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遠州高天神記 巻の壱 7 久野城騒動の事(後)

(久野城址全景、大手側より)

台風18号の予報円の中心が当地へまっすぐ向かっている。既に外では雨音が響き、BSの受信が時々不能になっている。明日の午前中には通り過ぎるようだが、要警戒である。

「遠州高天神記」の解読を続ける。久野城騒動の後半である。

則ち、十二月廿二日夜、御加勢、大久保七郎左衛門、弟治右衛門、その外御目付に、弓鉄砲の者、相添え遣わされ、本丸へ御加勢入り、三郎左衛門宗能は二ノ丸へ出で、舎弟淡路守、日向守に腹切らせ、弾正宗政、並び采女は叔父たるによって、追い払い、その外の者どもは悉く追出せば、十方へ逐電す。

さて上意にて、大須賀五郎左衛門康高、大久保七郎右衛門忠世、松平周防守忠次、同紀伊守家忠、水野惣兵衛忠重、本多康重、伏勢を構え、掛川より夜討ち寄るを待ち請け、思う図に敵を引き請け、前後左右より鉄砲を打ち掛け、敵多く討ち取り、残る奴ばら、蜘蛛の子をちらすが直々に、掛川指して逃げ帰る。
※ 伏勢(ふくぜい)- 敵を待ち伏せして、あらかじめひそませておく軍勢。伏兵。ふせぜい。
※ 奴ばら(やつばら)- 複数の人を卑しめていう語。やつら。


それより岡津の山に、鼻に砦を構え、久野三郎左衛門、本間十右衛門に仰せ付けられ、これを守る日々、足軽の小競り合い有り。久野佐渡守は城番なり。本間十右衛門、家康公へ召し出さる。

この兄を本間五郎左衛門と云う。同国山名郡高部郷欠上の屋敷に居住す。小野田村、八坂村、木原郷篠原の里、飯尾方村、この村々知行す。尊氏公より代々知行の御証文数通有り。則ち今度、家康公より御継目の御証文、御直の御判頂戴す。本間五郎兵衛は、永禄十二巳三月、掛川天王山にて討ち死にす。

この五郎兵衛先祖は古鎌倉将軍持氏公、御生害の時、一色相模守直宜、築田出羽守満助、本間河内守良清、大石三河守則頼、その外数人御供申し、永安寺にて一所に切腹せし。河内守が一子、辰若十一才にて、母方の所縁を頼り、駿州へ来たり。今川を頼み居る。それより、代々の先、知行有る故に、遠州に住居して、久野の城番を相勤める。よって遠州久野本間と世上にて云うなり。兄は五郎兵衛、弟は十右衛門なり。
※ 永安寺(ようあんじ)- 鎌倉にあった寺。持氏切腹時に焼かれる。

さてまた、久野弾正は久野の城を追い出され、甲州へ落ち行き、翌年に甲州より天方の城を預り籠りけるを、平岩七之助親吉に、命ぜられ攻めよる所に、去年俄かに拵えたる城なる故、既に浅間なれ、一支も防がずして甲州へ逃げ行き、面目もなき仕合せと人々笑いけるとなり。
※ 平岩七之助親吉(ちかよし)- 戦国から江戸初期の武将・大名。徳川氏の家臣。上野厩橋藩(前橋藩)、のちに尾張犬山藩の藩主。徳川十六神将の一人に数えられる。
※ 命ぜられ - 天方城を攻めるように、家康から平岩親吉が命じられた。
※ 浅間(あさま)- 少しの間。
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