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大井神社の「先賢碑」を読み解く その2

(長谷川家長屋門)

島田市落合にある、島田市指定文化財「長谷川家長屋門」に、先日、取材に行ってきた。市内に残る唯一の茅葺長屋門である。この長谷川家は、先賢碑に出て来る、島田代官であった長谷川藤兵衛長盛(長勝の父)の弟、三郎兵衛長通を先祖として、代々三郎兵衛を名乗り庄屋を務めた。この長屋門は、その庄屋宅の門で、棟札によれば、元治元年(1864)に建てられたことがわかる。

午後、静岡の駿河古文書会に出席する。そのまま、会の懇親会(忘年会)に参加した。

「先賢碑」の解読の続き。

慶長九年秋九月、大井川氾濫、島田漂没し、田園流失し、居民驛北に避難し、元和中に至る。稍々に復た墾開の業に歸り、漸く進む。寛永十年、堤防成りて、堤内の水利、長勝大憂の、を向谷及び横井に築き、以って灌漑に便ず。また三を鑿(うが)つ。宮川、中溝川、問屋川これなり。
※ 漂没(ひょうぼつ)- 水にただよい沈むこと。
※ 驛北(えきほく)- 島田宿の北。
※ 稍々に(やや/\に)- しだいに。ようやく。だんだんに。
※ 大憂(たいゆう)- 大きなうれい。たいそうな心配事。
※ 閘(こう)- 水門。樋(ひ)の口。
※ 渠(きょ)- 人工の水路。掘り割り。みぞ 。


寛永二十年、起工、正保二年、竣を告ぐ。費金二百八十二両三朱、米二十一石七斗二升四合。長勝歿(ぼつ)し、子長春また大井川に疏(とお)す。所費若干、この、二役皆な、その私蓄を以ってこれを弁ず。民より分文(一文)も征(と)らずして、そのの施す所、西駿田園殆んど万石余に及び、これにより幕府厚くこれを賞し、吾が郷に今日有るは、蓋し、二君の恩賚(みたまのふゆ)(ま)ち、有るなり。
※ 沢(たく)- 人に施す恵み。
※ 西駿(せいしゅん)- 宇津ノ谷峠より西、大井川より東の地域。
※ 恩賚(みたまのふゆ)- たましいの恵み。精神の恵み。


大いなるや、長勝、明暦元年九月二十一日を以って歿す。釈諡(いみな)曰く、長勝院殿輝翁道光居士。長春、また藤兵衛と称す。延宝五年十一月十八日を以って歿す。釈諡曰く、心涼院殿鐵巌永剛居士。共に天徳寺に葬る。

先塋の次に、長谷川氏五世代官となり、その屋、島田に八十余年、長春の子、勝峰に至り、幕命を膺(う)け、遠江川井邨(村)に徙(うつ)る。勝峰の子、長孝、納戸頭として(江戸に)入り、子孫の世(代)、江戸に留まる。
※ 先塋(せんえい)- 先祖の墓。

桑原氏、(いみな)藤泰、また宜之、字涼松、通称伊右衛門、黙齊と号す。島田驛(宿)北、金子沢に居し、因(ちな)みて、また金溪山人と号す。本姓山根氏、父慶進と曰う。桑原氏に養われる。
※ 諱(いみな)- 生前の実名。生前には口にすることをはばかった。
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