オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

京都市交響楽団第604回定期演奏会

2017-01-18 | モダンオケ
2016年8月19日(金)19:00/京都コンサートホール

指揮/沼尻竜典
ピアノ/石井楓子
京都市交響楽団

三善晃「ピアノ協奏曲」
ショスタコーヴィチ「交響曲第四番」op.43


 八月の京響定期は三善晃のピアノ・コンチェルトに、ショスタコーヴィチの四番のシンフォニーと、この酷暑に輪を掛けるような、やや暑苦しい重量級プログラムである。でも、特に三善晃の管弦楽曲を実演で聴く機会は貴重で、やはり聴いて置きたいと考え京都まで赴いた。

 まずはプレ・トークで指揮の沼尻と共に、本日のソリストを務める石井楓子嬢も舞台に現われる。芳紀やや過ぎて正に二十五歳の楓子嬢は、本人は口では緊張している等と宣っていたが、誠に活発なお嬢さんである。楓子嬢はTシャツにジーンズの軽装なのに、沼尻先生は既に燕尾服に着替えている事で、先生にクレームを付ける遣り取りからも、この方の物怖じしない性格を窺える。

 三善晃のコンチェルトは、古典的な急緩急の三部形式を踏襲する、十五分にも満たない短かい曲。一気呵成に進んで爽快感のある曲で、もちろん標題など付かない真っ新の器楽曲だが、そこに僕はレクイエム三部作に通ずる、三善晃の死者への鎮魂の想いを感る。恐らく七十余年前の戦死者への想いは、三善晃の全ての曲に通底しているのだと思う。

 ソリストの楓子嬢はタッチの鋭いピアニストでは無いが、三善晃に打って付けの硬質な音色と、難曲を弾きこなすテクニックの持ち主である。ラヴェル辺りを弾けば合いそうだが、柔らかい表現力もありそうで、何と云っても若い方だしレパートリーを広げる途上にあるのだろう。この秋からバーゼルに留学するそうで、これから大いに研鑽を積んで欲しい。

 後半のショスタコ四番はマーラーの三番と並び、長ったらしいシンフォニーの代表選手として知られる曲で、事実ショスタコはマーラーのスコアを傍らに置き作曲を進めたそうな。編成も矢鱈にデカく、沼尻の言に拠ると本日のオンステは百八名だそうである。若い作曲家が喋れども喋れども語り尽せず、思わず知らず長くなって終った感じの曲だが、こちらは三善とは異なり、標題音楽の気配はアリアリで、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と対になる交響曲と云う印象を受ける。ショスタコは作風に相通ずる処のあるシュトラウスを、目標ともライバルともしていたようで、「ツァラトゥストラはかく語りき」も、参考にした可能性はある(因みにマーラー三番の歌詞にも、ニーチェからの引用がある)。

 一聴した処では前後の長大さに比し、挟まれた二楽章は妙に短く、曲を通し只もう脈絡の無い音型の繰り出されるばかりで、何れの楽章も尻すぼみにピアニシモで終わる、オケにすれば労多くして益少なしの超大曲と云う印象である。弦楽のユニゾンでのフーガでの強奏は凄まじく、盛り上がっては鎮まりを繰り返し、やがて三楽章の金管のファンファーレが鳴ると、おお!この大曲にも遂に終わりが来たか、と感慨も込み上げる。オケも指揮も大熱演だったが、この長大な曲を隅々まで攫うなど不可能に近く、あちこちに練習不足は散見される。そもそも幾ら熱演されても、この曲で感動はしねぇよなぁ…。その辺りはシュトラウスの交響詩と同じと思うし、終演後にブラボーを叫んでいた連中には、おまえら本気か?と小一時間問い詰めたい気分だった。

