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遠州高天神記 巻の壱 11 高天神籠城の事(前)

(高天神城跡案内板)

午前中、高天神城跡に写真取材に行く。搦手から登って、三日月井戸、三の丸、御前曲輪、本丸、石窟、的場曲輪、井戸曲輪、二の丸、高天神社、馬場平と廻った。下ってきたら、小雨が降ってきた。

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(高天神籠城の事 前)
さて又、高天神の城を見給うに、誠に堅固の城地なり。この城たやすく攻め落し難し。その上、浜松の家康、尾州の信長両旗にて後巻きあらば、ゆゆしき大事成るべし。この城も今この勢にて攻めるとも、一ヶ月は掛かるべし。壱と月懸りて攻め落したりとも、さのみ手柄にも成り難し。若し最中に両旗にて後巻き有らば、巻ほぐし難からん。兎に角先ずこの度は、敵に一付けて通るべし。しかし初めて逢いたる敵と云う、小笠原の若者に、塩を付けられては、我一生の越度成るべし。
※ 後巻き(うしろまき)- 敵を背後から包囲すること。
※ 塩(しお)-苦労。辛苦。
※ 越度(おつど)- 失敗。あやまち。


かようの敵は内藤得物なりと、内藤を召して出張り、勢(ぜい)を城中へ追い入るに、小笠原は若者と聞きけれども、江州姉川合戦の働き、家康公が先手をして、越前の大勢を一時に追い立て、信長が敗軍を救いし事、家康が手柄といえども、この小笠原が先手する故なりと、世上に隠れなし。掛川天王山にて、今川と合戦の節も、小笠原が働き聞き及びし事有り。今度この表、初めての手合わせと云う。かつは信長、家康が思う処も有るぞとて、思し召しの程、密かに仰せ含めらる。
※ 内藤 - 内藤昌豊(ないとうまさとよ)。戦国、織豊時代の武将。甲斐の人。武田信玄に仕え、武田四天王の一人 。上野の箕輪城代。長篠の戦いで討ち死にした。
※ 得物(えもの)- 得意なこと。
※ 大勢(たいせい)- 大きな権勢。強い勢力。


内藤その意、畏まり入る旨申し罷り立ち、組の物頭どもに方便の様子念頭に申し含め、三段に備えを向けるなり。さてまた、高天神には兼ねて信玄の出馬を聞き及び、待ち儲けて有けれども、甲州方の大勢を見て、胸につかえたる心地して、行末如何有るべしと覚束なし。然れども城中に随分武功の者、場数有る勇士篭りければ、勇気たゆまず、兼ねて手分けをしたりける。
※ 物頭(ものがしら)- 武家時代、弓組・鉄砲組などを統率する長。
※ 方便(ほうべん)- ある目的を達するため便宜的に用いられる手段。てだて。


これよりしばらくは籠城の人員配置で、人名が並ぶ。読み飛ばしてもよい。


(高天神城本丸跡)

先ず高天神の城主小笠原与八郎本丸に居ます。当年廿壱歳なり。本丸介添えに、渥美源五郎、松村郷右衛門、福岡太郎八、大村弥兵衛、曽根孫太夫、三井孫左衛門など、武者奉行として、都合五百騎なり。


(高天神城三の丸跡)

三の丸大将、小笠原与左衛門を大将として組み合い、丹羽縫右衛門、村松郷八、野山七左衛門、鈴木五郎太夫、鈴木権太郎、中根日野、松下助左衛門、小笠原庄太夫、この外小笠原の一類多し。右の者ども武者奉行として、弐百五拾騎なり。


(高天神城西之丸跡、現高天神社)

西之丸の大将は、本間八郎三郎清氏(この親、五郎兵衛へは去年掛川天王山にて討ち死なり)、同大将丸尾修理亮義清(これは同国山名郡赤尾村を知行す丸尾和泉守子なり。この丸尾は代々赤尾長者と云う当国にて隠れなき者なり)、両将ともに兄弟なり。組合には丸尾三郎兵衛、同五郎三郎、同新五郎。本間源左衛門、同五太夫、同兵右衛門、浅井吉兵衛、同五六郎、権田惣右衛門、山下与五右衛門、松嶋五平、大河内孫右衛門、福冨市平、小笠原治右衛門、岡平藤右衛門、大原新平、高岡七兵衛、三井孫七、百々徳右衛門、佐和戸市兵衛、芝田四郎兵衛、喜井八郎右衛門、西郷市郎左衛門、岡本久弥、市川紋太夫、高岡弥五右衛門、同瀬左衛門、村山八右衛門、箕浦茂左衛門、杉浦一學、同源七、柘植八左衛門、西村清左衛門、同八兵衛、朝比奈新助、同十右衛門、都合三百騎なり。
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