オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

ロベルタ・マメリ ソング・コレクション

2016-01-08 | 声楽&室内楽
2015年9月29日(火)19:00/ザ・フェニックスホール

ソプラノ/ロベルタ・マメリ
ギター/つのだたかし

マウロ・ジュリアーニ「1.Abeschied 別れ/3.Abeschied 別れ(六つのリート)op.89/アレグレット」
フェルナンド・ソル「1.Cesa de atormentarme 私を苦しめないで/2.De amor en las prisiones 恋の牢獄に/6.Muchacha y la verguenza 娘と羞恥心/11.Las mujeres y cuerdas 女とギターの弦は(12のセギディーリャ)/Lagrime mie d'affanno 悲しみの涙」
カタルーニャ民謡「鳥の歌」
グラナドス「La maja dolorosa 悲しみのマハ」(昔風のスペイン歌曲集)
武満徹「雪/翼/○と△の歌」
ヴィラ・ロボス「アリア(ブラジル風バッハ第5番)/Melodia Sentimental メロディアス・センチメンタル/Veleiros 帆船(アマゾンの森)」
プーランク「サラバンド」
モンポウ「Damunt de tu nomes les flors 君の上には花だけが」(夢の戦い)
ピアソラ「Ave Maria アヴェ・マリア/Oblivion 忘却 Oblivion /Se potessi ancora もしもう一度」


 ロベルタ・マメリは八年前、ラ・ヴェネクシアーナの一員として初来日し、圧巻の演奏を聴かせた後にソリストとして一本立ちし、オペラリサイタルに出演を重ねているソプラノである。これまでマメリの歌曲レパートリーは、ディンディアやカッチーニ等、初期イタリア・バロックに限られていたが、そこにはコンサートをプロデュースする、つのだたかしがリュート奏者だからと云う、とてもシンプルな理由があったらしい。でも、マメリの来日リサイタルも回を重ねて、そろそろリュート・ソングもネタ切れとなった処で、つのだ長老が自分はギターも弾けると申し出て、今日のラテン音楽プロの採用に至ったらしい。

 コンサートは専ら十九世紀のヴィーンで活動したイタリア人で、「調子の良い鍛冶屋」や「セビリアの理髪師」のギター編曲で知られる、マウロ・ジュリアーニのドイツ・リートで始まる。別にそのような先入観を持って聴いたからでも無く、ごく普通にロマン派っぽい、安物のシューベルトみたいな曲と感じる。それとマメリの歌い口では、ピアニシモの音量が大き過ぎる上に、フォルテの出し方も唐突に聴こえて、何処かで計算違いしているように感じられる。やはりドイツ・リートであれば、もう少し語るように歌って欲しい。

 フェルナンド・ソルもロマン派のスペイン人で、ギター曲「魔笛の主題による変奏曲」で有名な人。ドイツ語に続いてスペイン語だが、ここでピアニシモの音量も小さく、フォルテの使い方も適切となり、漸くエンジンも掛かって来たように感じる。次のグラナドスはピアノ独奏の「スペイン舞曲集」を、アリシア・デ・ラローチャが好んで弾いた作曲家で、何だかギター通俗名曲集みたいな顔触れが続く。ここに至ってマメリもフル・スロットルで、低音を強く出せる音域の広さを生かし、ラテンの血を感じさせる情熱を発散する。

 それと比べるまでも無く、マメリの伴奏を務める合間に「鳥の歌」など弾く、つのだ長老の演奏は相変わらずテンションが低い。まあ、リュート・ソングをジャカジャカ弾くのもヘンな話で、この方の常に淡々とした演奏振りも、これまで楽器の性質上の問題と捉えていたが、ギター曲を弾かせても一向にテンションを揚げる気配は無い。こうなるとこの低体温な演奏が、この人本来の持ち味と理解すべきなのだろう。

