goo

せっせ、せっせ、せっせと一日歩いた

(毘沙門の滝)

肉刺は二つになったけれども、夜の針仕事が増えるだけで、歩き出してしまえば何のことはない。はずである。出掛けから降り出した雨は合羽の上下が必要なほどだった。途中で軒下を借りて完全防備に切り替える。

大日寺では雨がまだ止まなかった。奥の院の爪彫薬師堂への参って、納経印を頂いた。次の国分寺へは9.2km、せっせと歩いた。雨はすっかり止んだ。次の善楽寺へは6.6kmだが、途中に毘沙門の滝へ寄る。ここは国分寺の奥の院である。毘沙門の滝へは5.6km、そこから善楽寺へは2.9km、足せば8.5kmとなり、2kmほど余分になる。

善楽寺から竹林寺へは、さらに6.6km、登りがあるから、善楽寺の納経所のおばちゃんは2時間掛かると話した。宿から大日寺までの3.9km、竹林寺からBH土佐路たかすまでの4kmが加わる。合計で32.2kmで、正確にはこれに郵便局まで足を伸ばした約1キロのおまけがつくから、33.2kmである。お寺が4ヶ寺と奥の院が2ヶ所、これだけ巡るととても30kmは歩けないのであるが、一日何かに追われるように、せっせ、せっせ、せっせと歩いた。

クマのぷーさんには、今日も国分寺と、善楽寺の2度逢った。気があせったためか、ゆっくり話も出来ず、クマのぷーさんは予定を一日切り上げて、今日高知駅から高速バスに乗ると言って、5kmの道を歩いて行った。高速バスは舞子で下りて、今夜はもう自宅へ着いただろうか。

今日の遍路道は田んぼのあぜ道のようなところが多かった。いずれも、田植えを終え、早苗が風に揺れていた。


(花さわち)

「片雲の風に誘われて」のSさんが見た「生け花のオブジェ」、聞いてみたところ、「花さわち」と呼ばれる、高知のさわち料理にちなんで製作されたもので、花は寄せ植えだという。栽培と寄せ植えは隣の牧野植物園で引き受けていると聞いた。

「クマのぷー」さんからはさっそく自宅からコメントを頂いた。激励に漢詩を書いていただいたが、多くの文字化けがあって判読不能だった。おそらく難しい漢字が使われていたのであろう。

「そらとうみ」さんは、やはり私に向けたメッセージだったようだ。なら余計に、宿が取れないと物語りが続かない。しかし取れなかったおかげで、時間の余裕が出来て、クマのぷーさんとゆっくり歩けたともいえる。

昨日の写真であるが、遍路道から逸れて、物好きにもそばまで行ってみた。近くにカメラでたんぽぽの綿毛を狙っていたおじさんにきくと、跳ね上げ橋で、時間を決めて上げたり下ろしたりするのだそうだ。もちろん水路に舟を通すためである。その時刻表もあった。10分ほど待てば下げるところが見れたが、判ってしまえばそんなに興味があるわけではなかった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

中国人遍路、クマのぷーさんと歩く

(大日寺への途中の異様なもの-答えは明日)

一昨夜だったか、「そらとうみ」さんが自らのブログ「人生、七転び八起きだワン」に、歩き遍路の民宿、遊庵のことを取り上げていた。自分がまさに次の宿の選択で迷っていた時だったので、これは自分に対するメッセージではないかと勝手に思い、さっそく番号を調べて電話をしたが、満室と断られた。何となくいやな予感が的中した。

遍路宿で逆打ちの歩き遍路と一緒になると、必ず情報交換がされる。その場ですでに大日寺近くの遊庵のことは噂になっていた。自分はまだ先のこととして気にも留めていなかったけれども、チェックしていた人たちも多かったのだろう。

予約が取れなかったでは、物語にならない。これはまずいと明後日予定の高知屋にも電話を入れたが、土曜日に当り、すげなく満員と断られた。で、今は少し落ち込んでいる。気に入った宿は他のお遍路さんにも人気が出るのは当然で、しかもお遍路さんの口コミは侮れない。今年のように逆打ちが多いと昨日体験したばかりの情報が、一番可能性の高い客へ直接伝えられるのだから、これほどすごい広告媒体はない。

だから仕方が無いといえばそれまでだが、まじめに一歩一歩足で歩んで宿まで着きたいと思う歩き遍路は、そんな先まで予約が入れられない。遅くなったらタクシーを使えばよいと考える安易な客だけが、予約レースに勝ってしまい、人気民宿は彼らに独占されるのではないか。

ちょっと、ブルーになって妙な思考に陥っている。お遍路の目的は何か。人気民宿に泊まることでは決してない。明日からは宿泊先であれこれ悩むことは止めよう。お遍路の都合だけで最寄の宿を考えるようにしよう。別格や奥の院など、元々人とは違う回り方をしているわけで、同じ宿に泊まれるわけがない。