 チェレスタの点描と共に、ピアニシモで曲を終えてから沼尻が棒を下すまで、十秒間は優にあったように思う。その静寂の間、もしかして沼尻は拍手の起こるの待っているのだろうか?と疑問に感じ、拍手して上げた方が良いのかも等と、僕は考えていた。でも、拍手しなくて良かった。タクトを下ろす前に拍手したら、ネットでボロクソに叩かれる処だった…。まあ、これも劇的に盛り上がる場面はあっても、僕は一向に感動を覚えなかった証左でもあります。

 それとソリストだらけのシンフォニーで、指揮者は一体誰を真っ先に立たせるのだろう?とも思っていると、まずファゴットで続いてトランペット、そしてトロンボーンの順番だった。この選択も分かるような分からないような…。とにかく不可解な曲でありました。
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マスネ「ドン・キホーテ」

2016-08-07 | フランスオペラ
<びわ湖ホール・オペラへの招待>
2016年8月7日(日)14:00/びわ湖中ホール

指揮/園田隆一郎
ギター/山田唯雄
日本センチュリー交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/菅尾友
美術/柴田隆弘
照明/吉本有輝子
衣装/太田雅公
振付/砂連尾理

ドン・キホーテ/松森治
サンチョ・パンサ/五島真澄
ドゥルシネ姫/鈴木望
ペドロ/藤村江李奈
ガルシアス/本田華奈子
ロドリゲス/島影聖人
ジュアン/古屋彰久


 びわ湖ホール声楽アンサンブル出演に拠る、格安提供のオペラ公演で、今夏はマスネの「ドン・キホーテ」と云うか「ドン・キショット」と、これはまた随分とレア物を取り上げる。聞き齧りの知識に拠ると、初演のタイトル・ロールだったシャリアピンへの、作曲家に拠る宛て書きオペラで、強力なバス歌手の存在を前提とした演目である。

 バス歌手を主役とするオペラは当り前だが数少なく、それもムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」や、ボロディンの「イーゴリ公」等、ロシア物に偏っている。イタオペではボイトの「メフィストフェレ」、フランス語ならば「ドン・キショット」が、それぞれ唯一の有名オペラかと思われる。一たびバス歌手として身を立てれば、一生の内に一度は唱いたい役で、ここはお鉢の回って来た若手バスの張り切り振りを、ジックリ拝聴したい処である。

 指揮者がオケピットに現われ前奏を始めると、そのテンポの速い賑やかな音楽に、やや意表を突かれる。僕はマスネのオペラは六年前「マノン」を聴き、そのスタイリッシュな美しい音楽を楽しんだ記憶がある。そこで「ドン・キショット」に付いても、僕は聴く前から流麗な旋律美のある、フランス音楽らしい曲だろうと思い込んでいた訳だ。それが思いの外にリズムを弾ませ進む、如何にもブッファらしい曲想で、これは題材に拠って作風を使い分ける、マスネと云う作曲家の職人気質なのだろうか。

 滅多に上演されないフランス物と云う事で、びわ湖ホールでは仏人女性指揮者を招聘するも、公演まで一ヶ月を切った時点でキャンセルとなり、若手有望株の園田隆一郎が火中の栗を拾う代役を引き受けた。初めて振るオペラを譜読みから始め、何とか本番に間に合わせたようだが、やはりその演奏に準備不足は否めない。三幕や五幕への間奏曲は美しいけれども、フランス音楽らしいエスプリの表現は乏しい印象を受ける。ただ、その辺りの事情はオケも良く心得ていて、四幕のサンチョ・パンサのアリアから幕切れに掛けての盛り上がりは、指揮者の意図を斟酌した協働作業の雰囲気も漂う。

 サンチョ・パンサの五島真澄は美声のバリトンで、ヴェルディやプッチーニなら良いかも知れないが、ブッフォを歌うにはリズムが甘く、コメディ演技も彼なりに頑張っていても、板に付いていないのは観ていて辛い処である。多分、これは稽古で解決するとも思えない、持って産まれた資質の問題も絡む、日本オペラ界の問題点かも知れない。

