平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「竹下村誌稿」を読む 266 駅路 37
午後、五回目、最後の「天澤寺殿三百年記録」解読講座に出る。最後は、この法要の支出の報告である。量的には少なく、残った時間で江戸時代のお金の話をした。と言っても、金、銀、銭、疋など複雑で、江戸の庶民はそれをよく使い分けていたものである。庶民が使っていたお金はどのようなものか、という質問があった。庶民は銭でほぼ生活が出来ていたはずで、支払う方も、下層の庶民へは銭で支払ったようである。支払方に、金、銀、銭、疋と入り混じっているのは、支払額と相手を勘案して、使用貨幣を使い別けていたからであろう。
会場のセンター四階からは富士山が見えるとは聞いていたが、5回目にして初めて、その姿を見ることが出来た。静岡の景色には富士山が良く似合う。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。紀行文の項を続ける。
却説(さて)その後、遠江より駿河に移る駅路は、この中山より菊川を経、初倉にて大井川を渡りたるのみならず、鎌塚にて大井川を渡り、島田に通ぜしことあり。駿河雑記に、
菊川より諏訪の原にかゝり、鎌塚を経て大井川を渉り、島田に上り藤枝に到る。
とありて、その通過せし年代詳らかならずといえども、元弘の役(元弘元年、1331)、俊基東下の際には、菊川より大井川を過ぎ、島田、藤枝に懸り、と太平記にあれど、その径路は基より定かならざれど、菊川より島田に移るには、地勢上初倉を経べきとも思われず。またこの頃は金谷の宿も成らざる前なれば、質侶の渡しを越すに非ざるよりは、鎌塚を通過せしことは、推定し難きに非ずといえども、鎌倉の中頃より室町の中世に至る、凡そ二百年間、この地における海道の有様を、知るに足るべき史乗伝わらず。
※ 史乗(しじょう)- 歴史上の事実の記録。歴史書。
されど永享壬子(永享四年、1432)の菊月(旧暦9月)、室町六代将軍(足利義教)東国下向の時には、鎌塚にて大井川を渡りしことは、将軍に随行せし堯孝法印の書ける「覧富士記」に、鎌塚の題詠あるを以って明らかなりとす。
東 下
十七日、さやの中山にて出され侍りし御歌
名にしおえば 昼越えてだに 富士も見ず 秋雨暗き さよの中山
同、御和し、 堯孝法師
秋の雨も 晴るゝばかりの 言の葉を 富士の根よりも 高くこそみれ
同じ所にて 同(堯孝法師)
雨雲の よそにへだてゝ 富士の根は さやにも見えぬ さやの中山
十八日、藤枝の御とまり(見付の府より十一里)を立ちて、宇都の山越え侍れば(中略)
西 上
廿二日、せと山と申す所にて、同(堯孝法師)
うらがるゝ お花の浪に かえるなり しおじ(潮路)は遠き せとの山風
※ うらがるる - 秋の末に、草木のこずえや葉末が色づいて枯れる。
かまつかと申す渡りにて、同(堯孝法師)
駒とめよ 草かるおのこ 手もたゆく とる鎌つかも この渡りとて
※ たゆし - 疲れて力がない。だるい。
さやの中山にて、富士の根ほのかに見え侍りしに、歌詠ませられしとき御歌
富士の根も 面影ばかり ほのぼのと 雪より白む さよの中山
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