オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

大阪交響楽団第199回定期演奏会

2016-08-30 | モダンオケ
<ハイドン疾風怒濤の時代>
2016年1月26日(火)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/園田隆一郎
ソプラノ/砂川涼子
チェンバロ/岡本佐紀子
大阪交響楽団

ハイドン「無人島序曲 Hob.Ia-13
/私が貴方を愛しているのを分かって~憎しみ、怒り、侮辱、苦しみが(アルミーダ)
/交響曲第49番〈受難〉Hob.I-49
/ベレニーチェ、どうするの?お前の愛する人が死ぬというのに(コンサート・アリア)
/交響曲第45番〈告別〉Hob.I-45」


 近年、ハイドンのシンフォニーは古楽業界の縄張りとなり、オケ定期で取り上げられる機会は減っているように感じる。それが大阪では、日本センチュリー響がハイドン・マラソンと称し、シンフォニー全曲演奏を目指す連続コンサートを行い、一方の大阪響はオール・ハイドン・プロで定期公演を行う。大阪響は「忘れられた作曲家」の発掘を売り物としていて、ハイドンは勿論その範疇には入らないが、何れにせよ余り演奏されないには違い無い。

 今日のオケは弦の八型を基本に、木管はオーボエ・ホルン・ファゴット、そこにチェンバロを加えた二管編成で、これは原譜通りのオリジナルな布陣らしい。コンサート・アリアのみ、フルートとクラリネットを増強する拡大編成で、オペラは派手でシンフォニーは地味目なのが、如何にも古典派のハイドンらしい。でも、こうして原譜通りのハイドンを聴いていると、ティンパニーや金管を欠く小編成に、やや物足りなさを感じたりするのだから、僕も存外モダンの演奏に毒されているのかも知れないと思う。

 一曲目が始まり、暫らく聴く内に気付いたのだが、どうやら今日はノン・ヴィブラートを取り入れた、ピリオド奏法を採用しているようだ。弦楽の音色に透明感は無くとも、確固としたフォルムがあり、良く纏まっているように感じたのも、その所為だろうか。園田隆一郎はペーザロでの「ランスへの旅」を皮切りに、あちらで「アルジェのイタリア女」や「泥棒かささぎ」を振った事で、ロッシーニのスペシャリストと目される、若手のオペラ指揮者である。ピリオド志向のあるとは知らなかったが、今時のロッシーニ指揮者であれば、それも当然と考えて良いのだろう。

 でも、これは大阪響として、恐らく史上初のピリオド・アプローチで、指揮者の威令も今一つ徹底せず、一部にチラホラとヴィブラートを掛けている奏者も見える。流石にコンマスは律義に、ノン・ヴィブラートを維持していても、チェロ主席が率先し、ヴィブラートを掛けているのには笑って終う。だが、これもチェロ・パートの後の四名が、一同右に倣えでヴィブラートを掛けているのを見れば、笑ってばかりもいられない。演奏そのものはハイドンらしい活気に満ちていたが、余り明るい音楽一辺倒にせず、もう少し緩徐楽章ではタメを作り、ニュアンスを醸す工夫も欲しかった。

 オペラ・アリアでの砂川涼子は意外にも、低い声に結構ドスを効かせ、ヴェルディ・ソプラノとして培った、リリックな声質に力のある処を存分に聴かせる。我々がハイドン・オペラに対し抱く、軽やかに優美な音楽と云うイメージを、良い意味で突き崩して見せる、劇的な力と情感に満ちた歌だ。後半のコンサート・アリアは今夜の白眉で、持ち前のコロラトゥーラの技術を活かした、鋭く激しい決然としたフォルテシモと共に、高低の音域での音色の変化で、ハイドンの劇的な側面を情感豊かに伝えてくれる。今回の砂川の定期出演は園田の肝入りだそうで、ハイドンを多角的に捉え提示しようとする、指揮者の意図を体現する歌だったと思う。