 タイトル・ロールを務めた松森治は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの卒業生で、やはりドン・キショットを歌えるバスを、現役の二人で揃えるのは端から無理な相談のようだ。それと松森は声量は充分でも、仏語が片仮名なのには興醒めさせられる。今日聴いた処では松森君も上達したなぁと、若い歌手の精進に賛辞を贈るのに吝かでは無いけれども、これを手放しで誉める訳にも行かない。ドゥルシネア姫のメゾは単調な音色で、力むと音程が低目に聴こえる難もある。ソット・ヴォーチェは綺麗なので、デュナーミクの工夫に声の色合いの変化を絡ませれば、多彩な音楽を作れる筈と思う。

 演出を担当した菅尾友は三十代の若手だが、既に国内外で実績を積みつつある、将来有望な成長株のようだ。予算不足の煽りを受けたのか、今日の舞台にセットらしいセットは無く、制約の厳しさを感じさせる。足場と階段を組み合わせた作業用設備を、セットの代わりとするのはびわ湖ホールの常套手段で、これまでに僕も何度も見ている。演出家は故意に舞台機構を顕わにして見せ、メタ演劇的な効果を狙ったと説明していたが、そのような芸術的意図を読み取る事は、少なくとも僕には出来なかった。

 若い演出家は先にコンセプト有りきでは無く、予算制限に対し柔軟に対応し、単純に観客を楽しませようとするエンターテインメント志向が顕著で、制約を逆手に取って自己主張するようなタイプでは無さそうだ。ドン・キホーテが突進する風車も、簡素なセットの中で工夫を凝らし、歌手のコメディ演技も上手に引き出して手堅く、音楽の邪魔をせず安心して観ていられる演出である。その手堅い舞台の中で演出家が最も重視したのは、コンテンポラリーダンスで先鋭的な活動を展開する、砂連尾理と云う興味深い人材に、振付けを任せた事だろう。

 砂連尾はオペラ歌手にダンスを仕込む作業を、「歌手はダンサーと方法は違っても、身体で表現するという共通性があり呑み込みが早い。音が全て体に入っているので、細かいタイミングの指示にも的確に反応して貰える」と説明していて、なるほど若い歌手達の動きは一見すると激しそうだが、見た目程には身体を動かしておらず、一息を付く間合いも充分に設けてある。さすがにプロの振付家には、ダンスの素人に無理な要求を出さずとも、自分の思い描く群舞を作り上げる確かな手腕がある。

 でも、コンテンポラリーダンスを取り入れると云うので、一体どんな鋭った事を試みるのかと、観る前は結構期待していたので、やや肩透かしの感はあった。菅尾友は若いのに似合わず、舞台作りの基本を弁えて、国内でベテランと称される演出家の及ばない技術力がある。只まあ、ここまで手堅い舞台を観せられると、何かしらの発見や閃きも欲しくなる。サンチョ・パンサが切々と訴える場面や、息を引き取るドン・キホーテを悼む幕切れ等、音楽的な感動に加えて演出上の、もう一工夫は欲しい処だ。

 今日は端からタイトル・ロールに過大な期待はしていないし、初めてのオペラを楽しめる演出で観る事も出来た。急場の代役にしては指揮者も頑張ってくれて、取り敢えず満足すべき上演だった。今後のびわ湖ホール声楽アンサンブルのオペラ公演は、全て園田と菅尾のコンビに任せて貰っても、何も不都合は無いように思う。若い二人の更なる精進と活躍に期待したい。

 上掲の写真はロビーでお見掛けした、びわ湖ホール芸術監督の沼尻竜典さんです。ご協力有難うございました。
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ブリテン「夏の夜の夢」op.64

2016-07-31 | 各国オペラ
<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2016/英語&日本語二ヶ国語上演>
2016年7月31日(日)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団

演出・美術・衣装/アントニー・マクドナルド
照明/ヴォルフガング・ゲッベル
振付/ルーシー・バージ

オベロン王/藤木大地
タイタニア女王/森谷真理
ハーミア/クレア・プレスランド
ヘレナ/イーファ・ミスケリー
ライサンダー/ピーター・カーク
ディミトリアス/チャールズ・ライス
機織ボトム/アラン・ユーイング
大工クインス/ジョシュア・ブルーム
修理屋フルート/アンドリュー・ディッキンソン
指物師スナッグ/マシュー・スティフ
鋳掛屋スナウト/フィリップ・シェフィールド
仕立屋スターヴリング/アレクサンダー・ロビン・ベイカー
シーシアス大公/森雅史
ヒポリタ姫/清水華澄
蜘蛛の巣/込山直樹
豆の花/山崎日菜子
芥子の種/末谷有々乃
蛾の羽根/若山桜子
妖精パック/塩谷南


 まず、今回の「真夏の夜の夢」上演に付いて、兵庫芸文オペラとしては久々の、恐らく「メリー・ウィドウ」以来の大きな成果を収めたと評価したい。何と云ってもダブル・キャストのオベロンで、彌勒と藤木のカウンター・テノール起用が大成功。日本のカウンター・テノールのレヴェルの高さを示し得たのは喜ばしく、これが今後の更なる活躍への布石となれば幸いである。

 取り分け本日のオベロンを務めた藤木大地の、高低の音域でムラ無く蕩けるように柔らかい、夢見心地のように美しいファルセットは文句無しに素晴らしかった。藤木の美声のオベロンを聴いていると、もう彌勒のような金属音を発するカウンター・テノールは、聴くのが嫌になる程だ。ただ、やはり藤木の弱点は声量で、さすがに森谷真理とのデュエットには完敗するが、二幕のアリアはピアニシモの絶妙のコントロールで、日本のカウンター・テノール演奏史上に残る、甘美な絶唱だったと思う。何も知らずに聴けば、ソプラノと勘違いするのは必定で、女装みたいな衣装に白塗りメイクも相俟って、男声歌手と気付かない芦屋マダムも多数いたやに思う。

 でも、歌手の中でダントツの出来を示したのは、やはりタイタニアの森谷真理だった。豊かな声量の上にアジリタもあり、ピアニシモで声をコントロールする技術力は抜群。濃い目の音色で深い情感を含む声も、ブリテンのメタリックな音楽に潤いを与え、アラ探しをしても何も見つからない見事な歌い振りだった。二幕の驢馬頭ボトムとのベッド・シーンで見せた、エロティックな程に艶めかしい身のこなしも、誠に眼福である。また、この場面に佐渡の付けるオケの演奏も、ネッチョリと官能的で申し分無かった。

 また、今回のキャストには本当に穴が無かった。遥々イギリスまで赴きオーディションを行った、十人の英国人歌手は実力派揃いで、二組の恋人達も職人六人組も、何れも見事なアンサンブルを聴かせてくれた。恋人達の方はアンサンブル重視のようで、ソロを歌って際立つ人材は居なかったけれども、リリコのハーミアとレジェーロなヘレナで、キチンと声の対称も付いている。三幕で夜明けを迎え、深い森に朝陽の射す情景で歌われる、フーガで半音階転調を繰り返しながら次第に上昇するカルテットを、僕は「夏の夜の夢」最高の聴かせ処と断言したい。四人のアンサンブルの美しさは当然で、そこへ指揮者が曲の終わり際に向けクレシェンドする解釈で、喜びに満ちた素晴らしい場面を作ってくれた。

 職人六人組の中では単独のアリアを歌う二人で、ボトムのユーイングは硬軟を使い分けるバリトン、フルートのディッキンソンはレジェーロなテノールで、それぞれ自分の聴かせ処を心得た歌い振りだった。大公夫妻の森雅史と清水華澄も英語歌唱で、自国語キャストと対等に渡り合い、良いアンサンブルを作っていた。妖精は日本語、人間は英語の使い分けに付いて、また佐渡がヘンな事してると不審の念を抱いたのだが、これには場面転換をクッキリ示し、お話の筋道を分かり易くする効果はあった。

 一つケチを付けるとすればダンサーのパックで、ピラピラ身軽に跳び回れるのは評価するが、野太いダミ声で台詞を喋られるのにゲンナリする。あれを妖精の声と言われても、少なくとも僕は納得しない。そもそもパックは妖精達の頭目な訳で、児童合唱の清澄な声とのマッチングを考えれば、この役には女性ダンサーを使うべきだろう。

 今回のような大掛かりなプロダクションで、カウンター・テノールがオペラの主役を張るのは、恐らく日本初となる記念碑的な快挙だろう。しかし、ネットに漏れ伝わる感想を見ると、専門家も素人も挙って声量不足とか、王様らしい貫禄に欠けるとか言い立てていて、世間様のカウンター・テノールへの無理解に、僕は慄然とさせられた。カウンター・テノールの普及定着への道程は、未だ半ばと痛感させられる今日この頃である。
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ブリテン「夏の夜の夢」op.64

2016-07-30 | 各国オペラ
<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2016/英語&日本語二ヶ国語上演>
2016年7月30日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団

演出・美術・衣装/アントニー・マクドナルド
照明/ヴォルフガング・ゲッベル
振付/ルーシー・バージ

オベロン王/彌勒忠史
タイタニア女王/森谷真理
ハーミア/クレア・プレスランド
ヘレナ/イーファ・ミスケリー
ライサンダー/ピーター・カーク
ディミトリアス/チャールズ・ライス
機織ボトム/アラン・ユーイング
大工クインス/ジョシュア・ブルーム
修理屋フルート/アンドリュー・ディッキンソン
指物師スナッグ/マシュー・スティフ
鋳掛屋スナウト/フィリップ・シェフィールド
仕立屋スターヴリング/アレクサンダー・ロビン・ベイカー
シーシアス大公/森雅史
ヒポリタ姫/清水華澄
蜘蛛の巣/込山直樹
豆の花/山崎日菜子
芥子の種/末谷有々乃
蛾の羽根/若山桜子
妖精パック/塩谷南


 佐渡裕はイタリアで「ピーター・グライムズ」を、日本やフランスで「戦争レクイエム」を演奏し、自らのブリテンへの傾倒を示して来た。彼は西宮北口でも「ピーター・グライムズ」の上演を画策したが、大ヒットした「メリー・ウィドゥ」の翌年、「カルメン」を上演した際に、佐渡ファンの芦屋マダムに「あたくし、最後に人の死ぬオペラは苦手でございますのよ」とか言われたらしい。その場は一応「いや、オペラでは大抵人が死ぬのです」と誤魔化したが、これは世界の大勢また我に利非ずと悟り、「ピーター・グライムズ」の上演を断念したようだ。しかし、それにも関わらず性懲りも無く、今回「真夏の夜の夢」を持って来た一事からも、佐渡のブリテンへの思い入れの深さは推し量れるように思う。

 オケの序奏で上演が始まると、まずは弦楽の情緒纏綿としたポルタメントで、我々聴衆はイングランドの深い森の中、妖精達の住む幽明の世界に誘われる。佐渡の手付きは慎重で、オケも木管陣が大健闘。ピアニシモでチェレスタとシロフォンの澄んだ音を際立たせ、勘所では弦楽もタップリ聴かせる、指揮者の手際は見事だった。

 今回のプロダクションは九年前の「魔笛」で、美術を制作した人の演出である。演出の専門家では無い所為か、鮮烈な閃きとかは感じられないが、手堅くセンスの良い舞台を作る人だ。セットは倒木の転がった森の中の草原に、職人達の集まる小屋と素人芝居を演ずる舞台、それに女王様の寝室の四つで、何れも凝った作りとはお世辞にも云えないが、如何にもなお伽噺風で好感を持てる。この四つのセットに、三つの書き割り背景を組み合わせ、廻り舞台で転換する仕掛けである。

 鬱蒼たる森林と光る三日月の書き割りの前で、児童合唱二十名の披露するお遊戯も可愛らしく、演出家は飽くまでメルヘンチックな舞台作りに徹する。今回の上演の成功に最も貢献した立役者として、僕は児童合唱を筆頭に挙げたい。驢馬頭のボトムに音楽を所望され、おもてなしする場面では鼓笛隊として演奏する等、歌を唱うだけでは無い多芸な処も見せてくれる。成人女声には望めない、フェアリーな雰囲気を横溢させ、達者な歌と演技で客席を魅了した子供達と、彼等を起用した音楽監督に、満腔の感謝の意を込めブラーヴィを送りたい。

 また、それぞれに短くともソロのある、タイタニア付きの小間使いである四名の妖精役を、児童合唱から選抜した子供達に任せたのも大当たりだった。今回の児童合唱団は既存の七団体から、オーディションで選ばれ編成され、オペラを歌い且つ演技出来る人材を揃えている。佐渡芸術監督は幼少の頃、京都市少年合唱団に所属したコーラス経験者で、ブリテンのオペラに於ける児童合唱の重要性を認識している。しかも佐渡は、四人の妖精の中で最も歌う分量の多い、蜘蛛の巣役にボーイ・ソプラノを起用している。

 本来であれば、ブリテンのオペラでは英国古来の伝統に則り、男子のみの少年合唱の起用が望ましいけれども、昨今の児童合唱団の男女比を鑑みるに、これは関西圏では適わぬ夢である。ボーイ・ソプラノとガール・ソプラノ(?)の声質の違いは、誰の耳にも一聴すれば明らかで、今日は一人だけでも少年の声を聴けた事に、僕は大いに満足している。

 歌手ではオベロンのダブル・キャストの片割れ、彌勒忠史に付いて言及して置く。あの大音声の森谷真理に対抗出来る、彌勒はカウンター・テノールとして破格の声量の持ち主で、その金属的な声質もブリテンのメタリックな音楽であれば、然程に違和感も無かった。但し、低音域で度々モロに地声になるのは、如何ように説明されても納得は出来ない。これは明らかな技術不足で、ファルセット歌手としての要件を満たしておらず、カウンター・テノール失格と謗られても仕方の無い、致命的な欠陥だったと思う。

 例えブリテンの現代オペラであっても、十年余の実績を積んだ佐渡芸術監督と兵庫芸文は、これまでと同じお話の絵解きに徹した見た目に美しい舞台作りで、佐渡ファンの芦屋マダム達の興味を逸らさず、全六公演を例年通り満員札止めの盛況の内に終えた。継続は力なりを地で行く好例だが、これには実は小澤征爾とサイトウ・キネンと云う先例がある。一人のカリスマを失った後、果たして顧客を繋ぎ止める事は可能なのか、その時こそ兵庫芸文の鼎の軽重も問われるのだろう。
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大阪フィルハーモニー交響楽団第500回定期演奏会

2016-07-21 | モダンオケ
2016年7月21日(木)19:00/フェスティバルホール

指揮/井上道義
メゾソプラノ/サンドラ・フェランデス
バリトン/ガスパル・コロン
バンドネオン/三浦一馬
大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー合唱団

ルイス・バカロフ「ミサ・タンゴ」
ベートーヴェン「交響曲第三番」op.55


 今日、大フィルの定期公演は目出度く五百回目を迎えるそうで、付かず離れずの一聴衆としても、誠にご同慶の至りである。この節目のプログラムに首席指揮者の井上ミッキーは、ラテンのノリは大阪人に合うとの趣旨から、アルゼンチン出身の作曲家に拠る「ミサ・タンゴ」と、クラシック音楽の王道中の王道で、エロイカ交響曲を組み合わせ取り上げる次第と相成った。
 