昨日、吉良川の町を抜けて、国道55号線に出たところで、休憩後、歩き始めたとき、先を行くお遍路さんが一人いた。何とか追いついてやろうと頑張ってみたが、追いつけそうで追いつけず、諦めた。その全く同じ後姿を安芸市の街中で随分先に見つけた。そして町外れの遍路休憩所で休んでいる男性に声を掛けた。


(中国人のクマのぷーさん)

それが、クマのぷーさんとの出会いだった。受け答えに少し癖が残るので、国を尋ねると、中国だという。中国人はお遍路をしないと誰かが言い、自分もそれに同調していた。韓国人がよく来ることは承知していた。中国人を見かけるのも、噂を聞くのも初めてであった。結局、夕方までクマのぷーさん一日行動をともにすることになった。

22歳で北京の大学を卒業、日本に留学して、卒業後、北京に2年ほど帰ったが、再来日して日本で就職した。奥さんは留学生のときに知り合った日本女性、一度は北京に連れ帰ったが、今は明石に住んで電車で通勤している。苗字は中国でも大変珍しい「部(ぷう)」という。年齢は自分の息子と同年代の38歳。二人の小学生の良きパパなのだろう。温厚そうな人柄から、やっぱり、クマのぷーさんである。在日16年で、今ではほとんど言葉には不自由は無さそうで、奥さん相手にも日本語でやり取りしている。

受け答えにはインテリジェンスが感じられ、的確な返事が返ってくる。自分のこともたくさん話したが、クマのぷーさんも色々話してくれた。ギラギラさせることは無いが、どこかに愛国心もあって、中国人のアイデンテティも忘れてはいない。

最も興味があったお遍路に出るきっかけだが、奥さんの実家が愛媛にあり、近くでお遍路を見かけ、あの人たちは何かと聞いたところ、お遍路というものがあると知った。最近、やや太り気味で、その解消のためにもお遍路をしてみようと思った。

クマのぷーさんは昨夜夢を見たという。78歳になる父親が夢に出て来て、「おまえ、そんなところで何やってる、すぐに帰って来い」といわれた。疲れて、足もだるいし、今日辺りで中止して帰ろうかと思っていた。一緒に歩いてもらい、また力がわいて来たような気がする。今週一杯しか休めないので、そこまでは頑張ろうと思う。ホテルに予約したというクマのぷーさんとは、今夜の宿泊先、かとりの前で別れた。

今夜、大日寺の3.9km手前の「かとり」という旅館に泊まっている。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

一つ目のマメが出来てしまった

(霊跡不動岩)

朝、今日こそは誰よりも早く出発しようと思っていた。今夜の宿では友人のS氏が待っている。雨の中、室戸の手前を歩いているとき、携帯が鳴った。歩きながら話すと、S氏は神峯寺から今回自転車でお遍路を再開し、結願を目指そうとしている。神峯寺のふもとの民宿を予約し、待っているという。歩行距離27km、そんなに大変とは思わなかったけれども、その後、どうしても明日以降の問題として、神峯寺を打って置かねば都合が悪い。その往復8km、標高430メートルの山を登って来なければならない。

何やかやあって、出たのは結局7時を回っていた。皆んなの行かない不動岩にも寄る予定であった。岬の不動岩のある場所へ直接下る道を進んだが、途中で地元の人に聞くと、遍路道を下って国道を往復して来る方が早いよという。ここまできてしまったからと、我を張って先へ進もうとすると、左へだけは行かないようにしないと、反対側に下りて、大変な大回りになってしまうよと、さらに注意をしてくれた。左に回らないように気をつけて下っていくと、ぐるぐる回って遍路道へ戻ってしまった。これはまんまとおじさんの計略にはまったと、苦笑いをしながら遍路道を下り、アドバイス通り、国道を戻って不動岩にお参りしてきた。


(歴史的建物群保存地域指定の吉良川町の旧家の蔵)

吉良川の町で、べっぴんさんの店に寄るのを楽しみにしていたが、開いている様子が無かった。立ち行かなくなってやめてしまったのだろうか。がっかりしながら、旧道を進んだ。国道へ出る角にトイレがあり、遍路休憩所があった。

休んでいたおじさんと話す。退職の記念に四国遍路に出てはまってしまい、以後毎年春に遍路をして、今回が13回目になる。うるう年は逆回りに決めて、今年も逆周りで歩いている。遍路に出ると健康になるので、それを理由に家族を納得させている。本当はひざが痛くて、医者の紹介状を持ってきたので、どこかで注射をしてもらおうと思っているのだが。

この先の遍路道は国道から外れて一山越さねばならないが、国道を行くとよほど距離が伸びるのだろうかと聞いてみた。少し伸びるだろうけど変らないよ。ひざを痛めてから坂道は出来るだけ避けていて、最近はもっぱら国道を歩いている。その言葉に、国道を歩くことにした。訳のわからない山道より、海岸沿いの道の方がよほど気持ちよいだろうと思い、海岸沿いの国道を歩いた。