 プログラムの最後は告別交響曲で、四楽章では舞台の照明を落とし、一人また一人と奏者が袖へ戻って行く演出があった。指揮の園田も軽く一礼して退場し、最後に残ったコンマスとセカンド首席の二人で、全曲を弾き終え立ち去ると、舞台の照明も全て落とされる。ここで通常、オケのメンバー全員で舞台に戻り答礼する筈だが、今日は園田一人が戻り、楽団員はホールの出口で皆様をお見送りすると言いつつ、ハイドンのシュトルム・ウント・ドランク時代の曲を取り上げた理由など縷々説明してくれた。この子は本当に口八丁手八丁だなぁと、僕は良く喋る園田を少し呆れて眺めていた。

 僕はハイドンのオペラは以前に一度だけ、十年前の北とぴあ国際音楽祭で、「月の世界」を観た事がある。朧気でアヤフヤな記憶ではあるが、その際の森麻季や野々下由香里をキャストに迎えた上演では、バロック風に端正な解釈を施していたように思う。今日、指揮者はアリアで砂川涼子にアグレッシブに攻めさせると共に、オケにはピリオド・アプローチを要求した。園田はハイドンのオペラティックに劇的な側面を強調すると共に、古典派として均整の取れたフォルムも保とうとしたのだろう。彼はハイドンを真っ当に解釈しようとする、本物のオペラ指揮者なのかも知れないと思った事だった。
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ベートーヴェン「フィデリオ」op.72

2016-01-11 | ドイツオペラ
<ロームシアター京都プロデュース・オペラ/プレミエ即千秋楽>
2016年1月11日(月)17:00/京都会館

指揮/下野竜也
京都市交響楽団
京響コーラス
京都市少年合唱団

演出/三浦基
美術/杉山到
照明/藤本隆行
衣装/堂本教子
映像/小西小多郎

レオノーレ/木下美穂子
フロレスタン/小原啓楼
看守ロッコ/久保和範
娘マルツェリーネ/石橋栄実
門番ヤキーノ/糸賀修平
刑務所長ドン・ピツァロ/小森輝彦
司法大臣ドン・フェルナンド/黒田博


 新装なった京都会館の柿落しの記念に、お目出度い演目として「フィデリオ」が新制作された。お日柄も宜しく成人の祝日で、お向かいの勧業館みやこめっせでは、京都市主催の成人式が華やかに挙行されている。僕の着いた頃合に式典もハネたようで、岡崎公園の周辺は晴れ着姿の、新成人の大群でゴッタ返していた。

 ホールの傍らまで来て建物を見渡し、その外観が前川國男設計の旧京都会館と殆ど同じなのに驚くが、いざ中に入ると、以前の広々としたロビーや階段の面影は何処へと、今度はその狭苦しさに驚く仕儀となる。これは旧会館と比し、動線の点でかなり見劣りする出来である。全く同じ敷地に建てて、何故ここまで狭く感じられるのか、恐らくは旧京都会館の狭隘だったバック・ヤードを、現代仕様に広げた影響だろうが、そうであってもこれは酷いと感じる。二階まで吹き抜けで開放感に溢れた、以前のロビーが懐かしく思い出されるばかりである。

 メインホールに足を踏み入れ、舞台機構を剥き出しにする殺風景な内観と、殆ど残響の無いデッドなホール・トーンに、こりゃ演劇用だなと思う。コンサートホールは既に北山にあり、オペラ・ハウスなら隣町にびわ湖ホールのある、新京都会館の立ち位置を考えれば、音楽ホールでは無く舞台芸術に特化した劇場とするのは、方向性として間違ってはいない。後はプロデュース力を磨き、貸し館としてでは無く独自企画で、京都の魅力を発信出来るよう励むべきだろう。

 今回の上演はオケが舞台前に陣取り、歌手は奥に組まれたスロープ状の足場の上で演唱する、一般的なセミ・ステージ形式である。また、オケピットを地下牢に見立て、赤一色のフード付きマント(ジェダイ騎士の着てるみたいなヤツ)を纏った俳優に囚人として演技させ、その姿の俯瞰映像を字幕と共にホリゾントに投射する、ひと昔前のヨーロッパで流行った、舞台のヴィデオ映像を同時進行させる手法を取り入れている。舞台の両端には男女一対のナレーターを配し、日本語の台詞をダイアローグで語らせる一方で、舞台奥の歌手達は正面を向いた棒立ちのまま、お互いに傍にも寄らず、常に等間隔を保って唱う。彼等の衣装も全員が赤い上下で、白いシャツブラウスを着た者を二・三名混ぜ、見た目は至ってシンプルと云うか抽象性は高い。

