東京宝塚劇場、2022年9月20日18時半、27日18時半、29日18時半。
1920年代アメリカ。ニューヨーク郊外のロングアイランドにある新興住宅街ウエスト・エッグに、目を瞠るほどの大豪邸が建っている。邸の主は、謎の資産家ジェイ・ギャツビー(月城かなと)。そこでは誰でも自由に参加できる盛大なパーティーが夜ごと催され、禁酒法下にもかかわらずシャンパンやワインが惜しげもなく振る舞われていた。だが狂騒に酔いしれ、歌い踊る客たちは誰も、ギャツビーの顔と素性を知らない。ギャツビー邸の隣に建つ小さな家に越してきたニック・キャラウェイ(風間柚乃)は豪奢なパーティーを目の当たりにして驚いていたが、宴が果てた朝、庭続きにある突堤に佇み、対岸を見つめるギャツビーに思い切って声をかける…
脚本・演出/小池修一郎、作曲・編曲/太田健、吉﨑憲治、高橋恵、小澤時史。F・スコット・フィッツジェラルドの同名小説を原作にし、1991年に雪組で『華麗なるギャツビー』として世界初のミュージカル化、2008年には2幕ものにして月組で再演した作品の三度目の上演。全2幕。
私は初演には間に合っていなくて、昔スカステで見たかなー、程度の記憶しかありません。再演のアサコ主演日生版を観たときの感想はこちら、外部で内くん主演版を観たときのものはこちら、ヨシオさん版のものはこちら。以前ディカプリオ主演の映画も観ましたし、最近テレビでやっていたので久々に見たりもしました。原作小説は…読んだことがあったかなあ? まあ、基本的には男性の男性による男性のためのロマンを描いたものだとは思っていて、その意味では別に嫌いな話ではありません。そう思わないと「は?」とか「ケッ」ってなるお話なのではないか、とは思っている、ということです。
なので、ポスターなんかのビジュアルがずいぶんと綺麗すぎるというか、すがすがしいくらいに私には見えて、でもギャツビーってこんな綺麗な話じゃなくない?もっとしょーもない話なんじゃない??というのが私の解釈だったので、イケコがなんかものすごく陶酔して麗々しいものに仕立てようとしていたらヤダな…と、ちょっと心配していました。大劇場公演はコロナ休演が多く、私も押さえていたチケットが飛んで取り直せないままに終わってしまったので、久々に東京公演まで観るのを待った演目となりました。
マイ初日は、退屈しました。細かいことを全然覚えていませんでしたが(主題歌と「だったと申しましょうか~いや、永遠にとお答えしましょう」たっけ?あの台詞くらいしか記憶がなく、他はあまり「ああ、こんなだったこんなだった!」というのがなかった…)話は知っているので、展開遅いなー話が全然進まないなー、という気がついしてしまったのです。どれが増えた楽曲なのかもよくわからないくらいの記憶のなさですみませんが、しかし全体にはやはり水増し感を感じました。役が少ないので、宝塚歌劇としてはスターの顔見せ時間としていろいろたっぷりやる必要がある、というのはわかりますし、たとえば「俺たちの見る夢」のバックでクラブの男を踊る男役スターたちをひとりずつチェックして眺めるのとかは楽しかったのです。「デイジー」とか「アウトロー・ブルース」なんかで、れいこちゃんギャツビーの美貌をしみじみ堪能するのも楽しい。でも「アイス・キャッスルに別れを」はさすがに蛇足では?とか、なんかこんなシチュエーションと似た楽曲が『カサブランカ』になかったっけワンパターンすぎないかイケコ…とかとか、つい気が散ってしまったんですね。でも「王女と王子」はなんか好きだなー。あと「恋のホールインワン」とかね(笑)。「アメリカの貴族」は新曲なんでしたっけ? でもこれもトム(鳳月杏)の人となりが出るいい曲ではありましたね。ぎりぎり、ぺるしゃ、一星くんを眺める時間としてもよかった。「女の子はバカな方がいい」もくらげちゃんの絶唱として素晴らしいのですが、「♪なってやるわ」のあとは「女の子」ではなく「女」だろう…音の数もその方がいいし、こういうことを言う時点でその女性はもう「女の子」ではない、デイジーをカマトト扱いするのはキャラの冒涜なのではないか、とかとか聞いていてまたいろいろ考え出してしまい…「神は見ている」とかもドラマチックでザッツ・イケコで私は好みなんですが、でもなくてもいいっちゃいいくだりなんですよね。イヤこういうのがないとミューカルとして痩せる、というのはわかるんですけど。