奈半利の町で、なぜか味噌ラーメンを食べて、2時頃に途中まで自転車で迎えに来たS氏に出会った。遍路の途中に友人に会うのは初めての経験である。民宿きんしょうに荷を置き、連れ立って神峯寺を打ちに出かけた。往復3時間強掛かった。足の裏が痛かったが、戻って靴下を脱いで驚いた。とうとうマメが出来ていた。今回初めてのマメである。夕食後、糸と針を借りて糸を2ヶ所通したままにして、大きめのリバテープを張った。明日はどのくらい歩けるだろうか。心配してもしょうがないのでもう休む。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

快晴の室戸を「脱兎」さんが駈け去る

(民宿徳増を出てすぐの海)

民宿徳増に朝日が差した。絶好の天気である。明日は神峯寺のふもとの民宿で、S氏と会う約束を電話でしたため、明日の宿が先に決まった。今夜に付いては逆打ちの人から情報を貰い、どうしても金剛頂寺の宿坊に泊まりたかった。あれやこれやで、最御崎寺の奥の院の四十寺をコースから外さざるを得なかった。そうすると、今日はやや余裕の26~27kmになり、楽勝だと思った。

日差しは強いけれども、風はやや冷たく気持がよい。左側はずうっと白波打ち寄せる太平洋である。歩いていると眠くなるような、天候が良すぎ、コースも余裕で緊張感がない。ややダレた感じのお遍路になってしまった。


(脱兎さんの後姿)

室戸岬へまだまだのあたりで、突然不思議なお遍路さんを見た。頭に柿渋を塗ったこげ茶の菅笠を被り、白衣、白ズボン、白脚絆などお遍路さん姿であるが、荷物は持たない異形の人である。あれ! 同宿だった人と思い声を掛けた。挨拶の後、かの人は脱兎のごとく駈けて見えなくなった。これはもう、「脱兎」さんと名付けるより他はない。

夜、再び宿坊で同宿となり、話を聞く。脱兎さんは今回4度目のお遍路で、回数を追う毎に荷物を減らして、今ではザックも止め、金剛杖や納経帳もなく、必要なわずかのものは白衣にたくさんのポケットを付けて入れているだけである。宿へ着けば衣類はすべて洗濯し、乾くまでは浴衣一枚で過ごす。荷物が無いから、気が向けば駈けることも出来る。四国88ヶ所を皆さんにはとても参考にならないほど早く回っている。それも回を追う毎に早くなっている。具体的に日数は言わなかったが、30日を大幅に切るほどの日数らしい。

荷物が無ければどれだけ楽であろう。お遍路を考える人たちは誰でも思う。そういうお遍路さんの便宜を図って、夕方までに、次の宿まで荷を配達してくれるサービスを宅配業者で受けているという。そこまでやってはやりすぎであろう。持ちたい欲と持ったつらさが葛藤するからこそお遍路である。

脱兎さんはその荷物を不要とばっさり切ってしまった。何ともユニークな人である。お遍路における心と身体の葛藤をばっさり切って見せた。それはさとりではなくて、一種革命かもしれない。一見88ヶ所を通しで打っている人にはとても見えない、見てもらえない。それが少し残念のようだ。宿に聞いてもそんな人は見たことがないと言われるから、たぶん自分一人なのだろう。

これからこんなお遍路が増えてくるかもしれないけれど、はじめたのは自分だと覚えて置いてください。流行るかな、どうだろう。でも、創始者であることは間違いない。ユニークな人は大好きである。今夜を最後に、脱兎の如く先へ行ってしまうだろうから、今夜、お遍路名刺を渡した。博多の人、40歳、多分独身(聞いたわけではない)。ブログにコメントを書き込むとは話していた。

最御崎寺の納経所で、下山すれば食べるところがあるだろうかと聞いた。旧道を行くとすぐに食堂があるという情報を得た。前を歩くお遍路さんがお店を覗いて入る。後ろから続いて入った。「準備中」が出ていたから覗いたら、客がいたので声を掛けて入ったという。客の一人は男性遍路、もう一人、事務員風の中年女性がカレーを食べていた。美味しいですかと聞く。ここのカレーは美味しいから、お勧めですよ、と答える。そこまで言われると、これはもうカレーを頼まねばなるまい。カレーの味は違わなかった。3年前に食べた海陽町の喫茶店のカレーと似ていた。これもニンニクが入っているのがポイントなのだろうか。


(秋田犬遍路再び)

もう一つ、太龍寺で逢った秋田犬のお遍路に、今日また津照寺で逢った。秋田犬の名は「カイ」だと聞いた。ずうっと車に泊まりながら回るのだという。カイくん、もう冬の毛皮では暑いのか、日陰に入ってお腹を地面に付けたがる。しかし、お遍路さんの中では大人気で、人だかりが出来ている。その中で頭やのどを触られても全く動じない。ちなみにカイくんのお遍路の白衣は人用を改造したものだという。

