新国立劇場、2022年10月20日18時半。
20世紀初頭のウィーン。レオポルトシュタットは古くて過密なユダヤ人居住区だった。一方で、キリスト教に改宗し、カトリック信者の妻(音月桂)を持つヘルマン・メルツ(浜中文一)はそこから一歩抜け出していた。街の瀟洒な地区に居を構えるメルツ家に集まった一族は、クリスマスツリーを飾りつけ、過越の祭りを祝う。ユダヤ人とカトリックが同じテーブルを囲み、実業家と学者が語らうメルツ家は、ヘルマンがユダヤ人ながらも手に入れた成功を象徴していた。しかしオーストリアが激動の時代に突入していくとともに、メルツ家の幸せも翳りを帯び始め…
作/トム・ストッパード、翻訳/広田敦郎、演出/小川絵梨子。2020年ロンドン初演、オリヴィエ賞受賞作の日本初演。全1幕。
ストッパード作品はいろいろ観ていて、こちらやこちらやこちらなど。
今回のお席は抽選で取れたのが10列目で、でも劇場に行ってみたらなんと最前列、しかもほぼセンターでした。足下の床はそのまま舞台と地続きで、庭か歩道の花壇を思わせるような草花とそれに隠された照明装置が区切りになるだけでした。正面にプログラムの表紙やポスタービジュアルに使われたような豪奢なソファ、その奥に1ダースの人がつけそうな大きな長いダイニングテーブル、上手下手にはそれぞれ椅子とコーヒーテーブルがあり、シャンデリアと柱の他にはセットらしいセットはない舞台で、中劇場の舞台は大きいしそれぞれの部分を場面ごとに使い分けて進む形なのかな…と思っていました。ら、いざ舞台が始まると、その大きな空間全部がメルツ家の大広間というか家族が集うダイニングルームというか…なのでした。そしてわらわらと現れる大家族、その妻や夫や子供たち、家族同然の友人たち、使用人たち。子供たちは大騒ぎしながらクリスマスツリーの飾り付けを始め、ツリーのてっぺんにダビデの星を飾ろうとして大人たちの微笑みを誘い、その大人たちは三々五々ソファや椅子に腰掛けて、それぞれ昔話や恋バナに花を咲かせたり学術的な議論を戦わせたりしている。のどかでにぎやかで豊かな一族の描写に、すぐさま心つかまれました。
もちろんキム目当てで行ったんですけれど、ヒロイン格なのかなと思っていた彼女がとても時代がかったドレスと髪型で、でもとても似合っていて、そして柱に映されて表示される年号の1899年は確かに前の前の世紀なのであって、そりゃこれくらいレトロというかクラシカルに思えて当然なのだ、でもこの物語は確かほぼ現代と言える1955年で終わるはずで、彼女がそこまで生きながらえるならまさに地続きで、「歴史」として区分けしてしまい込んでしまえるものではないんだ…とすぐに気づかされました。残念ながらグレートルはそこまで存命ではなかったのだけれど、寿命としては生きていてもおかしくなかった年齢だったわけで、やはりそれは病気もあったけれど時代が、戦争が中断させた人生だったとも言えると思えたのでした。
人種とか民族とか宗教とか政治とかは、現代日本人が最も苦手とする分野なのではないかと思います。でも少しの知識と想像力があれば、メルツ家やヤコボヴィッツ家の人々が語っていること、置かれた状況、選ぶ道などは十分に理解ができて、共感もできるのでした。そしてわからなくてもわからないなりに、それが多分に豊穣だったり複雑だったりすることは感じ取れる。ヘルマンがどんなに苦労して、どんなに強い意志でこの空間と人間関係を築いたか、楽しんでいるか、保っているかは十分伝わりましたし、それが理不尽な、圧倒的な暴力で奪われたこともまざまざと見せつけられてビンビン伝わりました。子役と一緒に怯えて泣くところでしたよ…似た経験は私たちの祖父母もしていたのかもしれません、きちんと伝えられずまた学んでこなかっただけで。それをこうして舞台を通して学習しているのかもしれません。
グレートルの浮気相手のフリッツ(木村了)が市民(「市民」! カッコ付きで呼びたいよ! なのに何もない、それが怖い)と二役をやっているのがまた怖ろしいんですよね。印象的な美貌の役者さんなので同一人物?とか混乱しちゃうんですが、それもまた狙いなのかもしれません。ヘルマンがコキュ(これはフランス語だと思いますが)になって受ける屈辱と、のちにこの「市民」から受ける屈辱…という言葉では言い表せない何か、はおそらく全然レベルや方向性が違うもので、なのにこの順番で起きると当時はそれが最大の問題だと思えるのだし、けれど歴史は不可逆なのであって…みたいな、なんとも言えない重い衝撃を受けました。
子役もまた何人かで何役かをするのですが、これがまたものすごく上手いのですよ舞台として…! ほとんど卑怯です。あと、こういう言い方はホント駄目なんだと思うのですが、ローザの瀬戸カトリーヌとサリーの太田緑ロランスのバタくさい顔立ちが本当に効果的だったと思います。日本で日本人で日本語でやる以上、そのあたりは必要だと考えられての配役だったのではないかしらん?
