平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
上越秋山紀行 下 23 六日目 前倉村 2
「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。
傍らに桶屋が云う。ここを去る事、数十丁登りて、大赤沢川の村上、苗場の山の下流の出合、この中津川と一ツに纏(まとま)りたる処に、凡そ二丈ばかりの滝あり。これは大赤沢の対図に当り、矢矧の橋の少し川上にて、底は千尋とも云う。中津川のその両岸の勝景を見るには、その行路難渋、時刻移りなば、今昔、上結東村の泊り、思いもよらずと云うに、見残しぬ。
※ 対図(ついず)- 二つが一組とされる図。
※ 今昔(こんじゃく)- 今と昔。今も昔も。
抑々(そもそも)この橋前後半道ばかりの処は、深渕限りなき水底数々故、鱒、岩魚の類いの栖(すみか)にて、かの秋山を住居とす秋田猟師は、この水底へ潜り、鍵にて取る事妙手を得たりとなん。また東の岸の巌に洞穴あり。その深き事、量り知るべからず。また小赤沢村下りの岸にも大きな洞穴ありて、遥か下の川岸の岩に抜穴ありと、種々の噺もこの地に馴れて見聞したる桶屋故、さこそと思い、元(もと)来し梯にすがり辛くして、高き皐(さわ)の細道をたどり/\、前倉と云う九軒の村あり。
桶屋が知己の平左衛門と云う家を尋ねて、腰うち懸けるに、主と見えて、何処から来たと云うに、あい、桶屋で御座りますと答うに、女房らしきが、手さしの白木の盆を出し(これを秋山にては、つもの盆と申すとかや)、もの摘(つま)みなされとさし出すに、我等は頓(やが)て大なる炉端へ、草鞋のまゝに這いより、焼飯を焙(あぶ)る間に、妻らしきが、湯瓶の欠けを茶煎にして、貯え見ゆる美濃茶らしきを、空腹にうまく味わう時、婦の挨拶には、こんな茶碗で恥しう御座ると、茶台は一方欠けたる木曽重箱の模様あるを、縁(ふち)無き方を持てさし出す。
※ 湯瓶(とうびん)- 湯沸かし。鉄瓶・やかんの類。
また亭主の挨拶には、上結東まで遠くござる。昼飯を沢山喰うて行くがよいと申すに、予、暫く休(いこ)う内に、茶代の替りに短冊五六枚認(したた)め、さし出す。
秋山に 短冊配る もみぢ時
こゝも戸札と 問わる義三寺(牧之俗名、義三治ゆえ)
※ 戸札(へふだ)- へのふだ。古代の良民の戸籍。律令時代には六年ごとに全国的に調査作成された。(役人の戸籍調査と間違えられる。)
頓(やが)て、この村端を出れば、小高き岡に老樹茂りたる中に小社あり。その傍に五、六抱えも有りぬべきと思う大樫の、少し控(うろ)になりしを、山師が六尺玉に伐りて挽きあり。能く見れば鱗皮のうえまで見え、最上の木にして、数百歳の星霜を歴(へ)る神木も、一度山師の手にかゝれは、里人の知らぬが仏で、買い調うこと是非もなし。
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上越秋山紀行 下 22 六日目 前倉村 1
購入した渋柿は30個あった。昨夜加工して干す。合計454個となる。多分これで終り。
久し振りだが、「上越秋山紀行 下」の解読の続きである。
往く先毎に画軸を開くが如く、こゝに六十余りの老人、この土地のものゝよし。暫く道ずれになり、噺の内に、前かたこの秋山へ検地役人やらが来なった時、己(うら)も人足に出て、道こしらえたと云う。頓(やが)て、この老人に別れて、大秋山となん。
昔々より、惣秋山の根本と云えども、四十六年の昔、卯の凶作に飢え死、この村哀れ人種(ひとたね)尽きて、今は家一軒もなく、果てしなき茅原となり、平氏の歴々隠れ家も、時ならぬ晩秋、蟋蟀の数限りのう、すだく音のみ。小路、刈り稲時の螽(いなご)の如く、草鞋(わらじ)の踏敷きなきほど飛びぬるを、これや平家の落人の幽魂ならめと思う。
※ 時ならぬ(ときならぬ)- 時期外れの。思いがけない。
※ 蟋蟀(きりぎりす)-「きりぎりす」とルビがあるが、今のコオロギのこと。
白旗の 御代(みよ)となりたる 秋山や
たゞ一面に なひく穂薄(ほすすき)
頻りに懐旧の情を催して、
名をめでゝ 赤倉山の 紅葉ばは
平家の旗を 掲げたようなり
粟刈りに行く秋山の道ずれになり、先に見し石鉾の事を、登りて見ようと問うに、拙(うら)なんすも、石鉾の際まで上って見申した。玉罰(なんばん)のように、ちいと反って、里で見た天神様が持たれたようなを、さかさまに立てたようだと云う。さては笏を逆さに立てた様なと、こゝにては吟ず。
※ 玉罰(なんばん)- 南蛮。ここでは、唐辛子のことであろう。
なんばんの ような石ほこ しゃくに似て
命からがら 登るとや云う
これより前倉の橋見んと、この川辺へ下る道、嶮岨にして、諸樹枝を交い、日影さえ乏しく辛くして、岸へ下らんとする所、巌石尖(せん)にして、一歩ごとに他を見る事さえ叶わず。既に橋際の処は、屏風を立てたる如き大岩にて、丈余りの梯(はしご)を急に掛け、眼下の橋はいかにも長き木を二本、左右に岩にかけ渡し、柴を横にまばらに掻い付けたるを、
※ 丈(じょう)- 一丈。長さの単位。約3メートル。
予は遥かにこの地の奇景を探るを専らとする故、もの好きに梯を下り、橋の上少し渡りて、頭を挙げて見れば、川向へは中の平への往来の丹梯(さかみち)。これまた立壁の如くその道筋と見えて、藤蔓がして縄にしたるを下げたり。また首を垂れて両岸を望めば、澗水宛(あたか)も屏風を屈曲して廻したるが如く、その色、藍にして、都(すべ)てこの辺りは渓流溶々として流れ、目枯れせぬ詠(なが)めなり。
※ 澗水(かんすい)- 谷川の流れ。
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東泉寺の「弘誓院之碑」を読み解く
午後、掛川古文書講座に出席した。終ってから、同じ受講者のYさんと、すぐそばの龍華院のある丘に登った。登り口の紅葉が見えたからである。写真を何枚か撮ったが、紅葉は青空によく似あうと思った。
(御前崎市の東泉寺「弘誓院之碑」)
一昨日、小堤山公園の帰り道で、浜岡を廻って帰った。その途中、丸尾文六に関係する碑でもないかと、東泉寺に立寄って、こじんまりした漢文碑を見つけた。東泉寺のHPに、東泉寺は江戸時代には寺子屋、明治になって、一時期小学校の仮校舎にもなり、丸尾文六らが興した平章学舎の塾舎として使用されたりした。その頃、乞われて江戸から移住して、当地の女子教育に尽くした粟井真砂子の塾舎も東泉寺に置かれたという。その碑を以下へ読み解く。
(題額)弘誓院之碑
弘誓院、諱(いみな)眞砂子、姓湯浅氏。文化二年正月、江都に生る。幼くして読書を好み、長じて織縫を事とせず。専ら経伝に力を注ぐ。最も易に精(くわ)し。年二十五にして、粟井氏に歸(とつ)ぐ。安政三年、粟井氏歿す。
※ 江都(こうと)- 江戸の異称。
※ 織縫(しょくほう)- 機織りと、裁縫。
※ 経伝(けいでん)- 経書とその解釈書。
刀自乃(すなわ)ち薙髪し、遺孤を鞠し、傍ら育英に従う。明治維新の際、京師に在り、兵禍を蒙(こうむ)る。爾来、各地を輾転(てんてん)し、遂に此処(ここ)に止まる。就(つい)て、教えを請う者、甚だ多し。
※ 刀自(とじ)- 年輩 の女性を敬愛の気持ちを込めて呼ぶ称。名前の下に付けて敬称としても用いる。
※ 薙髪(ちはつ)- 髪を切ること。髪をそり落とすこと。剃髪。
※ 遺孤(いこ)- 両親の死後に残された子供。遺児。
※ 鞠す(きくす)- 大事に育てること。
※ 育英(いくえい)- すぐれた才能を持った青少年を教育すること。転じて、教育。
※ 京師(けいし)- 京都のこと。
※ 兵禍(へいか)- 戦争によって生じるわざわい。戦禍。
※ 爾来(じらい)- それからのち。それ以来。
明治五年七月以って、壽終焉。年六十有八、今茲(ここ)に、丙午、刀自歿後、三十五周歳(年)門弟子相謀り、石を建て後界へ伝う。銘曰く、
※ 壽終焉(じゅしゅうえん)- 命が尽きて死を迎えること。
※ 丙午(ひのえうま)- 1906年(明治39年)。
※ 後界(こうかい)- 後世。
貞操化俗 孝徳歸淳 歿后相戀 建碑斯新
(銘の意訳、七五調で)
正しい道に導きて、孝と徳とに素直なり、死んだ後さえ慕われて、碑を建てかくに新たなり。 藤本藤平撰
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小堤山公園の「増田銀蔵君紀念碑」を読み解く その2
昨夜、金谷宿大学教授会で示された「東海道金谷宿大学憲章」。実は初めて見た。20何年か前に、こんな憲章のもと、和気あいあいと立ち上げられたと聞く。何の資格もない自分が、一講座を引き受けるのだから、せめて楽しい講座にして行きたいと思う。
午後、車の点検に出掛けた。その後に、思い付いて、藤枝の果物屋さんに寄ってみた。目的は渋柿である。もう終ったかと思っていたが、まだ売られていた。今、干してある、御近所から頂いた渋柿と同じ位大きい。もちろん買ってきた。30個弱で1500円ほど。納得の値段である。この先の天気が崩れるというが、いつ加工しようかと迷っている。
「増田銀蔵君紀念碑」の解読を続ける。
君(増田銀蔵)、明治三十年四月十六日を以って歿す。享年七十六、仏諡(戒名)田燈譽別橋信明居士。今ここに、三月、門生、野中末吉など十五名相謀り、橋の東側に碑を樹(た)つ。
※ 門生(もんせい)- 門下生。門弟。門人。
※ 橋 - 相良新橋。本来ならこの碑は相良新橋の東詰にあったのであろう。
野中氏、御前崎の人なり。幼く君に従い書を学ぶ。夙に航海術に志し、今甲種船長となり、日露の役に功有りと、瑞宝章、勲六等、及び金一百八十円を賚(たまわ)り、従軍記章を授かる。盛んなりと謂うべし。而して、その源、実に君の薫陶に出でて、今にしてかく挙(きょ)有り。その所を自ら知ると謂うべきなり。銘曰く、
※ 従軍記章(従軍記章)- 日本が参戦した戦役・事変に関わった人物へ、これを顕彰するために日本国から贈られる記章。軍功の如何や階級に関係なく、また軍人及び軍属に限らず、要件を満たせば文民や民間人にも広く授与された。(昭和21年3月廃止)
※ 挙(きょ)- ひきたて。推挙。
里正之澤 永及無窮 輿梁之利 以濟不通 畢生之事 一出信義 欲知其人 観是美諡
※ 澤(たく)- 人に施す恵み。
※ 輿梁(よりょう)- 車やこしがとおれるほどの大きな橋。
※ 畢生(ひっせい)- 一生を終わるまでの期間。一生涯。終生。
(銘の意訳、七五調で)
村長さんのおかげです。いついつまでも果てしなく、幅広橋の便利さは、通れないこと無くなって。一生かけてのことでした、皆な信義から出たことで、その人のこと知りたくば、美(うま)しき諡(いみな)これに見よ。
静岡県知事 従四位勲三等、李家隆介篆額
明治四十二年三月 矢村義塾長 矢村宣昭撰
山本養書
山本友豊刻
※ 李家隆介(りのいえたかすけ)- 長州藩御典医・李家隆彦の長男。明治、大正の内務官僚。富山県知事、石川県知事、静岡県知事(第10代)、長崎県知事を歴任。
※ 矢村宣昭(やむらのぶあき)- 明治維新期に静岡に移住した無禄の幕臣で、漢学者。号は冲斎。
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小堤山公園の「増田銀蔵君紀念碑」を読み解く その1
午前中、再度、小堤山公園に、「増田銀蔵君紀念碑」の読めない所を確認しに行った。朝の日が斜め左から当って、石碑に刻んだ文字がはっきり読めた。だから、他の碑も改めてデジカメに撮っておいた。
御近所に頂いた渋柿12個を干柿に加工して干す。おそらく今年最後になると思う。これで今までの合計424個となる。
夜、金谷宿大学教授会に出席する。
(題額)増田銀蔵君紀念碑
君、諱(いみな)三代吉。姓源氏中西。通称銀蔵。考(亡父)、惣左右衛門と曰う。妣(亡母)、片瀬氏。君その第三子なり。文政五年四月八日を以って、榛原郡川崎街(町)に生る。弘化三年二月十日出て、増田氏を嗣ぎ。先職を襲い、黨正と為る。
※ 襲う(おそう)- 家系・地位などを受け継ぐ。
※ 黨正(とうせい)- 村長。里正。
明治元年八月八日、初めて藩主田沼侯に謁(えつ)す。即日、黨正を以って一市の管理を命ず。姓を称するを許し、禄俸を給す。蓋し、異数なり。その在職、前後二十有七年。
※ 一市(いちいち)- 相良湊の魚市場のことであろうか。
※ 異数(いすう)- 他に例のないこと。めったにないこと。また、そのさま。異例。
明治五年、初めて灯台を御前崎に設けるなり。その地、半嶋に属し、海陬遐僻、百事に不便なり。君、力を竭(つく)し斡旋し、その需用に供し、資料を不乏にせしむ。官、その恪動を嘉(ほ)め、屡々(しばしば)これを賞して云う。
※ 海陬(かいそう)- 海のほとりのへんぴな土地。
※ 遐僻(かへき)- 遠く僻地であること。
※ 百事(ひゃくじ)- さまざまなこと。また、すべてのこと。万事。
※ 資料(しりょう)- ここでは、物資の意。
※ 不乏(ふぼう)- 事欠かないこと。沢山あること。
※ 恪動(かくどう)- まじめな活動。
初め、相良街中、夾(はさ)み、唯、港橋有るのみ。その東に偏るごとし。頗る交通に艱なり。君、夙にこれを憂い、一橋を新しく復た架けるを欲す。群議を排し、万難辛苦を冒(かぶ)り、経営、これを官に請い、終に允可を得る。実に明治八年なり。厥初、有志の醵金を頼む。維持の爯来僅(わずか)なり。衆議漸く諧(やわら)ぎ、終に相良町の所管となりて、今に至る。人、利便を得る、実に君の賜(たま)ものなり。その公私に功徳有り。また大ならずや。
※ 艱(かん)- 難しくて動きがとれないこと。難儀。
※ 一橋 - 相良新橋のこと。相良の海側から二本目の橋。
※ 群議(ぐんぎ)- 多くの人の議論。衆議。
※ 允可(いんか)- 許すこと。許可。
※ 厥初(けっしょ)- そのはじめ。最初。
※ 醵金(きょきん)- ある目的のために金を出し合うこと。 また、その金。
※ 爯来(しょうらい)- となえ来たること。
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小堤山公園の「村松吉平之碑」を読み解く その2
午前中、防災訓練。御近所より、渋柿をいただく。もう今年も最後かと思っていたが、大きめの渋柿が出来るまで、まだ少しかかりそうである。
「村松吉平之碑」の解読を続ける。
既而(やがて)紛議起きる。油井、海(老)江に巋(つづ)くと。曰く、某の手、余(中村正直)と松斎び増野弥三七、慨然復たこれを欲す。有志者を遠駿豆に募る。数万金を得、遂にその油井を以って三州の共有と為す。
※ 慨然(がいぜん)- 心を奮い起こすさま。
松斎の力、これにおいて多なり。頭取として撰ばれ、相良に住む。余謂う、常に手足の如く、相倚(よ)るべしと。而れども、不意にそれを遽(あわただし)く、予(あらかじ)め棄てて歿すなり。子(むすこ)銘、これを請う。余、辞すこと能わざるなり。松斎諱(いみな)弘業。字(あざな)益世。吉平と称す。明治十四年四月二十四日を以って病没す。享季(年)四十、銘曰く、
生既有功矣佐成恢復之行 生既に功有り、佐(たすけ)て恢復の行を成す
死亦不朽矣振作後起之傑 死また朽ちず、振いて後起の傑を作る
※ 恢復の行(かいふくのぎょう)- 紛議を治めたこと。
※ 後起の傑(こうきのけつ)- ここでは、石坂周造のこと。
明治十七年甲申二月 中村正直撰
山岡鉄舟題額 高橋泥舟書 石坂周造建之 宮亀年刻
※ 中村正直(なかむらまさなお)- 幕末から明治にかけて、日本の武士・幕臣、啓蒙思想家。明治の六大教育家の一人。昌平坂学問所で学び、後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英。帰国後は静岡学問所の教授となる。
※ 六大教育家 - 福沢諭吉、森有礼、西周、加藤弘之、新島譲、中村正直
※ 山岡鉄舟(れい)- 幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。勝海舟、高橋泥舟(鉄舟の義兄)と共に幕末の三舟と呼ばれ、書家としても人気がある。
(臨済宗富春院)
撰の中村正直が駿府一時期住んでいたことが知れる石碑が、毎月2回はその前を通る大岩の富春院門前にある。漢文の碑ではないから対象外だが、短いものだから、参考に紹介しよう。
(中村正直旧宅案内石碑)
(題額)尚志 中村正直
江戸川聖人、中村敬宇先生が明治の初年、「西国立志編」「自由の理」を訳述せられたる、旧宅「無所争斎」の跡、これを距(へだて)る、北百二十歩、左に入る三十歩。
大正十五年六月 有志者建
※ 尚志(しょうし)- たかいこころざし。
※ 江戸川聖人(えどがわせいじん)- 江戸、江戸川町に明治6年、同人社が創設され、塾主は中村敬宇(正直)で「江戸川聖人」と呼ばれた。中村正直は徳川家が駿府(静岡藩)に移るに伴って江戸から移り、明治5年まで駿府の大岩の「無所争斎」に住んだ。
※ 歩(ぶ)- 長さの単位。一歩は約1.8メートル。つまり一間。
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小堤山公園の「村松吉平之碑」を読み解く その1
午前中、公民館で「金谷の歴史いろいろ」と題した、公開講座があり、聞きに行く。講師は金谷高校の元先生で、郷土史研究会を指導し、全国的に有名にした、中村肇氏であった。レジメが2時間では語り切れないほどあり、専門、あるいはローカルな言葉が飛び交うけれども、言葉だけで、字面を見ないとなかなか理解が難しかった。
午後は、「古文書に親しむ」講座に出席した。講座の前に、3月の発表会をもっと親しみやすいものにと、話し合われた。三つのグループに分かれて、それぞれのテーマで展示を考えることに纏まる。
牧之原市波津(旧相良町)の小堤山公園に、石碑がたくさん建ち並んでいるとの、ネットの情報で、先週の水曜日に行ってみた。なるほど、たくさんの石碑が並んでいる。おそらく、町の各所に有ったものがここに集められたのであろう。石碑は最初に建てた場所との関わりが大きいから、場所を移してしまうのはどんなものだろうと思う。
相良の町とその先の海を見晴らしていると、小堤山公園は相良の町にとって、絶好の津波避難地なのだろうと思った。石碑をいち早くこの丘の上に避難させたようにも見える。広場に近くの幼稚園の幼児たちが来ていた。自分が読みたい漢文碑を5基ほど写真に撮った。句碑や歌碑、現代文の碑、名簿だけの碑、戦没者慰霊碑などは、自分には対象外である。
(村松吉平の碑)
今回解読するのは、相良油田の関係者の顕彰碑である。日本の太平洋側に油井があったことは、半世紀前、静岡にきて初めて知った。全国的にももっと知られてよい話だと思う。
松斎村松吉平の碑
今ここに、甲申二月、石油興業頭領、石坂周造君来たり、余(中村正直)に言いて曰く、吾が友、村松松斎、奇傑の士なり。世に、遠州森町の著姓たり。夙(つと)に大志有り。郷里に安ぜず。横浜に遊び、商簿を講習するを欲す。その父、金一千円を授(さず)くを受けず。僅か十金(円)を懐にし、巨商、鈴木倶二を依(たよ)りて往く。
※ 甲申(こうしん)- 明治17年。
※ 石坂周造(いしざかしゅうぞう)- 幕末の志士。尊皇攘夷論者。明治期には石油産業の祖として知られる。幼名は源造、号は宗順。江戸では彦根藩脱藩浪士を自称していた。 信濃国水内郡桑名川村に渡辺彦右衛門の次男として生まれる。
※ 奇傑(きけつ)- 一風変わった、すぐれた人物。。
※ 著姓(ちょせい)- 有名な家がら。
※ 夙に(つとに)- 早くに。
明治五季(年)、村上正局、遠州榛原郡大江村に石油坑を発見す。未だ、その湯質を知らず。余に問う。余、往きこれを検(しら)べる。(結)果良きなり。因って相謀り、会社を相良に設ける。松斎、数千金を出す。
※ 村上正局(むらかみまさちか)- 旧幕臣。海老江の谷間で油くさい水が出ることを聞き、相良油田を発見した。
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掛川城公園の「浅井小一郎翁碑」を読み解く その2
午後、駿河古文書会に出席する。今日と次回は四十七士に一人、小野寺十内が妻に当てた手紙を読む。「人の鑑」と題して、江戸時代にその書簡集が出版されていて、その解読である。季節にぴったりの課題である。それにしても、古文書会の先輩方は、討ち入りについて、まるで昨日のことのように知っておられる。それは自分にとって大きな驚きであった。
「浅井小一郎翁碑」の解読を続ける。
同(明治)六年、浜松瞬養校に入り、翌年卒業、嶺向学校訓導に為る。後に中村学校に転じ、同十一年、岡田淡山先生に就き、報徳学を学び、兼ね農学を修む。衆民に率先し、山野を開拓し、茶、桐、柑橘を栽(うえ)る。
※ 浜松瞬養校(はままつしゅんようこう)- 明治8年に設立された教員養成学校。その後、静岡師範学校に合併。(「同六年」は8年の間違いか。)
※ 嶺向学校(みねむかいがっこう)- 掛川市上土方嶺向に出来た学校。後に土方小学校に発展。当時、女性医師育成に生涯を捧げた吉岡弥生が入学し学んでいる。
※ 訓導(くんどう)- 現行の教育法令でいう教諭と同等の職にあたる。
※ 中村学校(なかむらがっこう)- 現在の掛川市立中(なか)小学校。浅井小一郎は初代校長。
※ 岡田淡山(おかだたんざん)- 岡田良一郎。遠江国佐野郡倉真村出身。雅号の淡山は、掛川にある粟ヶ岳(淡ヶ岳)にちなんでいる。二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、地域の振興に努めた。長男は岡田良平、次男は一木喜徳郎、三男は竹山純平(竹山道雄の父)。
(明治)廿四年、掛川農学社講師に為る。三十一年、遠江報徳社訓導に為る。翌年、淡山先生に陪し、報徳を伝え、愛媛県に強(つと)む。後、独り六年留り、功績顕著なり。三十九年、帰り、浜松報徳館を守る。四十四年、名誉訓導と為り、爾後、退隠し、読書、詠歌に自から楽しむ。