夜中、部屋から押し殺したようなふくろうの声が聞こえる。人がつぶやいているようで不気味であった。金剛頂寺宿坊では随分離れた別坊に部屋割りされた。何十人も泊める別坊に、もう一人女性が離れた部屋に居るとはいうものの、珍しく背筋が寒くなるような恐怖を感じた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

厳しい雨降りの修行であった

(早朝、みなみ旅館前を出発)

予報ではこんなに雨が降るつもりではなかった。みなみ旅館を出るときには、すでに合羽など雨仕度をしっかりとした。出掛けにおにぎり2個とタオルの接待を頂き、有難く出発した。この雨でタオルのお接待はありがたい。お遍路の気持をよく考えた旅館の姿勢には頭が下がり、また来たくなる。

全身びしょぬれになりながら、32kmの歩きをこなして、午後4時頃に、今夜の宿、室戸の最御崎寺へあと15.6km残す、民宿徳増へ着いた。その間、雨はほとんど止む間を見せず、降り続いた。海岸に沿った国道55号線にはスピードを上げて車ががんがん通る。お遍路さんの姿を見ると、ほとんどの車が中央に除けたり、スピードを落としたりしてくれるが、中に水溜りにタイヤを突っ込み、ざんぶと水を頭から掛けて過ぎる車もある。このやろう!と腹を立てかけて、お大師さんもここで水行とは人が悪いと思い直す。

最後に佐喜浜で前回も入った、みかど食堂に入った。びしょぬれの合羽のまま店先に立つと、銀行へ出かけ掛けようとしていた女将さんが戻って来て、濡れるのをかまわずに、リュックや腰掛けるところを指示してくれる。たまごうどんを頼む。

地元の男性と、仏海庵の国道からの標石が見えにくく、見逃してくるお遍路さんが良くある。目立つ看板を立てるように頼んであるのだが。国道から入ってくる道があるのですね、自分は旧道を来たから、見逃しようが無かった。3年前にも通ったとき、この店に入ったというと、覚えていなくてごめんなさい。お遍路の立ち寄る食堂として、彼女も遍路道途上でお遍路さんを見守っている女性の一人である。うどんを食べ終わった頃、銀行が3時で閉まるからと留守番を客に頼んで出かけた。

海に沿った大雨の国道を一人で黙々と歩いていて、うれしいことが二つあった。目の前に車を止めて、傘を差して出て来て、これから室戸まで行くのですが、乗っていきませんかと声を掛けてくれたおじさんがいた。このびしょぬれをそのまま乗せようという好意には頭が下がる。自分が逆の立場だったら絶対やらないだろう。けれども、歩くと決めているので、申し訳ありませんと、丁重に断った。

もう一つは後ろから来た車が自分の脇に止まり、お遍路さん、ご苦労様です。これお接待、ジュースでも飲んでください。200円の現金と飴玉を頂いた。現金を頂くのは初回も含めて始めてのことであった。さっそく宿に着いて乾燥機使用料に使わせていただいた。

「非遍路」さんのことを少し書く。昨日のみなみ旅館で同宿で、今夜の徳増でも同宿であった。自分はお遍路では無いといきなりの発言があった。聞いてみれば、自分の父親は10回もお遍路をしている。昨年車でお遍路のコースを走り、今年はそのコースを歩いている。しかし、お寺には寄らないからお遍路ではない。だから、旅館などでお接待を頂くのは筋違いだと思う。もっとも有難く頂いているが。

お父さんがお遍路を10回もしたなら、あなたもお遍路にすればよかったのに。何も宗教としてお遍路をしている人ばかりではない。般若心経は上げるが、自分も信者になったわけではない。結局、「非遍路」さんは来年はお遍路をしますと断言した。

お遍路を10回もした父親のことをもっとよく知りたくて、同じコースを旅してみているのであろう。おそらく、父親のことは知りたいが、その宗教的な部分には反発を感じていたのではないだろうか。旅に出てみて、お遍路のコースを歩きながら、遍路ではないと言う、けったいさに気付いたのであろう。父親の生死は聞かなかったけれども、多分、父親を亡くして居るのだろうと想像した。「非遍路」さんとは明朝は別れて先へ行ってしまうので、名刺を渡した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

初回の記憶をたどって歩く

(おばあちゃんたちの接待所)

前回は薬王寺から宍喰まで歩いたが、今回はその手前、海陽町の海部に宿を取ったので、少し余裕があった。

昨夕、打つつもりの薬王寺を朝一番に打って、納経所は目の前で開けてくれ、今朝のかわ切りであった。奥の院のことを聞くと近道を説明しかけたので、今回は行かないからと断った。次の最御崎寺まで80kmある話になり、自転車のレンタルで向こうに乗り捨てが出来る仕組みがあれば良いがと思い付きを話す。若い坊さんは否定はしなかった。