第5幕(幕はないので場か章の方がいい気もしますが)の、戦後まで生き延び、しかし四散し、もはや家族とは言えない、暮らす場所も年齢も世代も違う三人のそれぞれの生き方や考え方、アイデンティティ、スタンスがまたグサグサ刺さりました。ナータン(田中亨)はレオ(八頭司悠友)を糾弾するけれど、これはストッパードの来歴に近いキャラでもあるようで、そして私には彼の生き方、在り方を全然責められないと思いました。周りにそう育てられたのだろう、自分でも自分をそう育ててきたのだろう、それをそのときそこにいなかった人間に責められるいわれはない、と思いました。ナータンもまた完全ではなく、記憶の捏造をサリーに指摘されています。でも責めたくなるナータンの気持ちもわかる、サリーの気持ちも。そして書き出される家系図と、蘇る思い出、現れる在りし日の姿の人々…そこにはのちに自殺した人、戦死した人、病死した人、ダッハウで、アウシュビッツで殺された人々がいる、みんな笑いさんざめいている。人種も民族も宗教も支持する政党もバラバラで、でもひとつの家族だった、人々…
美しい、悲しい、せつない、あたたかい物語でした。この場所はレオポルトシュタットにはなく、しかしそれがタイトルになっていることで、これが決してユダヤだけの物語ではないのだ、と逆に強く訴えているのだと思いました。特に多様性や反戦を訴えている作品ではないとも思いました。でもこの家族の輪を広げていけたら、論戦してたとえ平行線でも笑って同じ食卓につけるような関係が築いていけたら、いくつものお祈りを同時にすることすらできるのだから、人はもう少しだけ愛に、神に、平和に近づけるはずなのではないか…そんなことを考えさせられました。
中劇場はグランドミュージカルをするハコかと思っていましたが、盆を上手く使ったこういう大人数の芝居をじっくり見せるのにもいい場所なんですね。そしてまあまあな台詞の量だし転換早いし、集中力の要る大変な作品だったと思いますが、役者さんはみんな達者で素晴らしかったです。そしてみんな本当にそれっぽかった、それが演技だと言われればそれまでなんですけれど、本当に堪能し浸りました。満足な観劇でございました。
20世紀初頭のウィーン。レオポルトシュタットは古くて過密なユダヤ人居住区だった。一方で、キリスト教に改宗し、カトリック信者の妻(音月桂)を持つヘルマン・メルツ(浜中文一)はそこから一歩抜け出していた。街の瀟洒な地区に居を構えるメルツ家に集まった一族は、クリスマスツリーを飾りつけ、過越の祭りを祝う。ユダヤ人とカトリックが同じテーブルを囲み、実業家と学者が語らうメルツ家は、ヘルマンがユダヤ人ながらも手に入れた成功を象徴していた。しかしオーストリアが激動の時代に突入していくとともに、メルツ家の幸せも翳りを帯び始め…
作/トム・ストッパード、翻訳/広田敦郎、演出/小川絵梨子。2020年ロンドン初演、オリヴィエ賞受賞作の日本初演。全1幕。
ストッパード作品はいろいろ観ていて、こちらやこちらやこちらなど。
今回のお席は抽選で取れたのが10列目で、でも劇場に行ってみたらなんと最前列、しかもほぼセンターでした。足下の床はそのまま舞台と地続きで、庭か歩道の花壇を思わせるような草花とそれに隠された照明装置が区切りになるだけでした。正面にプログラムの表紙やポスタービジュアルに使われたような豪奢なソファ、その奥に1ダースの人がつけそうな大きな長いダイニングテーブル、上手下手にはそれぞれ椅子とコーヒーテーブルがあり、シャンデリアと柱の他にはセットらしいセットはない舞台で、中劇場の舞台は大きいしそれぞれの部分を場面ごとに使い分けて進む形なのかな…と思っていました。ら、いざ舞台が始まると、その大きな空間全部がメルツ家の大広間というか家族が集うダイニングルームというか…なのでした。そしてわらわらと現れる大家族、その妻や夫や子供たち、家族同然の友人たち、使用人たち。子供たちは大騒ぎしながらクリスマスツリーの飾り付けを始め、ツリーのてっぺんにダビデの星を飾ろうとして大人たちの微笑みを誘い、その大人たちは三々五々ソファや椅子に腰掛けて、それぞれ昔話や恋バナに花を咲かせたり学術的な議論を戦わせたりしている。のどかでにぎやかで豊かな一族の描写に、すぐさま心つかまれました。
