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遠州高天神記 巻の弐 5 武田勝頼、遠州諏訪の原城取りの事(前)

(諏訪原城跡案内図)

午後、諏訪原城跡の撮影取材に行く。年々、諏訪原城跡の発掘と整備が進んで、杉林の中に過ぎなかった城跡は、今なら知人を案内して、当時の城の有様をそれなりに説明できるようになったと思う。発掘整備の計画はまだ4年ほど残っているという。

「遠州高天神記」の解読を続ける。


(諏訪原城跡、諏訪明神の森が二の曲輪大手馬出となる。)

   武田勝頼遠州諏訪の原城取りの事
一 天正元年(1573)癸酉(みずのととり)秋、勝頼、遠州へ出馬有りて、見付台に陣を居(す)え給い、それより欠川を通り金谷へ出馬有りて、諏訪の原に城を築き給う。馬場美濃守、縄張りなり。山城の取り様、極秘伝、東北の沢を大堀、小堀として大手の馬出に、諏訪明神の社の森を用い、西南を空堀にして、数(しばしば)の馬出取り様に、美濃守、工夫至極、城取りなり。これ高天神の城を攻め落し、城飼郡を取り給うべき用意とぞ聞えけり。
※ 馬場美濃守 - 馬場信春(ばばのぶはる)。戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。山本勘助から城取(築城術)を教授され、深志城、牧之島城、江尻城、諏訪原城、田中城、小山城など、主に東海道方面に武田方の支城を築城したとされ、築城の名手と評される。前出の滝堺城も馬場美濃守の縄張りであった。
※ 馬出(うまだし)- 味方の人馬の出入りを敵方に知られないように城門の外に半円形に築いた土手。
※ 城取り(しろどり)- 城を築くこと。また,その設計・構造。しろがまえ。


高天神にも諏訪の原の城取りを聞いて、近所に敵の城の城取りするを聞いて居るも、無下に口惜しき事なり。いざや知行境まで張り出し、敵の挨拶見んとて、小笠原与左衛門大将にて、同久兵衛、本間八郎三、同源右衛門、久世三四郎、坂部三十郎、渡部金太夫、大石外記、川田平兵衛、池田縫平、渥美源五郎、丹羽弥惣、小池左近、三井孫左衛門、松下介左衛門、原又兵衛、曽根孫太夫、大村弥兵衛、丹羽縫殿左衛門、野々山七左衛門、芝田四郎兵衛、武藤源右衛門、木村善兵衛、杉浦能登郎、荒瀬弥五左衛門、小笠原長左衛門、宮地三郎太夫、村越半右衛門、竹田右衛門、伊達与平太、場数有る武功の者、都合足軽とも五百人を三手に分けて、城を出、諏訪の原近所、南方に金薬師山の山上に、一手押し上げ狼煙を挙げて、敵の色を見る。二手は両脇の深谷の間に伏兵と成る。
※ 挨拶(あいさつ)- 受け答え。応対。

甲州方にも兼ねて用心有りて、小夜中山、菊川には欠川の押えを置き、また諏訪の原より南の原、東海道の道南の原には、高天神の押えに段々に手当の備えを立て置き、この狼煙を見て、家康公御出馬、信長と両旗にて出で給うかと驚き、走り廻りて物見を掛けるに、さはなくて、高天神より纔かの勢にて出ると見て、取って返えし、この旨を申す。さては蹴散らし残らず討ち取らんと、鬩(せめぎ)犇々(ひしひし)と出んとす。

(この項続く)
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