 だが、こんな上っ面の説明では、何も言っていないに等しい訳で、この舞台の特質を伝えようとする、僕の理解度の低さに思い至るのである。そこでもう少し頑張って説明を加えると、前述の通り歌手に演技めいた所作は何も無かったが、実は俳優にも大した演技は無いのである。みんな概ね寝転がっているか、ブラブラ歩き回るだけで、これを牢屋に放り込まれた囚人達の、所在無さ気な行動と考えれば、一応は腑に落ちるのである。

 ナレーターの二名を含む、六人の俳優さん達の緩慢な動きから、僕の思い出すのは太田省吾が主宰し、大杉漣を看板俳優とした転形劇場である。そう考えると彼等のニブい動作も、五メートル進むのに三分掛ける、あの伝説の摺足歩行に似ている。恐らく緩慢そうに見える演技も、実は修練を積んだ動きなのだろう。また、男女の掛け合いによる台詞もデフォルメされ、語順の入れ替えや省略もあり、単純にお話を説明するのでは無く、観客に違和感を与える異化効果を狙っているようだ。割りに普通に台詞を語る男優に対し、妙に甘ったるい「ウッフン(萌え」みたいな女優の喋り方にも、同じ目的があるのだろう。一幕最後の「きゅうけい…にじゅっ…ぷん」と云う、女優のナレーションはその極め付けで、フィデリオの通り一遍なお話しを茶化している気配もある。

 要するに演出家にはフィデリオの勧善懲悪な、八時四十分に格さんが印籠を取り出す、水戸黄門みたいなお話に全く興味は無いのである。再構成された台詞も演出家本人に言わせると、「物語の世界観を通奏低音のように語る」となるが、僕の受けた印象ではフィデリオの陳腐な物語を、解体する目的があるように感じる。つまり抽象的な舞台作りで、ベートーヴェンの音楽に寄り添いつつ、フィデリオの脆弱な台本に対する、批判的な視点も提示しているのだと思う。

 舞台作りの手法自体は、これまでの地点演劇の延長線上にあるようだが、これがベートーヴェンのオペラティックに説明しない、人類みな兄弟の抽象的な音楽に合うのは驚きだった。下野のベートーヴェン解釈も、イン・テンポ且つザッハリヒナなもので、抒情性みたいな部分は切り捨てる、筋肉質な音楽を作っている。歌手のフレージングも四角四面に仕切り、アゴーギグの揺れ等は殆ど無く、情感を醸す歌を排している。みんなドイツ語のデュナーミクと、音量の強弱だけの歌で、オケにアチェルラントやリタルダンドはあるものの、歌には殆ど無く、健康的と云うかアッサリしていると云うか、やや物足りなさも残す演奏である。

 それとこの遣り方は、歌手に余計な負担も掛ける。そもそもデッドな音響のホールで、声に相当な力が無いと、前へ飛ばし響かせるのは難しい。その中で際立っていたのはマルツェリーネの石橋栄実で、力尽くでは克服し難いホールに、持ち前のレジェーロな美声を柔らかく響かせ見事だった。フロレスタンの小原啓楼も及第点で、リリコでも重目の声を、デッドな空間に響かせようと奮闘した。

 でも、レオノーレの木下美穂子は声の力不足で、高音部の伸びやかさを欠き、タイトル・ロールとしては物足りない歌い振りだ。ロッコの久保和範も今ひとつ、聴き映えのしない地味な声と歌だが、これは脇役には合うし、本人も自分の役回りを心得ている様子である。木下・小原・久保のトリオは、やはり下野の振った大阪フィル定期でも、三人でソリストを務めているが、「フィデリオ」と「戦争レクイエム」は全く異なる曲と云うか、そこに何かしらの共通点を探す方が難しい。ただ、両曲ともソプラノにはスピントの声を必要とするので、リリコの木下では力不足だし、小原の声質でスピントのフロレスタンと、リリコ・レジェーロな英国軍兵士を歌い分けるのも、如何にも無理がある。

 下野の歌手の選択に疑問を抱くのは、役に合う声で選ぶのでは無く、ただ単に自分の好みで選んでいるように思うからだ。木下も小原も情感で聴かせるタイプでは無く、音楽の陰影とかを求めるとサッパリだが、今日はそれはそれで楽しく聴けたのは、下野の志向には合うからだろう。時に無機的に陥る、下野の音楽性はそれとして、やはり主役二人にはスピントの声が欲しい。彼の歌手の選択は偏向し過ぎていると、僕は以前から考えている。

 ピツァロの小森輝彦は初役らしいが、音色とデュナーミクの工夫で、悪役っぽい声を作っている。逆にフェルナンドの黒田博の方は、正義の味方っぽく聴こえたが、こう云うのは僕の受け取り方の問題でもあり、恐らく二人の役を入れ替えても、それなりにハマるのだと思う。下野の指揮はアッサリ目なので、その速目のリズムに乗る歌手も、余りクドイ歌にはならない。個人的には皆さんもう少し、ねっちょりコッテリ歌って欲しかったけれども。

 合唱はアマチュアだし、まあこんなものかと思う。ただ、素人の男声二十名余りで、「囚人の合唱」はややキツく無理があり、感動的に歌い上げるとまでは行かない。フィナーレのコーラスで大人は自前の服、少年合唱団の子供達は制服でオケピットから現れ、抽象的な舞台は現実の世界へ移行する。序でに建て込みも取り払い、舞台裏を丸見えにしたのに、如何なる意図のあるのかは良く分からなかった。

 演出家の説明に拠ると「市民の解放は祝祭的に見えるが、それと裏腹に囚人達が幽霊のように浮遊している姿は、抜け道の無い負の部分」となるらしく、そこで六名の俳優が隅っこの方で何かしていたのを思い出し、そう云う事だったかと納得した次第である。どうやら地点の舞台に、ある程度の慣れは必要なようで、一見の客には取っ付き難い処がある。また、機会さえあれば何処かで観てみたいし、そう思わせるだけの力の籠った舞台だった。
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春夏秋冬、磐城壽を呑む。

2016-01-01 | 震災関連


 皆様に謹んで新年のお祝いを申し上げます。太平洋を間近に望む浪江町請戸の酒蔵で、東日本大震災の津波に一切を流された上、フクシマ・ダイイチの事故で故郷を追われ、今は雪深い山形県長井市で酒名「磐城壽」を醸す、鈴木酒造店長井蔵を支援(只ひたすら磐城壽を呑み酔っ払う)する記事です。



 自称“磐城壽マニア”の割烹居酒屋「堂島雪花菜」謹製のお節料理と、我が家のお雑煮をアテに、磐城壽・季造りしぼりたて生酒で新年を寿ぎました(実は去年の正月写真の虫干しですけど)。勿論、実店舗にも赴き、磐城壽で呑んだくれました。磐城壽三昧の一年を振り返ります。


      磐城壽・季造りしぼりたて中汲み純米酒


          磐城壽・純米吟醸夢の香


        磐城壽・赤ラベル山廃純米原酒


         これは酒のアテの八寸。


       磐城壽・山廃熟成純米酒アカガネ


        春のお料理で鰆の茶碗蒸し。



 磐城寿・純米吟醸「甦る」は、福島県内から長井市に避難した被災者が、循環型農業を目指し運営する福幸ファームで、回収した一般家庭ゴミで作る堆肥で栽培した「さわのはな」米を使い醸したお酒。原発事故による避難の一番の被害者である子供達の為、「甦る」の売上の一部は避難児童・生徒の支援に使われている。


         初夏のお造り盛り合わせ。



 磐城壽・限定純米酒「空水土」は原発事故以前、広く県内の酒造家に酒造好適米を供給していたが、事故の影響で栽培委託が激減し、存続も危ぶまれる事態に陥った農家の支援の為、福島市松川町水原地区で栽培された山田錦で仕込んだお酒。「本当の空・水・土を取戻し、私達の故郷を震災前より誇れるものにしよう!」と云う願いを込めている。


         秋のお造り盛り合わせ。



 廃業の後を承け鈴木酒造店が引き継いだ、元の東洋酒造の銘柄で、長井市産亀の尾を使い仕込まれたお酒、純米吟醸「鄙の影法師」。右側は磐城壽・純米酒。


これは私の口には入りません。他の客の注文した鮑を盗撮しました。



 やはり旧東洋酒造の銘柄で大吟醸・一生幸福と、磐城壽・山廃純米大吟醸山田錦。磐城壽の方は兵庫県産山田錦を四十五%まで精米し、協会九号酵母で仕込んだ鑑評会出品酒。但し、全く香らないし、そもそも何故に大吟醸で山廃なのか、謎に包まれたお酒。



 昨年十月に行われた日本酒イベントの為、鈴木酒造店長井蔵から来阪された鈴木荘司常務と、堂島雪花菜の大将をツーショットで記念撮影。その節はご協力有難うございました。序でに翌日は堂島雪花菜の十周年のお祝いの会だが、僕は残念ながらオペラ見物で欠席なので、鈴木常務さんの為に明日開栓する筈だった、大将秘蔵の震災前の磐城壽を試飲させて頂く。


           磐城壽・山廃純米生原酒「土耕ん醸」(製造年月22.3)



           磐城壽・中汲み純米酒(製造年月2010/1月)

 酒の味は記憶に基づくし、震災前後に福島と山形で作られた磐城壽の、どちらが旨いとかは軽々に言える問題では無いとの感想を抱く。要するに震災前に請戸の蔵で作られた酒に、郷愁は感じても幻想を抱くのは難しくなった。今現在の磐城壽を有りのままに応援(只ひたすら磐城壽を呑み酔っ払う)する事を、年頭に当たり改めて誓う次第である。
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エマ・カークビーのクリスマス

2015-12-18 | ピリオド
<つのだたかしプロデュース/天上の音楽~比類なき名歌手からのクリスマスの贈り物>
2015年12月18日(金)19:00/ザ・フェニックスホール

ソプラノ/エマ・カークビー
リュート/つのだたかし
バロック・ハープ/伊藤美恵

モンテヴェルディ「Laudate Dominum 主を褒め讃えよ
/Exulta filia Sion 喜べシオンの娘よ」(倫理的・宗教的な森)
ストロッツィ「O Maria quam pulchra es 何と美しいマリア様」
ロベール・バラール「アントレ/身籠りし乙女/教徒は教会に従い/天高き処で讃歌を」
キャンピオン「Author of light 光の創造主よ」
ダウランド「In this trmbling shadow cast 震える影」
「Sweet was the song the Virgin sang 乙女の歌う優しい調べ」(W.バレット・ソングブック)
ヘンデル「サラバンド(クラヴィア組曲第2集第4番)
/He shall feed His flock like a shephard 主は羊飼いの如く群れを養い(メサイア)」
バード「Out of the Orient Crystal Skies 澄んだ東の空に星が輝き」
カリッシミ 「Salve salve puellule ようこそ幼子よ」
キャロル「来たれ救い主よ/天の女王に祝福を/ファラララン/バラが一輪咲き出で/グリーンスリーブス」
トロンボンチーノ「美しい乙女」
J.S.バッハ「Oeffne dich mein ganzes Herze 開け我が心よ」(来たれ異教徒の救い主 BWV.61)
フィリップ・フリードリヒ・ベーデッカー「Natus est Jesus イエスは生まれ」


 古楽界のレジェンド、デイム・エマ・カークビーのリサイタルが大阪で、クリスマス・ソングを特集し行われる。カークビーは近年も結構頻繁に来日しているようだが、僕の聴くのは一体何年振りになるのか、俄かに思い出せないほど以前の事になる。正直な話、僕の中にあるカークビーのイメージは、飽くまでコンソート・オブ・ミュージックのアンサンブル歌手で、ソリストとして是非とも聴きたいと云う存在では無かった。でも、僕も人生の残り時間を考える年齢となり、若い頃に聴いた歌手の声を、もう一度聴いて置きたいと感じる、今日この頃である。

 つのだたかしと伊藤美恵を従え舞台に現れた、デイム・エマは流石に歳を取ったが、上手に齢を重ねている印象で、とてもキレイなお婆ちゃんになっていた。コンサート冒頭のモンテヴェルディはラテン語の宗教曲だが、書法としてはマドリガーレっぽく、クリスマスに相応しい華やかな曲である。久し振りに聴くカークビーは、ノン・ヴィブラートで清澄な声自体は健在だが、以前に比べ色彩感を増したように感じる。例えればボーイ・ソプラノが声変わりし、大人のソプラノになった感じだろうか。それでも、まだ思春期に留まっていて、国内トップ・クラスの実力派である、福島県立安積黎明高校コーラス部のような声ではある。

 彼女は未だメリスマを転がすテクニックは完璧に維持しているが、高音のピアニシモのロング・トーンは途中で掠れるし、高音部も細く糸を引くように…とまでは行かない。高齢化で技術的に歌える曲を選ばねばならず、現状の声の力で劇的に展開するモンテヴェルディを歌い切るのは、なかなかキツイものがある。

 つのだたかしがソロで弾いたロベール・バラールは初めて聞く名前で、フランス・ルネサンスのリュートの作曲家は、なかなか僕の視野には入って来ない。再びカークビーの歌に戻り、今度はイギリス・チューダー朝のリュート・ソング。やはりルネサンスの曲の旋律は山型進行で、声に衰えの兆すカークビーでも、然程に無理なく歌えると感じる。また、ダウランドのメランコリックに平坦な曲を、滋味深くシミジミと聴かせる語り口の巧さには、さすがと思わせるものがある。

 とは云うものの、メサイアからのアリアは割に大人し目で英語歌詞の曲でもあるし、バロックでもカークビーの任には合っていると感じる。その次のバードはコンソート・ソングで、メサイアと共に伊藤美恵のハープで伴奏を付ける。ここでは如何にもクリスマスらしい、聖なる幼な子の産まれる喜びに満ちた曲を、カークビーは楽しく聴かせてくれる。もしかすると、この曲の演奏は本日の白眉だったかも知れない。でも、休憩後にモンテヴェルディへ戻ると、細かいパッセージの続く長いフレーズを一気に押し切る事は出来ず、声は曲に力負けしていると感じる。

 この後は歌手の休憩タイムとなり、リュートとハープのデュオで、欧州各国のクリスマス・キャロルを六曲演奏する。取り敢えずグリーンスリーブスは別格としても、ノエルと云う曲種は耳に馴染み易く、聞き覚えのある曲も多いので楽しく聴ける。カークビーは最後に二曲、バッハのカンタータからのドイツ語アリアと、これも初めて聞く名前でベーデッカーと云う人のラテン語モテットを歌う。簡素な身振りの演技も交え、傍目にも愉し気にイエス生誕の喜びを歌い上げ、プログラムの締め括りとした。

 この方が一般的な声価を得たのには、恐らくホグウッド指揮のエンシェント・アカデミ-の演奏で、モーンダー版モツレクの録音に、ソリストとして参加した事が与って力のあったと、僕は考える。ただ、あの録音での彼女の役回りは、ウェストミンスター・キャセドラル聖歌隊の音色に合わせ、ボーイ・ソプラノの代役を務める事だった。レコード業界のカークビーへの商業的な評価は、決して高くは無かったと今にして思う。久し振りにデイム・エマの歌声を聴き、この方は透明な声質でありながら豊かな情感に恵まれ、しかも高い識見と教養を身に付けた、一己の音楽家として傑出した存在と、僕は改めて確認した。ところでプログラム記載のデイム・エマの経歴に、コンソート・オブ・ミュージックの名が見当たらないのには、一体どのような理由が存するのか。まあ、聞かずもがなの話かも知れないけれども。