立ち寄ったコンビニの主人が店の周りで箒を使っていた。裏の山の斜面に階段を付けて、津波時の避難路が作られていた。その入り口には非常時には蹴破るように書かれて、扉が閉まっていた。津波の避難所ですかと聞くと、最近出来たばかりでと、行政が作ったようだ。そこでもレンタサイクルの話をすると、お遍路をしてみないと出てこないアイデアですね、と参考になったような、なら無いような顔をしていた。

どの辺りまで歩いたところだったか、後でよく調べてみないと判らないが、「元気なおばあちゃんたちおしゃべり広場」と名付けた、お遍路さん接待所があった。前回も気付いたが、誰も居なかった。今日も誰も居ないと思い、500メートル上の山から引いたという水を使わせてもらっていると、おばあちゃんが一人やってきて、接待所の戸を開け、お接待と缶緑茶とお菓子を持ってきてくれた。聞けば、おばあちゃんたち二人がお遍路さんの接待をしたいと思いつき、最初は小さな小屋を、そのうち水車までつけた家を建ててもらった。水車では実際に米がつけるようになっているという。そのうち、おばあちゃんたちのたまり場となり、お遍路さんの世話をしながら、皆んなでがやがややっているという。

次に、牟岐の接待所にも寄った。3年前は80人の人が当番でやっていたが、今は人数も半減し、春と秋、それも午後2時まで、木曜日は休みと負担を減らして続けているという。そこへもう一人若い女性が呼び込まれた。はじめの頃、安楽寺宿坊の食堂で見た女性だった。その後、若い女性二人連れで見かけたがと聞くと、連れは薬王寺で区切って帰った。自分は最後まで歩く予定だという。彼女も2ヶ月の予定でゆっくり歩いている。ちなみに今夜は鯖大師泊まりだと言う。予定が同じ2ヶ月だから、またどこかで出会うことになるかもしれないね、と先に接待所を発った。その女性は、鯖大師前の鯖瀬大福食堂でうどんを食べ終えたところに、追いついてきた。鯖大師宿坊へ泊まる彼女を残して先へ進んだ。


(お遍路さんを見送る珈琲店女店主)

海陽町に入り、JR牟岐線淺川駅を右手に見て通り過ぎた先に、コーヒーショップふくなかがある。前回鯖瀬大福食堂が休みで、空き腹を抱えて入ったコーヒー店で、カレーライスを頂き、歓待された。今はうどんを食べたばかりで、カレーライスというわけにはいかないが、アイスコーヒーでも飲もうと思っていると、かの女店主が手にイチゴを一つ持って飛び出してきて、お接待!と差し出す。一瞬何が起きたのか、判らずに立ち止まり、この女性だと思い出した。3年前の話をして、今日は立ち寄ったと話す。この女性、本当にお遍路さんが好きなようで、聞いていくと、お遍路さんから居ながらにして日本中の話が聞けて楽しいという。小豆餅をお接待してくれ、発つときは前回同様、しっかりと外で見送ってくれた。

今夜の泊りは、みなみ旅館で、歩き遍路3人が客である。聞けば明日も同じ宿だと判り、同宿のお遍路さんの話は明日書こうと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

誰とも出会わず、美波海辺の道を行く

(海亀の上がる大浜海岸)

一日、誰とも親しく話すことなく、美波町の海辺を歩き、土曜日で宿も考えたところに断られ、前回に泊まった民宿に頼んだ。今では余りお遍路も泊まらない宿で、食事をしたらすごすごと部屋へ帰り、暖房をつけて、早々に一寝入りした。

平等寺辺りでは、ちらほら歩き遍路も見えていたけれども、そっけなく薬王寺を目指していく。平等寺に一番遅く来て、郵便局に寄ったり、弥谷観音に1.4キロほど余分に歩いて立ち寄ったり、すでに美波町の海辺に出る前の遍路休憩所で昼食を取ったりして、流れに乗っていなかったのだと思う。

雨が落ちそうで落ちないどんよりした雲の下をスタートした。勝手を知った遍路道で、大根峠も何ということなく越した。下りた里では田植えが始まっていた。苗を運んでいたおじさんに、声を掛けた。早い田植えですね、今植えると収穫は何時になりますか。8月には収穫だ。色々問題の多い米作りですけど頑張ってください。これではまるで政治家の視察だ。

平等寺で昨夜同宿だった、故郷が島田という男性に会った。朝、挨拶して先に出て行って、それまでと思っていたら、また会った。聞けば、道を間違えて大根峠を越さずに車道を来てしまったという。呼び名を付けていなかったので、「F1」さんと名付けよう。とにかくスピードが速くて、時々暴走して炎上する。これで会うことは無いだろうが、何かと噂は伝わって来そうである。

