河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1443- 【本】ヴァーグナー試論

2013-01-13 12:35:53 | 本と雑誌

20120429

ヴァーグナー試論
テオドール・W・アドルノ著
高橋順一訳
作品社・4000円

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評>音楽学者 岡田暁生

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起爆力を秘めた現代社会批判
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待望の訳書である。日本では意外に隠れ人気があるのか、アドルノの主要著書のほとんどは訳されている。だが彼の著作の中でもとりわけ難解で知られるこの記念碑的なワーグナー論だけは、なかなか翻訳が出なかった。ワーグナーのスコアと台本のあらゆる細部に通じつつ、同時にマルクスやフロイトやベンヤミンの思想にも明るい――そんな途轍(とてつ)もなく高いハードルを訳者/読者に課してくるのが、本書なのである。
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これはワーグナーを切り口にした19/20世紀社会論である。ワーグナーをハイアートと思うな。むしろ彼こそは近現代のあらゆるマスカルチャーの源流であり、独裁者とそれに吸い寄せられる大衆、プロパガンダ芸術、映像を駆使した広告産業などのルーツは、すべてワーグナーに遡ることが出来る。アドルノはそう考える。1930年代後半に書かれたこのワーグナー論は、暗黙の激越なファシズム批判でもある。
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本書における最も重要な概念は「ファンタスマゴリー」だろう。幻灯機のことである。これは映画の前身ともいうべき光学装置で、19世紀に大変人気があった。どこにも実体がない不可思議な光景が、光の戯れによって幕の上に虚構され、人々の目を眩(くら)ませ、脳髄の中で次第に実体となっていき、無意識の欲望を自在にコントロールしていく。ショーウィンドーの商品や映画やCMがそうであるのと同じように、ワーグナーの音楽もまた、ハイテクによって演出される現代の魔術の一つである。
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簡単に読める本ではない。だが、これだけ強烈な起爆力を秘める現代社会批判は、ざらにあるものではない。頭が割れそうな文章を、それでも何度も反芻(はんすう)して読んでいるうちに、突如として眩暈(めまい)がするような啓示が降ってくるだろう。訳文は極めて手堅く明瞭。これ以上分かりやすくしてしまったら、それはもうアドルノではなくなる。
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ちなみに舌を巻くアドルノのワーグナー通ぶりから察するに、本当のところ彼は熱狂的なワグネリアンだったのだろう。
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1442- 【本】音楽と感情

2013-01-13 12:35:05 | 本と雑誌

20120205

音楽と感情
チャールズ・ローゼン著

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出版:みすず書房
価格:2,940円(税込み)

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評>音楽学者 岡田暁生
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豊富な作品例と緻密な楽曲分析
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「音楽と感情」といえば多くの人は次のように考えるだろう。まず作曲家には何か表現したい気持ちがある。それを彼は音楽に託す。これが音楽を通して私たちに伝わる。聴き手も作曲家と同じ気持ちに染められる。従って作曲家がどんな感情を表現しようとしたかを知れば、もっと深く音楽に感動することが出来る、と。対するにこの種の「音楽における感情崇拝」を、素朴すぎるアマチュアリズムとして退ける人々も、もちろんいるだろう。音楽は何の感情も表現しない、作曲家がどんな気持ちを曲に込めたかなど、そもそも誰にも分からないし、分かる必要もない……。
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 本書の著者チャールズ・ローゼンは、どちらの立場にも少し距離を置く。まずセンチメンタルな感情移入型に対して、彼は実に素っ気無い。感動だの作曲家の苦悩だのといった話は、ここにはまったく出てこない。ただし彼は、感情がそれでもなお音楽の理解にとって必須だという立場を、決して譲りはしない。ローゼンが本書で追求するのは、いわば音楽作品における「感情の力学」とでもいうべきものである。
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 文芸批評家が詩の内容に分け入ろうとし、対するに言語学者が特定の感情がどのような言語構造によって生み出されるかに注目するとする。ローゼンの立場は間違いなく後者である。その作品において表現されている感情は単一か、それとも複数の感情の対立が問題になっているのか。感情の強度レベルは時代によってどう違うか。一つの感情がどれくらい持続するか。ある感情を表現するために、どのような構造が用いられているか。次々に譜例が登場し、緻密な楽曲分析が繰り広げられる。
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 決して読みやすい本ではない。だが感情に距離をとり、しかし決して感情を否定はせず、それに構造的にアプローチするという点にこそ、ローゼンの意図はあったはずだ。恐らく名の知れたピアニストでもあるローゼンは、多数の譜例を自分で弾いてみせたかったに違いない。いつかローゼン自身による譜例演奏のCDが発売されたらどんなにいいだろう。
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1441- 【本】隠れた音楽家たち: イングランドの町の音楽作り

2013-01-13 12:33:59 | 本と雑誌

20111211_2

隠れた音楽家たち: イングランドの町の音楽作り
ルース・フィネガン著
湯川新訳、法政大学出版局・6600円
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評>音楽学者 岡田暁生

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英国にみる市民生活の豊かさ
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学生時代は別として、どれだけ音楽が好きでも、社会人になってなお音楽活動を継続するのは難しい。もはや音楽といえば、CDやコンサートを聴くばかり。高校時代に使っていた楽器は埃(ほこり)をかぶり、自分でする音楽はせいぜいカラオケ。こんな人は少なくあるまい。またサラリーマンなどをやりながら、頑張ってアマチュア・オーケストラでヴァイオリンを弾き続けていたとしても、自らの活動を「所詮素人芸ですから……」と謙遜する人は多かろう。それに対して本書の著者は、「プロの演奏を聴く」のではない、「アマチュアが自分でする」形にこそ、音楽の本来のありようを見出(みいだ)そうとする。
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もともとルース・フィネガンはアフリカをフィールドとする社会人類学者である。だが彼女がこの本でフィールドワークの対象とするのは、ロンドン近くの新興都市の音楽活動だ。例えばロンドンと比べるなら、こんな小さな町のコンサートライフは、取るに足らないものとも見えよう。クラシックのメジャー・オーケストラの来演もなければ、ポップスのスターがやってくることもない。そういうものが聴きたいなら、ロンドンに出かけていかねばならない……。だが目を凝らせば、そんな地方都市でも、決して大都会に遜色ない音楽活動が繰り広げられている。パブで行われるポップスやジャズのライブ、アマチュアの合唱団やオーケストラ、ブラスバンドや教会音楽。中には精肉店をやりながらプロよりうまい歌手がいたりする。しかし彼らの本業は、ミュージシャンではないのだ。
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こうした豊穣(ほうじょう)なるアマチュアの音楽文化は恐らく、19世紀以来のイギリスにおける「アソシエーション」の伝統と無関係ではあるまい。普段の職業とは関係なく、サッカーや合唱や詩の朗読やアンティークなどあらゆる趣味の領域で、大人のためのクラブともいうべき社交組織が活動してきたのである。音楽論というにとどまらず、豊かな市民生活とは一体何か考えるうえでも、とても示唆に富んだ本である。
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1440- 【本】ホロコーストの音楽

2013-01-13 11:09:47 | 本と雑誌

20121021

ホロコーストの音楽
シルリ・ギルバート著
二階宗人訳、みすず書房・4500円

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評>音楽学者 岡田暁生

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収容所の極限状態での歌と演奏

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「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とは、アドルノの有名な言葉である。あらゆる表象=「思いやること」を拒絶する地獄絵。そういうものを「歌う」空虚と欺瞞(ぎまん)。このような世界は、それを体験しなかった者に対して、詩や音楽を厳しく禁じる。深海のような音のない世界としてしか、私たちはそれを思い描くことが出来ない。にもかかわらず――実際のアウシュヴィッツにはいつも音楽があった。絶対の沈黙としてしか表象できないはずのものが、本当は様々な響きで彩られていた。恐ろしいことだ。収容所の中の音楽生活を描く本書が突きつけるのは、この二重に反転した逆説である。
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 アウシュヴィッツにはいくつもオーケストラがあった。収容所には当然ながらユダヤ人が圧倒的に多く、その中には優秀な職業音楽家も稀(まれ)ではなかった。グスタフ・マーラーの姪(めい)のヴァイオリニストもまた、アウシュヴィッツの指揮者をしていた(彼女はそこで病死した)。ナチス親衛隊の中には洗練された音楽趣味を持つ人もいて、彼らは収容者たちのオーケストラに耳を傾け、そのメンバーと室内楽に興じたりもした。そんなとき親衛隊員は意外にも「人間らしく」なることが出来た。また新たな収容者が列車で到着すると、怯(おび)えきっている彼らを落ち着かせるために、ここでも音楽が演奏された。そしてガス室送りになることが決まった人々が、誰に言われることもなく声を合わせて歌を歌い始めることすらあった。彼らは激しく親衛隊員に殴りつけられた……。
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 本書の淡々とした記述を前にしては、ただ絶句するしかない。極限状態にあってなお人は、収容者も親衛隊員も等しく、音楽を求める。それはきっと人間的な感情の最後の砦(とりで)なのである。絶対の沈黙に耐えられる人はいない。だが同時にアウシュヴィッツにおいて音楽は、本書の著者いわく、極めて合理的に「絶滅の工程に利用された」。本書を読んだ後ではもはや、「人々を音楽で癒(いや)す」などと軽々しく口には出来ない。音楽がもたらすものの美しさは、通常の世界でのみ許されている贅沢(ぜいたく)品なのである。
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1439- 【本】モーツァルトとナチス

2013-01-13 10:54:41 | 本と雑誌

Mozart20130113

モーツァルトとナチス

エリック・リーヴィー著
高橋宣也訳、白水社・4000円

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評>音楽学者 岡田暁生

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戦中・戦後の音楽の政治利用
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ナチス・ドイツによるワーグナーの政治利用はよく知られている。そもそもマッチョなヒロイズムを果てしなく煽(あお)るワーグナーの音楽こそ、ナチズムの原型そのものですらあるだろう。だがモーツァルトはどうか? そのロココ風の優美と官能と戯れとコスモポリタニズムは、一見ナチス的なものの対極にあると見える。そもそもザルツブルク生まれの彼はドイツ人ですらない。本来なら不道徳かつ不健全な退廃芸術の烙印(らくいん)を押されて上演禁止になっても不思議ではないところだ。だがナチスはなぜかモーツァルトを発禁処分にはしなかった。それどころか戦中の彼は、まるで「名誉ナチ党員のように持ち上げられた」。
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 モーツァルトのゲルマン化に嬉々(きき)と馳(は)せ参じたのが音楽学者たちである。大研究者たちの名前が次々に出てくる。彼らは戦中、至極真面目に「モーツァルトの音楽におけるドイツ性」を立証しようとした。またオペラの上演においては、ユダヤ人であるダ・ポンテのイタリア語の歌詞は、すべてドイツ語に翻訳されて歌われた。モーツァルト映画も作られた。とはいえベートーヴェンやワーグナーと違いモーツァルトは、どう小細工しようが、愛国心高揚には利用しようのないところがある。ナチスによるモーツァルトのアーリア化は、どことなく中途半端に終わった印象だ。
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 興味深いのはむしろ、戦後オーストリアによるモーツァルトの、ほとんど恥知らずな政治利用である。戦後のオーストリアが、あたかも自分たちはナチスの被害者であったような顔をし、戦後決算を曖昧なままにしてきたことは、よく知られている。ザルツブルクも含めオーストリアの多くの都市が、実際はナチズムの巣窟であったにもかかわらず、である。そしてモーツァルトの音楽は、まさにそのコスモポリタニズムの故に、戦後オーストリアが「自分たちはナチスとは違う」というポーズをとるための金看板として、利用された。国境を超えたオーストリア的友愛のシンボルへと、奉られ始めたのである。まったく政治による文化利用ほど度し難いものはない。
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