オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

モンテヴェルディ「ポッペアの戴冠」

2017-03-17 | バロックオペラ
<あいちトリエンナーレ2016舞台芸術公募プログラム>
2016年9月24日(土)14:00/名古屋市芸術創造センター

演出/池山奈都子
照明/曽我裕幸
衣装/下斗米大輔

東海バロックプロジェクト
ヴァイオリン/荻野美和/廣田雅史
チェロ/高橋弘治
ガンバ&リローネ/宇田川貞夫
テオルボ&バロックギター/佐藤亜紀子
リコーダー/小谷智子/片岡博明
チェンバロ/杉浦道子
チェンバロ&オルガン/鈴木美香

ポッペーア/加藤佳代子
ネローネ/小林木綿
オットーネ/彌勒忠史
オッターヴィア/志田理早
セネカ/森田学
乳母アルナルタ/丹羽幸子
侍女ドゥルシッラ/本田美香
小姓ヴァレット/長谷川菊
侍女ダミジェッラ/石原由佳子
愛の神アモーレ/原田幸子
兵士/片山博貴
兵士&警吏リットーレ/蔦谷明夫


 東海バロックプロジェクトは名古屋近辺の古楽器奏者が集まり、専ら室内楽のコンサートを自主公演している団体らしい。音楽監督的な存在は置かず、大編成の曲に取り組む際には、その都度他所からリーダー格を呼ぶようで、今回はガンバ奏者の宇田川貞夫をアドヴァイザーとして招聘している。因みに「ポッペーアの戴冠」は、今日が名古屋初演だそうである。

 器楽と声楽でほぼ半々づつ、二十名余りでの上演だが前に立つ指揮者は居らず、コンミスの合図で演奏は始まる。前奏の後、まずはプロローグで愛の神アモーレ、つまりキューピッドの登場だが、暫く待っても運命の神と美徳の神は出て来ない。はて?と首を傾げ配役表を見ると、三人で掛け合いする筈の神様は、アモーレの原田幸子しかクレジットされていない。全く開けてビックリだが、今日は昼夜二回公演で時間短縮の為の大幅カットも、当然と言えば当然だった。まあ、そんな実際的な事情は分かるにせよ、セネカがネローネに死を命ぜられる場面を、完全に素っ飛ばしたのには仰天したし、オッターヴィアのアリア「さらばローマ」の後、直ちに愛のデュエット「ずっと貴方を見つめ」に移り、そのまま幕切れとなったのには、呆れるよりも笑って終った。

 それはさて置いて話を戻すと、アモーレの原田幸子は軽やかなレジェーロで聴かせ、まずは快調な滑り出しである。しかし、続いてネローネを警護する兵士は、若い二人の歌と演技が未熟で、又もや気を削がれて終う。脇役に若手を使うのは日本オペラ界の悪しき慣習で、小さな役にベテランを配してこそ、上演全体のレヴェルも高まるのだ。

 本日出演の歌手の中で唯一、名を知られた存在であるオットーネの彌勒忠史は、さすがの声量で他を圧倒するが、モンテヴェルディらしい曲想の切り替えが出来ない。一幕のアリア「やはりここに帰って来た」で、疲労困憊でローマに帰着した安堵感から嫉妬へ、喜びから躊躇いへと、一瞬の内に転換する劇的な効果が測られていないのである。ただ、これは彌勒独りの責任では無く、オケの演奏も曲想の転換は上手く行っていない。もっとテンポをハッキリ切り替え、明暗をクッキリ際立たせないと、モンテヴェルディを特徴付ける劇的な彫りの深さは失われて終う。

 今日、歌手の中で傑出していると感じたのは、ネローネの小林木綿だった。スピントしてから柔らかく歌って、音色を多彩に変化させ、ネローネの激情を表現して見事だった。だが、その相方を務めるポッペーアのソプラノはパッとせず、上演全体の印象まで悪くしている。スルスルと横に流れるだけで、聴かせ処を把握しておらず、音色の変化も無いので明暗の対照は付かない。技術的に中音域以下で声に芯が感じられず、表現力そのものを失くして終う。