山中の国道55号線を行く遍路道と、海岸線を行く遍路道の分岐点で、地元の男性に声を掛けられた。昔は薬王寺へ詣でるには山の道を通った。自分の子供の頃もそうだった。何だか近頃は海辺の道を通る人が増えた。海辺の道は景色が良いから、人気があるみたいですよと自分。


(美波海岸の遍路小屋)

自分で歩いて感じたのだが、海辺の道は整備されて人気が出るようになったのだろうと感じた。お遍路休憩所が点々とあり、薬王寺までの距離を示した道標がたくさん立ち、トイレの標示がきっちりされているのには感心した。距離は少々遠いが、特に女性の場合は断然海辺の道を選ぶだろう。山の道にはトイレもほとんどない。

風が冷たかった朝と比べて、海辺に出る直前にすっかり晴れ上がって、風が心地よく感じるほどになった。その海辺にJR牟岐線が通っている。スケールが違うが山陰海岸に似ていると感じ、父のことを思い出した。父は戦後は会社勤めで、メーカーから農協へ品物を卸す会社で注文取り(今でいうセールスか)を長く勤めていた。当時車は無く、山陰線で出かけては、最寄の駅からそれぞれの農協まで、ひたすら歩いて出向いて商談をしてくる。それが日課だったようだ。毎日、毎日、30分、1時間と黙々と歩いていた父は何を考えていたのだろうか、今は何か判りかけてきたような気がする。その父が94歳で亡くなって、もう13回忌も終えた。

海は山陰海岸と同じようにきれいだった。日本海の荒波にもまれる山陰海岸よりも優しい美しさだった。おにぎり二つではエネルギー切れで、点々とある遍路小屋の一つ一つで休憩を取りながら、4時過ぎに民宿に入った。薬王寺を打つ時間はあったが、体力の限界で、明日朝一番に打つことにした。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

元気の出ないまま、鶴と龍を打つ

(お遍路の秋田犬
88番まで行くつもりだと言う、もちろん犬の弁ではない)

本当はラッキーな一日だったはずである。雨を覚悟していたのが、午後3時頃まで降らなかった。ところが昨日迷って3kmほど焦りながら余分に歩いたのが祟ったのだろうか。「さかもと」を出てから、いつもの歩調が取れない。自分でも、とぼとぼと歩いている感がする。鶴林寺への登りも息絶え絶えに、思った時間の倍かかった。その遅れが雨を追いつかせてしまった。

昨日今日の「さかもと」近辺のサクラはサクラ吹雪状態であった。ところが山の上の鶴林寺では、今がサクラの満開であった。それを見るだけで、随分と元気が出た。団体さんを連れてきた、墨染めの衣に、本式の金剛杖、頭を丸めた坊さんが、歩いて回っているのかと聞く。2度目で今回は別格も含めて回っているというと、108ヶ所だと2ヶ月かかる。お金もかかるだろう。一日一万はかかるからなあ。そんなに掛けたのでは困るから、節約しています。まあ、頑張って行きなさい。結局お金のかかることしか話さなかった。

鶴林寺を下って、川端の休憩所で、宿で頂いたおにぎりを食べる。目の前で電気工事屋さんが一人で街灯に梯子を架け、命ベルトをかけて、作業をしている。まだ古いとも思われない蛍光灯の街灯を、装置さら外して、一度トラックに戻り、長さが短いものを持ってきて替えている。電力不足に対する対策が、こんな田舎の街灯にまで及んでいるのだろうか。少しの間、現実世界に引き戻された思いであった。

おにぎり効果であろうか、太龍寺への登りは少しは増しになった。夫婦のお遍路に追い抜かれ、あとどれくらいだろうかと聞くから半分ぐらいだろうと答えて、間もなく正面に仁王門が出現した。太龍寺はその先にまだ坂があり、納経所の先に本堂、大師堂へ行くにはさらに高い石段が待っている。


(舎心ヶ嶽の大師座像)

太龍寺奥の院、舎心ヶ嶽へそのまま向かった。700メートルの散歩道だよと誰かが言った言葉を信じて、ザックも背負ったままである。しかし最後の登りはきつかった。断崖の岩の上に座す大師像があり、鎖を使って岩を登れば、そばまで寄れるように思えたが、大師座像の背中を見るにとどめた。

太龍寺本堂は、台風で杉の巨木が倒壊して、その直撃を受け、現在修復中であった。仮の参拝所が出来ていた。勤行の途中から雨が降り出し、合羽を着て、今夜の宿の、龍山荘へ4キロの道を下山した。

宿には4時過ぎに入った。客は今夜は5人と少ない。あなたが最初の到着だという。問わず語りに2、3日前は20人、30人とあった。昔はもっと多く、100人を超す人たちが泊まってくれて、にぎわった。ここは創業何年ですか。43年になる。自分はここに温州みかんを作りに入った。農家の舎弟だったから。みかんは作れば飛ぶように売れた。そのうちここは日当たりも悪く、地味も悪くて、甘いみかんが出来ず、割を食うようになった。

