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遠州高天神記 巻の弐 13 高天神落城の事(二)

(水窪ダム周辺の紅葉)

午前中、雨の降る前に、横須賀のちっちゃな文化展に女房と行く。

「遠州高天神記」の解読を続ける。今日の分は明治二十五年に写した際に、書き加えられたものと思われる。

右の節、諸士に勝頼公より御下し御直判、御朱印文、今、所々に子孫所持する所、予拝見致し候分これを写すものなり。

 (朱印)  定
一 遠州城東郡中村郷       百五十貫文
一 同郡内田郷          百五十貫文
一 同郡岩滑郷           五十貫文
右かくの如く徳川家康時より抱え来たりの由候条、自今以後も弥々御相違あるべからず候。畢竟武具を嗜み、戦功の忠を抽くべき趣、仰せ出されるものなり。よって件の如し。
 天正二甲戌七月九日          跡部大炊介これを奉る
        斎藤宗林
追って、申し掠められ有る旨、後日訴え人出来ならば、重ねて聞こし召され、合わせて御下知さるべき便、また当知行の内、先ず忠在るを以って抱え置く人は、自余の地を以って、これを掲げらるべきものなり。
※ 自余(じよ)- それ以外。そのほか。

   また御判形の文に曰く、
       定
一 遠州山名郡山名庄何村     何百貫文
一 同州何郡何村         何十貫文
一 同州左野郡何村        百五十貫文
右かくの如く、徳川家康時よりこれを抱え来たる由候の条、自今以後も弥々相違あるべからず候。畢竟疎略なく武を嗜み、具(つぶさ)に戦功の忠を抽くべきものなり。よって件の如し。
 天正二甲戌七月九日        御書判
        何之誰殿

       定
一 駿河国富士の下方において、一万貫文の所、遠州城飼郡に引き替え、これを下し置く。永く相違有るまじく候。畢竟疎略なく武を嗜み、具に戦功の忠を抽くべきものなり。よって件の如し。
 天正二甲戌七月九日        御判
        小笠原与八郎殿
右の通り残らず御証文下され、或いは御朱印或いは御直の書判なり。中にも御判形は別けて有難き説(よろこび)なり。
※ 書判(かきはん)- 昔の文書の末尾に書いた署名。特に草書体で書かれたものを草名(そうみょう)とよび、さらに図案化された書体のものを花押とよぶ。花押が一般的になってからは、書き判が花押の別称とされることがある。

  《雲龍なり》 御判者  (花押)


(武田勝頼の花押)


(花押について)
かくの如きの御判形なり。信玄公の聖判と云うより大なり。見事なり。

右の段々、天正十一年未の春、甲州乱の後、甲州より本国遠州へ帰る浪人の覚え書これ有り。敵味方和談で、甲州へ参る者もこれ有り。遠州に残る者もこれ有る故に、両方の取沙汰、皆々能く知る故に書き記すと云々。これを以ってこれを写すものなり。


武田勝頼の花押は、写真は高天神記に書き写されたもので、実際の花押は下の写真のように、美しく書かれている。


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