goo

駿河土産 17 浅野左京太夫の鷹野の事、豊臣に備える事(前)

(庭のニチニチソウの鉢)

早めの昼食後、島田の図書館に行く。金曜日の駿河古文書会は年一回の発表当番で、割り振られた範囲の解読発表をするのであるが、このままでは2時間が持ちそうにない。時間が余ってはと考え、その場合の材料を仕入れに行った。島田市史の中に一つテーマを見つけて、必要部分をコピーしてきた。

駿河土産の解読を続ける。

(23)浅野左京太夫の鷹野の事
一 関ヶ原御合戦以後、浅野左京太夫幸長、その頃までは、甲斐の国主にて居られ候を、御加増にて、三十七万石余の知行高にて、紀伊国を拝領仰せ付けられ候砌り、後藤庄三郎、熊野山へ参詣仕り候砌り、その後江戸表へ罷り下り候節、権現様仰せられ候は、その方、先頃熊野山へ罷り越し候よし、紀伊国へ見廻(みまい)候や、との御尋ねに付、上意のごとく、和歌山の城下に十日余りも逗留仕り罷り在り候、と申し上げるれば、重ねて御尋ね遊ばされ候は、逗留中紀伊守は、何を馳走に申し付けられたりぞ、と上意に付、
※ 浅野左京太夫幸長 - 江戸初期の大名。長政の子。幼少より豊臣秀吉に近侍。文禄・慶長の役に従軍。秀吉の没後,徳川家康にくみして紀伊和歌山に封ぜられた。
※ 後藤庄三郎 - 江戸幕府金座の主宰者(御金改役)。初代光次以後代々庄三郎を名乗り御金改役を世襲,幕府御用達町人の上座を占めた。


紀の川と申し候て、吉野、高野の梺(ふもと)より流れ落ち申し候大河御座候。この川へ舟にて罷り出候。ともに参り、網をおろし魚を取らせ申され候を見物仕る。その後、山鷹野の節も、罷り出申し候。これは殊の外目ざましき見物事に御座候。
※ 鷹野(たかの)- 鷹狩り。

この山鷹野の儀に付、今に於いて私などの合点の参らざる儀に御座候、と庄三郎申し上げ候えば、これは何事ぞと有る御尋ねに付、雉子、山鳥、その外、鹿、むじなの類いまでも、物数多くとれ申し候間、定めて機嫌よくこれ有るべきやと存じ候えば、大いに腹立て致され、勢子奉行を始め、その外、かの懸りの者どもまでも、散々叱りに逢い申し候。

また一度の山鷹野は何も取れ申さず、殊の外、物数も少なくこれ有り候間、定めて不機嫌にこれ有るべきと存じ候えば、一段と機嫌能く、諸役人にも骨を折り太儀に存じられなどと有りて、褒美致され候と申し上げ候えば、権現様、御笑い遊ばされ、これはその方どもが合点のゆかざる筈の事なり。紀伊守せらるゝが、誠の山鷹野と云う物にて、物数の多少に構わない事なり、と上意候となり。


(24)豊臣に備える事
一 権現様には、御年若く御座成られ候節より、数度の御陣に御立ち遊ばされ、大小場所に於いて、御合戦御廻り合いなどに御出合い遊ばされ候えども、何流の御軍法御用い遊ばされ候と有る儀は御座なく候。その時々の様子により御見合い次第、御下知遊ばされ、いつとても御勝利に成らせられ候となり。

然る所に、天正年中、尾張長久手に於いて、豊臣太閤秀吉の大軍に御向い遊ばされ、小勢の御味方を以って、大いなる御勝利遊ばされ候に付、この後近年の間に、豊臣家と徳川家との大合戦なくて叶わずと、世上に於いても専ら取沙汰仕り、御家中諸人の儀、なお以ってその覚悟にこれ有り候となり。
(明日へ続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )