話だとも聞き、今回チケットを取ってみました。
 隊を引っ張る丸山定夫(高橋和也)も、宝塚少女歌劇のOGながら新劇志向の女優の園井恵子(松岡依都美)も、実在の人物なんだそうですね。それでいうと長谷川清(たかお鷹)も、「桜隊」という演劇隊も実在したそうです。そんな中での、虚実入り交じった、バックステージものというか舞台もの舞台、みたいな作品です。『エリザベート』がすべてルキーニの回想というか妄想の物語である、というのと同様に、長谷川清から見たさくら隊と戦争の物語、と言ってもいいのかもしれません。
 プロローグの彼は、私には横柄な鼻持ちならない老人に見えました。自分は海軍大将で戦争責任がある、だから収監されるべきだ、と詰め寄る姿は、潔いとか責任感や罪悪感に苛まれているというよりは、A級戦犯に名を連ねることで自分のかつての名誉を認めさせ取り戻そうとするかのようでもあり、また戦争を止められなかったことを後悔しているような素振りすら、自分さえもっとちゃんとしていれば国も民もみんな救えたのだと言って酔っているような、傲慢さを感じたのです。そういうものを全部振りきって、新しい国を作ろうとしている針生武夫(千葉哲也)の方が正しいことを言っているように聞こえました。
 しかし7か月前の広島にお話が戻るというか進むと、違うものが見えてくるのでした。それは彼らよりもむしろ、もっと若い、でも特高であることを笠に着たような戸倉八郎(松角洋平)の態度とその変化によって、です。
 そう、楽しく明るく音楽は聞くだけで人の心を軽く明るく弾ませるし、ついつい合わせて踊り出したくなるのなんてごくごく自然なことなのです。まざりたくて、でも邪険にされて、でもやっぱりまざる、みたいなやりとりのなんて愛しいこと! 監視される淳子(七瀬なつみ)もその親友で元気で声がデカい正子(内田慈)も、戸倉に対して心底びくびく臆すようなところはなくて、おっとりかつ適当にゆるくいなしてつきあっている感じなのが、健やかでいいですね。それはやっぱり戸倉がまだ若い青年だったからかもしれないし、このご時世においておやまだ戦争はそうはいっても遠いもので、市井の人々にとってはあまり深刻になりすぎずに日々の生活をきちんと送ることの方が大事、というスタンスでいられたからかもしれません。
 その日々の、普通の暮らし、の中に、演劇があった。もちろん政府の鑑札を受けて移動演劇隊として慰問公演をする、なんていうのは戦時下故の特例ではあったでしょう。でもどんな形であれ、人々は歌い踊りお話を楽しみ、泣いたり笑ったりするのだ、ということの証でもあります。お百姓さんや漁師さんや大工さんのようには何かを生み出さないかもしれない、でも役者はそのなんにでもなれる仕事で、お芝居を観た人の心に必ず何かを生むのです。それを非生産的だとか、不要不急だとか、誰にも言われたくないのです。初演から25年経って、今はまた違う意味で響いてくる台詞、戯曲なのでした。
 でも、綺麗にまとまりすぎていない、不思議な作品だとも思いました。久々に、ラストシーンに「えっ、これで終わり!?」と思ってしまった舞台でもありました。納得できなかったとか満足できなかったということではないんだけれど…むしろやや冗長というか散漫なきらいすらある休憩込みたっぷり3時間20分でしたからね。
 でも、あえて、わざと、放り出したような、綺麗にまとめていない舞台なんじゃないかな、とも思ったのでした。それくらい、初演時も、再演を繰り返し多少のブラッシュアップはしているはずの現時点でも、戦争というものは総括も精算もされていないし、過去のものにもできていない、ということなんだと思うのです。だからこそのあの宙ぶらりん感なんだと思います。
 これは長谷川清の回想の物語のようですが、平成のそして令和の世からしたら彼ももうとっくに亡くなっているのです。そのことも含めて、綺麗に総括されていない、総括など簡単にしてしまってはいけない問題がここにあるのだ、ということを訴えている作品なのではないかと思いました。
 長谷川清は一晩の公演に参加し、そして隊を離れました。そのわずか2か月と少し後に、隊のみんなは原爆で死んだのでしょう。実在の丸山さんも園井さんも原爆で亡くなったそうです。長谷川清が最後に目にした、天使のような菩薩のような笑みで歌い手を振る彼らの姿は、紗のカーテンに遮られて、そのまま霊魂となっていった姿だったのです。原爆も終戦も、そのことをことさらには描いていなくても、あの一晩の公演に参加した者のうち生き残ったのは、プロローグとエピローグに出ていた長谷川清と針生武夫だけだったのだ、ということがちゃんとわかる構造になっています。恐ろしい、悲しい…
 劇中劇は『無法松の一生』、宝塚歌劇でいうところの『永遠物語』です。これもよかった。そして園井恵子のタカラヅカ芝居批判に関する笑いもよかった。今よりずっと、歌舞伎と新派と新劇と宝塚という、演劇としてのある種の闘争があった熱い時代でもあったんだろうなあ、と胸熱くなりました。そんな中で歌われる「すみれの花咲く頃」のなんと涼やかで美しいことか…! 素晴らしい財産です。
「九十九パーセント絶望しながら、それでも一パーセントの希望を信じて芝居を書くのは、言葉にすれば簡単だが実際にはできることではなく、ただ『芝居(物語)で世界を変えられる』と信じている者だけがなしうるシジフォス的な苦行だ」というのはこの作品に関する柳広司のエッセイの一文だそうです。演出家も「芝居創りの可能性が広がると、人生そのものの可能性が広がる」「芝居が実人生を変える」とプログラムで語っています。でも戸倉は変わり、それを目撃して笑った私たちもまたそれにより何かを変えられたはずなのです。演劇の力を、人の心の柔らかさをより知ったのです。どんな物語にもそうした力はあるのでしょうが、ことに演劇は、「私は今、一人では出できないことをしている」と淳子が言い出すように、大勢の手がかかって成立するものです。だからこそより尊い、というのはあるのかな、と思いました。
 東京のあとは山形と群馬で公演があるようです。どうか千秋楽までご安全に、そしてたくさんの人に観ていただき、その心に明るい灯が点りますように。





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