そんな時、ある老婆が暗くなって山から下りてきて、一晩泊めてほしいと言われた。そのときに、この場所ではそんな需要があることに気付かされた。その頃はどこにも遍路を泊める宿などなかった。自分の若い頃は遍路といえば乞食や物乞いしか居なかった。そのうちにブームがやってきて、お客がどんどん来るようになった。でもこの商売ももう駄目だ。客は昔のようには戻ってこない。遍路宿も続けて行けなくなる。息子が宿は継がないと行ったが、今は正しい判断だったと思う。自分も今年72歳だから、いつまで続けられるか判らない。あちこちで同じような話を聞く。

龍山荘で奇遇もあった。お風呂に入ってきた男性は岐阜の人だったが、話していくと、出身は島田の六合だと言い、お互いにこんな奇遇はめったにあるものではないと、喜び合った。昔、陸上をやっていたというが、この人の歩く早さは並ではなく、最短記録で、一回り29泊とか話す。寝袋を持っているので、一日50kmを越すこともあるという。現在74歳、7回目のお遍路だけれども、これだけ早いと仲間も出来ないだろう。最初のお遍路では記録をワープロ印刷して30部製本したけれども、配れずにたくさん残ってしまったという。「まんだら」の話をして、それぞれ送りあうことにした。但し、私の場合は2ヶ月後になることを付け加えた。

元気の無さに寝不足もあるのだが、もう11時を回った。先ほど1時間ほど宵寝したとはいえ、もう休まねば明日に響く。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

穴禅定を体験した

(灌頂の滝)

毎日の行動が取材になり、書きたいと思うことがどんどん溜まっていく。今日も、色々あったが、夜9時過ぎまで、洗濯の乾燥を忘れて、話し込んでいた。それでこれから書き込むわけだが、明日に備えて寝なければならないし、思ったことの何割が書けるだろうか。一方記憶は新しいものが加わると、どんどん薄れてしまう。

しばらく一日遅れで書いていたが、今日からは今日のことを書こうと思う。昨日の話はまたいつか書くこともあるだろう。

今朝、計画を大きく変更して、朝から道草せずに番外の慈眼寺を目指し、穴禅定を済ませ、灌頂の滝を見に行くことにした。宿泊は「ふれあいの里さかもと」である。元小学校の校舎を宿泊施設に改造して、集落で営業している。番外の慈眼寺に来るお遍路さんがターゲットの一つである。明日の天気が良くなさそうとの予報で、それなら今日回ってしまおうと思った。

朝10時半過ぎに「ふれあいの里さかもと」に着いた。かなりの急坂を登って、旧校庭から入る。校舎は比較的新しいものだけれども、外見は全く小学校の校舎である。部屋は2階の保健室「きんかん」の間である。中は完全に和室の部屋に改造されて、8畳と広い。保健室ならゆっくり休めそうだと、フロントの女性に冗談を言う。

不要な荷を出し、ザックをほとんど空にして背負う。軽くて背負った感覚がないほどであった。杖を忘れて出てしまったが、無理に取りに帰らなかった。慈眼寺までの行きの地図はもともとお遍路道だったところで、高さを稼がねばならないところは目一杯急阪だが、ある程度上ると標高線に沿うような平坦な山道になった。標識も目一杯付けられていて、迷うことなく慈眼寺まで行けた。


(穴禅定行場)

勤行を終え、納経所で穴禅定の申し込みをすると、今、10人のグループがそこで昼食を取っていて、さらに20人のツアー客のバスが坂を登ってくる。エンジン音が先ほどから聞こえていると話す。だからどちらかのグループに入って貰うことになる。午前中なら一人でも出来たらしい。一人だと20分か30分で出てこれるが、団体だと2時間掛かるのか3時間掛かるのか予測できない。料金は一人だと3000円、二人だと一人1500円、3人以上は一律1000円となる。グループに女性の先達が一人ずつ付く。

さて自分は10人のグループに入りしんがりを進んだ。現代で言えばケイビング(洞窟探検)である。鍾乳穴を潜って200メートルほど奥まで入るのであるが、途中ギリギリで人が抜けられる程度の部分が4箇所ほどあり、あらかじめ見本の隙間を通れない太い人は外されている。各々がろうそくを一本ずつ持って、腕、足、頭、腹などを先達さんの指示通りに動かせば、抜けられるように出来ている。10人グループは愛媛県西条市の同級会のグループで、年齢が72歳と高い。太目の男性が随分時間が掛かってしまい、途中で出たいと言いだしたほどであったが、先達さんが次々に指示をして、何とかその穴を抜けさせてしまった。

第1の部屋には、鍾乳石の中現われた諸仏の説明がされた。第2の部屋では、弘法大師が太龍を封じ込めて、爪や牙などが鍾乳石になっていると説明があった。第3の最奥の部屋には青年の弘法大師が祀られ、上から滴る水を命の水として、修行をされたと説明した。

