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遠州高天神記 巻の弐 7 武田勝頼、高天神城攻めの事(一)

(高天神城地図、攻防になった「城中の用水」は
「現在地」(赤字)のすぐ下の溜池のことであろう。)


「遠州高天神記」の解読を続ける。いよいよ勝頼の高天神城攻めが始まる。

   武田勝頼、高天神城攻めの事
一 天正二年(1574)戌五月、甲州より勝頼出馬有りて、本陣は小山城、相良境、両城より取り続き、後は塩買坂に籏を立てらる。また国安村に本陣を移さるゝ。高天神表、押し寄らんとす。

城より小笠原与左衛門大将にて、五百騎出向かい、城飼郡川の西端、少し去りて居たり。先陣川を越し、勢の中へ弓鉄砲を打ち掛け、足軽せり合いして、颯っと軽く勢を揚げ、城中へ走り入り、敵は大勢四方より引き廻し取り囲み、付け入らせんと働けども、右は漫々たる広沼池湛えて、心のままに一度に川を越がたく、段々に川を越す。責め口の手当てを定め仕り寄るを付きて、攻め掛かる。

城中にも方々持ち口を堅め、射立て打ち立て、厳しく防ぎければ、城は堅固に四方嶮岨の地なれば、何程の大軍にても、急に一旦に攻め落つべきとは見えざりけり。城より浜松へこの旨一々注進、兎も角も御軍略を待ち奉る。但し、横砂山、大坂山に御旗の手御見せ、また欠川より城飼郡の北道を、塩買坂まで取り切り給わば、敵は死地にて候わんか。然れば、この表を捨て引き退き申すべし。その時、城中より喰い止め、後ろよりは包むごとくに成され候わば、一人も生きては返すまじきと、日々夜々に注進する。

然れども、深き御思慮や御座けん、御出馬延引す。御返事には、頓(やが)て信長公と両旗にて、後巻き有るべし。それまでは随分と城を堅固に持つべしとの御諚なり。

六月始め頃には、次第に近々と攻め寄る折々、遞(たがい)に鉄砲迫り会い有れども、城中、事ともせず、ただ詠め会いて日を送るばかりなり。
※ 詠む(ながむ)- 声を長く引いて詩歌を吟詠する。

ある時、甲州より城の廻りへ近々と取り詰め巡視して、この城山なれば、水手有るまじく候えども、大手の山尾崎と西ノ丸の尾崎との間に堤を築き、池水漫々と湛え、城中の用水にすると見えて、六月十八日に大手池の段へ大軍押し寄せ、合戦在り。

城中よりも西の丸と同三ノ丸と池ノ段の山崎と、その外所々山の尾、先々へ降り下り、横矢に弓鉄砲厳しく打ち立て射立てけり。本より大手池の段持口には、随分の健やか者ども、走り廻りて防ぎければ、弓鉄砲にて手負死人は多く出来(しゅったい)すと云えども、城へ乗り入る事は思いもよらず。然れどもこの日は敵も強く雅攻にして、大手池の段を乗り破らんとす。
※ 健やか者(すくやかもの)- すこやかな者。強健な人。
※ 雅攻(がこう)- 正攻。正面からの攻撃。


上の着到、矢倉の脇、鐘曲輪の鐘を撞き、急を告げければ、方々の手より大手へ加勢来れば、日頃支度の遊軍は、なおもって、助け来りて、大手を救い、鐘曲輪より大筒打つ故に、甲州方多く討ち殺さる。手負い、死人、数知らず。
※ 着到(ちゃくとう)- いたり着くこと。到着。

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