河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1401- クリスティアン・ティーレマン、ドレスデン国立管弦楽団、NHK音楽祭2012.10.22

2012-10-23 21:55:00 | インポート

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2012年10月22日(月)7:00pm
NHKホール
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ブラームス 交響曲第3番
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ブラームス 交響曲第1番
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(アンコール)
ワーグナー リエンツィ序曲
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クリスティアン・ティーレマン 指揮
ドレスデン国立管弦楽団
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ここのところNHKホールで聴くコンサートが続いている。
ティーレマンは前回聴いたのがいつだったか思い出せない。
ブラームスの3番から始まったこの日のコンサート。当節の御多分に漏れず、ディテールとピアニシモにこだわった、つまり、いまはやりの細部と弱音にこだわった演奏。これの悪いところは構築物の形式がわからなくなってしまい、度を越すと建築物が倒れかねないということ。
この種の演奏は日常的にほかの指揮者も同じようなことをしているので、またか、という感じです。最近の演奏で崩壊に近かったのは上岡のGM4(2012.1.25
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ティーレマンはデリカシーをピアニシモで表現しようとしているのでしょうか。それなら手段の一つとしてわからなくもない。でもブラームスの場合デリカシーが第一義的にあるわけではないと思います。
ピアニシモの為のピアニシモという具合で、作為の為の作為、作為をだいぶ感じる。音楽にうねりもないしもっと伸縮自在に出来ないものか。伸だけですからね。
ここはフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの演奏を何度でも聴いて参考にしてほしいですね。あまりに巨大な演奏でぶっ飛ばされます、それでいてこの構築感。ティーレマンのこの日の演奏は足もとにも及びませんでした、いくら方向性が違うからなどと言ってみてもよく聴くとすべての方向性を内包しているのがフルトヴェングラーの神髄であり、そのうちの一つの表現、ピアニシモの極意でさえ勝ち目はない。
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それから、プレ・コンサート・トークで解説者が、これみよがしに3番は全楽章弱音系で終わる、みたいな解説は不要です。そんなこと昔、吉田秀和が言った言葉で、この場で言う言葉でもない。演奏会の前の解説でこんな話しちゃだめですよ。
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ティーレマンは第4楽章の冒頭のたたきつけるフォルテシモを導入する緊張感ある雄弁なピアニシモ表現をしましたが、あれでいいと思います。あすこの表現はピアニシモの為のピアニシモではありませんでした。激烈でドラマチックなソナタ形式でいいと思います。
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この日の弦編成は、
16+14+12+10+8 対向配置。ベースしもて。
後半ウィンド、ブラス増強。トップが前半とだいぶ変わっていた。普通に考えたらメインディッシュのブラ1のほうにトップを持ってきているのでしょうね。

ティーレマンに合っているのは1番の方でしょう。あまり手を加えずともドラマチックな演奏となる。そもそも息の長い、ドラマチックな流れを作るのが得意だと思いますので、ジャストフィットな演奏だったと思います。ディテールにこだわると、ときとして先が見えなくなり、その場だけの表現に陥ってしまいますけれど、1番の曲想にも助けられ、うねり流れるいい演奏になっていたと思います。
第2楽章は作為を離れ、深く静かに音楽の呼吸を感じることができた。ウィンドの折り目正しい演奏は特筆。気持ちよく高性能オーケストラを堪能できました。また休止をかなり長めにとるところがあり、緊張感をはらむ。昔はなかった表現だと思います。
こうゆう進行であればこそ後半楽章も生きてくる。終楽章冒頭の抑えたピッチカートは絶妙。また、ホルンの信号から例の主題までの流れは、なにか別物の音楽が漂う不気味さのようなものを感じました。言葉でうまく表現できません。止まって漂うシュヴァルツシルト境界の感覚。この曲のぜったい外せない部分という確信に近い信念。そんなところです。
ティーレマンは、派手さよりも前進力、前に進む力が魅力的。決して空虚な響きの陥穽には落ちない。思いっきりブラームス」というところまでは行ってなかったと思いますが、後半は良かったと思います。それから、3番1番ともにブラスをもっと鳴らしてもいいのではないかと思いますね。
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バスドラ、ありました。
アンコールはリエンツィ、ここで聴けるとは思いませんでした。ブラームスからさらにインストゥルメントを増量、ブラスは水を得た魚みたいにバリバリ。弦の後ろからではなく、弦の上からこちらの方向にかぶさってきました、弦のサウンドを決してかき消すことなく。これがドレスデン。
今日のプログラムで一番ティーレマン向きの曲。なんでこの陰影をブラームスで出せなかったのかな?最初から最後まで力任せでよかったんだよ。と本人も少しは反省しているに違いない。
インテンポや壮大なポリフォニック、はてはフォルテシモのアゴーギク、そんなものに対する呪縛的恐怖でもあるのかな?単にドライブ出来ないだけ?昨今の指揮者たち。
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今回、オーケストラの名称が、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団ではなく、ドレスデン国立管弦楽団となっておりました。ドイツ語表記は同じだと思いますが、なにか変化があったのかしら。
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ご参考:
ドレスデン初来日1973に続き、2回目の来日1978の際の感想。
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ブロムシュテット ブルックナー5番 1978.4.4

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1400- 「3出休み」? いつまで続ける前代未聞ルール、全日本吹奏楽コンクール

2012-10-23 21:51:35 | アート・文化

第60回全日本吹奏楽コンクール
http://www.ajba.or.jp/competition60.htm

中学 2012年10月31日(水) / 名古屋国際会議場
高校 2012年11月1日(木) / 名古屋国際会議場
大学の部 2012年10月27日(土) / 宇都宮市文化会館
職場・一般の部 2012年10月28日(日) / 宇都宮市文化会館

高校の部、行けません。
いくら土地勘のある名古屋とはいえ、平日東京からは無理無理です。あきらめます。
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それで、ブログタイトルの件ですけれど、
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3出休制度「3年連続全国大会に出ちまうと、翌1年間は吹奏楽コンクール出場不可。」
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うますぎる状態が続くとコンクールに出られなくなる。これは審査員の耳悪を棚に上げた史上最低の暴挙であるといえよう(こーほー風)
ありえない(笑)
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Wikiで「全日本吹奏楽コンクール」をググると文中、当制度の理由として「できるだけ多くの人に全国大会を経験して欲しい」という引用がある。「できるだけ多くの学校に全国大会を経験して欲しい」というところだろうね。
端的に言うと、レベルがワンランク下の学校でも全国大会に出場できるということになる。生徒たちの意欲も増す。ワンランク下の学校はたくさんあるのでそのなかで優劣を競い合えば自ずとみんなうまくなる可能性も広がる。メリットがたくさんある、そんなところかな。
だからといって努力の成果を積み上げれば積み上げるほど、積み上げた甲斐がなくなる学校もある。吹奏楽名門校に入学したはいいけど、うまい下手にかかわらず、大会に1年間絶対に出ることができない可能性が生まれた。これはもはやコンクールとはいえないのでは?
問題の解決方法をルール改変にすり替えた。と、傍観者には思えます。(無責任ですみませんが)
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1970年のルール改変で順位制をやめ、金・銀・銅にしたあたり、既に問題が内在していたとみます。このルールだと最低でも3位。29校でて、1位か2位か3位に必ず入るのと変わりありません。この時点でコンクールというよりも発表会に近い。予選がコンクールで本選は発表会なのです、と言われればそうですかとしか言えませんけれど何かわりきれないものがあります。
金銀銅にしても問題は解決せず、3出休といったルールになったのでしょうか。
何のためにやっているのかわけがわからなくなっちまいました、私の感覚では、ですが。
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では、なにが問題で、どうやって解決すればいいのでしょうか。
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問題は「審査員の耳。」で、解決方法は「翌日金賞グループによる再演奏順位制。」
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問題点と解決方法がうまくリンクしてませんが、フィギュアスケートなみにがんじがらめにしたとしても「目で見る」と「耳で聴く」では全く異なります。まぁ、トリルを因数分解して波形にしてみて揃っていた、いなかったを採点の基準にするなら別ですが。
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「審査員の耳力」が一番問題だと思います。昔と比べ物にならないぐらい技術向上が激しくて団体ごとの差もなくなりつつあり、これまでと同じように採点するのは困難になった、ということであれば進化しなかったのは審査員の耳だけという話です。
採点基準がモヤッとしていて閾値は明確ではなく、グレードでモヤッと仕切られていると思うので、匿名であろうがなかろうが、誰がどういう採点であったか、わかったとしてもソー・ホワットでしかないと思います。
解決策ではありませんが日常的に「耳を良くする」ことが必要で、そのためには、通年で吹奏楽を聴き、かつ越年できれば何年か連続で日ごろから吹奏楽に接することが出来る人が審査委員の中に最低でも3人ぐらいは欲しいと感じます。審査員というのは自分がつけた採点に責任を持つわけですから、その採点の根拠として、大会の演奏比較だけでなく、何を基準に聴いたのか、といったあたりを日常的に聴ける環境にあり、またその努力を行なえる人、手っ取り早く言うと経験者なのかもしれませんが、吹奏楽の文化の流れに精通した人たち数人が相応の根拠をもって言える人がつけてほしい。つまり日常的に耳の練習をした人が必要です。今の審査員の現状はそうではないと思います。
現状は、金銀銅はつけれるが、1位2位3位4位5位~29位はつけれない。金銀銅の責任の軽さと、順位をつける責任の重さは比べ物にならないので、出来ない。ということではないのかな。
これが原因の全てで金銀銅制になったなどというつもりは毛頭ありません。単に順位制を好きな自分からの斜め見です。また、
実状がよくわからないので無責任な話ではあるのですけれど、まだら模様な審査員の方々、課題曲はもちろん事前に全て譜面をみて、模範演奏を生聴きして、さらに自分でピアノを弾くなり、模範演奏を聴くなりといったことをおこなっていると思いますけれど、自由曲についてはどうなんでしょうか。同じように譜面を予め確認して音、響きを確かめ、あるいはCDメディアなどを聴いて確認しているのでしょうか。
本当によくわかりませんね。
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それで解決方法は、高校野球並みのトーナメント方式は無理か、ならばフィギュアスケートなみのディテールこだわり採点か、はたまた、こうゆうのはどうでしょうか。
今のモヤッとした金銀銅でもある程度のラインはそれなりに正しいと思いますので、金賞校による、翌日決戦。金賞校は翌日、再演奏して今度は順位を争う。金賞校による1位2位3位決定戦を行なう。審査員も大変でしょう。大変なのがあたりまえなのですよ。
私の解決方法は飽くまでも1位の優勝校一校を決める方式にこだわります。個人的にはこっちの方がすっきり。頂点を目指す。
おわり

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1399- ホロコーストの音楽 シルリ・ギルバート著 収容所の極限状態での歌と演奏 〈評〉音楽学者 岡田暁生

2012-10-23 21:33:00 | 本と雑誌

紹介のみ。

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ホロコーストの音楽 シルリ・ギルバート著 収容所の極限状態での歌と演奏
 〈評〉音楽学者 岡田暁生

 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とは、アドルノの有名な言葉である。あらゆる表象=「思いやること」を拒絶する地獄絵。そういうものを「歌う」空虚と欺瞞(ぎまん)。このような世界は、それを体験しなかった者に対して、詩や音楽を厳しく禁じる。深海のような音のない世界としてしか、私たちはそれを思い描くことが出来ない。にもかかわらず――実際のアウシュヴィッツにはいつも音楽があった。絶対の沈黙としてしか表象できないはずのものが、本当は様々な響きで彩られていた。恐ろしいことだ。収容所の中の音楽生活を描く本書が突きつけるのは、この二重に反転した逆説である。

 アウシュヴィッツにはいくつもオーケストラがあった。収容所には当然ながらユダヤ人が圧倒的に多く、その中には優秀な職業音楽家も稀(まれ)ではなかった。グスタフ・マーラーの姪(めい)のヴァイオリニストもまた、アウシュヴィッツの指揮者をしていた(彼女はそこで病死した)。ナチス親衛隊の中には洗練された音楽趣味を持つ人もいて、彼らは収容者たちのオーケストラに耳を傾け、そのメンバーと室内楽に興じたりもした。そんなとき親衛隊員は意外にも「人間らしく」なることが出来た。また新たな収容者が列車で到着すると、怯(おび)えきっている彼らを落ち着かせるために、ここでも音楽が演奏された。そしてガス室送りになることが決まった人々が、誰に言われることもなく声を合わせて歌を歌い始めることすらあった。彼らは激しく親衛隊員に殴りつけられた……。

 本書の淡々とした記述を前にしては、ただ絶句するしかない。極限状態にあってなお人は、収容者も親衛隊員も等しく、音楽を求める。それはきっと人間的な感情の最後の砦(とりで)なのである。絶対の沈黙に耐えられる人はいない。だが同時にアウシュヴィッツにおいて音楽は、本書の著者いわく、極めて合理的に「絶滅の工程に利用された」。本書を読んだ後ではもはや、「人々を音楽で癒(いや)す」などと軽々しく口には出来ない。音楽がもたらすものの美しさは、通常の世界でのみ許されている贅沢(ぜいたく)品なのである。

(二階宗人訳、みすず書房・4500円)

▼著者は英サウサンプトン大上級専任講師。


1398- 全く弛緩しない演奏!リング・サイクル抜粋 二日目公演、ロリン・マゼール、N響2012.10.20

2012-10-23 21:23:00 | インポート

2012年10月20日(土)3:00pm

NHKホール
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ワーグナー作曲 マゼール編
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言葉のない「指環」~ニーベルングの指環管弦楽集
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ロリン・マゼール 指揮 NHK交響楽団
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前日に続いてお邪魔しました。若干時間が長くなったように感じます。
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ラインの黄金12分
ワルキューレ第1幕4分、第2幕4分、第3幕10分
ジークフリート第1幕3分、第2幕6分、第3幕なし
神々の黄昏 序幕ほぼなし、第1幕14分、第2幕3分、第3幕24分

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この日も満喫しました。
コンサート・オーケストラによるワーグナーは埃がなくていいですね。ベール一枚取れた感じのワーグナーサウンドで、N響の響きもグイッと上に持ち上げられ引き締まって快適。全く緩みのない、弛緩しないリング。
オケピットから鳴る普通のオケのちょっとふやけた、埃まみれのサウンドとは明らかに異なる。艶やかです。
ワーグナーオーケストラではありませんし、その節まわしが身についているとも言えませんがこのほうがかえって余計なしがらみがない清く正しい鳴りのような。
折り目正しい演奏というのはまさしくこんな演奏のことを言うと思いますよ。N響の特色でもあります。ハイドンとかを聴いているような錯覚。
ここでもマゼールの対応能力が光ります。ちょっと極端ですが、クリーヴランドと同じ方向性で整理整頓すれば答えが出るオーケストラですし。
10月13日のスクリャービンのコントロールから始まったマゼールの棒は、10月29日のチャイコフスキーの4番で開放されるはずです。コントロールと開放、たぶん素晴らしい演奏になるでしょう。
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それで、この指環なんですが、カミタソのプロローグはちょこっとだけしかでてきませんね、それにジークフリートの第3幕は全くないと思います。人間業とは思えない歌唱をしないといけない幕ですので管弦楽の材料は乏しい。
かたやカミタソのプロローグの方は、なにをやってるのかさっぱりわかりませんよね。
2002年にバレンボイム&ベルリン国立歌劇場が来日して指環を3回敢行するという、世界でもまれな公演を行いました。3回転12楽劇、全部観ましたが、あすこのパイプだらけのノルンとか、あれなんだったんでしょうね。あのプロダクションはクプファーがバイロイトでレーザー光線を使った1988-92年ものではなく、そのあとベルリン用に作ったプロダクションのはずですが、やっぱり冒頭はレーザー光線でしたがw
とにかくあの序幕、意味はわかりますが音楽のわけが分からない。うどん状態のオーディオ配線なみのわかりにくさで、もつれる音楽。あれを通り抜けないとジャーニーも葬送もないし、リング唯一の合唱にもたどりつかない。そして第3幕の抜けるようなホルン、引きずる第2幕、きりがありませんけど。ここはマゼールといえども編曲ではほぼ無視状態で正解かも。
関係ありませんが、あのパイプ・ノルンを見たとき、フィフス・エレメントのソプラノ歌手を思い出しましたね。
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話しがそれましたが、リングは登場人物、登場神様などあんまり大人数ではないのに、管弦楽だけというシーンはかなり制約がある。それだけずっと歌いっぱなしということなんですね。マゼールとしても編曲では、いっぱいいっぱいでしょう。
この編曲ものは4夜分順番につながっているというところがミソで、管弦楽集断片ものとは別物と考えるべき。派手なところになだれこまないよう巧みに編曲されていると思います。このような曲で一晩の演奏会を持たせるあたりマゼールにしかできない至芸だと思います。
おわり


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1397- 縁取り感覚にすぐれた演奏!リング・サイクル抜粋 初日公演、ロリン・マゼール、N響2012.10.19

2012-10-23 20:00:00 | インポート

2012年10月19日(金)7:00pm

NHKホール
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ワーグナー作曲 マゼール編
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言葉のない「指環」~ニーベルングの指環管弦楽集
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ロリン・マゼール 指揮 NHK交響楽団
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一個の物語を四夜もののオペラにしてしまったワーグナー。いわゆる、このオペラは上演に四日かかるという言い方の方が気張っていて、いいかもしれない。
それをマゼールがワーグナーの書いた音以外の音は使わず、約80分にまとめあげた。 部分的に歌唱をトロンボーンで代用しているところもあったがほぼ全てワーグナー。
聴かせたい対象は誰なのだろうか?という一種名状しがたい部分があるのですが、お初ですし期待に胸ふくらませて第一音を待ちました。
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ラインの黄金12分
ワルキューレ第1幕4分、第2幕4分、第3幕10分
ジークフリート第1幕2分、第2幕5分、第3幕なし
神々の黄昏 序幕ほぼなし、第1幕13分、第2幕3分、第3幕23分
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ジークフリートはあまりなくて、カミタソに全体の半分以上をかけているようです。指環の場合、重要な部分にはほとんど声がついていますので、声がない部分で拾える重要シーンといったら、ドーンdawnとラインジャーニー、葬送行進曲、あたりとなり、ここがやはり長くなる。
ラインの黄金とワルキューレで30分、カミタソ40分弱、ジークフリートはつなぎで7分、といったところか。
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この曲はベルリン・フィルがマゼールに委嘱して編曲されたもののよう。ではどのような人たちに聴かせたくて作ったのだろうか。普通に考えれば指環が未知の人だと思う。熟知している人たちに聴いてもらっても、全部聴きたいという欲求不満が増すだけだし。
でも、知らない人たちへの紹介ということであれば、声を外す必要はなく有名どころをもりつければいいはずなのだが、声を入れてしまうと大がかりになってしまって、費用対効果に疑問符がつくといった別の問題が出てくるのかもしれない。
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ツイッターで感想を追いかけてみると、全部を聴いたことはないがつなぎがあまりよくない、とか、全体的に焦点が定まらずもやっとしている。といった感想も多い。
指環を知らない人が何をぬかすか、ではなくて、このような感想が一番貴重と感じる。知っている人は極端な話、聴かなくていいし、知らない人たちがどう感じるかが編曲の主旨に適うと思うから。指環に馴染んでもらう為、このような感想を大事にすべきと思います。
せめて声をどこか数か所でもいれれば聴く方の積極性も増すような気はしますが、費用対効果の部分でのデメリットもあるでしょうし、それ以前に、ではどこに声を入れるのか、といわれると、それは、指環は誰が主役なんだ、という話につながってしまい、とりとめがなくなる。折衷案的解決と見ましょう。
また、独立した楽曲として既に有名なもの(ワルキューレの騎行、葬送行進曲、その他たくさん)を一曲ずつ集めた管弦楽集の一夜とは趣きを異にするということも理解の必要がありますね。
ラインの黄金からして有名どころの曲は最後の解決をみず次の幕に移っていく、ワルキューレの騎行さえ途中まで、聴きようによっては感情に激する部分を肩透かし風にすり抜け曲をつないでいく。ユニークです。だから盛り上がりよりもどちらかというとフラットなうねりでどんどん流れていく。そんな感じですね。そう考えると、実は知っている人たちこそ聴くべきではないのか、といったことも頭をよぎります。
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すみません、非常にまとまりの悪い文になってしまいまして。
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私自身ワーグナーヲタでなくてリング・サイクルも生では10数回しか観たことがありません、ワルキューレだけでしたらその倍ぐらいは観てると思いますが、いずれにしても精通しているとは言い難く、この編曲で記憶の端々からシーンを思い出せる程度です。
それでもある程度は理解していると思っているので初めて聴く感想のようなものはありません。その上で、
独立楽曲としてではなく、全部つないでいくため局所的には煮え切らないものを感じ、とはいうものの、煮え切るためにはやはり四日間かけた方がいいので、愛とか神とかのストーリーを横に置いて響きを楽しむ、ことに途中からしました。
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マゼールはこの曲を4日分当然、まるごと熟知していて自由自在にできると思います。その前提で聴くしかない。
この日の弦編成は以下でした。
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18+16+14+14+12
弦だけで74本です。このうしろにウィンドとブラス、パーカッション、その他鳴り物、大変な数になりました。超ワーグナー編成ですね。
これだけでかいのに張りぼてにならない。ぼて系サウンドにならず引き締まっているところは前週と同じです。マゼールは異常に縦の線を整えにくる指揮者ではないと思うのですが、低弦から高弦にかけて音を積み重ねていくというよりも、それぞれのパートの独立性のようなものを重視した方針で、お互いが主張しあい、そのせいもあってか幾分メタリックなおもむきがあり、低弦さえも心なしか軽くなる。束にすると縦の線はきっちりそろっているなぁ、というところが率直な感想です。
気張らずにそれでいて集中力があるのがマゼールの棒、その通りのN響サウンドになっておりました。
マゼールは若いときに比べて棒の振りが一回り小さくなりましたが、そのしぐさやパート指示など昔と同じく冴えわたっております。
ラインゴールドや騎行の明確な三拍子振り、全楽劇にわたる息の長いシンコペーションのクリアさ!音楽の縁取りがあまりにも明快すぎる。マゼールは例えばチャイコフスキーの2番の交響曲のように細かいビートの曲は大好きなんでしょうが、それだけではなくワーグナーのように息の長いリズムもからだ全体で感じ表現できる、ここらへんがすばらしい。
ご本人だけフィーリングがあってもはじまりません、マゼールの場合オーケストラプレイヤーが同じフィーリングになっていくあたりがさらに素晴らしいんです。
今回も演奏については文句のつけようがありません、編曲のスタンスが今一よくわからないところがありますが、個人的には十分に楽しめました。
おわり
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【付記:曲の説明】
ワーグナー(マゼール編)
言葉のない「指環」~ニーベルングの指環 管弦楽曲集
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オペラにおける「聴きどころ」を歌劇場以外の場所で演奏するためには、かならず何らかの工夫が必要となる。番号オペラであれば、アリアや重唱、序曲や間奏曲は独立していることが多いので、演奏会で披露するためにはその部分だけを抜き出せばよい。だが、歌、オーケストラ、そして演劇が一体となった「総合芸術」を志し、無限旋律によって自らの理想とする「楽劇」を追究したリヒャルト・ワーグナー(1813?1883)の後期作品の場合は、その音楽を無理に裁ち切り、新たな終結部を作る必要に迫られる。
 もっとも、作曲家自らがその目的のために手がけた加筆が、必ずしも成功しているとは限らないのが興味深いところで、ワーグナー自身が《トリスタンとイゾルデ》第1幕の最後に付け足した演奏会用終結部が、現在演奏されることはめったにない。単に終結部を作ればよいというものではなく、音楽が醸(かも)し出す作品世界を毀(こわ)さぬよう、特段の配慮が求められるのだろう(同作の場合は、前奏曲にそのまま第3幕最後の〈愛の死〉を繋げるという最高の解決策があったことも大きい)。
 上演に4夜を要する、ゲルマン神話に題材をとった超大作《ニーベルングの指環》の場合も、事情は同じである。現在、歌劇場以外の場所でこの作品の断片を聴けるのは、超有名曲となった《ワルキューレ》の第3幕冒頭〈ワルキューレの騎行〉を筆頭に、《神々のたそがれ》から〈ジークフリートのラインの旅〉〈ジークフリートの葬送行進曲〉などに限られており、オーケストラだけの見せ場に乏しい《ラインの黄金》《ジークフリート》の断片が演奏される機会はめったにない。
 指揮者としてだけでなく、自らも作曲の筆をとり、ジェームズ・ゴールウェイに委嘱された《フルートと管弦楽のための音楽》、ロストロポーヴィチに委嘱された《チェロと管弦楽のための音楽》、そしてジョージ・オーウェルの同名の小説をオペラ化した《1984年》などの作品を手がけてきたロリン・マゼール。1987年、マゼールはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団から編曲の委嘱を受け(逡巡した末にようやく引き受けたという)、指揮者・作曲家という両方の視点から、ワーグナー作品の編曲にまつわる問題を克服しようと試みた。マゼールは、この管弦楽曲を編むにあたり、以下のような4つの方針を掲げている。この方針からは、マゼールが《指環》という壮大な作品に対する、そして作曲家ワーグナーその人に対して抱いている尊敬と愛情が透けて見えるようにすら思われる。
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1:全体は自然に、切れ目なく続いていくようにせねばならない。そして、物語の筋に沿い、《ラインの黄金》の最初の音に始まり、《神々のたそがれ》の最後の音で終わらねばならない。
2:曲のつなぎ目は、和声の面からも、時間配分という面からも正統的で不自然にならないように、そして曲同士のテンポの対比も、作品全体の長さと釣り合いの取れた状態にせねばならない。
3:もとの作品のうち、「声楽なしで」書かれた音楽はそのほとんどを使う。歌のある部分で、欠くことのできない重要な旋律は加えるが、その箇所は、歌の旋律が他のオーケストラの楽器で重ねて演奏されていて、聴き手がその歌を「想像できる」部分か、(稀なケースではあるが)完全に楽器で置き換える部分とする。
4:すべての音符は、ワーグナー自身が書いたものだけに限る。

