平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
世にも珍妙な「公人朝夕人」
先週土曜日の「古文書を親しむ」で、もう一つ、「公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)のことを記した文書を途中まで解読した。この朝夕人という仕事が何とも珍妙なので、取り上げてみた。
※ 公人 - 江戸時代、将軍家の下級使用人。
江戸時代、将軍が上洛時などで衣冠束帯に衣服を改めた際に、尿筒(しとづつ)を持って同行し、尿意を催されたときに下から尿筒をそっと差し入れ、尿筒を通して地面に排尿して、整えた衣服を汚すことなく、着崩すことなしに済ませる。そういうお役目があった。代々そういう役割を世襲して、扶持を貰っている家系があったというのである。由緒書の解読した最初の部分を読み下して記す。
公人朝夕人、土田孫左衛門由緒書
公人朝夕人の御役儀は承元元年(1207年)関東北条家の時代、頼経公、京都より御下向の時、先祖の者が御供仕りまかり下り、鎌倉に住居仕り、それより将軍家の御役人にまかり成り、諸事に召し仕られ候。承久の頃(1219~1221年)より只今まで、年数五百四拾弐年にまかり成り候。永正十年(1513年)将軍惠林院(足利)義種公(第10代将軍)江東御発向まかり成り候節、私の先祖が御供仕り、将軍家が御膳を召し上られ候、御残り御飯を下し置かれ、その時御煮物の上に御箸を置かれ候いて、汝が家の紋に致すべき旨、仰せ蒙る。それより私家の紋所に仕り候。御代々かくの如く召され仕り候。
由緒はこの後、足利将軍から信長、秀吉、家康と歴代の天下人に召し出だされ、その本拠地に住居を移して、代々そのお役目を果たしてきた記述が続くが、それは次回の解読となった。
歴史書に朝夕人の記述が見える最初は、吾妻鏡(東鑑)に、鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王が上洛した際、供奉した人の内に「朝夕雑色」という記述があるのが始まりであるという。
※ 雑色(ぞうしき)- 鎌倉・室町幕府の雑役に当たった下級役人。
秀吉と家康が関東の連れションをやったことでもわかるように、いくさで出陣の場合は必要の無い役目である。衣冠束帯に衣服を整えて宮中に出向く際などに限って必要になる役目であったようだ。とすると、ほとんど活躍の場がない役目なのだが、天下人は変れども、代々同じお役目をわざわざ召し出されて果していく。それが数百年に及ぶという。これを一体どう考えれば良いのだろう。
天下人が変れば大概は自分の家臣から色々と取り立てて役目を負わせるのが普通だと思うのだが、朝夕人に限っては天下人になったときに、初めて役目が発生し、その官職の体裁を整える意味で、それまでの天下人の下で役目を果していた土田家をそのまま引き継いで召し出だすのだろうと想像出来る。しかし何とも珍妙な役目が連綿と続いてきたことに驚くばかりである。おそらく、朝夕人は慶喜まで続いたのだろう。
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