平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
犀ヶ崖の「肥後守本多君戦歿地の碑」を読み解く その2
犀ヶ崖には宗円堂と呼ばれたお堂があって、以前に行った時には犀ヶ崖の紹介と、遠州大念仏の展示がしてあった。その後、宗円堂に地震対策がないとの理由で、保存を要望する声もあったが、毀されて、現在の資料館が建てられた。
「肥後守本多君戦歿地の碑」の解読を続ける。
弟、即ち肥後守君なり。君、諱忠真。小豆坂の役、年甫(はじ)め、十五。勇しく戦い、衆を駭(おどろ)かす。永禄二年、東照公、大高に糧を納む。衆を択(えら)び、四将を遣わす。君、その一人なり。
※ 小豆坂の役(あずきざかのえき)- 岡崎城に近い小豆坂で行われた戦国時代の合戦。三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で、天文11年、17年の2度起こる。
※ 大高(おおだか)- 大高城。桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」をおこなった。
(永禄)四年二月、我が兵、水野信元と尾張石瀬に戦う。君、鋒を接し、敵に郤すること、六度、創(きず)を被むれど屈せず、将(ま)た復び進み、敵兵と戦い、披靡して去る。世にその勇を称(たた)えて曰く、六度半槍。
※ 鋒(ほう)- きっさき。ほこさき。
※ 郤(げき)- 接近すること。
※ 披靡(ひび)- 壊走すること。敗走すること。
七月、今川氏の将、小原鎮実来たり戦う。君、槍で一人を刺し、姪(甥)の中務君を顧みて、級を挙げよ。中務君曰く、吾れ豈に人力に因(よ)らん。敵中に馳せ入り、自ら一級を獲る。六年、一向徒、乱を作(な)す。君と中務君、屡(しばしば)賊を破り、功有り。
※ 姪(めい)-(中国では)兄弟姉妹の息子、つまり甥のこと。
※ 中務君 - 本多平八郎忠勝。官位が中務大輔であった。本多忠高の息子。徳川四天王の一人。忠高の弟忠真は甥の忠勝を庇護して育てていたから、ここで、初首を甥に譲ろうとした。
※ 級(きゅう)- 首。
※ 一向徒(いっこうと)の乱- 三河一向一揆。三河国で、徳川家康が一向宗寺内町の不入特権を侵害したことが発端で、矢作川流域で蜂起した一揆。
元亀三年十二月、武田信玄率いる大兵、浜松城へ来攻し、東照公、三方原に出戦す。君、旗奉行を以って従う。我が軍不利、君二柱を樹(た)て、旗を支えて動かず。敵兵、君と従者に麕(むらが)り至り、槍把を投(あわ)せ、乃(すなわ)ちして進み、三人を殺す。而(すなわ)ち(本多忠真)歿時年三十九。
※ 麕至(きんし)- 群がりくる。
※ 槍把(そうわ)- 槍のとって。
中務君また力戦す。殿退き、従士荒川甚太郎、本多甚六郎、河合又五郎、多門越中など皆死ぬ。これ、この役(えき)なり。敵衆、而(しかれ)ども銃勢我が士に当るべからず。殊死戦、敵敢(あえ)て城を攻めずして去る。初め中務君の器、父、年甫(はじめ)て二歳の君、鞠養の成立を遂げ、徳川氏の功臣として第一者と称す。蓋しまた君の力なり。
※ 殊死戦(しゅしせん)- 斬り殺しの戦い。
※ 鞠養(きくよう)- 養い育てること。養育。
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