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山田館で“おもてなし”を考える

(山田温泉「山田館」)

小布施で3時になり、宿泊先を決めなければならない時間になった。女房との旅で、宿泊先を予め予約して出掛けることはほとんどない。どこで気が変わるか判らないし、宿泊先にこだわりは無く、泊るところぐらい何とかなるという気持もある。今回のように途中で地震でもあれば、行き先変更を余儀なくされるかもしれない。連休の最終日、しかも台風の後、夏休み前、どれをとっても混む条件は無い。しかも、この地震の後である。

小布施ガイドセンターという喫茶店を兼ねた観光案内所に行った。今夜温泉に泊まりたいと頼むと、湯田中温泉が有名だという。観光バスが沢山着くような大きな温泉町ではなくて、小規模な温泉がいいと注文を付けた。それなら近くに山田温泉があると、主な旅館を3軒教えてくれた。山田温泉なら山田館だろうと選んで、ケイタイで交渉し予約した。その間10分と掛からずに完了した。

山田館は我々のほかにもう一組客が居るだけであった。まずはロビーで抹茶のご接待。ここでも、揺れましたかと聞く。揺れたし、余震もあるけど耐震は大丈夫だという。もちろんそうでなくちゃあ困る。

山田館は松川渓谷の岸壁の上に建っていて、渓谷がはるか下に見える。部屋は地下2階。地下1階に大浴場があり、最近出来た小さな露天風呂は一階から階段を下って下りていく。露天風呂は男女交互に時間を決めて入れるという。地下といっても片側の窓からは渓谷が見下ろせる。渓谷は急流らしく水音が一晩中していていた。夜に一回余震で揺れた。

夕食は一階の食事処に出掛ける。幾皿あっただろうか。これでもかと食べきれないほど次々に出てくる。酒飲みや健啖家なら満足するのであろうが、我々には多すぎた。歳を取ると少食になる。無理なさらないようにとは言ってくれたが、団塊の世代は食事を残すと親に叱られた世代で、残すことに罪悪感を抱いている。はじめに食事の量について注文を聞くことがあってもよいと思った。“おもてなし”の大きな要素となるのではなかろうか。一つ一つの量を減らして、美味しく完食できたという満足感で食事が終えられるような“おもてなし”があってもよいと思った。最初出されたものを食べてしまい、お腹いっぱいで後に出てくるものが食べられないのはいかにも残念である。


(貸切状態の掛け流し大浴場)

お風呂は食事前に露天風呂、寝る前に大浴場に入った。熱くて掛け流しで、しっかりした温泉だった。もちろん貸切状態である。

夜はサッカーアジアカップ、日本-ベトナム戦を夫婦して歓声を上げながら見た。4対1、負けたホームのベトナムも、めでたく決勝に進出したために、友好的に試合が終った。ベトナム戦争終結から30年、平和の尊さを改めて思う。今もイラクで苦しんでいるアメリカはベトナム戦争で何を学んだのだろう。
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岩松院の「八方睨みの鳳凰図」

(岩松院本堂)

小布施の中心部から西へ1.5キロ、果樹園の中の道を進むと雁田山麓に岩松院がある。岩松院の裏の石段を少し登った上に、福島正則公の霊廟がある。霊廟には高さ2.5mの大五輪塔が安置されている。

福島正則は秀吉の子飼いの重臣として活躍したが、秀吉の死後、石田三成と袂を分かち、関ヶ原の戦いでは東軍に加担して勝利に導いた。その後一時は安芸と備後二ヵ国で五十万石の大大名になった。しかしその勇猛振りを幕府に疎まれ、謀略により信州4.5万石に国替えになる。在信6年、正則の死後に福島家はさらに3千石の旗本まで格下げされることになる。


(岩松院の「八方睨み鳳凰図」)

その岩松院の本堂大広間の天井に、北斎が「八方睨み鳳凰図」と呼ばれる鳳凰の絵を描いている。北斎が死ぬ前年、89歳の時に描いた北斎画の集大成といわれる。21畳敷きの大広間の天井いっぱいに、12枚の桧のパネルに分けて描いて、取り付けたものといわれている。

男性が受付の女性に、どこそこの壁が落ちている、ひび割れがあったなどと、デジカメ画面を見せながら、地震の被害について話していた。専務さんと呼ばれていたけどどういう立場の人だろうか。岩松院は大丈夫だったと受付の女性が話している。話が終ったようで、拝観料を払いながら、地震はどうでしたかと聞いた。中に居るのが怖いくらい揺れました。こんなに揺れたのは初めてだという。それでも被害が無くて良かった。

「八方睨み鳳凰図」はかつては見学者を本堂に寝転がさせて鑑賞させた。そんな映像を見たことがある。しかし、現在は寝転がるときの振動が天井絵に悪影響を与えるので、椅子に坐って見るように鑑賞方法を変えたと案内表示があった。天井絵が描かれたのは1848年、今から160年ほど前である。にもかかわらず、昨日描いたばかりのように色彩が少しも変化していない。案内書によると、絵具に辰砂(赤)、孔雀石(緑)、鶏冠石(黄)など、中国から輸入した岩絵具を使っているという。また金箔4400枚を使ったとの記録もある。画材代だけでも相当高価な天井画だと思われる。

「八方睨み鳳凰図」には北斎が生涯描き続けた富士山が隠し絵になっている。平成2年住職が見つけた。羽根で囲まれた黄色い部分がそれだという。言われればそんな風に見えないこともない。天井絵の鑑賞になぞを一つ提供するのはうまいやり方だが、謎が気になって鑑賞がおろそかにならないといいが。ちなみに自分は鳳凰図全体が真上から見た富士山だと見えてしまった。

岩松院裏の庭園の池は「カエル合戦の池」として有名で、春に何百というヒキガエルが集まり繁殖活動をするという。一茶はその光景を目の当たりにし「痩せ蛙 まけるな一茶 是にあり」と発句したといい、池のそばに一茶の句碑が立っている。堂内にヒキガエルの繁殖期の写真が何枚か展示されていたが、ヒキガエルに「痩せ蛙」はどうも似合わない。この句で思い浮かぶのは鳥獣戯画で相撲をとる蛙である。
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高井鴻山記念館と妖怪図

(翛然楼 ゆうぜんろう)

北斎館のすぐ近くに高井鴻山記念館がある。鴻山の隠宅や文庫蔵などを修復して、鴻山の作品や関係資料を展示している。

高井鴻山は幕末維新の激動期に小布施の豪商の家に生まれ、16年間の京都や江戸への遊学で学問思想や芸術を身に付けた。その後家督を継いでからも、築き上げた幅広い思想家や文人との交流を通じて、日本の行く末を憂い、巨万の財力を背景に幕末の変革に助力を惜しまなかった。

同郷の佐久間象山とは親交が深く、象山を通じて蛤御門の変で自刃し早世した久坂玄瑞などとも、鴻山が書斎として使用した「翛然楼(ゆうぜんろう)」で交流を持った。翛然楼の各階には、役人に踏み込まれたとき志士たちを逃がすために、カモフラージュされた抜け穴が造られていた。しかし、京都ならとにかく、こんな信州の片田舎まで追手が来るはずも無く、おそらくは利用されることは無かったであろう。


(碧漪軒 へきいけん)

鴻山は、小布施に来た師匠北斎のために、「碧漪軒(へきいけん)」というアトリエを翛然楼の隣りに新築した。北斎はここに滞在して絵の構想と制作にあたった。ここで北斎はある時期、毎日様々な肢体の獅子の絵を描き、それが書き終わるまで誰にも会わないとしたこともあった。

翛然楼の手前には「文庫蔵」があり、万巻の書物があったという。現在は鴻山が求めに応じて何十本も揮毫したといわれる幟旗と、大筆や大型の印章の型も展示されていた。
 
穀蔵や屋台庫だった建物には鴻山自身の書や絵が展示されていた。「象と唐人図」では下絵は北斎が描き、鴻山が仕上げるという連係プレーを見せてくれる。原図を格子状に細かく仕切り、拡大しやすく工夫した点など、北斎のアイディアである。一方、鴻山が妖怪を書いた軸物や山水画に妖怪を隠し絵にした作品など、鴻山の自由な筆の走りが見えて、魅力的な作品になっていた。


(高井鴻山の妖怪絵)

鴻山が妖怪の絵を好んで描いたのは晩年である。どうして鴻山が妖怪の絵を描いたのか。案内では「幕末から明治にかけて激変する社会の中で、鴻山が悩み苦悩した心中を表した作品」と書かれているが、自分は鴻山の遊び心が描かせた絵だと思いたい。妖怪を隠し絵にした作品など、皆に見せるときの鴻山の悪戯心が見える。

その妖怪の絵、どこかで見たような絵だと思った。そう、水木しげるの妖怪漫画である。多分、水木しげるも鴻山の絵を見て触発されているはずである。
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北斎の町小布施と北斎館

(十割そば)

長野県小布施町は北斎の町である。北斎館を中心に観光の町と化している。妻籠宿、馬籠宿、奈良井宿などの旧宿場町の賑わいに次ぐものがある。北斎館がぽつんとある静かな町を想像をしていて、こんな風になっているとは想像していなかった。

まずは腹ごしらえと、「富蔵家」という蕎麦屋に入った。「揺れましたか」と聞くと「揺れたけどこの辺りは地盤がいいから」と返事が還ってきた。蕎麦屋の大鍋は地震でひっくり返ったかも知れないと無責任な噂して入ったから、やや拍子抜けであった。十割そばを頼んだ。そば殻もすべて蕎麦の中に挽き込んだというだけあって、田舎蕎麦よりさらに黒い。それが大盛りで出てきた。普通盛のゆうに倍以上の量がある。堅めで舌べらにそば殻がざらざら触る。完食はしたが、夜まで胃に応えた。周りを見ているとどの蕎麦も大盛りで、普通盛の量ぐらい残してしまった客もいる。これが田舎のサービスだと考えてのことだろうか。過ぎれば残せばよいとは思うが、古いお客にはつらい。

腹も良くなって、まず発端になった北斎館の隣りの小布施堂に行ってみた。北斎の小布施におけるパトロンの高井鴻山が出た商家で、隣りの桝一市村酒造場をはじめ、近辺の色々な店をその商家の末裔たちが商っている。


(祭屋台天井絵-龍と鳳凰)

北斎館に入った。北斎は46歳も歳の違う小布施の豪商で弟子であった高井鴻山とよほど馬が合ったのか、最晩年になって、83歳、85歳、86歳、88歳と4回も小布施を訪れ、長期滞在して北斎集大成とも言うべき肉筆画を描いている。江戸から小布施まで、80歳の年齢では相当きつい旅であったと思う。画業で特筆できるのは、町の祭屋台の天井絵に竜と鳳凰、男波女波を描き、岩松院の天井絵を描くなど、この歳で体力勝負の大型の絵に挑戦していることである。

北斎館では北斎の生涯と北斎の小布施との係わりを映像で紹介し、小布施で最晩年に描いた肉筆画や北斎の浮世絵の収集品などが展示されていた。

孫ほど年齢差がある、北斎と高井鴻山は、お互いに「先生」「旦那さん」と呼び合って親交を深めていた。彼らの心に流れていたものを想うとき、シチュエーションは全く違うのであるが、焼津で、小泉八雲と山口乙吉の間にあった信頼関係(7月9日書込)を思い出す。
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長野自動車道の異変

(小布施の北斎館)

(前日の続き)長野自動車道で異変が起きた。時速制限がいきなり50キロになったのだ。出てくる標識がいずれも50キロ制限になっている。車の流れも少しスピードが落ちたが80キロぐらいで走っている。台風の後遺症かとの思念もよぎったが、雨が降っているわけでもない。はてなマークを引きずりながら進むと電光掲示板に「地震」と出た。すぐにラジオをつけた。また中越で震度6強の地震が起きたと伝え始めたところであった。のちに「新潟県中越沖地震」と名付けられる地震の発生であった。自動車道の上も震度4ぐらいに揺れたはずだが、少しも気付かなかった。車を走らせていると判らないものだ。だから余計に怖いとも言える。

ラジオは各地の震度伝えている。震度6強、震度6弱、震度5強、新潟県を中心に町の名前が列挙される。震度5弱になって長野市の名前が挙がった。おいおい、もう50キロほどで長野市に入るところまで来ている。小布施は長野市よりさらに新潟県寄りである。大丈夫かなあ。

大丈夫ではなかった。長野自動車道はこの先の更埴ジャンクションで上信越自動車道に合流する。その上信越自動車道の長野以北が通行止めの電光掲示がされた。さっそく姥捨のサービスエリアに情報を求めに寄った。案内カウンターで道路地図を貰いながら聞いてみる。判ったことは長野以北の上信越自動車道はその先の北陸自動車道も含めて全面通行止めだということ。北へ進みたい人たちは途方にくれている。上田、佐久の方へ戻る上信越自動車道は全線大丈夫だというが、それでは東京へ帰れというようなものだ。自分たちは長野から1インター先の須坂長野東インターで降りるつもりだったから、長野で降りて少し下道を走らせればよいと思い直し、姥捨のサービスエリアを出た。

長野インターの手前で渋滞が始まった。渋滞の長さは2キロ。降ろされる車で料金所の清算が間に合わないのだ。追い越し車線で渋滞に巻き込まれていて、あと、0.5キロほどになったとき、追い越し車線が急に流れ始めた。道路の安全が確認されて、長野の先が部分的に開通になったのである。ラッキーであった。部分的開通がもう少し遅ければ、料金所に向かっていて、さらに相当時間、渋滞の中にいなければならなかった。何はともあれ、途中地震の被害らしき様子も無く、無事小布施に着くことが出来た。
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あんなこんなで小布施の旅

(旅の発端の小布施堂の水羊羹)

先日、コンピュータの大手ディーラーの主催で講演会があったことは12日付で書込んだ。そのおり記念品として水羊羹を頂いた。御得意様の長野県小布施町の小布施堂の商品で、講演会のあと、小布施堂はお店が北斎館の隣だと紹介があった。そう、小布施と言えば北斎が八十歳を過ぎた晩年に何度も訪れて、幾つも作品を残している。鳳凰を描いた大天井絵も確か小布施のお寺だったと記憶していた。

そうだ小布施にしよう。7月の13日~17日の夏休みに1泊旅行をしようと女房と話していたが、その行き先を小布施に決めた瞬間であった。ところが台風4号である。いきなり出鼻をくじかれた。台風の接近で梅雨前線が刺激され大雨が続いた。13日、14日と空模様を眺めながら徒に過ぎた。15日の朝になって、予想よりも沖を台風4号が過ぎて、近所に被害も無く晴れた。それっと、ムサシの世話は下の娘に頼んで、15日の午後4時過ぎに車で出かけた。

その日は上の娘夫婦の名古屋の家に泊めてもらう。仕事疲れのピークにあった娘の亭主もすっかり元気を取り戻して顔色がよくなっていた。やっぱり若さである。16日の朝、長野県小布施の北斎館にカーナビをセットして、二人に見送られて出立する。台風一過、とりあえず雨の心配はしなかった。行き先は小布施と決めた以外のことは何も決めていないから、何にも縛られることがない。二人ともこんな旅に慣れてしまっている。

中央道で長野県に入って、長い恵那トンネルを抜けてすぐの、園原インターで一度降りた。小牧インターからここまでが90km弱、高速料金が半額になるからだ。昨日も磐田で乗って東名三好で一度降りて東名料金を節約している。さて乗り直そうとみると、園原インターには長野方面への乗り口が無かった。トンネルに挟まれた狭い土地で、すべてを用意する余地が無かったのだろう。とりあえず、名古屋から来て名古屋に帰るインターを作ったのである。仕方なく次の飯田まで一般道を走った。途中、昼神温泉という温泉町があった。なるほど園原インターはこの温泉客を当てにしたインターなのだと思った。

飯田から再び中央道に乗った。木曽駒ヶ岳を主峰とする中央アルプスを挟んで、西側の谷間が木曽川が流れる木曽谷、東側の谷間が天竜川が流れる伊那谷と呼ぶ。中山道が木曽谷を行くのと違って、中央道は伊那谷を進む。車が中央道から長野自動車道に入ってしばらくして異変が起こった。(明日に続く)
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ある送別会で

(庭の名前不明の花)

台風4号はアジア名を「MAN‐YI(マンニィ)」と呼ぶ。これは香港の海峡の名前だという。正午現在、思ったよりも南の静岡県沖を通過中だが、雨風もすっかり収まり嘘のように晴れてきた。大きな被害も無く終ってまずは一安心である。

去る7月6日の夜、ある送別会が島田であった。5月に退職したT氏の送別会である。変わった送別会で、自分の前には全くお酒を飲まない三人がウーロン茶を手にして並んでいた。T氏を中に左にH氏、右のS氏である。下戸はH氏だけで、T氏、S氏はドクターストップである。

3人の話は自然T氏が退職に至った出来事におよんだ。T氏は心臓に持病があったことは知っていたが、去年、仕事中に倒れて一度は心肺停止で意識も失ったという。そばにH氏がいたが慌てるだけで何も出来なくて、何とか119番に通報出来ただけだった。幸いにも地域の消防団で訓練したことのある若い社員がいて、気道確保など出来る措置をして救急車の到着を待ち、T氏は何とか障害が残ることもなく、こちら側に生還することが出来た。

心筋梗塞で52歳の若さで死んだ友人のY氏のことを思い出す。彼も職場で倒れ、個室にいたために、誰にも気付かれずに10数分置かれて命を失った。そのことを考えるとT氏は本当に幸運だった。偉くなってもワンフロアで机を並べて仕事する日本の職場環境は意外と良いのかもしれない。

T氏いわく、意識が戻ってから、これが死と言うものなら楽なものだと思ったという。そんな話に隣りの一世代若いS氏が割り込んだ。S氏もT氏と前後して心臓に血が詰まり、血流が減って会社で倒れた。S氏の場合は意識は最後まであったようだが、このまま死んでしまうなら死も決して悪くないなあと思ったという。三途の川の此岸まで行って来た二人の感想が一致していたのは感慨深い。

T氏はペースメーカーを埋め込む手術をしたという。心臓が不調になると作動するが、まだ意識が確かなときに作動するとショックが大きいので、意識が切れるまで作動しないように調整をしてもらったのだと言う。今は仕事からも放れ、薬も合うものに変えてもらって、数ヶ月、発作も無く過ごせていると話した。

S氏は詰まった血管にカテーテルを入れて、出来る限りの血管内のお掃除をして退院した。血をさらさらにする薬は飲んでいるものの、普通の生活に戻れたと話す。死んだ友人のY氏は心筋梗塞を何度か起し、最後の発作で死んだのだが、もう10年遅かったら、医学の進歩の恩恵を受けて長生き出来ていたのではないかと思うと残念でならない。医学の進歩は近年めざましいものがある。
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アマレットで慰労会

(イタリアの民家風のアマレット)

金曜日より五日間の夏休み中である。しかし、台風4号の影響で、昨日今日と断続的に雨が続いている。台風4号は夕方大隅半島に上陸、日向灘に出て四国の太平洋沿岸に沿って北東に進んでいる。未明から明日の午前中にかけて静岡県もかなり荒れそうである。静岡県にも暴風雨警報が出た。

今日のお昼に、雨の降る中、女房は友達と掛川のイタリア家庭料理のレストラン、アマレットに行って、昼食を食べてきたという。少し早く行ったので待たないで済んだが、お昼は表で待つ客がいっぱいだったという。美味しかったと満足の態で帰ってきた。

実は、木曜日の夜、ソフト会社で久し振りの慰労会があり、前にも行ったことのあるアマレットに出かけた。帰りにパンフレットを貰って来て、昼食も割安であるらしいと女房に話したところ、早速行ってきたのである。

木曜日、予約してあったのは、カンターレAコース4200円。案内を見ると、「旬の食材や、その日のお薦め食材を使ったシェフおまかせの創作料理のコースです」とあった。


(ソフト会社の面々、アマレットにて)

最初の一皿は前菜、六つに仕切られた一口料理で和食みたいだ。ナスとズッキーニを炒めた野菜の皿。丸く型にはめたリゾットの上に、小ぶりの穴子がのっている皿。量はそんな沢山ではないスパゲッティの皿。挽き肉のパイ生地焼きの皿。まだ他にもお皿が出たような気がするが忘れた。デザートと飲み物は各々が選ぶ。自分は「今日作ったばかりのジェラート」と紅茶を選んだ。

ジェラートとは、つまりイタリアのアイスクリーム。白いアイスクリームだけなのだが、味にミルクのこくがあった。「ローマの休日」でヘップバーンが食べたアイスクリームはこれかと聞いたが、若者たちは「ローマの休日」と聞いても知らないのにはがっかりした。店の人に聞いたらそうだと答えた。

女性のシェフだと聞いて、なるほどその家庭的な気軽さが人気の秘密なのだろうと思った。食事の間、誰も仕事の話をしなかったのはえらいと思った。仕事の話は消化に悪い。
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宮川康夫氏講演会(後)

(庭のペゴニア)

(前半より続く、宮川泰夫氏講演会から)のど自慢で忘れられない人が何人かいる。湯布院で87歳の二つに折れるほど腰の曲がったカオルばあちゃん、老人ホームで「ホームの歌姫」と言われ、月一回のカラオケ大会で毎回トリを務める特権を持っていた。他の人と比べられたくないからと、毎月人の知らない新曲を選び、ひそかにCDを買って特訓し、トリを立派にこなしてきた。のど自慢で歌った曲も西方博之(こんな字で正しいのか?)の「遠花火」というマイナーな曲であった。

八百屋のまっつぁんは脳梗塞で声が出しにくくなり、孫にも笑われた。のど自慢が来ると聞いて、歌の好きだったまっつぁんは、歌でリハビリしようともう特訓して、のど自慢に出た。「がんこ親父の浪花節」を歌って、まだまだ言葉が100%とはいかなかったが、審査員は頑張る姿勢に合格を鳴らした。

中国残留孤児の母と一時帰国した郭雪梅さん。帰国している何ヶ月かに、町の人には大変親切にしていただき、言葉に尽せないお世話になった。何かお礼をしたいと考えている時、のど自慢が来た。お金や物では返せないから、せめて歌を歌って返そうと考えた。選んだ歌は中国でも歌われている「北国の春」である。日本語を教えてもらい、すべて日本語で歌い切った。

四国の観音寺でののど自慢。風体を見ればだらしないと小言が言いたくなる、今時の高校生が増井山の「男の背中」を歌った。亡くなった大好きだった校長先生、その奥さんから、生前この歌が好きだったと聞いて、先生の霊や奥さんを慰めようと歌った。歌は下手で鐘一つだったけど、ゲストの冠次郎さんが、「彼の心に合格の鐘を!」と発声し、改めて合格の鐘が鳴らされた。

歌謡曲の作詞もしている作家の五木寛之さんに、ある時「人間はなぜ歌うのか、歌とは何ですか。」と聞いたら、「歌は心の栄養です。」といわれ、目からウロコが落ちた。

のど自慢が60年間も続いているのは、「のど自慢」と名前の付いた空っぽの箱だからと思う。箱に何かが入っていれば小出しでも出してしまえば番組は終る。しかし、のど自慢の箱には毎週参加してくれる参加者が中身を詰めてくれる。だから、エンドレスなのだと思う。キャスターのときは「世界」は自分の中を通過するだけであったが、のど自慢の司会の「世間」は自分の血となり肉となった。600回のうち一回も休むことがなかった。皆の幸せのお手伝いをしていると思うと、どんなこともストレスにはならないものである。定年で辞めることが無ければ、あと何年でものど自慢の司会をやっていたと思う。
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宮川泰夫氏講演会(前)

(宮川泰夫氏)

7月10日、コンピュータの大手ディーラーの主催で、元NHKのアナウンサーの宮川泰夫氏の講演会があって午後静岡に出かけた。実はその前日同じ時間に同じホテルに出向いていた。講演会の雰囲気が無くて、案内状を良く見直してみたら1日違っていた。手帳に記入するとき間違えたようだ。こんなことは初めてで、歳を取ると初めての体験が増える。

宮川泰夫氏は自分と同年輩で、定年前の12年間、NHKのど自慢の司会をしていた。それで、のど自慢のテーマ曲を出囃子として、リハーサル通りの手拍子に迎えられて登場した。これは本人の演出なのか? 一時間半の講演ももっぱら「のど自慢」の話に終始した。

のど自慢の司会のお鉢が回って来たとき、モーニングワイドのキャスターを3年やってきて、その3年には、ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦の消滅、湾岸戦争の勃発、雲仙普賢岳の噴火などの大ニュースが続き、自分が激動の世界をお茶の間に伝えているという自負もあり、「何で自分がのど自慢の司会なのか」との思いが強かった。しかし、宮仕えゆえに拒否も出来ずに、のど自慢の司会を受けた。

それから12年、休みは年末年始の2回だけだから、年に50回、合計600回、全国各地方ののど自慢の司会をした。金曜日の朝、審査のチーフをするディレクターと二人だけで東京を出発する。あとはすべて地元のスタッフだから、午後は会場でスタッフと細かい打合せを行い、夜はスタッフと懇親会でお酒を飲む。土曜日は午前中に地元の町を取材、午後は同じ会場で予選会、250組が4時間半かけて歌い、その間、歌い終わった出場者を一人一人取材する。250組から本番の出場者20組を選び、夜にかけて彼らとキー合わせと面接をする。その後、20組の順番を決める作業が残っている。どんなにバランスを考えて順番を決めていても、素人相手でシナリオ通りになった例は無い。終りは11時ごろになり、まともに夕食を取れたことがない。日曜日の当日は4時起きで、出場者は8時集合、リハーサルを行って本番となる。

本番の前後、地方局の依頼で番組出演などもあり、一年で165日は出張の旅の空である。250人の予選参加者とお話するから12年で15万人の人とお話してきた。一回に1500人から2000人の観客、視聴率15%として、1500万人の視聴者と係ってきたことになる。

のど自慢に出たことがきっかけで歌手になった人も多い。北島三郎は高校2年で出場、鐘二つだったけれど、司会の宮田輝さんに「いい声してますよ、ハイ」と言われ、歌手を目指した。島倉千代子は小学生で出場し「十三夜」を歌って鐘一つ、「ませた歌を歌ってはいけない」といわれた。いずれも本人にインタビューして聞いた。(後半へ続く)
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