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日本左衛門騒動記 11 捕手吟味の故、遠州表へ出立の事

(散歩道に咲くハナビシソウ)

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

捕り手吟味の故、遠州表へ出立の事
さる程に、本多紀伊守殿より、願い人三右衛門、同喜八、両人、盗賊方徳山五兵衛殿方へ遣わされ、則ち三右衛門に御対面これ有り、取り手の様子、密々御相談これ有り、捕り手組の内、屈強なる者を撰(えら)み、壱番に磯野源八郎、二番に小林岡右衛門、三番に星野磯八郎、四番に岡野儀八郎、五番に小林藤兵衛。何れも劣らぬ捕り手の五人を呼び出し、三右衛門に引き合わせ、徳山五兵衛殿、三右衛門に仰せ渡され候。

直ちに国元へ出立致し、日本左衛門が有り家を尋ね、捕り手の者は暫し跡より袋井まで罷りたり。その方が注進を相待ち申すべく、兼ねて、右の通り、その意を得奉るべく御申し渡しける。三右衛門委細承知仕り、同十一日出で立ち、捕り方の人々は、跡より姿をやつし、思い/\の出立。同十三日午の刻に、弐人出立いたし戸塚泊り、それより日々に道中急ぎ、

同十七日巳の刻に、袋井宿に着き、武蔵屋三郎右衛門方へ参り、三右衛門、八月十六日見附宿へ行き、知人の方へ立ち寄り、日本が有り家を尋ね聞き届け、それより我が在所へ立ち帰りける。明朝、袋井武蔵屋方へ参り、各々方に御目にかかり、跡より出立の方々、武藤屋方まで御着きになられ、御評定の上、申しけるは、日本左衛門は昨日見附宿横町万右衛門方に、博奕致し罷り有る由、承り候。今日は如何候や。彼は女房なども囲い置き候様子、得と承り候。大方この妻の方に罷り在り候儀必定、相違有るまじくと申しける。

捕り手の人々、汝が、日本が有る家、慥に見届け案内次第、寝込みへ押し寄りからめ取るべし。いざ何れも支度致されよと、ひしめきければ、小林藤兵衛申すには、そこつなり。各(おのおの)日本左衛門とも言う悪党、女房の家に居ると言うとも、相応の覚悟、抜け道、その外たくみ、謀事(はかりごと)多く致し置くべし。殊に夜中、猶もって危うし。当所不案内の我々、先々これはよく/\相談有るべし。
※ ひしめく- 大勢の人が1か所にすきまなく集まる。また、集まって騒ぎたてる。

それがし存ずるには、日本という奴、世間はゞからず、白昼にも往来致す由、先だって聞き及ぶ。明日居所を尋ね、白昼にて致すべし。何程の大力、樊噲が勢いを振い候とも、彼は天命、我々は上意の御威光を以って召し取らん事、方寸に有り。如何思し召し候やとて、その夜は更け行き止りけり。
※ 樊噲(はんかい)-中国、漢初の武将。劉邦(漢の高祖)に従い、鴻門の会で項羽により危地に立たされた劉邦を救った。漢の天下統一後も軍功をたて、舞陽侯に封ぜられた。
※ 方寸(ほうすん)- 胸の中。心。
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日本左衛門騒動記 10 百姓三右衛門、江戸表へ訴え出る事(後)

(庭のニオイバンマツリ、紫から白へ次々色を変える)


日本左衛門騒動記の解読を続ける。

この事、御地頭様へ御訴え申し上げたく存じ候えども、同類手下、親類もこれ有り候間、若し願人相知れ候時は、如何様のあだ、やみ打ち、付け火ばど、甚だ心元なく存じられ、国元にて御訴え申出る者これ無く候えども、所々御役人中、御存知の儀に御座候。何と思し召し候や、一向御詮儀も御座なく、見のがしに成られ候事、貴意を得ず候。
※ 意を得ず - 理解できない。

依って益々押領に罷り成り、日本左衛門を始め、皆々不相応成る衣装にて、金銭を砂の様に遣い捨て、自合宜しき人には、相応に用達て候故、宿々にて誰知らぬ人もなく、所の勝手にも成る故、家々にて馳走致し、いよ/\押領に成り、この日本左衛門義は、知恵深く、力強く、釼術の早業(はやわざ)珍しき盗人なり。別して、他国盗人餘多入り込み、夜も寝られず、在々百姓は不寝番いたし、少しの間も油断ならず、是非なく御訴え申し上げ候。
※ 押領(おうりょう)- 他人の物、所領などを力ずくで奪い取ること。
※ 自合宜しき人 - 自分に都合がよい人。