帰りは一度経験済みだから、先達から出る指示を後ろへ伝えながら比較的早くに抜けられた。午後3時10分に、一時間半ほど掛かって出てきた。後の20人のツアー客も続いて入っていて、やや広めのところですれ違いになった。

先達の女性に聞くと、1グループ30人くらいなら出来る。1日に5、6回は行うことがある。冬場は凍って危険になるのでやらない、などの情報を得た。

出てきたら、肱から血を流している人も居て、先達さんに消毒をしてもらっていた。「ふれあいの里さかもと」に帰って洗濯した後、自分のズボンにかぎ裂きが出来ていることに気付いた。けっこう過酷だったようである。

「ふれあいの里さかもと」で夕食後、今日が当番という、地元の男性と話をした。母親が86歳まで穴禅定の先達をしていて、今は介護施設だが、ろうそくを持たなくても通ることが出来るほど洞窟に精通していた。今はツアー客など観光色が強くなってしまったが、昔は信仰の一部で、数ある大師像の中で穴禅定の青年大師が最も尊いといわれるほどであった。先達のその男性の母親に洞窟内で天井から滴る聖水をつけた数珠で祈りとともに撫ぜてもらい、様々な病気が平癒したと、全国からその男性の母親を慕う人たちがたくさんいて、引退した今でも、わざわざ入所している介護施設にまでやってくると話す。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

道を間違えて良い事もある

(ユーモラスな童学寺山門)

昨日、朝一番で建治寺から下って童学寺を目指した。判りやすい道を行くように、奥さんが駐車場から舗装道路を下るように、それを左へ左へ取って行くと、行者橋に近いところに下り、県道を遡る距離が短くなると説明してくれた。それを頭に置きながら下ったのであるが、道が悪い方へは、何となく信用出来ず曲がらないで、良い道の方を選んでしまったため、かなり川下に下りてしまった。大日寺へ行くには近いのだが、童学寺へは鮎喰川沿いをかなりの距離、遡らねばならなかった。

ようやく行者橋を渡り、鮎喰川の左岸を下ったところから山側に入り、トンネルを抜けると童学寺に至る。遠回りをしてしまったが、何とかたどり着いた。戻りはトンネルを抜けた後、左岸を下って行くのが正解なのだが、別れ道を見失い、また行者橋まで戻ってしまった。結果的に数キロの遠回りをしてしまった。ただ計画に余裕があったので、宿へはほぼ時間通りに到着できた。

左岸を歩くつもりが右岸を歩いてしまったので、前回立ち寄らずにトイレを求めて大日寺まで急いだ、「おやすみなし処」という地元の人が世話をしているお遍路休憩所に立ち寄った。少し手前のコンビニで昼食に割子そばを買って、トイレも済ませ、無人の「おやすみなし処」に持ち込んだのである。

食事を食べ終わった頃に、地元のおじさんとおばさんが来て、お遍路の話を30分ほどした。御接待に日向夏というみかんを頂き、宿で食べた。夏みかんをさわやかにしたような味と表現した、おばさんの表現に脱帽であった。おばさんの言葉に、間違えてこちらを通ったから、お話も出来た。間違えてよいこともある。納得である。


(「おんやど松本屋」の窓から井戸寺境内が見える)

井戸寺までは、歩き遍路にはほとんど合わず、車でのお遍路さんばかり。歩き遍路は時間的に先へ進んでしまったようだ。さびしいお遍路だった。宿泊した井戸寺そばの「おんやど松本屋」の女将さんにそんな話をすると、「お遍路は孤独なものですよ」の一言。妙に納得する。

「おんやど松本屋」の一階の部屋の窓を開けると、夕方の井戸寺の境内が同じ目線で見渡せた。お遍路さんも居なくなり、すっかり静かになっていた。

昨夜の「おんやど松本屋」の宿泊は5人、そのうち一組の夫婦者を含めた3人は逆打ちで、それぞれベテラン、夫婦連れは毎年この時期にお遍路をしていて、10回目になるという。他に、始めてでおっかなびっくりにお遍路をしている広島の男性がいた。

おしゃべりをしながら食事をしていると、一人取り残されてしまった。その後、けっこう長い時間、宿の主人とお話をした。会社勤めを終えて農業をしていた時、子供たちも巣立ち、部屋も空いたので、お遍路宿をしようと思った。手続きに手間取って、開業したのは10年前だという。

さて、今日、雨でびしょぬれになってたどり着いた、今夜の宿は、「そらとうみ」さんが良く利用するとブログで見たことのある、立江寺そばの「鮒の里」である。たくさん焼きシイタケを夕食に頂いた。この宿は主人が大工で、仕事を終えてから農業をしていたが、8年前に遍路宿を始めた。家も自分で建てたのだと話す。経歴が「おんやど松本屋」に似ている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »