平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
ここはぼくんちではない!
日曜日、まーくんがアパートに引き上げたことは書き込んだ。昨日、午後、娘夫婦がまーくんを連れてやってきた。他の用もあって来たのだが、昨日の夜は一晩中泣き騒いで大変だったという。それも火の付くような泣き方で夜中まで続いた。夫君も寝不足で目をしょぼしょぼとして、黙り込むと居眠りでもしそうな感じで、今日が祝日で助かったようだ。家に居る間は夜泣きしてこんなに困らせたことは無かった。お宮参りに1日引き回されて興奮したのだろうというと、それもあるが、家が変わったことを敏感に感じたのではないかと娘夫婦はいう。まあ、少しすれば慣れるよとなぐさめる。座布団に寝かされたまーくんはぎらぎらと天井を見ている。
ここは一つまーくんの気持になって考えてみよう。生まれて一ヶ月過ごした我が家でまーくんはほとんど天井を見て過ごした。父母の顔よりも長く天井を見ていたはずである。
始めはぼんやりとしか見えなかったものが、だんだんはっきり見えるようになった。腹が減った、おしめが濡れた、眠いなど、世界が意に沿わないときは泣けば何とかなる。あとは天井を見ている。ときどき人の顔がそこに割って入るが、まだ誰が誰だか判らない。最もよく顔を見るのが母乳をくれる人である。天井を見るのに飽きると、少し泣けば抱っこしてくれて、天井の景色が少し変わる。さらにむずかれば、廊下に、隣の部屋に、台所にと天井の景色が変わって見飽きない。
少しだけ外出した。天井がなくなるとまぶしくて仕方がない。空は底が知れないから恐ろしい。外出する時は目を瞑っているに限る。昨日、お宮参りとかで少し長い外出をした。目を瞑ってひたすら寝たふりを決め込んだ。写真館で写真を撮りたいらしく、回りは何とかぼくの目を開けようと必死で、鈴や太鼓を鳴らしたり、身体のあちこちを触ったり、帽子や涎掛けを付けられたりと、うっとうしいことで、とっくに目が覚めていたが、絶対に目を開けてやるものかとがんばった。
妙に間延びした変な声が聞こえている。初めて感じる妙な気分である。少し泣こうとしたが、母乳をくれる人が泣かれると困るといった雰囲気が感じられた。ここはしばらく我慢して、泣くのを止めた。後ろのほうで一人騒いでいる赤ん坊がいたが、場所をわきまえない赤ん坊だと思った。
車に乗ってやっと家に帰ってきた。やれやれ、今日は長い外出だった。これでゆっくり寝られる。何と言っても赤ん坊は寝ることが仕事なのだから。天井が目に入った。だんだん焦点が合ってくる。あれっ!違う、違う、ちがう~~! ここはぼくんちではない!!
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でも、目を輝かせてぎゃーぎゃー泣いたのは結局
一日だけでした。
あの夜のことがあったので、パパと一時間交代で
まー君をみようって覚悟を決めていたのに。
よかった~!!
昨日も就寝時間は、10時。
夜、3時間おきには、
『お腹すいたよ~。』
って起きるけどおっぱい飲んだら
またすぐ寝てくれるよ。
24日、午前中にお米が届くみたい。
また、持っていきま~す!