 これに対し、オッターヴィアの志田理早は声に力のあるメゾで、スピントしてから音量をメゾピアノまで落とす、バロック唱法を心得ているし、ドゥルシッラの本田美香も自分の役処を弁えた歌い振りだった。バロック唱法では基本的に力を入れてから抜くフレージングで、その際にクレシェンドするのかディミヌエンドなのか、或いはリタルダンドするのかアチェルランドなのか、臨機応変に個人で判断せねばならない。その辺りの理解を欠く歌手の場合、起伏は無く彫りの浅い、表現力を欠いた歌になって終う。今日の歌手で云うと、アルナルタはテノールの音域の役をメゾに歌わせ、サッパリ声を出せずに平板で、ヴァレットは声自体はスープレッド系で面白かったが、やはり平板な歌い振りに終始した。セネカはそもそも声量不足で、メリハリが付かなかった。

 この公演の為、掻き集められた歌手達には経験豊富な者も居れば、バッハ以前の音楽の様式感を根本的に欠く者も居て、モンテヴェルディへの理解度に激しくデコボコがある。様式感を欠いた浅い解釈で、訳も分からず上っ面の歌を唱っている連中は、然るべき専門家がビシバシ指導すべきで、今回その役割は顧問格の宇田川貞夫が担うべきだった。だが、アドヴァイザー等と云う、ユルイ肩書で参加している時点で宇田川に、そのような責任を負う意志の無いのは明白だ。今回の上演全体の責任を引き受ける、ディレクターを明示しない時点で、上演の成功が覚束ないのは分かり切った話だ。

 演出も「こんなもの本当に必要か?」と言いたくなるレヴェルだった。ホリゾントの映像も、舞台上に置いたライトだけの照明もショボく、何れも場面毎の雰囲気を伝える効果は無い。歌手は手を胸に当てたり、前へ差し伸べたりするだけで、動作に何の意味付けも無く、もう少し内容に絡めた動きを考えて欲しい。女声で脇役の四名は、何れも黒のドレスに色違いのショールを掛け、舞台に出て来た段階では誰が誰だか良く分からない。恐らく演出家は、舞台上の交通整理すらままならない程、モンテヴェルディの音楽に無理解なのだと思われる。

 無い方がマシな演出に、抜粋上演と云うべきダイジェスト版で、かなり残念な「ポッペーアの戴冠」だった。今後は舞台作りに掛ける手間と費用を、全て音楽的な練磨に充当し、演奏会形式全曲上演を目指して欲しい。取り敢えずは充全なオペラ上演の為、モンテヴェルディとルネサンス・バロック音楽に精通した、適任の指揮者を探す事からお勧めしたい。
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多治見少年少女合唱団第43回定期演奏会

2016-09-23 | 児童合唱
<世界の人たちに聞いてほしい日本の歌>
2016年9月23日(金)18:30/可児市文化創造センターala

指揮/柘植洋子
ピアノ/小坂圭太
筝/市原みわ
多治見少年少女合唱団とシニアコア

三善晃「朧月夜/茶摘/紅葉/雪/夕焼小焼(唱歌の四季)/阿波踊り」
池辺晋一郎「ポロ・ヘチリ」(東洋民謡集 I )
柴田南雄「さくら/北越戯譜」
間宮芳生「しゅけまっけ/ゆりは」(うたのわたりどりたち)
林光「はるよこい/さつきばれ/うしかい・おりひめ・たなばた」(はるなつあきふゆ)


 地元の公共ホールは改装中だそうで、多治見少年少女合唱団の今年の定演は、お隣りの可児市文化創造センター、通称アーラで行われる。アーラは館長を務める演劇評論家の衛紀生が、独創的な劇場経営に取り組んでいる、全国的に著名な市民ホールである。可児にせよ多治見にせよ、岐阜の片田舎から全国に劇場文化を発信する、その意気や壮と言うべきだろう。

 来年、多治見少年少女合唱団はバルセロナで行われる、世界合唱シンポジウムに招待されたそうで、その準備として今日のコンサートは、当代一流の作曲家のアレンジに拠る、日本の伝統的な歌を集め行われる。最初は十代と思しき少年達が男声部を務める、混声三部の三善晃「唱歌の四季」から五曲。指揮者は随分と大きな身振りで、広いダイナミク・レンジを使い、フォルテからピアノへバロック風にクッキリと音量を落とす。明暗をハッキリさせ、単純に白か黒かに割り切る音楽作りで、専ら曲の並べ方で変化を付ける演奏である。「雪」では縦をピタリと揃え、スタッカート気味のリズムの立て方で面白い効果を揚げる。一転して「夕焼小焼」はシットリと、でも終盤に向けヒタヒタと盛り上げ、最後は確りとハイCを出し切り、しかもディミヌェントで締め括って見せて、声に力のある処を聴かせる。

 その声の力は、次の「東洋民謡集」冒頭の鮮やかな、僕は少し驚かされた程のフォルテシモでも誇示される。年若い十名足らずの男声が二部に分かれ、難易度の高い混声曲を歌い切り、その技術力に感心させられる。この曲でも指揮者の輪郭のハッキリした、明快な演奏振りは変わらない。

 暫時休憩の後、三番まで歌詞のある「さくら」では、ウットリする程に美しいハーモニーで聴かせる。前半はカチャカチャした曲が多く、一転して雅びな古謡をシットリと美しく歌い上げ、その音楽性の幅広さにも驚かされる。間宮芳生の二曲では、お約束通り地声も交え、民謡らしく且つ美しく聴かせる。フォルテの力強さでは無く、ピアニシモのロング・トーンを保つ技術力こそ、彼等の演奏の魅力の大元なのだろう。児童合唱団を名乗りながら、多治見では大人の女声が声に力強さを与え、そこへ子供の声を混ぜた独特な魅力で聴かせる。

 林光の三曲は民謡では無くソングで、ここはデュナーミクに工夫を凝らし、子供らしい情感を醸す。三善晃「阿波踊り」では一転し、鳴り物を入れ手拍子や振付けも交え、賑やかに楽しく演奏する。自分の引き出しから次々に、曲に見合う音楽性を取り出して来る、指揮者の才能の幅広さにも感心させられる。

 最後は本日のメイン・プロ、柴田南雄のシアター・ピースで「北越戯譜」。曲は子供達がわらべ唄を唱いながら一人、また一人と舞台袖から出て来て始まる。ユニゾンで唱われるわらべ唄は次第にヴォリュームを増し、やがて全員が舞台上に揃うと、会場中に音像を広げ美しく響き渡る。子供達が手毬を突きながら唱うユニゾンのわらべ唄は、何時しか対位法的に複雑になり、再びユニゾンへ戻るのに連れて、お砂味や羽根突きに遊びを切り替える子供も出て来る。音楽とお遊戯の移行は指揮者のアドリヴで決まるようだが、「追分節考」で団扇を掲げるような派手なパフォーマンスは無いので、指揮者は飽くまで黒子に徹しているように見える。どうやら移行のタイミングは、この曲を面白く聴かせる勘所になっていて、歌声の美しさもその効果を際立たせていると感じる。

 唐突に曲を遮るように、男の子が舞台奥に置かれた和太鼓を叩き出すと、わらべ唄は盆踊りに切り替わり、何人かは舞台から客席に降り立ち、みんなで新潟県魚沼地方の「大の阪」を踊り出す。やがて盆踊り唄も最高潮に達した処で、音楽は再びわらべ唄に戻り、パフォーマンスも二人一組での紙風船の突き合いとなる。曲の始まりと同じように、子供達は紙風船を突きながら一人また一人と袖へ戻り、曲を終える。

 「北越戯譜」では合唱団のメンバーに幼児を抱えた女性も居て、僕は泣き出すのではないかと思って見ていたが、結局この子は最後まで大人しくしていた。恐らく泣き出したら泣き出したで、それもパフォーマンスに取り込もうと、指揮者は事前に胸算用していたのだろう。この辺りの図太い根性は買えるが、ピアノの小坂を舞台袖へ先に帰したり、子供と握手して回るステージ・マナーは感心しない。特に握手は田中信昭の真似で、全く板に付いていないので、お止めになるのが宜しいかと思う。

 でも、今日は多治見少年少女合唱団の美しい歌声をタップリ聴けて、まずは満足である。まあ、ジュニアコーラスなのに、オバサンが沢山居るのには首を傾げるが、それで彼等の魅力を減殺しているとも言い切れない。失礼ながら多治見のような片田舎で、現代音楽をハイレヴェルな演奏で披露する、いたいけない地元の子供達に脱帽である。
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モーツァルト「魔笛」K.620

2016-09-19 | モーツァルト
<あいちトリエンナーレ2016プロデュースオペラ>
2016年9月19日(月)15:00/愛知県芸術劇場

指揮/ガエタノ・デスピノーサ
名古屋フィルハーモニー交響楽団
愛知県芸術劇場合唱団

演出・美術・照明・衣裳・振付/勅使川原三郎
ナレーター&ダンサー/佐東利穂子
東京バレエ団

タミーノ/鈴木准
パミーナ/森谷真理
夜の女王/髙橋維
ザラストロ/妻屋秀和
パパゲーノ/宮本益光
パパゲーナ/醍醐園佳
モノスタトス/青栁素晴
弁者&僧侶/小森輝彦
僧侶/高田正人
武士/渡邉公威/小田桐貴樹
侍女/北原瑠美/磯地美樹/丸山奈津美
童子/井口侑奏/森季子/安藤千尋


 三年に一度のトリエンナーレで、今年の愛知県芸制作のオペラは、勅使川原三郎演出の「魔笛」である。僕は前回「蝶々夫人」は見逃したが、六年前の「ホフマン物語」は観る事が出来て、その力の籠った公演に甚く感銘を受けた。今回も充実した公演になるものと、大いに期待しつつ名古屋まで出掛けたが、結論から言えばその期待は大きく外されて終った。

 今回の上演でセットらしきものは、天井からブラ下がるメタリックなリングのみで、舞台上には何も置かれていない。メタルリングは高さや向きを変えながら、照明を当てピカピカ光らせ、その下の空っぽの舞台上では、ダンサーが歌手を囲み群舞やソロで踊る。具象的なセットは無い上に、歌手も最小限の身振りだけで、殆んど演技はしない。

 演出家は「今までのオペラ演出をゼロから見直す。歌があるのに何故芝居をするのか、演技しなくとも歌で内面は表現出来る」として、「僕は“抽象的である”のが大事だと思う。ドイツ語の台詞で演技するのを止め、内容を分かり易いようにガイドとして、日本語のナレーションを入れる。抽象化した表現が一番適切だと思う」と述べ、「演劇的な空間では無く、音楽を主体にした身体表現の場所になる。そしてこれもオペラだと思っています」と言い切っている。また、「演劇的な部分で日本人がドイツ語で喋って、日本人が観るというのは、僕にとっては奇妙な感じがした」とも言っているが、これは「フィガロの結婚」を演出した、野田秀樹もほぼ同じような趣旨を述べている。

 だが、実際に観た舞台は、これをオペラ全曲上演と呼べるのかと、根本的な疑問すら生ずる出来映えだった。歌を聴きつつテンションを揚げても、平坦なナレーションの声が入ると、こちらの高揚する気分に水を差すのである。結局、音楽と語りは平行線のまま、盛り上がりと落ち込みの繰り返す内に終わった印象だ。歌手が台詞を喋り、演技してこそモーツァルトの音楽も生かされる訳で、これをナレーションでブツ切りにされると、単なる「魔笛」抜粋名曲集か、ガラ・コンサートの類としか思えないのである。斬新な演出と喧伝されていたが、予算不足のようなスカスカの舞台で、オペラ上演とも呼べないシロモノを見せられた気分だ。

 モーツァルトは音楽と台詞を一体として、歌芝居としてのジンクシュピールを作曲した。その事実を今回の「魔笛」は、逆説的に証明したように思う。歌だけを唱い、台詞を喋らないパパゲーノに何の魅力も無い事も、目から鱗の発見だった。大蛇を倒したと付いた嘘がバレて口枷を嵌められ、試練を受ける間にタミーノへチョッカイを出し、初めて出逢ったパパゲーノと漫才する等、歌手がコメディ演技で美味しい処を浚う場面を、全てキレイさっぱりカットされたのでは、パパゲーノに感情移入する事はほぼ不可能になる。宮本益光のパパゲーノに、その場限りのオペラ上演に生きる存在感は無く、ただ上手に唱える歌手として、舞台に立っているだけだった。

 演出家は色々と御託を並べているが、長い講釈は自信の無さの表れで、実際に舞台の仕上がりを見た後、これは失敗だと内心ホゾを噛んだのでは?と、僕は想像を逞しくしている。ナレーションの入る度にテンションを下げる、この舞台が音楽を盛り上げる機能を果たしていないのは、誰の目にも明らかだろう。演技せずとも歌で内面を表現出来ると云う主張は、総合芸術としてのオペラの全面否定だろう。旋律とハーモニーに言葉を載せた時点で、音楽から幾許かの抽象性は失われ、歌詞を伴った「歌」は、台詞付きの「物語」に沿って展開する。歌手の台詞をカットし、「物語」を取り除いた「魔笛」が、オペラ上演として成立しない所以である。

 タミーノとパミーナは今風の軽装で、夜の女王とダーメの三人は黒い鳥の、パパゲーノとパパゲーナは白い鳥をイメージした衣装を着けていて、この辺りは一般的なデザインだろう。これに対し、ザラストロとモノスタトスは滑るように移動する異形で、僧侶はチェスの駒でビショップ、クナーベの三人は白く丸っこい着ぐるみである。特にクナーベはチョコチョコと歩き回り、客席の笑いを誘っていたが、これはそんなものでも出さない事には、観客の興味を繋ぎ留められないからでは?と、僕は邪推する。

 主役級を東京二期会で固めたキャストは、ほぼ額面通りの出来だった。タミーノは既に鈴木准の当り役になっていて、レジェーロな声質はそのままで声の力も増し、安定感のある歌い振り。ザラストロの妻屋秀和と、パパゲーノの宮本益光の二人のベテランに付いては、最早言わずもがなだろう。宮本亜門版「魔笛」で夜の女王だった森谷真理は、今回パミーナに配置転換された。森谷は重目のリリコで、役に合う声なのか意見の分かれる処だろうが、これは肝っ玉母さん風と考えれば良いのだろう。ただ、夜の女王の髙橋維のレジェーロな声質自体は悪くないが、如何にもひ弱で難曲に力負けして、こちらは明らかなミス・キャストだろう。

 単純な話、潤沢な予算を使えるのなら、こんな空っぽの舞台は有り得ないと思う。恐らく抽象的な舞台作りは、予算不足を逆手に取ろうとした演出家の苦肉の策だろう。「ホフマン物語」と「蝶々夫人」で、華々しい成功を収めたトリエンナーレだが、どうやら愛知県の行政は、オペラ上演に対する熱意を失っているように思われる。
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ワーグナー「ラインの黄金」

2016-09-11 | ヴァーグナー
<コンサートオペラ/プレミエ即千秋楽>
2016年9月11日(日)16:00/愛知県芸術劇場コンサートホール

指揮/三澤洋史
愛知祝祭管弦楽団

演出/佐藤美晴
美術/松村あや
照明/杉浦清数
衣装/塚本行子

ヴォータン/青山貴
アルベリヒ/大森いちえい
ローゲ/升島唯博
ミーメ/神田豊壽
ファゾルト/長谷川顕
ファフナー/松下雅人
フリッカ/相可佐代子
フライア/金原聡子
ドンナー/滝沢博
フロー/大久保亮
エルダ/三輪陽子
ラインの乙女/大須賀園枝/船越亜弥/加藤愛


 餡かけスパと海老ふりゃードッグの街、名古屋のアマチュア・オーケストラが、四年越しでリング・チクルスに取り組む。世界的に例を見ない壮挙との説もある、愛知祝祭管弦楽団に拠る歴史的な挑戦である。このオケを僕は六年前、「トリスタンとイゾルデ」の抜粋上演で聴いているが、その際にも指揮者を務めた三澤洋史に、僕は余り良い印象を持たなかった。今日にしても、一体どのような演奏になるのか、半信半疑で訪れたと云うのが正直な処だ。ただ、ホールに入って舞台を見渡せば、そこには六台のハープと十挺のコントラバスが鎮座していて、こりゃこいつら本気だなと思う。

 実際に演奏が始まると、冒頭のホルンの揺れる音程に不安を覚えるが、その後は持ち直した演奏に、ジックリと耳を傾ける。だが、やはり三澤の指揮に、僕は納得し難いものを感じる。盛り上げるべき場面で盛り上がらず、強調すべきフレーズを素通りし、聴いていて歯痒い思いをさせられる。考えてみれば、この人にバイロイトでの長い経験はあっても、オーケストラとは無縁なので、リングでは合唱のある「神々の黄昏」にしか関わってはいない筈だ。勿論、アマオケの場合、多忙な有名人を呼ぶより、親身に付き合ってくれる指揮者を選ぶ方が、良い結果を出す可能性は高そうだけれども。

 アマオケ相手に言っても詮無い事だが、弦楽パート内部の音程がバラけて倍音も鳴らず、ヴァーグナーらしい重厚な響きは出て来ない。また、オケのメンバーはヴァーグナーを演奏する際の、コツのようなものを掴んでおらず、旋律は横に流れて行くだけで、振幅の広いウネるような音楽にならないのである。指揮者のオケドライブにも不審な点は多く、アマチュアらしい熱演にも空回りの印象しか残らない。

 歌手には専門家を揃え、隙のない無い布陣を敷いていたと思う。中でもヴォータンの青山貴は、やはり声量と声そのものの輝きの両面に傑出していて、他とのバランスを失すると感じる程に、立派な歌い振りだった。今回のキャストはそれぞれに適役を集めて、良いアンサンブルを作っていたと思う。取り分けアルベリヒにローゲとミーメの三人組は、それぞれの役柄にピッタリの声質とキャラの立ち具合で、今日の上演の良質の部分を担ったと思う。ただ、みんな声量に乏しいようで、偏差値は高くとも平均点は低かったかも知れない。終盤のワン・シーンに登場し、ひとくさり唱うだけのエルダで、三輪陽子も抜群の声の存在感を示した。それが彼女の声の力に拠るのか、或いは計算されたお膳立あっての事なのか、僕に判断は付かなかったけれども。

 逆に残念だったのはファゾルトの長谷川顕で、あれ?何だか全然声出てないじゃんと、僕は聴いている間ずっと首を捻っていた。これが一時の不調に過ぎず、経年劣化に拠る衰えでなければ幸いである。隣りで唱うファフナーもイマイチで、巨人兄弟の声は何れも迫力を欠き、ファゾルト殺しの陰惨な場面の、インパクトまで削いで終ったのは残念至極だった。その他のキャストに多少のデコボコはあるものの、アンサンブルとしては何の不満も無かった。クラシック業界に伝手を持たないアマオケの主催公演で、これを誰の功績かと考えれば、恐らく新国立劇場合唱団指揮者の手柄に帰すのだろう。さすがに声の専門家のセンスの良さと、これだけはを誉めて置きたい。

 だが、今日つくづく思い知らされたのは、幾ら歌手が上手な歌を唱っても、満足すべきヴァーグナー演奏にはならない事だ。オケは決して歌手の伴奏では無いし、最も雄弁にヴァーグナーの音楽を語るのは、恐らく歌手では無くオケだろう。今日、表現力に乏しいオケに乗っかり、唱う歌手達の声を聴いて思うのは、この演奏を歌抜きで聴けるだろうか?云う事である。僕はピアノ伴奏のヴァーグナー上演等、全く聴きたいとも思わないが、歌無しのオーケストラ・コンサートであれば、ちょっと興味を唆られるのである。
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モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」K.527

2016-09-06 | モーツァルト
<いずみホール・オペラ2016/プレミエ即千秋楽>
2016年9月3日(土)14:00/いずみホール

指揮&チェンバロ/河原忠之
チェロ/上塚憲一
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

演出/粟國淳
照明/原中治美

ドン・ジョヴァンニ/黒田博
レポレッロ/西尾岳史
ドンナ・アンナ/石橋栄実
ドンナ・エルヴィーラ/澤畑恵美
ドン・オッターヴィオ/清水徹太郎
ツェルリーナ/老田裕子
マゼット/東平聞
騎士長/ジョン・ハオ


 九月は演奏会シーズンの開幕だが、先月はオペラ一本にオケ定期を二つ聴き、額面通りの高揚感は一向に湧かない。そう云えば今年の夏は、遠出の旅行もせずに終わりそうだし、秋風の立つ頃には何処かへ泊まり掛けで、オペラなど観て回りたいと思う。

 今年のいずみホール特集企画はシューベルトだが、それとは関係無く、年に一度のホール・オペラはモーツァルトで、三年前の「イドメネオ」に始まり、一昨年の「フィガロの結婚」、そして去年の「魔笛」と上演を重ね、今年は「ドン・ジョヴァンニ」を取り上げる。いずみホール・オペラの魅力は、何と云っても東西の所属団体を問わず集めた、豪華キャストの筈だが、コレペティ上がりの指揮者さんの場合、歌手の選択に情実を絡ませ、必ずしもベストの布陣を敷かないのではと、僕は以前から疑念を抱いている。

 河原は指揮のド素人なのに、今日見た処でも指揮法を学習する気配は微塵も無い。打点はバラバラな上に、左右の手は同じ動きをする等、基本を知らない指揮だが、それよりも問題はオケとコミュニケーションを取ろうとせず、完全に自分の世界に浸り切っている点にある。つまり一聴衆として客席から窺う限りでは、指揮にオケが反応し、音楽を変化させているように見えないのだ。オケの方で河原の能力を見切っていて、度々後追いになる指揮を無視し、着々と演奏を進める、そんな風にしか見えないのだ。この人の拍節の示し方は生硬で、音楽を堰き止めているので、もし指揮に忠実に演奏すれば、レガートに流れるモーツァルトにはならない筈だ。

 二幕のフィナーレで、指揮者は唐突に四拍振りを二拍に切り替え、テンポはガクンと速くなる。それはアチェルラントとは呼ばず、「走り出した」と云うのだと、僕は思わず突っ込んで終う。彼の指揮は素人に有り勝ちな自己陶酔型で、見苦しく目障りですらある。ずっとチェンバロだけ弾いていれば、後はオケが宜しく遣ってくれるし、ボロを出す事も無いのにと思う。これからでも遅くは無い、河原君には地道に指揮法を習得するようお勧めしたいが、彼には長いコレペティの経験がある為、変なプライドを捨て切れないのだろう。

 また、オケは指揮抜きであっても、フォルテを盛り上げるのは容易だが、自分達だけで音量をピアニシモまで下げるのは難しい。それこそ指揮者の役割だが、河原にはそのような指示を出す素振りも無い。例えば一幕のデュエット「お手をどうぞ」や、アリア「打ってよマゼット」等、ピアニシモ主導の曲でもオケの音量は小さくならず、歌手の声はマトモに聴こえて来ない。ここで黒田や老田が、オケに負けじと声を張り上げれば、全ては打ち壊しになる。歌と伴奏の音量のバランスを取る事も出来ないのでは、オペラ指揮者失格と謗られても仕方無いだろう。

 ツェルリーナの老田裕子は、指揮者に足を引っ張られ気の毒だったが、二幕の「薬屋の歌」では柔らかい声で、甘いモーツァルトを聴かせてくれる。去年のロッシーニでは重目に感じられた声も、モーツァルトではレジェーロに響き、この方はベルカントでも抽象的な音楽とは相性が悪いと感じる。ドンナ・アンナの石橋栄実もレジェーロな声質だが、こちらはパセティックな役柄を、フィジカルの強さと直向きな歌で押し通す。石橋は蚊細いコロラトゥーラのイメージから程遠い、ソプラノ・レジェーロにしては破格の声量の持ち主で、常に力任せに成り勝ちな人である。この方の一本調子な歌は毎度の事で、細かい表現の襞とかは端から期待していない。

 ドンナ・エルヴィーラの澤畑恵美はメゾでもスピントでも無い、標準的なソプラノ・リリコと思っていたが、今日聴いた処ではパセティックな情動を表現出来るので、元カレを追い駈け回すストーカーみたいな役柄にハマったと思う。今回の三人の女声主役に付いて、僕は実際に聴くまで懸念と云うか、その配役に不審を感じていた。やや重目の老田にツェルリーナは相応しいのか、典型的なレジェーロの石橋の方が適役だろうし、リリコの澤畑もドンナ・アンナで良いのでは?等と考えていた。聴き終えた後の感想として、老田と澤畑はそれなりに適役だったが、やはり石橋にツェルリーナを唱わせれば、もっと肩の力を抜いた歌になっただろうと思う。こう言ってはアレだが、この方にはノー天気な役柄がフィットするのだ。

 僕は黒田博のタイトル・ロールを、以前びわ湖ホールの上演で聴いている。彼は役柄を完全に手の内に入れていて、持ち前の美声を強力な武器に、闊達な歌い振りで聴かせてくれる。レガートに歌いながらも、フレーズの終わり際をキッチリと切り上げる、端正なフレージングも聴いていて心地良い。これはモーツァルトの様式観に関わる問題で、出来ていて当然だが言うは易しで、この基本を素っ飛ばす歌手は幾らでも居るのである。

 この点はドン・オッターヴィオの清水徹太郎も良く心得ていて、清潔なフレージングを作っている上に、デュナーミクの抑揚と音色の変化を結び付け、委曲を尽くしたモーツァルトを歌ってくれる。今日は二幕のアリアに加えて、ウィーン上演版で追加された一幕のアリアも唱われ、清水君のレジェーロな美声をタップリ聴けて、まずは満足である。今日は二幕のエルヴィーラのアリアも唱われたので、地獄落ちの前に長いアリアを三曲も立て続けに聴かされ、いよいよお腹一杯だった。

 騎士長のジョン・ハオは額面通り、声に力のある処を聴かせ自分の職責を果たしたが、マゼットの東平聞は低音のサッパリ出ないバスで、平べったい嗄れ声で力むだけなのが鬱陶しい。レポレッロの西尾岳史も微妙で、演技はソコソコだし声量にも不満は無いが、声の個性と云うか魅力に乏しく、聴いていて面白くないのでは致し方も無い。

 演出に付いて平凡でも安心して観ていられると取るか、或いは独自の解釈も何も無い、退屈極まる舞台と見るかで意見の分かれる処だろうが、それよりも僕が問題にしたいのは、ルーティン・ワークに陥った演技て、細かい仕草や動きを歌手に丸投げしているように見える点にある。一体に日本のオペラ歌手には様式化された身振りがあり、演出家は敢えて手を出さずとも、歌手だけで適当に舞台に仕立て上げる事が出来るように思う。

 開幕直後のドンジョと騎士長の果し合いの場面、黒田の手からポロっと剣が落ちて終った処へ、ジョン・ハオは間髪を入れず剣を突き掛け、これに黒田も素手のまま身を躱す演技で応じ、最後はハオから剣を奪い取り刺し殺して見せた。決着の付いた処で、床に落ちていた剣を拾ったフルート奏者が、黒田の足元に置いた事で、一連の遣り取りは演出では無く、二人のアドリブである事もハッキリした。実に巧く誤魔化したものだが、それは同時に彼等の演技が、既成の約束事の上に成り立っている事を、図らずも顕わにしたように思う。
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