※ 掛川農学社(かけがわのうがくしゃ)- 明治11年に、岡田良一郎が創立した。農業技術の普及に尽くした。
※ 遠江(国)報徳社(とおとうみほうとくしゃ)- 明治8年、岡田良一郎らにより創設された。その後、明治44年に大日本報徳社の本社となり、報徳運動の中核となった。
※ 陪す(ばいす)- 供をする。付き従う。
※ 退隠(たいいん)- 職を退き、暇な身分となること。
翁、人質として、直に毫(ごう)も虚飾無く人を教え、諄々と道を説く。肫々皆至誠に出で、身を報徳に委ねる。四十年一日の如く、公私受賞数十回。社徒、君子人として目す。二宮大先生曰く、吾が道、至誠と実行のみ。その体験諸者に我が有徳の翁在り。
※ 人質(ひとだち)- 人の生まれつきの性質・体質。
※ 毫も(ごうも)- すこしも。
※ 諄々(じゅんじゅん)- 相手にわかるようによく言い聞かせるさま。
※ 肫々(じゅんじゅん)- 仁慈のいきわたっているさま。
※ 社徒(しゃと)- 報徳社の弟子たち。
※ 君子人(くんしじん)- 徳行がすぐれ、君子とよぶにふさわしい人。
※ 目す(もくす)- 見る。
始め西原氏を娶(めと)り、早歿後、石川氏を娶り、四男二女を挙(あ)ぐ。長子亮策、後を承ける。今茲(ここ)に、友人相議(はか)り、掛川報徳館側(そば)に碑を建て、以って不朽を謀る。
昭和三年五月 道友 橋本孫一郎撰
道弟 鈴木良平書
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掛川城公園の「浅井小一郎翁碑」を読み解く その1
漢文碑を読み始めてから、報徳運動に係わる碑を何基も読む事になるだろうと、想像していた。二宮尊徳と言えば、ある年代以上の人なら誰でも知っている名前である。学校には必ずと言ってよいほど、玄関の脇、職員室の窓の外あたりに、薪を背負って歩きながら本を読む、少年時代の二宮尊徳像が立っていた。銅像は多くのものが供出されて、兵器となって戦地に赴いた。自分が通った小学校にもあった覚えがあるが、きっとそれは石彫の尊徳像だったのだろう。
近年、町で生きている尊徳さんを頻繁に見かけるが、彼らが手にするのは、本ではなくて、スマホである。きっと将来、日本には尊徳先生並の人物が輩出するに違いない。もっとも、彼らが事故に遭わずに生き延びたらの話であるが。
尊徳先生の思想に共鳴して、各地で報徳運動が起きた。幕末から明治、大正、昭和に至るまで、明治維新、文明開化、富国強兵、戦後復興、高度成長と、各ステージで、日本人のバックボーンとして、脈々と受け継がれてきたことを、知る人は少ない。
その報徳運動の日本の中心地が、隣町の掛川市にあったことも、知られていない。今日、明日と解読する碑は、その報徳運動の渦中にあって、訓導として、多くの人を育てた人である。碑は掛川城公園に建つが、そこは大日本報徳社の本社との境界に位置する。表に「浅井小一郎翁碑」と、裏に翁の一生の事績が刻まれている。
(表)
浅井小一郎翁碑
大日本報徳社長、正三位勲一等、岡田良平書
(裏)
大正四年十月四日、淺井小一郎翁、病を以って逝く。それを距たる天保八年一月四日に生れる。七十有九。翁の名、有徳。松翁と号す。遠江小笠郡中村、小右衛門次男。母坂野氏。
翁幼きより学を好み、中島嵩石翁に就き皇学を修め、後に儒学を石野正修翁に受く。弱冠にして掛川の山家に出仕す。幾(いくばく)も無く、家に帰り、父の職を継ぎ、里正と為る傍(かたわ)ら、家塾を開き、子弟に教える。明治三年、新しく一戸を構え、稼穡に務む。
