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長浜川の切り抜きと涼月橋(お遍路落穂拾い2)

(長浜川の切り抜き)

秋のお遍路二日目、11月2日、34番種間寺でメガネ紛失事件があった。そのため、その前後に遍路道で見た古い土木工事について触れるいとまがなかった。落穂ひろいをしておきたい。

朝、33番雪蹊寺前の高知屋を出て、新川川に沿って1kmほど歩いた所に、「長浜川の切り抜き」の案内板があった。

土佐藩の奉行職、野中兼山は現在の春野町一帯の平野を灌漑し、浦戸湾と結んで水運の便宜をはかるため、新川川の開削を計画し、慶安元年(1648)から五年の歳月を費やし完成させました。
この工程で最も苦労したのが、諸木村の唐音の鳥坂山を長さ約百メートル、高さ三十メートル、幅十二メートルにわたって切り抜く工事でした。ここを過ぎると新川川は通称長浜川と呼ばれ、その昔は桜堤が連なり、浦戸湾十景の一つに数えられました。


記述の内容は、灌漑と舟運の目的で、仁淀川と浦戸湾をつなぐ新川川を開削したが、その最も困難な工事が、高さ30メートルの鳥坂山を切り抜く工事だったというのである。案内板のあった辺りは両側から山の迫った間をきり割ったように新川川が流れていた。遍路道はその川に沿って進んだ。


(涼月橋)

切り抜きの先を溯ると、新川川は高いところを避けるように大きく蛇行し、34番種間寺から3キロメートルほど進んだところで仁淀川と繋がる。そのすぐ手前で遍路道は涼月橋と名付けられためがね橋で新川川を渡る。

橋のたもとの案内板によると、涼月橋は承応元年(1648)土佐藩主忠義公の奉行、野中兼山(春野神社祭神)により、新川川、新川町がつくられた際に、当初は木造の橋がかけられた。現在の橋の片側に残っている純石造橋は明治三十年頃(1897)の造りといわれ、その工法のすぐれた形からメガネ橋と呼ばれ広く親しまれた。

新川川は涼月橋の先で仁淀川に繋がる。仁淀川の方が3メートルほど高いために、「新川の落とし」と呼ばれる落差2.7メートル、幅9メートル、長さ22メートルの石畳のスロープがある。これも、野中兼山の遺構である。このスロープで仁淀川よりも水位を3メートル下げた。

この日に見た古い土木工事跡には、いずれも野中兼山の名前が残っている。そういえば、室戸の津呂港も方形の港を開削した人物として野中兼山の名前が出ていた。

野中兼山は土佐藩の奉行で、二代藩主山内忠義から藩政改革を命じられ、堰、用水路、水車などを建設して新田を開発した。また、日本最初の掘り込み港湾「手結内港」をはじめ、津呂港、室津港などを開削し、防波堤や波止場を作って、漁港の機能を回復した。その功績で「土木神の化身」と呼ばれた。

その行政手腕によって業績をあげる反面、政敵も多く、三代藩主山内忠豊になると弾劾を受け失脚し、幽閉の3ヶ月後、49歳で亡くなった。
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