もちろんキム目当てで行ったんですけれど、ヒロイン格なのかなと思っていた彼女がとても時代がかったドレスと髪型で、でもとても似合っていて、そして柱に映されて表示される年号の1899年は確かに前の前の世紀なのであって、そりゃこれくらいレトロというかクラシカルに思えて当然なのだ、でもこの物語は確かほぼ現代と言える1955年で終わるはずで、彼女がそこまで生きながらえるならまさに地続きで、「歴史」として区分けしてしまい込んでしまえるものではないんだ…とすぐに気づかされました。残念ながらグレートルはそこまで存命ではなかったのだけれど、寿命としては生きていてもおかしくなかった年齢だったわけで、やはりそれは病気もあったけれど時代が、戦争が中断させた人生だったとも言えると思えたのでした。
人種とか民族とか宗教とか政治とかは、現代日本人が最も苦手とする分野なのではないかと思います。でも少しの知識と想像力があれば、メルツ家やヤコボヴィッツ家の人々が語っていること、置かれた状況、選ぶ道などは十分に理解ができて、共感もできるのでした。そしてわからなくてもわからないなりに、それが多分に豊穣だったり複雑だったりすることは感じ取れる。ヘルマンがどんなに苦労して、どんなに強い意志でこの空間と人間関係を築いたか、楽しんでいるか、保っているかは十分伝わりましたし、それが理不尽な、圧倒的な暴力で奪われたこともまざまざと見せつけられてビンビン伝わりました。子役と一緒に怯えて泣くところでしたよ…似た経験は私たちの祖父母もしていたのかもしれません、きちんと伝えられずまた学んでこなかっただけで。それをこうして舞台を通して学習しているのかもしれません。
グレートルの浮気相手のフリッツ(木村了)が市民(「市民」! カッコ付きで呼びたいよ! なのに何もない、それが怖い)と二役をやっているのがまた怖ろしいんですよね。印象的な美貌の役者さんなので同一人物?とか混乱しちゃうんですが、それもまた狙いなのかもしれません。ヘルマンがコキュ(これはフランス語だと思いますが)になって受ける屈辱と、のちにこの「市民」から受ける屈辱…という言葉では言い表せない何か、はおそらく全然レベルや方向性が違うもので、なのにこの順番で起きると当時はそれが最大の問題だと思えるのだし、けれど歴史は不可逆なのであって…みたいな、なんとも言えない重い衝撃を受けました。
子役もまた何人かで何役かをするのですが、これがまたものすごく上手いのですよ舞台として…! ほとんど卑怯です。あと、こういう言い方はホント駄目なんだと思うのですが、ローザの瀬戸カトリーヌとサリーの太田緑ロランスのバタくさい顔立ちが本当に効果的だったと思います。日本で日本人で日本語でやる以上、そのあたりは必要だと考えられての配役だったのではないかしらん?
第5幕(幕はないので場か章の方がいい気もしますが)の、戦後まで生き延び、しかし四散し、もはや家族とは言えない、暮らす場所も年齢も世代も違う三人のそれぞれの生き方や考え方、アイデンティティ、スタンスがまたグサグサ刺さりました。ナータン(田中亨)はレオ(八頭司悠友)を糾弾するけれど、これはストッパードの来歴に近いキャラでもあるようで、そして私には彼の生き方、在り方を全然責められないと思いました。周りにそう育てられたのだろう、自分でも自分をそう育ててきたのだろう、それをそのときそこにいなかった人間に責められるいわれはない、と思いました。ナータンもまた完全ではなく、記憶の捏造をサリーに指摘されています。でも責めたくなるナータンの気持ちもわかる、サリーの気持ちも。そして書き出される家系図と、蘇る思い出、現れる在りし日の姿の人々…そこにはのちに自殺した人、戦死した人、病死した人、ダッハウで、アウシュビッツで殺された人々がいる、みんな笑いさんざめいている。人種も民族も宗教も支持する政党もバラバラで、でもひとつの家族だった、人々…
美しい、悲しい、せつない、あたたかい物語でした。この場所はレオポルトシュタットにはなく、しかしそれがタイトルになっていることで、これが決してユダヤだけの物語ではないのだ、と逆に強く訴えているのだと思いました。特に多様性や反戦を訴えている作品ではないとも思いました。でもこの家族の輪を広げていけたら、論戦してたとえ平行線でも笑って同じ食卓につけるような関係が築いていけたら、いくつものお祈りを同時にすることすらできるのだから、人はもう少しだけ愛に、神に、平和に近づけるはずなのではないか…そんなことを考えさせられました。
中劇場はグランドミュージカルをするハコかと思っていましたが、盆を上手く使ったこういう大人数の芝居をじっくり見せるのにもいい場所なんですね。そしてまあまあな台詞の量だし転換早いし、集中力の要る大変な作品だったと思いますが、役者さんはみんな達者で素晴らしかったです。そしてみんな本当にそれっぽかった、それが演技だと言われればそれまでなんですけれど、本当に堪能し浸りました。満足な観劇でございました。