でもやはり若手主演の別箱で、かつ一幕ものに戻してもいいのではないでしょうか…となると2番手主演の全ツとか? ギャツビーは30歳絡みの役なのかもしれませんが、青臭いところがあるというかそういう切り口の方がいい気もするし、デイジー役者にしてもトップ娘役じゃない方がいい気がするのです。トップ娘役に演じさせるから脚本的に「デイジーにも一分の理」を作ろうとしているのでしょうが、そもそもこのキャラというか存在はギャツビーないし作者のほぼ幻想みたいなものであって、人間としての一貫性や整合性はないものなのではないかという気もするので…あとはとにかく役がないので座組半分でいいし、なんなら『アルジェ』っぽくウィルソン(光月るう)がギャツビーを撃って自殺したところで幕を下ろしてもいいくらいのお話だと思うんですよね。次はそういう、研ぎ澄まされ締まりきった芝居バージョンを観てみたいなと思ったりしました。そのほうが名曲「朝日の昇る前に」もより際立つのではないかしらん…
ただ今回は、観るたびにお席が良くなってマイ楽は7列目といえどSS席だったので(3列前の斜めに珠城さんがいて、バレードの銀橋ラインナップで顔を右に左に向けて大忙しで手拍子が乱れていたのが眺められてたいそう可愛らしかったです)、どんどんれいこちゃんの美貌に集中しやすくなり堪能しまくり、冗長なナンバーもあふれる心情を歌うものとして受け入れやすくなり(またれいこの歌が上手いんだコレが!)、「まあ…これはこれで…楽しかったし…なんせ顔がいいし…」とうっかり納得して観終えてしまいました(笑)。いやーマジ美は正義。そもそもギャツビーは特に美男設定ではないのではないかと思いますが(まあデイジーがころりと惚れる程度のハンサムさは要るのかもしれませんが、男の世界では顔面は重要視されないか、下手に美形だと足枷になることすらあるものなのでしょう)、宝塚歌劇的に考えれば美しいからギリ許せる、という執着であり妄執であり立派なストーキングなので、これで正解ですよね。またれいこの芝居が実に良くて、自分の美貌にまったく頓着することなく顔を歪め冷笑し怒り狂いあざ笑い焦りあわてるのが素晴らしく、人間としてしょうもなく、愚かでしかし真剣なのである…ということがビシバシ伝わってよかったし、それでこのバージョンのこの作品を奇跡的に、立派に成立させている気がしました。そういう意味では、アサコ一本被りだった再演版より周りのスターの演技力も明らかに高く、芝居が緻密だったのも成功要因として大きかったかと思います。専科といえど元月組子のまゆぽんウルフシェイム(輝月ゆうま)も実に良かったですし、「芝居の月組」は健在だしれいこ時代も早くも仕上がりつつある気がするよなあ…!とかしみじみ思うのでした。
なっちゃん、はーちゃんはこれでご卒業。残念ですが、卒業後も良き人生を…
ご縁がなく新公が観られなかったのが残念でした。あみちゃんギャツビーにおはねちゃんデイジーとくれば、歌も芝居もそら良かったろうし、いくつかのナンバーがカットされた短縮版の方が展開もスピーディーでよかったことでしょう。スカステでの全編放送が今から楽しみです…!
あとは…みちる可愛いよみちる、とかうーちゃんどうした激やせだなでもカッコいいぞ!とかぱるが好きー!とか脳内で叫んでいたら終わりました。花妃舞音ちゃんチェックはお葬式場面以外はできました。あれは暗くてみんなほぼ後ろ向きでわからなかった…でもあとは、学年的にだいたいこのあたり…?と目星をつけてオペラを覗いた先にたいていちゃんといたのでたいしたものでした(笑)、はーカワイイ。あとはロケットね! センターからばーん!と出てくるのが大正解すぎました。ダブルトリオは最下手。はーカワイイ(二度言う)。一乃凛ちゃんのエトワールも素晴らしかったです!
でもフィナーレは全体にわりと凡庸でしたよね…? あと、れいこちゃんは娘役に囲まれるくだりも、ちなつに譲るまでの男役群舞ターンも、こういう振りだと特にダンスの人ではないことが如実にバレる気がして、私はちょっといただけないなと思ってしまいました。デュエダンはそんなことはないんだけど…なんだろう? もっとバリバリ踊る系の方がごまかしやすいのかなあ…(オイ)
おださんはポスター入りもめでたく、まったく危なげない三番手っぷりで、月組の未来は明るいなあと思いました。
あとは本当にれいこちゃんの顔が良くて…プログラムの見開きモノクロどアップとか、余人にはなかなかできませんよ…! はー、顔がいい。なので満足しました、すみません。
1920年代アメリカ。ニューヨーク郊外のロングアイランドにある新興住宅街ウエスト・エッグに、目を瞠るほどの大豪邸が建っている。邸の主は、謎の資産家ジェイ・ギャツビー(月城かなと)。そこでは誰でも自由に参加できる盛大なパーティーが夜ごと催され、禁酒法下にもかかわらずシャンパンやワインが惜しげもなく振る舞われていた。だが狂騒に酔いしれ、歌い踊る客たちは誰も、ギャツビーの顔と素性を知らない。ギャツビー邸の隣に建つ小さな家に越してきたニック・キャラウェイ(風間柚乃)は豪奢なパーティーを目の当たりにして驚いていたが、宴が果てた朝、庭続きにある突堤に佇み、対岸を見つめるギャツビーに思い切って声をかける…
脚本・演出/小池修一郎、作曲・編曲/太田健、吉﨑憲治、高橋恵、小澤時史。F・スコット・フィッツジェラルドの同名小説を原作にし、1991年に雪組で『華麗なるギャツビー』として世界初のミュージカル化、2008年には2幕ものにして月組で再演した作品の三度目の上演。全2幕。
私は初演には間に合っていなくて、昔スカステで見たかなー、程度の記憶しかありません。再演のアサコ主演日生版を観たときの感想はこちら、外部で内くん主演版を観たときのものはこちら、ヨシオさん版のものはこちら。以前ディカプリオ主演の映画も観ましたし、最近テレビでやっていたので久々に見たりもしました。原作小説は…読んだことがあったかなあ? まあ、基本的には男性の男性による男性のためのロマンを描いたものだとは思っていて、その意味では別に嫌いな話ではありません。そう思わないと「は?」とか「ケッ」ってなるお話なのではないか、とは思っている、ということです。
なので、ポスターなんかのビジュアルがずいぶんと綺麗すぎるというか、すがすがしいくらいに私には見えて、でもギャツビーってこんな綺麗な話じゃなくない?もっとしょーもない話なんじゃない??というのが私の解釈だったので、イケコがなんかものすごく陶酔して麗々しいものに仕立てようとしていたらヤダな…と、ちょっと心配していました。大劇場公演はコロナ休演が多く、私も押さえていたチケットが飛んで取り直せないままに終わってしまったので、久々に東京公演まで観るのを待った演目となりました。
マイ初日は、退屈しました。細かいことを全然覚えていませんでしたが(主題歌と「だったと申しましょうか~いや、永遠にとお答えしましょう」たっけ?あの台詞くらいしか記憶がなく、他はあまり「ああ、こんなだったこんなだった!」というのがなかった…)話は知っているので、展開遅いなー話が全然進まないなー、という気がついしてしまったのです。どれが増えた楽曲なのかもよくわからないくらいの記憶のなさですみませんが、しかし全体にはやはり水増し感を感じました。役が少ないので、宝塚歌劇としてはスターの顔見せ時間としていろいろたっぷりやる必要がある、というのはわかりますし、たとえば「俺たちの見る夢」のバックでクラブの男を踊る男役スターたちをひとりずつチェックして眺めるのとかは楽しかったのです。「デイジー」とか「アウトロー・ブルース」なんかで、れいこちゃんギャツビーの美貌をしみじみ堪能するのも楽しい。でも「アイス・キャッスルに別れを」はさすがに蛇足では?とか、なんかこんなシチュエーションと似た楽曲が『カサブランカ』になかったっけワンパターンすぎないかイケコ…とかとか、つい気が散ってしまったんですね。でも「王女と王子」はなんか好きだなー。あと「恋のホールインワン」とかね(笑)。「アメリカの貴族」は新曲なんでしたっけ? でもこれもトム(鳳月杏)の人となりが出るいい曲ではありましたね。ぎりぎり、ぺるしゃ、一星くんを眺める時間としてもよかった。「女の子はバカな方がいい」もくらげちゃんの絶唱として素晴らしいのですが、「♪なってやるわ」のあとは「女の子」ではなく「女」だろう…音の数もその方がいいし、こういうことを言う時点でその女性はもう「女の子」ではない、デイジーをカマトト扱いするのはキャラの冒涜なのではないか、とかとか聞いていてまたいろいろ考え出してしまい…「神は見ている」とかもドラマチックでザッツ・イケコで私は好みなんですが、でもなくてもいいっちゃいいくだりなんですよね。イヤこういうのがないとミューカルとして痩せる、というのはわかるんですけど。
でもやはり若手主演の別箱で、かつ一幕ものに戻してもいいのではないでしょうか…となると2番手主演の全ツとか? ギャツビーは30歳絡みの役なのかもしれませんが、青臭いところがあるというかそういう切り口の方がいい気もするし、デイジー役者にしてもトップ娘役じゃない方がいい気がするのです。トップ娘役に演じさせるから脚本的に「デイジーにも一分の理」を作ろうとしているのでしょうが、そもそもこのキャラというか存在はギャツビーないし作者のほぼ幻想みたいなものであって、人間としての一貫性や整合性はないものなのではないかという気もするので…あとはとにかく役がないので座組半分でいいし、なんなら『アルジェ』っぽくウィルソン(光月るう)がギャツビーを撃って自殺したところで幕を下ろしてもいいくらいのお話だと思うんですよね。次はそういう、研ぎ澄まされ締まりきった芝居バージョンを観てみたいなと思ったりしました。そのほうが名曲「朝日の昇る前に」もより際立つのではないかしらん…
ただ今回は、観るたびにお席が良くなってマイ楽は7列目といえどSS席だったので(3列前の斜めに珠城さんがいて、バレードの銀橋ラインナップで顔を右に左に向けて大忙しで手拍子が乱れていたのが眺められてたいそう可愛らしかったです)、どんどんれいこちゃんの美貌に集中しやすくなり堪能しまくり、冗長なナンバーもあふれる心情を歌うものとして受け入れやすくなり(またれいこの歌が上手いんだコレが!)、「まあ…これはこれで…楽しかったし…なんせ顔がいいし…」とうっかり納得して観終えてしまいました(笑)。いやーマジ美は正義。そもそもギャツビーは特に美男設定ではないのではないかと思いますが(まあデイジーがころりと惚れる程度のハンサムさは要るのかもしれませんが、男の世界では顔面は重要視されないか、下手に美形だと足枷になることすらあるものなのでしょう)、宝塚歌劇的に考えれば美しいからギリ許せる、という執着であり妄執であり立派なストーキングなので、これで正解ですよね。またれいこの芝居が実に良くて、自分の美貌にまったく頓着することなく顔を歪め冷笑し怒り狂いあざ笑い焦りあわてるのが素晴らしく、人間としてしょうもなく、愚かでしかし真剣なのである…ということがビシバシ伝わってよかったし、それでこのバージョンのこの作品を奇跡的に、立派に成立させている気がしました。そういう意味では、アサコ一本被りだった再演版より周りのスターの演技力も明らかに高く、芝居が緻密だったのも成功要因として大きかったかと思います。専科といえど元月組子のまゆぽんウルフシェイム(輝月ゆうま)も実に良かったですし、「芝居の月組」は健在だしれいこ時代も早くも仕上がりつつある気がするよなあ…!とかしみじみ思うのでした。
なっちゃん、はーちゃんはこれでご卒業。残念ですが、卒業後も良き人生を…
ご縁がなく新公が観られなかったのが残念でした。あみちゃんギャツビーにおはねちゃんデイジーとくれば、歌も芝居もそら良かったろうし、いくつかのナンバーがカットされた短縮版の方が展開もスピーディーでよかったことでしょう。スカステでの全編放送が今から楽しみです…!
あとは…みちる可愛いよみちる、とかうーちゃんどうした激やせだなでもカッコいいぞ!とかぱるが好きー!とか脳内で叫んでいたら終わりました。花妃舞音ちゃんチェックはお葬式場面以外はできました。あれは暗くてみんなほぼ後ろ向きでわからなかった…でもあとは、学年的にだいたいこのあたり…?と目星をつけてオペラを覗いた先にたいていちゃんといたのでたいしたものでした(笑)、はーカワイイ。あとはロケットね! センターからばーん!と出てくるのが大正解すぎました。ダブルトリオは最下手。はーカワイイ(二度言う)。一乃凛ちゃんのエトワールも素晴らしかったです!
でもフィナーレは全体にわりと凡庸でしたよね…? あと、れいこちゃんは娘役に囲まれるくだりも、ちなつに譲るまでの男役群舞ターンも、こういう振りだと特にダンスの人ではないことが如実にバレる気がして、私はちょっといただけないなと思ってしまいました。デュエダンはそんなことはないんだけど…なんだろう? もっとバリバリ踊る系の方がごまかしやすいのかなあ…(オイ)
おださんはポスター入りもめでたく、まったく危なげない三番手っぷりで、月組の未来は明るいなあと思いました。
あとは本当にれいこちゃんの顔が良くて…プログラムの見開きモノクロどアップとか、余人にはなかなかできませんよ…! はー、顔がいい。なので満足しました、すみません。