 上記の通り、オペラの筋書きに沿って、その順番通りに抜き出された各部分は休みなく演奏される。この各部分には以下のような標題が付けられており、これを見るだけでほぼ筋書きもわかるように工夫されている。新たにつけられたタイトルに関しては、( )内にマゼールが実際に抜き出した箇所を便宜的に補った。
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《ラインの黄金》
 ・かくして、ライン川の〈緑あやなすたそがれ〉が始まる(序奏)
 ・神々の城への歩み・ワルハラ城への神々の入城(第2場冒頭。正確には眠りから覚めたウォータンが完成したワルハラ城を妻フリッカと眺める場面)
 ・地の底へと潜ったこびとたちが鉄を鍛える(第2場から第3場への場面転換音楽)
 ・雷神ドンナーが槌(つち)を振り下ろし、喉(のど)の渇きを覚えたジークムントが這(は)いつくばりながら、(たまたま)竈(かまど)のそばにいるジークリンデに水を求める(前半は第4場幕切れ近くの同場面。後半は《ワルキューレ》第1幕の前奏曲後半およびそれに続く同場面より)
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《ワルキューレ》
 ・〈響きの暗号〉のうちに、ジークムントの愛の眼差(まなざ)しを「見る」我ら(前場面より続く)
 ・ジークムントとジークリンデの逃避行(第1幕幕切れ)
 ・ウォータンの怒り(第2幕前奏曲と幕切れ)
 ・ワルキューレ(ブリュンヒルデの妹たち)の騎行(第3幕第1場冒頭)
 ・ウォータンと、その愛する娘ブリュンヒルデとの別れ、ウォータンの別れと魔の炎の音楽(第3幕第3場後半より幕切れまで)
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《ジークフリート》
 ・ミーメの「怖れ」(第1幕第3場冒頭から前半)
 ・魔法の剣を鍛えるジークフリート(第1幕第3場幕切れ。正確には鍛えた剣の切れ味をミーメに見せる箇所。ジークフリートの歌唱部分がトロンボーンで加えられている)
 ・ジークフリート、森をさまよう、森のささやき
 ・大蛇を退治
 ・大蛇の嘆き(以上3箇所、第2幕第2場)
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《神々のたそがれ》
 ・ジークフリートとブリュンヒルデの情熱を包む朝焼け(序幕後半)
 ・ジークフリートのラインの旅(序幕から第1幕への場面転換音楽)
 ・家臣を招集するハーゲン(第2幕第3場)
 ・ジークフリートとラインの乙女たち(第3幕第1場)
 ・ジークフリートの葬送行進曲(第3幕第2場から第3場への場面転換音楽)
 ・ブリュンヒルデの自己犠牲(第3幕第3場後半から幕切れまで)
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 わずかの例外を除き、マゼールは一音符もワーグナーの総譜を書き換えることなく、見事な手腕を駆使してみせた。そのお陰で、本編曲は初めて《指環》の世界に触れる聴き手にも、そして作品を熟知した聴き手にも、どちらにも違和感なく受け容れられるような完成度を持つに至る。1987年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とこの作品を初めてともに演奏して以来、この編曲がいわば《指環》管弦楽曲用編曲の「定番」としての地位を得たのは、まったく不思議なことではない。編曲者自らの指揮によって聴くことによって、その説得力はいや増すことだろう。
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作曲年代:原曲:1848年~1874年、マゼール編曲:1987年
初  演:ワーグナー《指環》全曲初演:1876年8月、バイロイト。マゼール編曲:1987年12月、ベルリン。
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