※ 皇学(こうがく)- 国学。古事記・万葉集などの日本の古典を研究して、日本固有の思想・精神を究めようとする学問。
※ 山崎家 - 掛川藩御用達を勤めた豪商。屋敷は通称「松ヶ岡邸」と呼ばれ、時々一般公開される。
※ 里正(りせい)- 庄屋。村長 。
※ 稼穡(かしょく)- 穀物の植えつけと、取り入れ。種まきと収穫。農業。
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阿知ヶ谷天満天神社「広住君碑」を読み解く その2
「広住君碑」の解読を続ける。
君、人質として、直に温恕、夙(つと)に育に尽力し、壬申の興学の初め、その邑(村)就学者最多、近隣の摸楷たり。また救恤に心を致し、資財を惜しまず。
※ 人質(ひとだち)- 人の生まれつきの性質・体質。
※ 温恕(おんじょ)- 優しく穏やかなこと。
※ 夙(つと)に - ずっと以前から。早くから。
※ 壬申の興学(じんしんのこうがく)- 明治5(壬申)年に、太政官より発された日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令「学制」をいう。
※ 摸楷(もかい)- 手本。
※ 救恤(きゅうじゅつ)- 困っている人々を救い、めぐむこと。
遠近(おちこち)その仁を称(たた)えて、関与する所の公事、皆な著績。また人の為に謀(はか)るもの、遑(いとま)なく指し、戯れに於いて接す。中原の鹿、七楽、その手のもの、誠有るを以ってなり。室(妻)片岡氏、諱(いみな)登せ。貞淑、能く家政を理す。三男一女を挙ぐ。長子克家。
※ 公事(こうじ)- おおやけの仕事や用事。公務。
※ 著績(ちょせき)- 顕著な実績。
※ 中原之鹿(れい)-中原は中国、鹿は帝位の譬え。中原の鹿を逐うとは帝位を争う事。転じて官位や栄職を争うことをいう。今は、代議士や府県会議員等の候補者に立ち、当選を争うことに用いる。
※ 七楽(しちらく)- 七楽の教え。富山の薬売りの成功の秘訣と伝わる「楽すれば楽が邪魔して楽ならず、楽せぬ楽がはるか楽楽」という言葉。
※ 家政(かせい)- 一家の暮らしをうまくまとめていくこと。
君、癌を患(わずら)い、明治四十三年二月五日、溘然と逝く。それを距たる、嘉永五年十月二十六日に生れる。享年五十有九。先塋の次に葬る。君逝き十四年、それを距たる、嘉永五年十月二十六日に生れる。享年五十有九。先塋の次に葬る。君逝き十四年、知友胥(みな)で謀り、碑を立つを欲し、不朽の芳徳を以って、余に文を請う。君と余、素因の状有り。かくの如く、その略を叙す。且つ係わり、以って銘々曰く、
※ 溘然(こうぜん)- にわかなさま。突然であるさま。
※ 先塋(せんえい)- 先祖の墓。
※ 素因の状(そいんのじょう)- おおもとの原因の事情。
大堰之東 雲明之麓 天降若人 作民耳目 議員制立 中原逐鹿 君七獲之 匹儔其孰 伊人茲亡 世撃悲筑
※ 匹儔(ひっちゅう)- 匹敵すること。同じたぐい・仲間とみなすこと。
(銘の意訳、七五調で)
大井の川の東(ひんがし)の、雲の明りの麓にて、天より降る若人は、その郷人(さとびと)の耳目ひき、議員制度が出来てから、選挙を争い鹿追いて、君七度(たび)もこれを獲り、そのいずれをも仲間とす。この人ここに亡くなりて、世は悲しみに意気消沈。
大正十一年十一月 従五位勲五等、置塩藤四郎撰文並び書丹
※ 書丹(しょたん)- 石碑を建立する際、文字を刻す前に直接石面に下書きをすること。
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