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事実証談 神霊部(下) 103(後半) 大頭龍大権現

(庭のシランの花盛り)

来週14日より、今年度の掛川古文書講座が始まる。今日、掛川図書館に出向いて、そのテキストを頂いて来た。前もってテキストを読んで置こうと思ったからである。昨日、申し入れて今日準備したと電話を頂いた。名前を書かされたが、テキストを前もって手にしたいと思った受講者は、今のところ自分一人であった。

事実証談の解読を続ける。ラストスパートである。

第103話(後半)
また参詣の諸人、神職家へ立ち寄り、疫病除けの守りを願う者へ、神酒を出すことは常例にて、好む者には心に任せ、これを与う。十月朔日よりは参詣の者に酒食を与うるに、十九日一日に飯を炊(かし)ぐこと、釜七口にて、一釜一斗五升焚き一口にて、七釜合せて四十九釜とは定めつれども、今は繁昌によりて、なお焚き出すこと、その数定まらず。

(十月十七日より十九日まで、村中の氏子、十五歳より六十歳までの人々、神役とて、神職家に寄り集い、飯を炊き、参詣の諸人に酒食を出す。こは持ち寄りの米銭を、残すまじき為なりとて、後糠(ぬか)までも焼き捨てる故を以って、諺に「あるったけ権現」と言い伝えたり。)

かく栄え初(そ)めし由緒を尋ぬるに、往昔、大井川の川上なる川根という山里にて、なべて疫病を煩いし時、いずくとも知らず、惣髪、よくかの所に至りて言いけるは、これより西南にあたりて大頭龍大権現と称(いう)神あり。この神に祈願せば、必ず疫病の患(うれえ)を免がるべしと、諭しけるにより、そのわたりの人皆、これを聞き伝えて尋ね至り、祈願するに、そのしるし速やかなるにより、年を経て隣国の人までも詣で祈願することゝなりて、他に異なる繁昌とはなれりとなん。

(その中にも、榛原郡抜里村は、加茂村よりは山道七、八里ばかりも隔たれる所なるが、上に言いつるゆえよしによりてか、一村挙(こぞ)りて氏子となりて、今も神事の時、詣で初穂を奉ること、加茂村氏子に准ずと言えり。)

さてまた、神山の前に山王権現の社ありけるを、参詣の諸人、この社を大頭龍権現と思いて祈願するにより、のち同殿に大頭龍権現をも並らべ祭れり。かの神山はその社の裏の方、正面に門立てたる所なり。この事わきまえ知れる者、稀かなるゆえ、こゝにはあげず。

(かのオハキの串竹、いつの頃にか、同郡西方村にて、溜池の堤築(つき)たるに、大雨の度毎に押し切れ、手を尽くせども詮方なくて、大頭龍権現へ祈願し、この堤にしの竹を植え、生え栄えて、堤保ちなば、年毎にオハキ竹を奉らんと祈願せしより、その堤よく保ちて、今に年毎の九月二日に、一村挙りてその竹を奉るよし言えり。また同郡子隣村にても、百三十年ばかり以前とかや、その村なる山川の堤、大雨の度毎に押し切れ、田畑を荒らしけるゆえ、その堤に竹を植え、オハキ竹に奉らんと、大頭龍権現に祈願せしより、堤切るゝ事なかりしと言い伝えて、今に一村挙りて、九月朔日に竹を奉るよし。その外の村々よりも、祈願にて奉る者、数多しと言えり。)

※ オハキの串竹 -「オハキ」は幣帛のこと。幣帛を差して立てる竹。
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