 「ミサ・タンゴ」はミサ通常文のスペイン語訳の歌詞で、コーラスが歌い始めると、キリエ・エレイソンは「セニョール・テン・ピエタード」で、僕は思わず仰け反って終う。しかも耶蘇教色を薄める為、「クリステ・エレイソン」は省略される変則スタイルである。アニュス・デイのスペイン語訳は「コルデロ・デ・ディオス」だが、グローリアはグローリアのままでクレドはクレオ、サンクトゥスはサンクトと殆んど同じなのは、却って混乱を呼ぶ。また、作曲家は信仰を異にする人々の参加を願い、長大なイエス・キリストへの信条告白である、クレドの歌詞を大幅に省略したミサ・ブレヴィスとしている。

 バンド・ネオン独奏付きの長い前奏や間奏で、タンゴらしい雰囲気を盛り上げた後、司祭役のバリトンの導唱に続き、ソプラノとコーラスが応唱するスタイルで曲は進む。キリエは大人し目だったが、グローリアやクレドでミッキーは期待に違わず、コーラスの速いパッセージでの「ピエタ・ピエタ・ピエタ」のオノマトペ等、ラテンぽくリズミカルに盛り上げてくれる。「ミサ・タンゴ」はアルゼンチンの民族音楽としての、タンゴをモティーフとするミサ曲だが、決して際物では無く、作曲家の信仰心がストレートに伝わる、真摯な内容のある音楽と感じた。ダンス・ミュージックの外形を纏っていても、それは決して信仰への阻害要因とはならないのである。

 ガスパル・コロンは響きの高いバリトンで、司祭役として軽やかにミサ全曲の牽引役を務める。サンドラ・フェランデスは低音域に力のあるアルトで、リードする司祭に同伴しながら、神への帰依を濃厚に歌い上げる。やはりラテンの情熱を歌い上げるのに、透明清澄な天使の声は不向きで、このミサ曲にはファドやフラメンコを歌う声が相応しいようだ。さすがにソリストの二人はネイティヴ・スピーカーで、美しいスペイン語の発音も耳に心地良い。コーラスも不慣れなスペイン語ながら、ソリストに引っ張られる態で、ミサ曲を盛り上げる重要な役処を務め上げた。

 この曲には真摯な意図のあるのと同時に、井上ミッキー辺りに一寸やってみようかと思わせる、如何にも気の利いた通俗的なセンスの良さもある。指揮者も遣り過ぎず抑え過ぎずで、ラテンの情熱と祈りの心のバランスを取り、曲の真価を引き出していたように思う。

 ミッキーがエロイカ・シンフォニーを、大フィルの記念コンサートに最も相応しいとしたのは、創立名誉指揮者の得意曲だったからが理由のようだ。僕は新卒で就職し、コンサート通いを始めた頃、大フィル定期を度々聴きに出掛けていた。初心者なのでベーシックな処を攻めた訳だが、やがて音楽監督の振るベートーヴェンの退屈さに辟易し、直ぐに爺ちゃんはブルックナーしか聴かないと決めて終った。大フィルで爺ちゃんの振るベートーヴェンは、ルーティン・ワークの極みだったといえよう。

 ミッキーは曲の冒頭から、やや速目のテンポでサクサクと演奏を進める。とは云うものの、二楽章の葬送行進曲辺りの遅い曲想では、テンポに変化を付けてタメを作る工夫もあり、正攻法の音楽作りと云えそうだ。十六型の弦に三管編成なのも、大フィルの伝統を意識しているようで、モダン演奏のベートーヴェンを聴く機会の少ない僕としては、如何にもなオケ定期のエロイカは興味深かった。さすがに今日は指揮者にもオケにも気合が入っていて、白熱の演奏を聴かせて貰った。

 首席指揮者は五百回と云う数字に、イチローの三千本安打のような意味は無い!と、プログラムに寄せたメッセージで言い切っていて、五百回目であっても五百一回目であっても、音楽的に何ら隔たる処は無いと言いたかったようだ。如何にもミッキーらしい言い草だが、エロイカの演奏を終えて述べたスピーチでは、やはり五百回は大したものだ!と持ち上げていた。何よりお客さんが沢山来てくれて有り難いとは、これは至極もっともな言い分だった。
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