2009年11月14日(土) 2:00pm サントリーホール
オール・ベートーヴェン・プログラム
序曲コリオラン
交響曲第4番
交響曲第5番
マルティン・ジークハルト 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
オバマ大統領が演説を終えた3時間半後、そのポーディアムでジークハルトが最初の一音を振りおろした。
脂肪も栄養になる。
肉厚の一瞬くらくらするような時代戻りのように聴こえたのは席が前過ぎて音が強烈にでかかったせいだけとも思えぬ。
ジークハルトは2年ぐらい前にアーネム・フィルを振ってマーラーの10番の全曲をエクストンにSACD2枚組でいれた。サマーレ&マツッカ補筆完成版での演奏は素晴らしくも豊潤、ブラームスなども同じ組み合わせで入れており、今日のベートーヴェンはどうなんだろうと、あまりのプログラム・ビルディングの大胆さにつられて興味津津、約8分の道のりを経てサントリーホールまでたどり着いた。
ウィーン生まれ、ウィーン交響楽団のソロチェリスト、指揮に転向、リンツ・ブルックナー管弦楽団、リンツ・オペラ座、アーネム・フィル、グラーツ芸術大学の指揮科教授。コテコテ・アカデミックなんだろうと思う。マーラーの10番もきっと思うところがあって入れたに違いない。旬のような棒を聴いてみたい。こちらとしてもそう思う。
対向配置で弦を思いっきり鳴らす。古色とはいわないがかなり蒼然と物々しい。へヴィー級のベートーヴェンで胃の底に響く演奏、これはこれでいたく感激。しばらく聴いていなかったズシーン系のサウンドが改めて血肉を沸き躍らせる。血管中の血液もフツフツと。
しかしこのような音と言うのは、棒をある程度不明瞭というか細部を振らないというか、大振りと言うか、いや大振りではないが、縦の線に無頓着と言ったディテールではなくフレーズそのものがパートごとずれてしまってもいたしかたがない、頓着しない、そういったことから生まれ出てくるものであるはずもない。まして音楽大学の指揮科教授がすることでもない。
オーケストラ側の問題が大きい。名曲コンサートでやりつくされてしまっている曲なのかもしれないが、気がつくと、原点がどこにあったのかそのような思考を忘れてしまっているただのルーチンワーク、もしくはその延長の演奏。体が揺れない第2ヴァイオリンの表情は対向配置ではよくわかる。ベートーヴェンが伝統になっていない、身についていない、単なるルーチン演奏になっている、そのようなものと、ジークハルトのような棒とはミスマッチと言うか、ジークハルトには理解できないオーケストラパートの動きがあったとしてもいたしかたない。二日三日でかわるような代物でもない。
ジークハルトもベートーヴェンの伝統を日本に移植しにきたという風でもないし、その力もない、いや思うところのそとの出来事なんだろう。
ジークハルトとしてはバーの頭一振りでその小節のオタマジャクシが南京玉すだれのように自律的に弾かれる、奏されるのを期待しているはずだ。
ジークハルトの意思がひとつ明確に感じられるところはある。始終ドツキ鳴りのベートーヴェンではあるか、細切れの音符、スフォルツァンドのスタッカート・オタマジャクシの連続にあって、ポイントはこの音符というのを事前に定めている。その強調、アクセントは明白であり、そこで音楽は合うし、それをすることによって爆進の推進力がより明確になる。やっぱりはずせないところもあるわけだ。
やや平面的ではあるが三角錐のような安定感はコントラバス、チェロの頑張りによるところが大きい。昔のオーケストラのようなモタモタ感はなく、弾きこなしている。ウィンドを含めたアンサンブルにピアニシモが無いのは残念だが、これもオーケストラの限界を知ってのジークハルトの許容範囲とするところなのだろうと思う。巨大なオーケストラサウンドがピアニシモになることもなく最初から最後までごり押しで進んでくる、これはこれで。
脂肪も栄養だ。
全部リピートしたと思うが、構成強固な第5番ではあるが繰り返しの中に全体バランスそして構成感があらためて見えてくる。
第4楽章へのアタッカは、ブリッジのパッセージを前提としているため、その第3楽章そのものが構築物として完成しない。また、第4楽章中間部に明確な第3楽章回帰が入るため、ソナタ形式の揺らぎを感じる。これは第3楽章のホルンの動機が第1楽章第1主題と同じだという話とは異なる。
ベートーヴェンにおいて形式感をどうのこうのいうつもりはない。そんなことを思い浮かべることさえあまりない完璧な構造物なのだが、今日のようにのっぺりやられるとそのようなこともふと思ったりする。
ただし、今日の演奏、コーダまでの運び、突入後の急き込み方など、バランスを保ちながらもエンディングに向かってバイアスをかけていっており劇的でなかなか良かったと思う。
フルトヴェングラーのように破天荒というかエキセントリックというか、あのような極端な演奏は今の時代ありえないが、トスカニーニよりではなくまぎれもなく形容詞としてのフルトヴェングラー的演奏のほうに向かっていたのは確かだ。
ジークハルトはもう少し聴いてみないとわからない。
おわり