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「甲陽軍鑑」を読む 29

(応声教院の山門)

朝から、Nさん、Kさんと三人で、遠州の長屋門を見て回った。来月の「駿遠の考古学と歴史」講座で長屋門がテーマになることから、Nさんの誘いに応じたものである。

廻った順は、天竜の内山真龍家、雄踏の中村家、牧之原市大江の中村家、相良の大鐘家、上朝比奈の河原崎家、小笠の黒田家代官屋敷、掛川市和田の徳本家、掛川市板沢の角皆家、掛川の松ヶ岡の山崎家の順となった。その話は明日以降にする。

写真は、途中に立ち寄った菊川市の応声教院の山門である。徳川二代将軍秀忠の生母、西郷の局の菩提寺、静岡市の宝台院の大門を譲り受け、大正七年にこの地に移築したもので、国の重要文化財に指定されている。石段の上にあって、このお寺には不似合な大門であった。移築以来、改修など行われていないのであろう。横から見ると石段側に少し傾いで、剣呑に見える。移築から100年近く経ち、すぐにでも改修しないと危ないと思った。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。「高天神にて、内藤修理手柄の事」の項の続き。

次の日の競り合いに、吉田の宿、城に於いて、追い入れ、追い出され、三度競り合いあり。広瀬江左衛門、その日、物見番にあたり、馬上にて家康一番の侍大将、しかも家康伯母聟の、酒井左衛門尉と、三度の内二度、言葉を合わせ、追い込み追い出され、武篇を仕る。その時、三科、小菅、孕石、曲渕、辻弥兵衛、和田加介、長坂十左衛門、こち、この八人、馬より降り立ち、高名仕り候。広瀬は馬上故、人を討たず候なり。その後、山通り、うしくぼ(牛久保)、長沢まで、御働きなされ、やがて引き返し、三河設楽郡、その外御仕置候て、五月半ばに御馬入り申し候。
※ 武篇(ぶへん)➜ 戦場で勇敢に敵と戦うこと。
※ 仕置(しおき)➜ 処置すること。采配すること。


さて件(くだん)の如く、別して御祈祷の奉公、相勤め候間、駿州洲走の浅間之宮、同州岡宮社務之事、仰せ付けられ候。弥(いよいよ)祈り奉り、御武運長久、就中(なかんずく)祭礼など怠慢あるべからざるものなり。仍って件の如し。
  元亀二辛未年卯月廿一日      跡部大炊介
                   原隼人佐
             小佐野越後守殿
※ 駿州洲走の浅間之宮、同州岡宮社務之事 ➜ 元亀二年(一五七一)四月二十一日、駿河国を奪った武田信玄が、冨士御室浅間神社(山梨県・富士河口湖町)の神職に、「駿州洲走之浅間之宮」および「同州岡宮社(沼津市・岡宮浅間神社)」の社務兼帯を与えている。その事を云うか。
※ 就中(なかんずく)➜ その中でも。とりわけ。
※ 小佐野越後守(おさのえちごのかみ)➜ 冨士御室浅間神社別当。小佐野越後守は、武田氏より他国の浅間神社を管轄することを任されている。なお、小佐野越後守は個人名ではなく、代々引き継いでいる名前である。

(「甲陽軍鑑巻第十一下 甲陽軍鑑品第丗七」終り)
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