平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
焼津小泉八雲記念館

最初に小泉八雲の記念館が焼津に出来ると聞いたのはいつだったか。あの当時色々調べて、焼津市文化センター内の工事現場まで見に行ったりした。この春に完成して開館したというニュースも新聞で見ていた。「大賀ハス」を見た後、計画通り「焼津小泉八雲記念館」に向かった。記念館は入場無料とあって、女房は太っ腹だとすこぶる喜ぶ。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が夏休みを過ごす地として、焼津がお気に入りで、晩年にはほとんど毎年、都合六年間、夏を過ごした。泳ぎの得意なハーンは10数メートルも沖へ出れば、背が立たなくなる焼津の浜は水泳に絶好の地であった。また、焼津の猟師たちの純朴な心持ちはハーンを魅了してやまなかった。気難しいハーンが心から安らげた土地であった。
ハーンは焼津では山口乙吉という魚商人の家の二階を定宿としていた。乙吉とハーンは「先生様」「乙吉さーま」と呼び合う中で、焼津の漁師をの見本のような乙吉のことを、後にハーンは「神様のような人」と語っている。
ハーンは焼津では全く著作をすることなく、泳いだり、浴衣で町中を散歩するなど、他の土地では見せないリラックスぶりをみせていた。最後の夏には、焼津に別荘を作ろうと考え、乙吉に土地を選ぶように依頼していた。東京に戻って間もなく、ハーンは心臓発作で亡くなる。享年54歳。

(小泉八雲記念館内部)
焼津のことを幾つかの作品に書いている。「焼津にて」「乙吉だるま」「漂流」「海辺」などの作品で、その一部の朗読がテープで聞ける。館内では小泉八雲の人生の紹介と、焼津との関わりがパネル等で展示されている。女房は端から端まで読んでいるから、なかなか出て来ない。ビデオ室ではその内容を判りやすく放映してくれていた。あとで女房が「読まなくても、全く同じことをビデオで見れた」と言う。そうだよ、そうすれば自分もあんなに待たなくても良かった。
一つ大きな勘違いに気付いた。ハーンの時代、焼津の浜は遮るものも無く、きっと見晴しも良かったのだろうと、何となく思っていた。ところがハーンが焼津に来はじめた明治30年当時、海岸にはすでに見上げるほどの防潮堤があって、海と人家が区切られていたことを知った。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )