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50年後の同窓会通知

(耕し中の裏の畑)

昨日、故郷から3月に開催される中学校同窓会の通知が来た。案内文の一部を以下へ書き写す。

還暦も過ぎてしまった年のせいか、元気でわんぱくだった中学生の頃がポツポツとよみがえってまいります。その記憶もまだら模様になってしまっており、友の顔や校舎などが余計に懐かしく思えてなりません。
田舎に留まる同級生がたまたま顔を合わせ、その懐かしい頃をたどるべく下記の計画をいたしました。多くの懐かしい友と楽しく昔話ができますことを願って、ご案内を申し上げます。


この文の中に「懐かしい」という言葉が3度出ている。世の中のしがらみも断ち切れ、すでに年金生活に入っている我々年代ならば、一切の肩書きを捨て、生臭い利害関係を超越して、懐かしいだけの理由で集まりを持つことが出来るかもしれない。

その中学校は兵庫県豊岡市の豊岡南中学校という。第15期卒業生は、6クラスだったか7クラスだったか、50人くらい居たから、300人を越す生徒が居たと思う。あれからもう50年近く経っている。

南中学校は豊岡盆地の真ん中、唯一の高台の一郭にあった。先の大洪水で町が水没したときも島のように水害をまぬがれた地域である。自宅から通学時間は10分ほどで、当時は給食がなかったから、お昼は弁当を持ってくるか、家へ食べに帰るしかなかった。当時は父親が働き、母親が家を守るのは普通であったから、昼には母親が準備をして待っていてくれ、1時までには昼食を終えて再び登校した。

勉強もしたのだろうが、覚えているのは、横溝正史の「八つ墓村」を何時間にも渡って語ってくれた音楽教師や、映画の助監督崩れの社会科教師などしか記憶がない。後は土のグラウンドで汗を流した9人制バレーボールのクラブ活動ぐらいであろうか。我が南中学校は、その後、生徒数が大きく減ったために、統合されて、今は跡形も無くなっている。昔を思い出すよすがもないわけである。

女房は地元で、度々同窓会をやっている。小さい学区で小学校も中学校もずーと一緒であれば、関係も深いわけで、何よりも地元であることが強みである。その点、故郷を遠く離れてしまったものは不利である。

正月、一時体調を崩したお袋に会いがてら、帰郷して出席してみようか。いつか故郷で一年ほど暮らしたい思いもまだ捨てていないから、同級生と関係が復活できれば楽しくなるかもしれない。会ってほとんど記憶がなくても、たとえ今浦島状態になったとしても、お遍路中の一期一会のように、心地よい人間関係が持てるならば、行ってみるのも悪くない。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
50年後の同窓会通知 (Yoo)
2010-02-01 14:28:17
お久しぶりです。中学以来初めての同窓会では?
音楽の先生の「八つ墓村の話」は全く記憶にありませんが、この先生はちょっとHなフラダンスの話をよくしていた記憶と何度も音楽部に勧誘された記憶が残っています。

数か月前、淀川河川敷の散歩の途中に、枚方市にある淀川資料館で開催していた「沖野忠雄博士展」を偶然にみました。この沖野さんは、今、南中のある豊岡市大礒の出身で、淀川の大規模改修工事を指導した功績で、大阪桜の宮(毛馬)に立派な銅像が立っています。大きく蛇行した円山川べりの大礒という特異な地形がその志を育てたのだろうと感じました。
http://www.umeshunkyo.or.jp/108/kaitakusya/244/data.html

今、坂本竜馬がHOTですが、この沖野さんはぺりー
来航の翌年に生まれています。明治になって東大の前身開成学校に学んで工学博士となり大きな仕事を成し遂げたようです。この時代、東大総長となった加藤弘之や浜尾新などの優れた人が同じ豊岡から輩出していて、高い志が育っていたのだなと感心しています。

 
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