音楽と感情
チャールズ・ローゼン著
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出版:みすず書房
価格:2,940円(税込み)
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評>音楽学者 岡田暁生
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豊富な作品例と緻密な楽曲分析
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「音楽と感情」といえば多くの人は次のように考えるだろう。まず作曲家には何か表現したい気持ちがある。それを彼は音楽に託す。これが音楽を通して私たちに伝わる。聴き手も作曲家と同じ気持ちに染められる。従って作曲家がどんな感情を表現しようとしたかを知れば、もっと深く音楽に感動することが出来る、と。対するにこの種の「音楽における感情崇拝」を、素朴すぎるアマチュアリズムとして退ける人々も、もちろんいるだろう。音楽は何の感情も表現しない、作曲家がどんな気持ちを曲に込めたかなど、そもそも誰にも分からないし、分かる必要もない……。
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本書の著者チャールズ・ローゼンは、どちらの立場にも少し距離を置く。まずセンチメンタルな感情移入型に対して、彼は実に素っ気無い。感動だの作曲家の苦悩だのといった話は、ここにはまったく出てこない。ただし彼は、感情がそれでもなお音楽の理解にとって必須だという立場を、決して譲りはしない。ローゼンが本書で追求するのは、いわば音楽作品における「感情の力学」とでもいうべきものである。
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文芸批評家が詩の内容に分け入ろうとし、対するに言語学者が特定の感情がどのような言語構造によって生み出されるかに注目するとする。ローゼンの立場は間違いなく後者である。その作品において表現されている感情は単一か、それとも複数の感情の対立が問題になっているのか。感情の強度レベルは時代によってどう違うか。一つの感情がどれくらい持続するか。ある感情を表現するために、どのような構造が用いられているか。次々に譜例が登場し、緻密な楽曲分析が繰り広げられる。
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決して読みやすい本ではない。だが感情に距離をとり、しかし決して感情を否定はせず、それに構造的にアプローチするという点にこそ、ローゼンの意図はあったはずだ。恐らく名の知れたピアニストでもあるローゼンは、多数の譜例を自分で弾いてみせたかったに違いない。いつかローゼン自身による譜例演奏のCDが発売されたらどんなにいいだろう。
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