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嵐のあとのお遍路日和

(片雲さんのブログの写真と同じお地蔵さんを見つけた)

昨日の雨が嘘のように、気持ちよく晴れた。一日休んだだけで身体に溜まっていた疲れが取れて、足が自然に前へ進む。心配した二つの肉刺も温泉に何度もつかり、治ってしまったようだ。一日肉刺には気になることも無く過ごせた。

雨でも嵐でも必ず先へ進むのがお遍路だと、思い込んでいる人は多い。自分もそう思い込んでいた。宿の主人もそう思っていて、連泊を申し出ると、説教する人がいるらしい。もちろん雨だからと、毎回休んでいては、怠け癖が付いて、お遍路が続けて行けなくなる。しかし、危険が伴うような日にはお遍路をしないと決めるのも勇気だと思う。我々は何もお遍路レースをやっている訳ではない。修行中の弘法大師も一ヶ所に一日しか留まらずに巡られたわけでもなかろう。


(納経所の白猫)

弁解が長くなった。お遍路は順調に進むが、今日は他の歩き遍路よりもワンテンポ速くて、ほとんど誰とも会わない。孤独な一人旅だが、景色はどこも最高であった。清瀧寺の納経所では、老人夫婦がいて、白い猫がカウンターの上に居座って、納経を頼むに白猫の背中越しに渡す。可愛かったけれども、大きくなってデブになり、邪魔になっていることに気付かない。もう一匹、ゴールデンレトリバーが床にいたが、この犬猫は仲が良くて喧嘩しない。ペットを間に、けっこう会話が進む。

立ち寄った郵便局のおじさんは、送り返す荷物のことで面倒をみながら、お遍路が出来てうらやましい。自分も定年退職したら出かけたいと話す。

最も印象が残ったのは、青龍寺を奥の院まで打った帰り道に、夫婦者がなにやら親しげに寄ってきて、真言宗のことを歩きながらで良いから、少し話してよいかという。

話し出したことは、真言宗は中国では高僧が捨てた教えを、日本人にくれて寄こしたもので、そんなものを信じていると大きな間違いを起こす。お経の中で釈尊の意に適ったのは法華経だけで、釈尊自らそう語っている。だから南無妙法蓮華経と唱えることが最高なので、お遍路さんは宗教音痴な人が多くて困るなどという。

段々に不愉快になってきて、足が速くなる。その夫婦、やがて息が切れてきて、話が続かなくなり、また勉強させていただきますというと、夫婦して握手を求めて来て終わった。最後に女房が池田何某の、と有名な人名を言う。お遍路を取り巻く人たちの中には色々な人たちがいる。しかし、宗教音痴とは、当っているだけに腹が立つ。

民宿なづなの客は自分の他は一人だけ、埼玉から来た熟年女性の一人遍路で、今までもあちこちで顔を合わせて来たが、食事の時に初めてゆっくりお話しした。夫婦して山登りをやっていて、百名山も7割ほどは登ったほどのキャリアながら、お遍路は別で、自信が無くて前へなかなか進まず、みんなに置いて行かれてしまった。昨日も出かけたが、青龍寺への道が波を被っているかもしれないといわれて、途中で断念した。

そこで、あだ名を「蝸牛」さんと名付けたけれども、別格や奥の院を含めて回っているとはいえ、ほぼ同時期に出た蝸牛さんと、このあたりでまだ同宿しているとは、複雑な気持である。しばらくは大きな道草もなさそうなので、顔を見るのも今夜が最後になるだろう。だから特製名刺を渡した。

蝸牛さんは旦那を誘ったが、完歩を目指す自分と、途中交通機関を使っても良いではないかという旦那で意見が合わず、置いてきた。電話では、飯など作ったことの無い旦那だが、近くの飯屋に行って何とか食べているらしい。遍路の歩き方の割には大胆な女性である。
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