河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

724- スクリャービン 交響曲第3番 リッカルド・ムーティ フィラデルフィア管弦楽団 1984.2.22

2008-12-03 00:10:00 | コンサート

 今までに、二つや三つ、五つや六つ、決して忘れられない演奏というものがある。
この日の演奏も忘れ難いもので、ずっと今の今になっても鮮明に覚えているコンサートだ。
当時の音楽監督リッカルド・ムーティが手兵フィラデルフィア管弦楽団とともにニューヨークで行ったサブスクリプション・コンサートから。


1984年2月22日(水) 8:00pm エイヴリー・フィッシャー・ホール

グレイト・パフォーマー・シリーズD
第84シーズン(1983-1984シーズン)

ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲
 ヴァイオリン、アイザック・スターン

スクリャービン/交響曲第3番

リッカルド・ムーティ 指揮  フィラデルフィア管弦楽団

以下の文面は当時書いたノートを書き写したもの。(ほぼ)

****
彼はかっこいいのを通り越してスポーティでさえある。
彼の指揮そのものが我々に生理的快感をもたらす。
このような経験は久しぶりである。
まるで長嶋が後楽園で何の苦もなくゴロをさばいているのを唖然としながら観ている我ら観客といった感じ。
彼のように全く絵になる指揮者にはフィラデルフィア管こそふさわしい。
もう頭の髪の毛一本から足の指の爪まで全てそれらは彼の意識下にあり、我ら聴衆はただ唖然としながら眺めているだけでよい。
そして彼の手足と同じように素晴らしかったスクリャービン。
これはほんとまれにみる素晴らしいスクリャービンではなかったか!
そもそもスクリャービンの作品を生で聴けること自体貴重であるわけだが、それがこのようにもうほとんど完璧ともいえる姿で再現されるとは。
彼の指揮はたしかに大げさかもしれないが、音楽がそれから遊離することなく、まるで彼の手というよりも彼の体全体から音楽が鳴ってくるといった雰囲気。
本当にあの音楽はいったい何であったのだろう?
スクリャービン独特の弦の小刻みに震える音や金管の強奏。そしてときとしてあらわれる木管による美しいハーモニー。
テンポはほとんど一小節ずつ変化し、うなるような音楽としか言いようがない。
本当にあの音楽はいったい何であったのだろうか?!
それに、この曲を完全に自分のものとして、まるでオペラでも振っているようにこなすムーティの姿。
これは三者が美しくマッチングした姿ではなかったか。
最後の打撃音の間の二つの休止がホールを揺るがすなんてことは、実際そこにいる人でなければわからない。本当、なんて、素晴らしくアンビリーヴァブル・スクリャービン。

さて、一曲目のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
スターンは出だし、音が少々上ずっていて、一聴、今回は不調かなとも思ったりしたが、第1楽章のカデンツァあたりから次第に調子が出てきて、第2楽章の中間部ではまさにベートーヴェンの静かで清らかな音がホール全体に響きはじめた。
彼の音は高音が研ぎ澄まされたようであり、一分の狂いもなくまっすぐに伸びきる。
これが金属音ではなく柔らかい音なもんだから本当、気持ちがいい。彼の体形からは考えもつかないような音が発せられる。
スターンはベートーヴェンに沈み込んでいったようであり、深みにはまっていく様子が聴衆にベートーヴェンに対する共感を呼ぶ。
ムーティも静かな棒であり、この姿から後半のプログラムのダイナミックなものを思い浮かべるのはちょっと難しいが、彼はベートーヴェンに対しても素晴らしい解釈を示しており、ときに真摯とさえ思えるときもある。オペラ指揮者としての素晴らしさを感じる。

それにしてもここまでかっこよく棒を振ってしまうと、日本流の評論はなにか不要なものに思えてくる。まして音楽がともなって素晴らしいだけに文句のつけようもない。
これはオーケストラがフィラデルフィア管ということもあるが、彼のような指揮者には、そもそもへたなオーケストラは不要なのだ。
オーケストラのほうから近づいてくる。
おわり

といった駄文であったわけだが、この文章からは今でも忘れ難い演奏、なんて雰囲気はあまり感じられないのだが、その後、いろいろな局面で、演奏中のいろいろなことを次々と思いだすのだ。今までもこのブログでも書いてきた。
フィラデルフィア管の内向きに集中するサウンド。なにか中心点がステージの中央にあるかのような音のコンセントレイト。
スクリャービンの交響曲第3番は短い序奏をもった長大な変奏曲であると思うのだが、きらびやかにめくるめくサウンド。スピードの伸縮の魅力だけにとどまらず、音色変化によるAM波的上下の伸縮、膨らみの圧倒的な技。それは全てムーティの技と言い換えてもいい。フィラデルフィア管の表現力の凄さ。筆舌に尽くしがい演奏であったのだ。
ムーティはこの交響曲が十八番であり、フィラデルフィア管のみにとどまらず、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、ニューヨーク・フィル、と演奏しているし、おそらく他にも数多のオーケストラと演奏しているに違いない。ただ、想像するに2流のオーケストラとは演奏していないのではないか。圧倒的な表現力を持った曲だけに、演奏可能な、まずは基盤が整っていないと話にならない。と彼が思っているかどうか知らないが、たぶんそうだ。
最後の打撃音に向かう直前のロングなハーモニーは、ウィンドがキラキラと宇宙の星の輝きを思わせる中、ブラスが強奏し、そして一度ピアニシモまで落とし、そのままノーブレスでフォルテッシモまでもっていき、大きな空白を2回作り、圧倒的な静寂がホールを揺らしながら、強烈な2回の打撃音と最終音が思いっきり伸ばされ、魂が震えながら永遠の響きが消え去る。

それで、演奏会二日後の2月24日にニューヨーク・タイムズに評が載った。
ムーティはこの曲は十八番なのだが、フィラデルフィア管を少し強引に引っ張りすぎたかもしれない。(ここらあたりは見解の相違ということになるのだが。)
それに前半のスターンのヴァイオリンを忘れてはいけない。