なおまた、当秋作など御年貢米、払い米にて少々金子才覚致す御上納物など奪い取られ候わば、難義仕るべく、または郷蔵御年貢米など、押し取り仕るべきやと、これまた安気仕らず、よんどころなく御地頭様へ御訴え申し上げ候。
※ 安気(あんき)- 心配がないこと。また、そのさま。

早速御沙汰に及び、仰せ付けられ候には、この節、盗人ども徘徊致し候との事、村々へ盗人見え候わば、鐘、太皷を打ち追い散らし候様に、仰せ付けられ、この儀は中々命掛けにて、致し候者は御座なく、皆々押し込みの者どもは、抜き身を持ち、出合い次第に切り捨て候様子にて、誠に忠臣蔵夜討の狂言と等しく、声立てる人は御座なく候。盗人どもすべて隠れ忍び候事、少しも御座なく候。

この節は、伊勢、近江、尾張、伊豆、駿河など、日本左衛門が手下の者ども、餘多これ有り候由、承り候。遠州の盗人の義は、前書申し上げ候通りに御座候。この義、御大名方御領分の内は厳しき御吟味御座候ゆえ、盗人ども宿致すは御座なく、依って御代官、御旗本様御知行の内に徘徊仕り候。

日本左衛門始め、手下の者どもまでも、武芸勝れ候由、殊に大勢の儀に御座候えば、恐れながら御旗本様方の御国役人衆手勢ばかりにては、御召し取り候義、覚束なく、勿論所々に大勢入り込み罷り有り候間、御大名様方の御威勢にても、暫時に残らず御召し取りの事、計りがたし。それに国本にて御訴え申し上げ候わば、盗人同類、餘多御座候故、早速に御手に入れし儀も計りがたく、是非なく、右の趣、御願い申し上げ候。

御高察の故、御召し取り御吟味下され候様、偏えに御聞き済まし下し置かれ候わば、有り難き仕合わせに存じ奉り候。
 延享三年       遠州豊田郡向笠村
  丙寅の九月三日   花房三十郎百姓 三右衛門 印
            右同断五人組頭 喜八   印
       江戸鉄砲洲永松町二丁目宿 次兵衛  印
 御奉行所様

  恐れながら別紙書付を以って申し上げ奉り候
一 差し上げ候一書、密事の儀、申し上げ候。恐れながら御直覧遊させられ、下さるべく候様、願い上げ奉り候、以上。
※ 直覧(じきらん)- 親しく直接に御覧になること。手紙や文書の脇付(わきづけ)に用いる。

右の通り、願い書を以って、御月番本多紀伊守殿へ、九月三日願い出候。早速御評定これ有り、明昼四つ時、願い人三右衛門を召し出され、夜の八つ時分まで、紀伊守殿、御家老御両人、ひそかに御詮義これ有り、同九日にまた、三右衛門召し寄せられ、御評定の故、盗賊方徳山五兵衛殿組下へ仰せ付けられ、則ち国元へ盗賊方案内致すべく仰せ付けられ、願い人三右衛門は、本所石原、徳山五兵衛殿方まで、御公儀より人を付けられ遣しける。

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日本左衛門騒動記 9 百姓三右衛門、江戸表へ訴え出る事(前)

(アマトリチャーナ スパゲッティ)

今夜、女房不在のため、昨日のスパゲッティを再び作ってみた。塩加減と茹で加減を注意し、思うように出来たが、レシピが2人前だったため、作り過ぎた。

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

遠州豊田郡向笠村中村、百姓三右衛門、江戸表へ訴え出る事
一 花房三十郎殿御知行所に、向笠村三右衛門という内福成る者あり。子供多く有る、その内に養子娘有り。この娘至って器量勝れたる生れにて、諸事発明者なり。然るに、掛河近所大池村惣右衛門と言う内福なる百姓あり。この所へ三右衛門が娘を婚礼致させけるに、その後惣右衛門方へ、押込強盗四五十人押し込み、金銀衣類残らず奪い取り、それ故、女残らずなぐさみ、誠に傍若無人、言語道断なる事どもなり。亭主をも後手にしばり、目前にて右の狼藉、これ残念止む事を得ず、
※ 内福(ないふく)- 見かけよりも内実が豊かなこと。内証の裕福なこと。また、そのさま。

この由、三右衛門に告げられけるに、三右衛門これを聞き、さてさて不届き成る悪党ども、無念骨髄に徹し、昼夜忘れず、種々工夫を巡らし、江戸表へ出るべきと、同村治兵衛という組頭有り、この者と相談にて、則ち件の訴状を認め、この者同道にて、江戸表へ出訴の文章、左のごとし。

