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裏と表が逆転する歴史

(正月も近づき、庭のセンリョウも実をつけた)

先ごろ行った “那智の旅” で、三重県の尾鷲の先からリアス式海岸に沿った細い道(国道311号線)に入った。車一台やっと通れる入り江の道を走りながら、このあたりの人たちは急病のときは船で町に行ったほうが早いんだろうなあと話していた。よく考えてみると、車のない昔は、交通は船しかなかったのだろうと想像できた。それより何より、もともと人々はこの山が沈んで出来たような海辺に、尾鷲あたりから船でやってきて住み着くようになったのではなかったか。“陸の孤島” と言わなくても、背後の山は探検の対象でしかなかったのだろう。我々は車や道路があるのがあたりまえの現代の感覚で物事を判断してしまって、間違った思い込みをしていることが意外と多い。

日本という規模で考えてみても、日本人の多くは日本海側を裏日本といい、太平洋側こそ日本の表側と思っているが、かつては日本海という内海に面した日本海側こそ、交易相手の中国や朝鮮にも近く、北前船などが行き交って賑わった、日本の表玄関だったことを忘れている。日本海に沿った港町に過去の繁栄をあとを目のあたりにしても、そのことに気づかない。

近隣の話でも、掛川市の北東の山中に、お茶の産地として名高い「東山」という集落がある。かつて、遠江三十三観音巡礼で集落唯一のお寺、「観泉寺」を訪れた時、尼さん(だったと記憶する)が新築なった本堂に入れて下さり、我々が金谷から来たと聞いて、古い本堂を壊したときに出て来た棟札を見せて下さった。そこには金谷宿の棟梁の名前が書かれていた。道路が整備された現代では、東山地区は広い道路がついている掛川の方を向いていて、行政区分も掛川市に編入されている。金谷との交流はほとんどなくなってしまった。しかし地図を見れば直線距離では金谷のほうが明らかに近い。かつては東海道筋に出るには金谷宿だったのだろう。

このように、長い歴史の間には表と裏が逆転してしまうことが多々ある。人々は現代の感覚でしか物事を見ないため、数々の疑問が解けず、不思議として残ってしまう。

さしあたって、いま調べてみたいことは次のような事がらである。

金谷の奥の奥、本川根や井川の人たちは現在こそ、金谷、島田、静岡といった東海道筋に買い物などで出てくることが多いが、もともとどこから来て住み着いた人達なのだろう。方言は信州の言葉に近いというし、昔、南アルプスを越えて嫁に来た人がいたともいう。考えてみれば、それらの地域の人々にとって南アルプスを越えた信州こそ表で、“鵜山の七曲り”に代表される、蛇行を繰り返す急峻な大井川を下った東海道筋など、たやすく行けるところではなかった。この表と裏の逆転が何時ごろから始まったのか、そのあたりまで含めての歴史を、時間をかけて掘り起こしてみたいと考えている。
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