河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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683‐シルヴァン・カンブルラン トゥーランガリラ 2006.12.15

2008-09-25 00:10:00 | 音楽
683‐シルヴァン・カンブルラン トゥーランガリラ 2006.12.15


前回のブログにミスターSの演奏会のことを書いたが、読売日響はミスターSの後任にシルヴァン・カンブルランをあてるようだ。2010年4月から。。
それで、2006年にトゥーランガリラを同じオーケストラで聴いたことがあったので再アップする。

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東にその演奏会あれば、
雨にも負けず出かけ。
西にその演奏会あれば、
風にも負けず出かけ。
北にその演奏会あれば、
寒さに負けず出かけ。
南にその演奏会あれば、
暑さに負けず出かける。
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熱意はいつもこんなよそおいで、この曲だけははずせない。
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2006年12月15日(金)
19:00 サントリー・ホール
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メシアン作曲
トゥーランガリラ交響曲
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ピアノ、ロジェ・ムラロ
オンド・マルトノ、原田節
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シルヴァン・カンブルラン指揮
読売日本交響楽団
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何度聴いても面白い曲だ。
第3楽章だけはよくわからないけれども、とにかく第10楽章まで全てが天才の一瞬のひらめきの音楽のように聴こえる。
そのときは一生懸命考えながら年月をかけて作曲していたのだと思うが、出てきた音楽というのは凝縮されたひらめき。
作曲に思考する長い年月(としつき)も宇宙的光の時間尺度では、地球上の全ての事象はたかだか一瞬のまばたきの様なもの。
そんなことを実感させてくれるひらめきの音楽。
100人規模のフルパワー・オーケストラで、いろんな所でいろんな人がいろんな事をしている。
奥でパーカッション群がコトコトやっている。
その前方ではブラスのキザミがミキサーのようなうなりをたてている。
ウィンド群は複雑に短フレーズを繰り返す。
弦はコントラバスから第1ヴァイオリンまであちこちでストリームの塊がメロディーラインを作っている。
なんだかみんなバラバラだ。
鳴っているようで鳴りきらない。
かと思えば山水画のような一筆書きユニゾンが高らかに鳴り響き、強烈で圧倒的に鳴りきる。
指揮者カンブルランは、その譜めくりの大胆さもさることながら全身でリズムを作っていくさまが、そのポニーテールの揺れともども説得力のある迫力を感じる。
音楽への一体感。
この音楽は光であるのかもしれない。
色彩とリズムの競演。
強烈な刻み節。
なんという魅力的な音楽。
このような曲は、サントリーホールであれば、二階席からフルオーケストラを見渡しながら聴くのがよい。つまり生演奏に限る。
音が出てくるという事象が、前後左右どこからどのような形で出てきてるのかを確かめながら見聴きすると本当に楽しくなる。
オンド・マルトノ、ピアノ、ともにステージギリギリのところに位置し、従ってそのサウンドもクリアに前方に響く。
ダイナミックな指揮姿がピアノに邪魔されてよく見えないのは多少残念ではあったが。
カンブルランの作り出す演奏はその指揮姿ともどもわかりやすい。
まず、丁寧である。
やや遅めにとられたテンポが音楽に余裕を与えている。
つまりプレイヤーに次の音を出す準備をさせてくれる。
一回もつれたら元には戻らないのが音楽であるから、用意周到な事前練習は当然としても、演奏中の心の余裕も、あればそれにこしたことはない。
カンブルランの譜めくりはあわただしいものだ。一度に2ページめくったりしている。
これはこの種の音楽に対する知識練習不足苦手意識のあらわれではなく、逆にオーソリティー、スペシャリストであることを感じさせてくれる。
スペシャリストがスコアを見ながら振る姿というのは、クレンペラーのベートーヴェン演奏の譜めくりみたいなものだ。
それでカンブルランは第1,2楽章でいきなりこの音楽の魅力を全開させる。
ダイナミズム、リズミックな音楽、音色変化、特に、刻むリズムが受け持つパートが目まぐるしく変わることによる音色の変化を克明に表現している。
それがいつも以上に魅力的な音楽にしている。
クラクラするような多彩な変化。
でも調子にのってうきうきばかりもしていられない。第3楽章はよくわからない。とまどう。
ここでメシアンのひらめきが一瞬途絶えたかと思う瞬間である。
しかし、あと7楽章残っているのだ。
この第3楽章は聴き手ももっと勉強しなくてはいけない。
第4楽章は第1楽章に由来する部分が鳴り前半の〆のような感覚に襲われる箇所があるが、実は次の第5楽章ではっきりと決然と前半の締めくくりを教えてくれる。
ここまであっという間の40分強。
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ここまでで二階席から2名リタイア。
思っていたような曲とは違っていたのだろう。よくあるパターンだ。
意思表示もこのように大人しくやってくれれば問題ない。
楽章の終わりのクライマックスあたりでわざと席を立ち、みんな立たせて騒々しくさせておいて帰るやからも外国ではある。
日本人はここまではしない。
日本人はやるとするとたぶん声をだすだろう。
昔はわがまま不平不満声はたまに聞いたことがある。
定刻になってもオケ団員があらわれないと、せっかちな聴衆が、早くやれ、って騒いだりする。
ちなみに今晩のような休憩のない一曲だけの演奏会では通例10分ほどおそく開始するのが常識だ。
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とにかく前半が終わり、後半いきなりの、この曲白眉の美演、第6楽章。
いままでのリズミックな世界とは全く対極にある、しなりの極致、のような音楽だ。
愛の眠りの庭。
前半遅刻して後半この曲から自席で聴き始めた人にはなにがなんだかわからない雲をつかむような音楽に聴こえることであろう。
カンブルランはここでも力を発揮。
異常に丁寧であり、よく練られた考え込まれた音楽を聴かせてくれる。
表情が豊かというか、各パート毎のニュアンスが豊かで音楽に表情がある。
決して作為的に聴こえないあたりがスペシャリストの矜持であろうか。
第7楽章で、小声のリズムで我にかえり、第8楽章は前提なしで聴けばほぼフィナーレのようなまとめにはいる。しかしここも本当のクライマックスではない。
第9楽章は、今回一番魅力的に感じた楽章だ。
パーカッションとウィンドのリズムの軽やかなアンサンブルが徐々に自然発火していくさまは魅力的な音楽。しかし、それも突然やむ。
そして、阿鼻叫喚ダイナミックリズム、メシアンのトゥーランガリラ、フィナーレの人間業とは思えない‘キザミ節’の始まり。
理屈を超えた生理的快感が走る。
作曲しているときの作曲家というのは大部分が理屈で作っていると思うのだが、結果、出てきた音はこのようにかくも天才的な一瞬のひらめきとしか思えない。
これが音楽、芸術というもの。
カンブルランはダイナミックさだけではなく、ルバートも多用する、余裕の音楽造り。
リズムとルバートの同時表現というのは合わせるのに苦労すると思うが、読響ともども練習を重ねたのだろう。また、スペシャリストなりにうまく表現できるコツがあるのかもしれない。
90分、渾身のカンブルランと読響の圧倒的熱演であった。
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ところでこの曲の初演は、1949年バーンスタイン指揮ボストン交響楽団。
タイムマシンがあるのなら一度は立ち寄ってみたい。
おしまい