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掛川城公園の「浅井小一郎翁碑」を読み解く その1

(浅井小一郎翁碑)

漢文碑を読み始めてから、報徳運動に係わる碑を何基も読む事になるだろうと、想像していた。二宮尊徳と言えば、ある年代以上の人なら誰でも知っている名前である。学校には必ずと言ってよいほど、玄関の脇、職員室の窓の外あたりに、薪を背負って歩きながら本を読む、少年時代の二宮尊徳像が立っていた。銅像は多くのものが供出されて、兵器となって戦地に赴いた。自分が通った小学校にもあった覚えがあるが、きっとそれは石彫の尊徳像だったのだろう。

近年、町で生きている尊徳さんを頻繁に見かけるが、彼らが手にするのは、本ではなくて、スマホである。きっと将来、日本には尊徳先生並の人物が輩出するに違いない。もっとも、彼らが事故に遭わずに生き延びたらの話であるが。

尊徳先生の思想に共鳴して、各地で報徳運動が起きた。幕末から明治、大正、昭和に至るまで、明治維新、文明開化、富国強兵、戦後復興、高度成長と、各ステージで、日本人のバックボーンとして、脈々と受け継がれてきたことを、知る人は少ない。

その報徳運動の日本の中心地が、隣町の掛川市にあったことも、知られていない。今日、明日と解読する碑は、その報徳運動の渦中にあって、訓導として、多くの人を育てた人である。碑は掛川城公園に建つが、そこは大日本報徳社の本社との境界に位置する。表に「浅井小一郎翁碑」と、裏に翁の一生の事績が刻まれている。

(表)
浅井小一郎翁碑
   大日本報徳社長、正三位勲一等、岡田良平書

(裏)
大正四年十月四日、淺井小一郎翁、病を以って逝く。それを距たる天保八年一月四日に生れる。七十有九。翁の名、有徳。松翁と号す。遠江小笠郡中村、小右衛門次男。母坂野氏。

翁幼きより学を好み、中島嵩石翁に就き皇学を修め、後に儒学を石野正修翁に受く。弱冠にして掛川の山家に出仕す。幾(いくばく)も無く、家に帰り、父の職を継ぎ、里正と為る傍(かたわ)ら、家塾を開き、子弟に教える。明治三年、新しく一戸を構え、稼穡に務む。
※ 皇学(こうがく)- 国学。古事記・万葉集などの日本の古典を研究して、日本固有の思想・精神を究めようとする学問。
※ 山崎家 - 掛川藩御用達を勤めた豪商。屋敷は通称「松ヶ岡邸」と呼ばれ、時々一般公開される。
※ 里正(りせい)- 庄屋。村長 。
※ 稼穡(かしょく)- 穀物の植えつけと、取り入れ。種まきと収穫。農業。
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