  恐れながら書付を以って願い上げ奉り候
一 遠州見附、袋井宿の内に、強盗ども餘多入り込み、徘徊いたし、この節、他国よりも盗人大勢入り込み罷り在り候。この長本、尾張重右衛門と申す者、只今、異名日本左衛門と申す強盗にて御座候。この者ども在々近辺、内福なる者の所へ、手下の者、四五十人引き連れ、一組/\に頭を立て、大小を指し、その外手下の者ども一腰ずつ指し、日本左衛門義、若党、草履取りを召し連れ、手ごとに提灯を持ち、押し込みける。その道筋家々の門口には、ぬき身を持たせ、五六人番を付け置き候ゆえ、その威勢、中々手向う者御座なく候。右強盗残らず押し込み候時は、家内のものに縄を懸け、金銀衣類の有る所へ案内致させ、残らず奪い取る。言語道断なる義に御座候。

右の者ども、見附宿に住居いたし候義、慥に見届け申し候。偏えに御威光を以って、御召し取り成し下され候わば、有難き仕合わせに存じ奉り候。当国の内、金銀、衣類取られ候儀、左に相印し申し候。次に申し上げ奉り候は、他国の儀は存じ申さず候。

                    掛川領分
一 金千両、並び衣類六十品余り      大池田   宗右衛門
一 金拾壱両、並び質物取り置き候分、衣類百廿品余り
                     向笠村   甚七
一 金六十両、並び衣類          サギ坂西村 大珍寺
一 金千両、並び衣類           山崎村   丑之助
一 金四百両。銭共々           片瀬酒屋  弥次兵衛
一 質物衣類、蔵有り切り         山梨子   才兵衛
一 金三十両余り、並び衣類三十品余り   持広村   小右衛門
一 金三十両、銭三貫文          野部村   一雲齊
一 金三十五両、並び衣類、脇指二腰    平松村   忠四郎
一 金五十両、並び衣類、刀、脇指三腰   赤池村   源兵衛
一 金五両、並び衣類           寺谷村   権重郎
一 金壱両弐歩、並び衣類         小嶋村   平重郎
一 金五両、銭四貫文余り         気賀村   次兵衛
一 衣類弐十八品、脇指二腰        深見村   金右衛門

右の外、在々にて穀物、衣類、諸道具などに至るまで、盗み取られたる物、筆紙に尽くし難く候。

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日本左衛門騒動記 8 手下同士打ちの事(後)

(庭の松のセッコク)

新玉ねぎのパスタは昼に作って食べた。塩加減が難しく、「目安として3グラム」の自然塩はどのように測るのだろう。やや味が薄いことになった。パスタは少し伸びてしまった。食べ急いで、写真を撮るのを忘れた。レシピは残したので、再挑戦してみよう。

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

その後、日本左衛門、右の次第を聞き及び、心の内に思うには、さてこの三人悪人なり。欲深きこそ危うけれと、上新家村甚兵衛に相談致す。右掛河の様子逐一に咄し聞かせ候えば、誠に千丈の堤も蟻の穴より崩るゝなり。兎角こやつ三人を呼び寄せ、人知らず切捨つべしと申しける。甚兵衛、成程至極せり。拙者に任せ成らるべしと、新家村へぞ帰りける。
※ 至極(しごく)- 他人の意見などをもっともだと思って、それに従うこと。納得。

さてそれより、かの三人を呼び寄せて、色々意見を致し、互に和睦致させ、三人の者どもは、見附、袋井辺へ立ち帰る。その後甚兵衛は、さぎ坂原に大かみ谷と言う所有り。ここに落し穴を拵え置き、日本左衛門方へ参り、委細様子を咄しける。それはよく御工面成ると、示し合わせ、急に右三人を呼び寄せ、その方達は急に呼び寄せ候事、余の義にあらず。今晩、日本殿、山梨子(やまなし)辺りへ急に参られ候に付、不案内故、その方達を頼みくれよと申され、随分穏便に致したき由、申されける。

三人の者ども畏まり候と申して、見附宿へ参り、日本左衛門に申す様、我らども、今日、上新家甚兵衛殿方へ呼び寄られ、段々様子承り、只今参上仕ると申しける。日本兼ねて承知の事なれば、それは大儀にて参られたりと、先ず茶漬けなど振まい、頼みけるは今宵山梨子辺りへ急用有り。その方達を相頼み参りたく存じ候。この道筋は殊の外淋しき道なる故、跡よりそろ/\来るべし。この方、道にて待ち合わずべし。大勢にては人目あり。大かみ谷まで参る由、申し置き、小ざる伝右衛門を召し連れ、さぎ坂原へと急ぎ行く。

程なく戌の刻にもなりぬれば、右三人の者どもは、大かみ谷にて追い付きたり。日本申しけるは、これからは大かみ谷とて、夜分は犬ども多く居る所なり。皆々火縄の用意有りやと尋ぬるに、如何にも仕度致したりと火打ち取り出し、火の用意致す所を見すまして、後ろより大袈裟に切って、穴へぞ蹴り込んだり。

残る弐人はおどろいて、一散に逃げ行く所を、小ざると言う草履取り、飛びかゝつて切り付ければ、小鬢より肩先かけて切たおし、よろめく所を、日本掛け付け、首をころりと打ち落し、これも穴へぞ、投げ込んだり。残る一人は仕合わせと、毒蛇の口をのがれたる心地にて、寺谷村へ逃げて行く。余りうろたえ、大崖より、まっ逆さまに、どっと落ち、目玉抜け出で死してけり。
※ 小鬢(こびん)- 頭の左右前側面の髪。びん。

さて又日本左衛門は、同類手下の者どもを、己が心に合わざれば、人知らず打ち切りける事餘多あり。依って、多くの人の思い積りて、ついにかばねをさらすと、なりにけり。さて又右三人の盗人どもを召し取りし節、不吟味に追い払いし事、後に小笠原土丸殿、不首尾なる事、役人の不調法とは言いながら、国替えと成る事の残念なる事、是非もなし。
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日本左衛門騒動記 7 手下同士打ちの事(前)

(散歩道のムシトリナデシコ。僅かな土にしぶとく咲く。
夕方のせいか、カメラのせいか、実際はもっと赤みを帯びた赤紫色である)

島田のOさんより、新玉ねぎを頂いた。明日、新玉ねぎを使ったパスタを作ってみようと突然に思いついた。テレビドラマ「なるようになるさ」を見ていて、最後に新玉ねぎを使ったパスタのレシピがネットに出ていると聞いていて、それを思い出したのである。早速ネットでレシピをゲット。材料の中に、パンチェッタ(短冊切り)と、知らない単語が出てきた。パンチェッタ=豚のばら肉を塩漬けにしたもの。生ベーコン。すぐに解明。ベーコンよりも脂分が多いのだという。

それにしても、橋田寿賀子の脚本は出てくる人がことごとく、説明的で粘着質な長ゼリフなのだろう。視聴者として少し疲れる。

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

日本左衛門、手下同士打ちの事、並び小笠原土丸殿、検使の事
かくて日々物騒がしき、遠州、近江、三河辺、諸人、在々宿々、山の奥、穏やかならざる事どもなり。

頃は延享三丙寅(1746)四月下旬、掛河宿より南に当り、満水(たまり)坂という所、横須賀の城下近く、掛川領分の堺、腹摺(はらすり)峠という所、殊の外淋しき所なり。この先に満水坂と言う所にて、日本が手下の盗人ども、三人集り喧嘩をぞ致しける。折から横須賀の人、通りかかり、何者なるぞと窺い見れば、これぞ日本左衛門が手下の者ども成るべしと、木陰に忍び聞きしかば、わずか金子壱歩(分)ばかりの配分金、弥々(いよいよ)互いに掴み合い、一人の奴が大脇指を引き抜き、則座に二人を切り倒し、跡をも見ずして逃げて行く。木陰に忍び聞き居る人は、早々急ぎ行きにける。

手負い弐人は半死半生、近所の者に見付けられ、早々名主へ申し出、大勢その場へ立ち寄りて、何方の者なりと改めけれども、一言の答もなし。相手知れねば早々に御地頭所へ訴え出、地頭役人御聞き届け、見使を差し越し、その村へ御預け、この者どもは詮議有りと、養生仰せ付けられて、江戸御屋鋪へも御申し越されし趣なり。

手負い弐人は、段々に平愈致し候えば、御地頭、小笠原土丸様へその由を申し上げ候えば、その両人召し連れ参るべしと仰せられ、村役人両人を引き連れて、御白洲へぞ出でにける。前後の始末、段々に御吟味なされ候えば、両人の者どもは、私ども兼ねて無宿者ゆえ、盗人の仲間入り仕り、少々配分企ての事に付、口論致し候と、己が罪を申し上げ、兎角いつわり申しても、所詮命は亡きものと、有り様に申し上げ候なり。
※ 小笠原土丸-掛川藩小笠原家第三代藩主、小笠原能登守長恭(ながゆき)、土丸(ひじまる)は幼名。延享元年(1744)、五歳で藩主となる。この延享三年はまだ七歳であった。日本左衛門横行の取締りが出来ず、懲罰的に、同年九月、陸奥棚倉藩へ移封を命じられた。
※ 有り様(ありよう)- 実際にあったとおりの状態。ありのまま。ありてい。


御役人中、聞き届け、それは仲間の同士打ちなり。殊に無宿と有るなれば、吟味に及ばず、追い払えと、御役所を引き出し、何国へなるとも早く行けと有りければ、弐人の盗人、毒蛇の口をのがれたる心地してこそ、逃げて行く。
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日本左衛門騒動記 6 強盗押込、装束、狼藉の事

〔散歩道のナデシコ (ダイアンサス セキチク)〕

午後、もう夏の日差しの中、駿河古文書会で静岡へ行く。

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

日本左衛門、強盗押込みに出る、装束、狼藉の事
かくて、日本左衛門は八ヶ国の強盗の長本と成り、上見ぬ鷲のいきおい、傍若無人のおごりに長じ、昼夜美食を好み、身には綾羅の錦を着し、金銀をちりばめ、仮初の遊び、博奕場へ行く時も、帯刀、若党、ぞうり取りまで、あっぱれ歴々の方々を見る様なり。不敵成りける次第なり。
※ 長本(ちょうほん、張本)- 悪事などを起こすもと。また,その人。張本人。首領。
※ 傍若無人(ぼうじゃくぶじん)- 人のことなどまるで気にかけず、自分勝手に振る舞うこと。また、そのさま。
※ 綾羅(りょうら)- 綾衣(あやぎぬ)と薄絹(うすぎぬ)。また、美しい衣服。
※ 仮初(かりそめ)- その場限り。ちょっとした。
※ 帯刀、若党、ぞうり取り - 武士の外出時の作法であった。


夜に入り押し込みに行く、その出で立ち、装束と申すは、大将分の者どもは、皆一様の黒装束、兜頭巾にぶつさき羽織。日本左衛門が装束と言うは、紫琥珀の衣装、ぶつさき羽織は赤地の金襴の半えりをとり、兜頭巾は金襴のへりをとり胸懸け、上帯、小手、すねあてに至るまで、皆一様の赤地の錦、光りかゞやき、御用と書いた高張り丁ちんを燈し、将床(床几)に腰をかけ、左右に若党、ぞうり取りを付け置きて、差図致し候。誠に前代未聞の強盗の長本なり。
※ ぶつさき羽織 - 武士が乗馬や旅行などに用いた羽織。背縫いの下半分が割れ、帯刀に便利。背割(せわり)羽織。
※ 琥珀(こはく)- 琥珀織りのこと。縦糸が密に並び、横糸がやや太く、布面に横うねのある平織りの絹織物。
※ 金襴(きんらん)- 綾地または繻子地(しゅすじ)に金糸で文様を織り出した織物。
※ へりをとり - 縁取る。
※ 胸懸け(むなかけ)- 胸当て。江戸時代の火事装束の一つ。胸を保護するもの。


さてまた、ここを立ちのき、かしこへ参られ、下知をなし、まねき集むる手下の者どもには、色々と異名を付け、先ず弟分の大将は、かの上新家村の甚兵衛を遠州左衛門と申すなり。その外、次信、忠信熊坂長兵衛、金毘羅源八、今弁慶赤池法院、小ざる伝右衛門、ほう白長治など、異名を付けて呼びける。その外。手下餘多あり。この後、召しとられし者ばかり印し置くなり。ほう白長治というやつは、不思義なる身がるにて、高垣飛びこす早わざ、天上板にひたと付き、その外小鳥の飛ぶがごとくなり。よって、頬白(ほおじろ)と名付けたり。
※ 下知(げち)- 上から下へ指図すること。命令。
※ 次信、忠信-源義経四天王、佐藤継信、佐藤忠信から取った異名。
※ 熊坂長兵衛 - 熊坂長範のもじり。


さて富貴なる家を目掛け、押し込みに参る時には、手下の悪党呼び集め、四、五十張り
の丁ちん持たせ、押し込みに入ると、残らず火を燈し、きゝ(輝々)めく事、冴え行く星と争いけり。入り込まんとする家の外面に、将床(床几)置かさせて、腰打ち懸けて下知すれば、皆々込み入り、家内の者臥たる所に、脇指をぬいて差し付け、聲を立てれば一えぐりとおどし懸け、その外、手向う者あらば、則座に切って捨つべしと、手下の者に下知をして乱入、夫婦の者に縄をかけ、金の有り所を申すべしと、非道に言いて責めければ、是非もなき事かなと、涙ながらに申しける。日本、笑みを含み、金を残らず奪い取る。合図の知らせに、手下の者は、一同に足を早めて出て行く。

さてさて、この様なる盗人は、異国にも稀なるべし。在々富貴の人々は、枕も付かず、心の休むひまぞなし。明け暮れ恐れ悲しむ事、幾萬人の難義とも、算(かぞ)え兼ねたるばかりなり。
※ 枕も付かず - 安心して寝ることが出来ない。
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日本左衛門騒動記 5 中嶋順助となれ合いの事

(散歩道のドイツアヤメ)

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

日本左衛門並び中嶋順助という者と、なれ合いの事
かくてかの日本左衛門は、上新家村甚兵衛方に忍び居て、所々へ押込強盗に出る。その間には、博奕を業(わざ)とし、順助とも折節出合い、互いに心安くなりて、押込などの様子を咄し候えば、これを聞いて順助も、さてもうまき事かなと思い、終には仲間となり、見附宿に徘徊致す。
※ 折節(おりふし)- 時々。時おり。時たま。

順助は紀州様の七里役なれば、見附宿に役所を立て、住居いたし、常々役儀を笠に着て、衣服、大小過分の風俗いたし、宿々を、ねだり、ゆすりを言い懸け、かれこれ以って宿々の害に成る故、問屋役人、旅宿屋、商人まで、皆おじ恐れ、おのづからおごり威勢をふるいける。
※ 笠に着る - 権勢のある後援者などを頼みにしたり、自分に保障されている地位を利用したりしていばる。
※ 威勢(いせい)- 人を恐れ従わせる力。


さてまた、日本は見附宿に女房を囲い置いて、徘徊致しける。その後、在々所々の取沙汰、この頃は見附宿に盗人の宿有りと、風聞まち/\なり。然れども、慥かにそれというものなし。然る所に、日本は順助となれ合い、互いに威勢をふるいしまゝ、宿々在々に至るまで、諸人の難義と成る。

さて又この節、博奕の詮義強く、浜松、見附、袋井、掛河辺りまで、きびしく御吟味御座候故、月待日待と言えども、宿をする者一人もなし。さすが日本左衛門も、これには困り入り、この事、順助に咄しければ、成る程それには思案有り、必ず御苦労に思し召すなと申して、そのまゝ一書を認め、宛書きを問屋へ申し付け、袋井宿問屋の役人へ、早速に持参致すべしと申す。
※ 月待(つきまち)- 陰暦で月の17日・19日・23日などの夜、月の出るのを待って供物を供え、酒宴を催して月を祭ること。
※ 日待(ひまち)- 近隣の仲間が集まって、特定の日に徹夜してこもり明かし、日の出を拝む行事。


御役人御逗留成られ候その宿に、

今晩なぐさみこれ有る由、聞き出され、参りたく申され候に付、御世話ながら、相応に御申し付けられ候て、不自由のなき様に頼み入り候、以上
※ なぐさみ - (文脈からして、)手慰み。ばくち。
                   見附宿
                     中嶋順助印
     袋井宿
       問屋役人中

一 袋井宿問屋役人中、申す様、これは有るまじき手紙と思いしが、かの順助が威勢に恐れ畏こまり候と、返事致しける。これに依り、日本は不自由成る事もなく、中食など好んで馳走に合い、これも一途に順助が不敵者故なり。
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日本左衛門騒動記 4 臥煙平助を殺す事(後)

(散歩道のドイツアヤメ、気温が上って、今日はジャンパーを脱いで散歩した)

午後、掛川古文書講座へ出席する。今年度の初回である。60名を越す参加者で、大人気の講座である。今年は幡鎌村から出た古文書を読むという。

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

かつまた拙者、今晩推参致す事、余の義にあらず、誠に身分相立ちがたく儀に付、近頃馴れ/\しく候えども、金子少々、急に入用、早速の心当たりもこれ無く、甚だ難義致し、ただ暫くの内、金子五両恩借致したく、御功利よくと思し召し、何分にも御貸し下さり候わば、忝(かたじけな)く存じ候。何分御頼み存ずるなり、と頼み懸けられ、
※ 恩借(おんしゃく)- 人の好意によって金銭や品物を借り受けること。また、その金品。
※ 功利(こうり)- 行為の結果として得られる名誉や利益。また,幸福と利益。


さすが日本左衛門も、初めて近付きに成る彼奴(きやつ)、噂に聞き及ぶ不敵やつと、心の内に思い、挨拶致す。これはさて、貴公の事、如才に存ぜざる拙者とても、萬事御頼み申し上げたき義もこれ有り候えば、何の五両や拾両の事なれば、早速御用に立ち申すべく候えども、さてこの節は、誠に金子は申すに及ばず、びた壱銭もこれ無し。それ故、引っ込み罷り在り候。御推量下さるべく候。もっとも一両日の内には、少々心当りの金子御座候間、間違いなく、急度御用立て申すべく候。必ず/\御苦労に成られまじく候と申しける。
※ 如才(じょさい)- 気を使わないために生じた手落ちがあること。また、そのさま。手抜かり。

それより甚兵衛女房に申し付け、初めての御近付きなれば、先ず御盃致すべきと申して、互いにさいつおさえつ、その上茶づけなど振るまい、積々(せきせき)馳走致しければ、平助大きに悦び、左様ならば、一両日中に、御礼ながら参上仕るべくと、暇乞いして立ち出でける。
※ さいつおさえつ - さしつさされつ。常套句で、「秋葉街道似多栗毛」でも出てきた。
※ 馳走(ちそう)- 食事を出すなどして客をもてなすこと。また、そのための料理。

それより又、駕籠を頼み立ち帰り、三、四丁行き過ぎて、駕籠の者に咄しけるは、さてさて貴様達は、嘸(さぞ)待ち久しく、たいくつにあったであろう。二、三日の内には、金子四、五両には急度成る故、その節は酒手も随分宜しく取らすべしと申して、勇みよく帰りながら、いろ/\咄しぞ致しける。程なく一言坂へ差し掛かる。ここは池田より東にあたり、見附への近道なり。この道は殊の外淋しく、物凄き処なれば、一言坂とは名付けたり。
※ 一言坂(ひとことざか)- 見付宿より池田へ抜ける間道の途中にある、磐田台地西南部の坂。武田、徳川の一言坂の戦いで知られる。「遠州濱松軍記」に出てきた。

然るに、日本左衛門は、この道筋の事よく知りたりける故に、跡より追いかけ行く。こやつ生かし置いては、後々に我々どもが邪魔に成る。大不敵ものなれば、やみ打ちに致すべくと思うて欠け付けたり。平助は何心なく駕籠に乗りて行く所を、大脇指を抜き放し、跡より肩先と思う所を、ぐっと突ければ、何やつ成ると飛んで出る所を、おがみ打ちに切り給えば、腹の皮まで切りぬいて、さすがの臥煙も、夢心地、かっぱと伏して息絶えたり。悪党とは言いながら、無残なりける最後なり。

然る処、駕籠かきども木陰に忍び、胴震いして、うろたえける。日本左衛門透かし見て、うぬらも臥煙が供をさせんと、血刀を振り廻しければ、大地に伏し手を合わせ、歯の根もあわず震いける。日本はこの有様を見て、つくづく咎なき者、助けてくれんという内に、駕籠かきは一散に行方知れず逃げ失せける。日本可笑しく思いながら、刀をふき、さやに納め、それより上新家へぞ帰りける。

その後、見附、袋井宿にて厄病神か鬼神かと、怖じ恐れし事なれば、気味よき事と申しける。一言坂という処に、臥煙塚とて石を残しけりとなり。
※ 怖じ恐れる(おじおそれる)- ひどく恐れる。おびえ恐れる。
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日本左衛門騒動記 3 臥煙平助を殺す事(前)

(「日本左衛門騒動記」影本)

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

臥煙平助と言う者の事、並び日本、平助を殺す事
かくその頃、金谷宿の内に、臥煙平助と言う無宿者有り。生国知れず。その生れつき、たくましく、力強く、武芸能く、角力など人に勝れて上手、然れども無宿者なるゆえに、道中筋無宿者どもと博奕を専らとし、あるは巾着切り、またある時は江戸へ下り稼ぎ、兎角住居も定らず、また遠州へ立ち帰り、袋井、見附両宿の内に徘徊(はいかい)して、宿々在々までも、博奕の有る所を尋ね出し、その場へ参り、ゆすりかけ、かすめ取る事、言語同断不敵ものなり。
※ 臥煙(がえん)- ならずもの。無頼漢。平助の二つ名(異名、あだ名)である。
※ 無宿者 - 江戸時代、百姓・町人で、駆け落ち・勘当などにより、人別帳から名前をはずされた者。
※ 巾着切り(きんちゃくきり)- 掏摸(すり)。
※ 言語同断(ごんごどうだん)- 言語道断。言葉で言い表せないほどひどいこと。
※ 不敵者(ふてきもの)- 大胆でおそれを知らない者。乱暴で無法な者。


また有る時は、日本が手下の者、押し込み配分の節、少しの事にも喧嘩(けんか)をしかけ、脇指しなどを抜き、脅しかけ、中々人を恐れぬ故、手向う人もなく、誠に日本が目にも余る大悪無道の者なり。

さてまた、その後、上新家村甚兵衛方に、日本は忍び居る事、聞き出し、袋井宿より駕籠に乗り、新家村まで三里余りの道のり、程なく着き致し、様子窺いけるに、日本は同村太郎兵衛方に博奕有りて、直ちに太郎兵衛方まで尋ね行き、その夜は博奕もなし、日本は甚兵衛方へ立ち帰り、平助は太郎兵衛対面し、四方山の咄しをいたし、日本の事尋ねけるに、一両日以前、我ら方へ見え候えども、今朝未明に上新家村甚兵衛方へ立帰り申し候由、申され、それより咄し終る。平助は暇乞いして出でにける。

程なく平助は甚兵衛方へ尋ね行き、初対面の物語し、その上日本左衛門が事、尋ね候えども、もはや寝られ候由挨拶し、平助申すには、日本殿に今晩是非御意を得たき子細あると、高々と咄しければ、日本も目を覚まし、兼ねて聞き及びし平助が来りしと思い、今や寝所を出んかと思いし時、亭主日本に平助と申す人来りし由、告げれば、

日本罷り出で、平助と名乗り合い、これは日本殿、平助殿かと、互に音には聞き及びしが、対面は今初めて、向後は御互いに御心安くと、一礼などをのべ、それより四方山の物語り、或は平助、江戸表の噂咄しなどをしかけ候て、日本が機嫌を窺い、さて貴殿には折悪しく、今日まで貴意を得ざる段、失礼千万、今晩御目に掛かる事、身に取りて大悦至極、この末は御互いに水と魚のごとく、御心安く思し召し、万事御頼み申し上げたく候。

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日本左衛門騒動記 2 日本左衛門の由来書の事(後)

(清水川の上を泳ぐ無数のミニ鯉のぼり)

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

しかるに、天竜川の近所に、上新家村という所に、甚兵衛という似非者有り。この者常々博奕(ばくえき)などを家業として、庄兵衛が手下の者ども、盗み取りし品々を預り置き、他所へ持ち出し、売り払い申し候。庄兵衛は日頃心安き故、芝本村を立のき、かの甚兵衛が所へ参り、四方山(よもやま)の物語を致しければ、甚兵衛申しけるは、然らば、見苦しくとも、当分の内、手前方に御忍び成らるべくと申し、それより、積々(せきせき)馳走して置き、終には庄兵衛が手下こそは成りにけり。この後、甚兵衛が異名を遠州左衛門と申しける。
※ 似非者(えせもの)- いかがわしい者。くせ者。したたか者。
※ 芝本村と上新家村 - 浜嶋庄兵衛(日本左衛門)が元の住居は芝本村にあったという。この芝本村は現在の浜松市浜北区於呂にあり、遠州鉄道遠州芝本駅が最寄り駅である。その後、身を寄せた、上新家村の甚兵衛(遠州左衛門)が住居は、天竜川の東側、現在の磐田市上新屋にあり、旧東海道筋ともさほど離れていない。見附宿まで一里ほどの所である。両方とも、ゆかりの建物でも残っていないかと考えてみたが、歌舞伎のヒーローとはいえ、盗賊の頭では無理というものであろう。


さてまた、浜嶋庄兵衛、生国は尾州のものなり。親は浜嶋富右衛門と言いて、尾張様の七里役義を勤めけり。道中宿々に御役所を建て、住居致し、大小御免の役人ゆえ、道中宿々、殊の外重んずるなり。十ヶ年以前まで、遠州金谷宿の御役所を勤め、今は相果てけり。
※ 七里役 - 街道の七里ごとに常駐した藩公用の飛脚で、富右衛門は東海道金谷宿の常駐であった。
※ 大小御免 - 武士同様に大小の刀を差すことを許される。


その子庄兵衛は富右衛門存生の内に勘当(かんどう)致し、それより遠州、三河内に数年徘徊(はいかい)致し、道中渡り、盗みに博奕(ばくえき)を家業としける。幼少の時は、名も友五郎というて、器量万人に勝れし。才智発明成りし生れなり。生長の後は、尾張重右衛門と言いて、その器量、柔和にして、人柄能く、力強く、釼術の達人なり。諸人自然と尊敬して、異名を日本左衛門と申しける。今は手下の者ども、餘多(あまた)有り。誠にその威勢強く、詞(ことば)に述べ難く、右は州(くに)の強盗の長本と成りしとなり。

※ 存生(ぞんじょう)- この世に生きていること。存命。生存。
※ 長本(ちょうほん、張本)- 悪事などを起こすもと。また,その人。張本人。首領。

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