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ロープに縋って登る-丸岡城

(丸岡城天守閣)

福井のビジネス旅館のテレビのローカルニュースで、福井地震関連の話が一度ならず出てきた。どういう訳かと話していると、息子が震災のあった日が近いらしいと言う。福井地震と名付けられた大地震があった知識はあったが、日にちまでは知らなかった。後日調べてみたら、1948年(昭和23年)6月28日の午後4時過ぎに、福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近を震源地にした、マグニチュード7.1の直下型地震だった。つまり、明日の28日が60回目の震災記念日なのだ。だから防災や訓練関連のローカルニュースが多いわけであった。

丸岡城は福井市の北隣、約10キロメートルの坂井市丸岡町にある。福井地震の震源地だったわけで、天守閣は地震で倒壊した。幸い火災にならなかったので、その後、残った材料を出来るだけ生かして昭和30年に再建された。今回巡る4つのお城の天守閣のうち、丸岡城だけが国宝ではなく、重要文化財とされているのはそのためである。

丸岡城天守閣の入口は石垣の上にある。石垣の高さまで登るために、石段が付いていた。その段差が微妙に違う。最初に自分が石段につまずいた。気をつけて登るようにという息子の注意の言葉が終わらない間に、当の息子が蹴躓いた。そんな息子を笑おうとして、また自分がつまずいた。この石段は何とも剣呑である。誰かが転げ落ちたりしたら問題になる。昔のままに保存すると言っても、危険な部分は直すべきだと思った。


(ロープにすがって階段を登る)

中に入ったらさらなる危険が待っていた。階段が急でステップが高くて、上から結び目をたくさん作った白いロープが下がっていた。これに縋って登れというらしい。お城の段はどこもステップが高くて難儀するものだが、この階段は特別である。これではまるで北アルプスの登山だと思った。お年寄りは登るのに二の足を踏むだろう。最上階も何とも居心地悪く早々に降りた。ロープがあると降りるにまことに楽であった。

北ノ庄に城を築いた柴田勝家は甥の勝豊に命じて、1576年、この地に城を築かせた。それが丸岡城の始まりである。その後、安井家清、青山修理亮、同忠元、今村盛次、本多成重以下4代、有馬清澄以下8代で明治を迎えた。二層三階の望楼式天守閣で、屋根がすべて石瓦で葺かれているのが特徴である。鯱も石造りであったが、震災の復旧に際して、古い形に戻して木造銅板張りに変えた。

丸岡城は別名「霞ヶ城」と呼ばれる。その昔、大蛇が霞を吹いて城を隠し、敵の攻撃を免れたという伝説による。昭和29年、日本の城郭建築では初めて、天守閣の各階から一斉に放水して水幕を張る防火設備を造った。防災面で「霞ヶ城」の伝説を実現した設備だといわれている。


(「一筆啓上」碑)

天守閣の前に「一筆啓上」書簡碑が建っていた。

一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ

家康以来の功臣で際立った武勲から「鬼作左」の勇名をとどろかせた、本多作左ヱ門は陣中から家族に宛てに、後世に電報文の見本となる有名な短い手紙を出した。それが碑の書簡である。文中のお仙は子供の仙千代で、後の本多成重である。本多成重は慶長十八年に丸岡城主となり、城下町丸岡町の基礎を築いたという。「一筆啓上」の書簡は日本で最もたくさんの人が知っている手紙であろう。

丸岡町では平成5年、この手紙をヒントに「日本一短い手紙 一筆啓上賞」を町興しのイベントとして設けた。大人気を呼び、国内外から32,000通もの応募があり、入賞作品を収めた本はベストセラーになったという。
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