 グラナドスに続くのはタケミツで、ギター歌曲の作り手の偏りを実感する。ここで驚かされたのはマメリの日本語の巧さで、鼻濁音もキチンと出来ていて、やはり子音に母音のくっ付くイタリア語には親近性があるのだろうか。ここでもマメリのアルトっぽい低音の使い方は巧みで、「翼」でフォルテを出さずに歌い収めたのも効果的だった。

 こうしてヴィラ・ロボスに辿り着く訳だが、ここまでマメリの声に一切のヴィブラートの掛からないのを、やや物足りなく感じる。やはりロマン派や民族音楽では、ヴィブラートを掛ければ効果的な場合もあり、その辺りに古楽歌手の限界は感じざるを得ない。サラバンドはプーランク唯一のギター・ソロ曲だそうで、ポロポロと爪弾く音でも、如何にもなプーランク節なのが面白い。

 プログラムの最後はピアソラのタンゴ。アヴェ・マリアは歌詞抜きのヴォーカリーズで、母音のみで存分に聴かせる、マメリの声の魅力を堪能する。後の二曲はスペイン語では無くイタリア語訳で歌われたが、叫ぶようなフォルテと囁くようなピアニシモで、これこそ本日の白眉と言える絶唱。持ち前のテンペラメントを、思い切り表出して見事だった。

 今月はロベルタ・マメリの他にも、高橋美千子太田真紀と三人のソプラノをコンサートで聴く機会を得た。スター歌手とは呼び難いし、世間的に名の通った存在とは云えない三人だが、それそれに掛け替えの無い個性を持つソプラノだった。そこには評価の定まった大歌手を聴くのとは違う、純粋に音楽を聴く楽しみがあったように思う。
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春夏秋冬、磐城壽を呑む。

2016-01-01 | 震災関連


 皆様に謹んで新年のお祝いを申し上げます。太平洋を間近に望む浪江町請戸の酒蔵で、東日本大震災の津波に一切を流された上、フクシマ・ダイイチの事故で故郷を追われ、今は雪深い山形県長井市で酒名「磐城壽」を醸す、鈴木酒造店長井蔵を支援(只ひたすら磐城壽を呑み酔っ払う)する記事です。



 自称“磐城壽マニア”の割烹居酒屋「堂島雪花菜」謹製のお節料理と、我が家のお雑煮をアテに、磐城壽・季造りしぼりたて生酒で新年を寿ぎました(実は去年の正月写真の虫干しですけど)。勿論、実店舗にも赴き、磐城壽で呑んだくれました。磐城壽三昧の一年を振り返ります。


      磐城壽・季造りしぼりたて中汲み純米酒


          磐城壽・純米吟醸夢の香


        磐城壽・赤ラベル山廃純米原酒


         これは酒のアテの八寸。


       磐城壽・山廃熟成純米酒アカガネ


        春のお料理で鰆の茶碗蒸し。



 磐城寿・純米吟醸「甦る」は、福島県内から長井市に避難した被災者が、循環型農業を目指し運営する福幸ファームで、回収した一般家庭ゴミで作る堆肥で栽培した「さわのはな」米を使い醸したお酒。原発事故による避難の一番の被害者である子供達の為、「甦る」の売上の一部は避難児童・生徒の支援に使われている。


         初夏のお造り盛り合わせ。



 磐城壽・限定純米酒「空水土」は原発事故以前、広く県内の酒造家に酒造好適米を供給していたが、事故の影響で栽培委託が激減し、存続も危ぶまれる事態に陥った農家の支援の為、福島市松川町水原地区で栽培された山田錦で仕込んだお酒。「本当の空・水・土を取戻し、私達の故郷を震災前より誇れるものにしよう!」と云う願いを込めている。


         秋のお造り盛り合わせ。



 廃業の後を承け鈴木酒造店が引き継いだ、元の東洋酒造の銘柄で、長井市産亀の尾を使い仕込まれたお酒、純米吟醸「鄙の影法師」。右側は磐城壽・純米酒。


これは私の口には入りません。他の客の注文した鮑を盗撮しました。



 やはり旧東洋酒造の銘柄で大吟醸・一生幸福と、磐城壽・山廃純米大吟醸山田錦。磐城壽の方は兵庫県産山田錦を四十五%まで精米し、協会九号酵母で仕込んだ鑑評会出品酒。但し、全く香らないし、そもそも何故に大吟醸で山廃なのか、謎に包まれたお酒。



 昨年十月に行われた日本酒イベントの為、鈴木酒造店長井蔵から来阪された鈴木荘司常務と、堂島雪花菜の大将をツーショットで記念撮影。その節はご協力有難うございました。序でに翌日は堂島雪花菜の十周年のお祝いの会だが、僕は残念ながらオペラ見物で欠席なので、鈴木常務さんの為に明日開栓する筈だった、大将秘蔵の震災前の磐城壽を試飲させて頂く。


           磐城壽・山廃純米生原酒「土耕ん醸」(製造年月22.3)



           磐城壽・中汲み純米酒(製造年月2010/1月)

 酒の味は記憶に基づくし、震災前後に福島と山形で作られた磐城壽の、どちらが旨いとかは軽々に言える問題では無いとの感想を抱く。要するに震災前に請戸の蔵で作られた酒に、郷愁は感じても幻想を抱くのは難しくなった。今現在の磐城壽を有りのままに応援(只ひたすら磐城壽を呑み酔っ払う)する事を、年頭に当たり改めて誓う次第である。
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ベッリーニ「ノルマ」

2015-09-20 | イタリアオペラ
<第24回みつなかオペラ/V.ベッリーニ“ベルカント・オペラ”シリーズ>
2015年9月20日(日)14:00/川西みつなかホール

指揮/牧村邦彦
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
みつなかオペラ合唱団

演出/井原広樹
美術/アントニオ・マストロマッテイ
照明/原中治美
衣裳/村上まさあき

ノルマ/尾崎比佐子
ポリオーネ/藤田卓也
アダルジーザ/木澤佐江子
族長オロヴェーゾ/片桐直樹
乳母クロティルデ/味岡真紀子
副官フラーヴィオ/小林峻


 川西市民オペラの重量企画で、ドニゼッティとベッリーニを三作づつ連続で、計六連発するベルカント・シリーズも、目出度く最終年度を迎えた。結局、僕はその内の半分しか聴けなかったが、多少のデコボコはあるにせよ、概ね良質で内容豊富な上演だった。まずはベッド・タウン・オペラの敢行した、国内では稀有な好企画の完遂を寿ぎたい。

 キャパ四百席余りの小ホールで、ピットにオリジナル編成のオケの入り切らない難点はあったが、その代わりに歌手は声を張り上げる必要も無く、ベルカント・オペラの上演に相応しい環境が整っていた。切り詰められたオケ編成にしても、ハープは舞台脇の狭い空間に、バスドラムはピットの出入り口の奥に配置する等、涙ぐましい様な工夫を凝らし、原曲と聴き紛う豊かな響きを実現していた。これまでのベルカント・シリーズでオケに関し、僕は一切の不満を感じる事は無かった。

 歌手に付いて、今回の公演で事前の期待が最も高かったのは、何と云っても昨年の「清教徒」でアルトゥーロを務め、ハイFを出した藤田卓也と思われる。彼が今回のポリオーネでも、行くとして可成ら去るは無しの超高音を、存分に聴かせてくれるか否かに、興味の焦点は絞られていたと云える。従ってオペラ冒頭で歌われる、「共にヴィーナスの祭壇へ」で、多分ハイCだと思うが出し損なった時点で、もう今日はこれで終ったと、僕は諦め気分に陥った。

 気の毒なポリオーネには、これ一曲しか単独のアリアは無く、名誉挽回のチャンスも無いのである。ベルカント・オペラでのプリモ・テノールの存在価値は、ハイC以上を出せるか否かで測られると、僕は断言して憚らない。そもそも今回の藤田はやや力み過ぎで、これがヴェルディやプッチーニを歌う為、故意に重い声を作り、高音の出なくなったので無ければ幸いである。オロヴェーゾの片桐直樹は声に揺れが目立ち、こちらは加齢に拠る衰えの兆しかも知れない。

 ノルマの尾崎比佐子はヴィブラートの少ない、透明な声質が役にハマっている。コロラトゥーラの技術は堅実だし、多少メリスマの滑る傾きはあるが、アジリタはソコソコ頑張って、アリア「清き女神」ではベテランらしく安定した実力を発揮する。アダルジーザの木澤佐江子も柔らかく暖かい、少女っぽい清純さを自ずと表現出来る声質の上に、デュナーミクの強弱で音楽に変化を与える工夫もある。最初は重かった藤田の声も、木澤とのデュエット「去れ残酷な人よ」では軽くなって来る。主役の三人は総じてヴィブラートのキツくない、ベルカント向きの声で安心して聴けるレヴェルにあった。

 ただ、演出は毎度の事ながら、安心して観ている訳には行かない。歌手やコーラスへの振り付けが皆目意図不明で、ただ単に何か動いていさえすれば、それで良しと考えているとしか思えず、観ていて煩わしいとしか感じないのである。一方、主役三人のみが舞台に残る一幕二場になると、動きはパタリと止まって終う。何もしないとなると、今度は全く動かなくなり、見ていて退屈の極みとなる。ノルマとアダルジーザの間で、意味も無くウロウロするだけのポリオーネを見ていると、次第に怒りすら込み上げて来る。

 しかもこの長丁場の間、薄暮のようなサスライトには何の変化も無い。三人の内の誰かにスポットを当てるとか、何かしら工夫の仕様もあるだろうに等と思いつつ、休憩時間を過ごした後、二幕冒頭から再びノルマとアダルジーザのデュエットが終わるまで、引き続き牢固として照明に何の変化も無かったのには、呆れるのを通り越して力が抜けて終った。

 まあ、演出には目を瞑るとしても、問題は二幕以降のノルマだ。兎に角、大きな良い声で歌おうと意識し過ぎで、音色の変化にも乏しく、言葉の意味も置き去りとなり、音楽の内容を無視して力み出す。力み勝ちだった藤田君の方は、ノルマやアダルジーザとのデュエットやトリオでは肩の力も抜け、上手く女声二人を支えたが、その代わりにタイトル・ロールの張り切り方も目立つのだ。

 こんな小さなホールで、しかもベルカント・オペラであれば、声を出すのに力む必要など全く無い。ところが今日はノルマが大声を張り上げると、観客も興奮し始め、逆に歌う側も煽られる悪循環を起こす。幕切れに向け尾崎が力み返ると、客席は益々ヒート・アップして行く。もっと力を抜いて歌えば、声も伸びやかに響き、より美しいノルマを聴かせられる筈と思うが、一世一代の大舞台に力む歌手を責める気にもならない。どうも今日の客席の盛り上がりは内輪受けクサく、果たして何処まで本気なのかも疑われるのである。

 関西ローカルのオペラ上演で、客席に関係者の詰め掛けるのは毎度の事で、それをとやかく言うのも詮無い話だ。カーテン・コールに移っても、客席の興奮は一向に収まらず、その延々と続く空騒ぎに、僕は鼻白む思いで一足先に失礼した。今日の出来は過去の公演と比べても、可も無く不可も無しと云った処だろう。不発に終わったポリオーネと、伸びやかさを欠いたノルマと、主役二人の出来を考え合わせれば、あのカーテン・コールの盛り上がりには、やはり聊かの違和感を覚えるのだ。
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マーラー「交響曲第三番」

2015-09-17 | モダンオケ
<大阪フィルハーモニー交響楽団第491回定期演奏会>
2015年9月17日(木)19:00/フェスティバルホール

指揮/大植英次
アルト/ナタリー・シュトゥッツマン
大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー合唱団
大阪すみよし少年少女合唱団


 大フィル定期は六月にドヴォルザーク「スターバト・マーテル」を聴き、オケの準備不足の演奏にウンザリさせられた。まあ、大フィルの演奏に当り外れのあるのは毎度の話で、一聴衆としては腹を括って臨むしか無いのである。今日のアルト・ソロは、何故か大植と気の合うらしいナタリー・シュトゥッツマンで、この二人の組み合わせは七年前、やはりマーラーで「亡き子を偲ぶ歌」を聴いたが、この際の大フィルも芳しいとは言い難い状況だった。ただ、今日やる三番は大植の指揮だけでも、この十年で三度目となるし、百分を超える大曲である点に聊かの懸念は残るにせよ、さすがに今回は大丈夫だろうとは思う。

 今日は始まって直ぐに大フィルは充分な稽古を積み、定期公演に臨んでいると分かり、事前の懸念は払拭された。弦楽セクションは美しく歌い上げた、と表現しても然程に言い過ぎでは無く、ホルンとトロンボーンの奮闘振りは殆ど落涙物で、みんな遣れば出来る子達なのは分かったし、これからは今日の演奏レヴェルをデフォルトとして欲しい。とは云うものの、おまえ等ちゃんと練習しないと、また補助金を減らすぞ!とか脅さねば、彼等は常に身を入れて稽古するようにはならない気もする。

 しかし、久し振りにマーラーの三番を聴き、やはり冗長な部分の多いムダに長い曲で、刈り込む余地は大いにありそうとの感想を抱く。事前の懸念と云えば、悪名高い大植英次のマーラー解釈と云うヤツもあったが、これに関しては長丁場を乗り切る為、ねちこい解釈を採ってくれた方が助かると、個人的には考えていた。そもそも最初に聴いた刷り込みで、僕はバーンスタインや若杉弘さんのような、耽溺系のマーラー演奏を好む者である。

 大植の解釈は意外にも至極マトモだったが、そうなると逆に物足りなさを感じるのである。そもそものテンポ設定が速目なので、もっとネチこい表現も無いと、緩徐部でのフォルテシモも生かされない。大植に山場を盛り上げる馬力はあるが、横に流れるだけでデュナーミクの工夫に乏しく、情感を醸す起伏に欠けるのである。マーラーに耽溺しようとする意図は伝わるが、それが表現として顕れ難い憾みは残る。しかし、最初から最後まで恰好を付け、舞台上で自然に振る舞えない大植を見ていると、この人には何か抜き難いコンプレックスでもあるのかと、改めて訝かしく思われた。

 コーラス隊は児童も女声も、全員最初からスタンバイしていたのに対し、出番の四楽章になって姿を見せたシュトゥッツマンは、第一声からお馴染みの柔らかいアルトで聴かせる。勿論、二千七百席の大ホールで百名超のオケを相手に唱う、シュトゥッツマンからリートのように繊細な歌は聴けない。でも、マーラーの多彩なオーケストレーションの中に埋もれない、持ち前の深い美声は管弦楽の中で精彩を放ち、流石の存在感を示していた。児童合唱はソコソコ綺麗だったが、大人の女声合唱にはもう少し透明な音色が望まれる。これは多分、高望みに過ぎるのだろうけれども。

 今日は六楽章の最後、全曲の締め括りで暫しの静寂が保たれ、大植がタクトを下ろすその瞬間まで拍手は起こらなかった。関西のクラヲタの中でも、取り分けタチの悪い大フィル定期会員を、僕はこれまで全く信用していなかった。でも、今回は常連も一見も示し合わせたように、長大な曲の余韻を味わっていたように思う。大フィルを唯一無二の存在のように言う輩も含め、今日は定期会員のヲタ共を、ちょっと見直した事だった。
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シェーンベルク「月に憑かれたピエロ」op.21

2015-09-16 | 声楽&室内楽
2015年9月16日(水)20:00/カフェ・モンタージュ

ソプラノ/太田真紀
フルート/若林かをり
クラリネット/上田希
ヴァイオリン/泉原隆志
ヴィオラ/小峰航一
チェロ/高岡奈美
ピアノ/若林千春


 カフェ・モンタージュは京都御所の南側、住所で云うと夷川柳馬場の四つ辻にある。僕の訪れるのは二度目で、前回も新ヴィーン楽派でヴェーベルンのリートを、八月のサントリー・サマーフェスティバルでのツィンマーマン「レクイエム」にも出演した、ソプラノの森川栄子の演奏で聴いている。サマーフェスティバルではシュトックハウゼン「シュティムンク」も聴いたが、そこで太田真紀の「ピエロ・リュネール」の公演が京都であると思い出し、早速予約しようと思い立った時は、既に満席でキャンセル待ちになっていた。結局、公演前日になって席を確保出来た旨のメールが届き、滑り込みでコンサートを聴ける次第となった。二日公演と云っても四十席の会場で、キャパは百人にも満たないのだから、少し油断すると直ぐに満員御礼になって終うのだ。

 今回の「ピエロ・リュネール」の楽器編成は、シェーンベルクの原指定とは少し異なり、ヴァイオリンと持ち替えのヴィオラに奏者を起用し、指揮者は置かずに演奏する、純然たる室内楽のスタイルを採っている。この編成ではトータルの出演者は七名で同じでも、ヴィオラ奏者はやや手持無沙汰に見え、合わせるのが難しそうな箇所では、手の空いているフルート奏者が指示を出す等、元の指定に意味のある事は分かる。でも、聴いた感想で言えば、やはりこんな小編成の曲は指揮無しでの演奏の方が、個々の奏者の自発性を引き出せると感じる。

 六人の器楽奏者はソリスティックに、大きな音を出して競い合うので、聴く側からするとそれぞれの持ち場を守る、個々の楽器を把握し易い利点もある。「ピエロ・リュネール」は器楽伴奏付き独唱歌曲のように思われ勝ちだが、本来は七名の奏者が対等の立場にある室内楽と、今日の演奏は明確に示したように思う。それでも、さすがにピアノの音は大き過ぎるのでは?と感じても、これは室内楽と思いつつ聴けば、シュプレヒ・シュティンメの声が時にピアノに掻き消されても、それはそれで良いのだと云う気分になる。歌手の声を拾う録音では全て聴こえるが、実演で時々聴こえなくなるのは、最初からそう書いてあるからだと得心する。

 中音域より下での語りから、切り裂くような高音部へと広い音域を駆使する曲と、この辺りも僕のような素人は錯覚し勝ちだが、実は最高音はFisで音域的には低目の曲らしい。「ピエロ・リュネール」での音高とリズムの指定は、シュプレヒ・シュティンメで語る為のドイツ語の抑揚の記譜であって、決して“歌い上げる”ものでは無いのである。シェーンベルク本人も音楽的に重要なのは器楽演奏で、歌手は伴奏に寄り添い語るだけで良いと、そんな意味の言葉を残しているようだ。

 六名の器楽奏者の熱演と、そこに加わる室内楽の一員である事を心得た、太田真紀のドイツ語のディクションの工夫とが相俟って、大きなホールでは味わえない「ピエロ・リュネール」の真価を、今日は聴けたように思う。お経みたいでディヴェルティメント的な「シュティムンク」と、ホラー映画音楽の元祖とも云うべき、飽くまでシリアスな「ピエロ・リュネール」は、それぞれ異次元にある曲だった。全く性質の異なる難曲を、間を置かず歌い切った、太田真紀の努力と熱意に敬服である。

 上掲の写真は終演後の会場で撮影をお願いした太田真紀さんです。もっとキレイな写真なら良かったのですが、薄暗い中でピンボケになって終い、やはりフラッシュを使わなかったのが失敗でした。申し訳無いです。
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