 上掲の写真は終演後のサイン会に臨み、生真面目な表情で撮影に応じて頂いたデイム・エマ・カークビーさんです。ご協力有難うございました。
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ドヴォルザーク「ルサルカ」op.114

2015-12-12 | 各国オペラ
<びわ湖ホール・オペラへの招待/日本語上演>
2015年12月12日(土)14:00/びわ湖中ホール

指揮/大勝秀也
日本センチュリー交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/中村敬一
美術/野崎みどり
照明/巽敬治郎
衣裳/村上まさあき
映像/大内清樹(成安造形大三回生)

ルサルカ/岩川亮子
王子/古屋彰久
水の精/的場正剛
魔女/島影聖人
王女/藤村江李奈
森番/砂場拓也
少年/川野貴之
狩人/五島真澄
木の精/松下実奈子/鈴木望/小林あすき


 今年度、びわ湖ホール声楽アンサンブルのオペラ上演は、「新世界より」と「ジプシーの歌」のメロディ・メーカー、ドヴォルザークの滅多に聴く機会の無いレア物で「ルサルカ」である。今回も凡そ予備知識と呼べそうな情報は一切仕入れず、自分でも惚れ惚れする程、真っ新な状態で上演に臨んだ。まあ、アンデルセンの「人魚姫」みたいな話と憶測はしたが、実際に観ると森の湖に住む水の精が出て来て、何じゃいな?海を泳いどるマーメイドとちゃうんか等と思う、世間様に対し申し訳の立たない程度の低さである。

 「ルサルカ」のお話は、欧州に良くある伝承民話の一つで、水中に棲む妖怪が人間の男に恋する物語のチェコ版なのだった。ジロドゥの戯曲「オンディーヌ」やアンデルセンの童話も、そのヴァリエーションに連なっていて、このテの民話はびわ湖にもあり、竜神の化身が若い漁師と夫婦となり、子供まで設けた後に湖へ連れ戻される悲話で、この伝説を基にした猿谷紀郎「三井の晩鐘」は、浄瑠璃とコロラトゥーラ・ソプラノを組み合わせた和洋折衷の作品である。人間の男が妖異の存在を娶る、異類婚の羽衣伝説は日本にもゴロゴロしているが、中でも滋賀県には「近江国風土記逸文」に見える、日本最古の「余呉の天女」の伝承もあり、天の羽衣伝説の本家本元とされている。びわ湖ホールは誠に「ルサルカ」上演に、この上なく相応しい劇場と言えよう。

 如何にもドヴォルザークらしい、甘い旋律美に溢れる序曲が始まると、どうやらこのオペラは楽しめそうと期待は高まる。序曲の途中で幕が上がると、舞台上には巨大なノートPCみたいなセットが置いてある。そのキーボード部分に三人の女声歌手が現われ歌い出し、森と湖の風景がプロジェクション・マッピングで投射されると、これってラインの乙女そのものじゃんか、と思う。成程、ドヴォルザークのヴァーグナーから受けた影響と云っても、二人の資質は凡そ対極にある訳で、このように外面的にしか表れないのかも知れないと、勝手に納得する。

 暫く見ている内に分かって来たのだが、まずキーボード部分に投射された映像が、そこに立つ歌手の姿もろとも、鏡面になっている背後の液晶画面へ映し出される。つまり床面の映像とは、上下逆様の映像が背景となる。更にライティングの工夫で、鏡面に映る歌手の姿と同時に、液晶画面の裏に回った歌手を素通しにして見せる等、随分と手が込んだ絵面を作っている。但し、同じ画面を素通しの部分と、鏡面の部分とに分けようとすると、照明プランは著しい制約を受ける事となる。今日は照明が単調だなぁと思って見る内、ああ成程そう云う事か、と気付いた次第である。この為に舞台上は終始一貫、薄暗いままと云う印象しか残らなかった。

 また、上下逆様の映像も抽象的な図柄であれば問題無いが、王子の住む宮殿内部等の映像では、歌手の鏡像が天井付近を歩き回る、誠にシュールな絵柄を現出する事となる。折角、学生さんを起用したのだから、単なる思い付きをゴタゴタと詰め込んだ舞台作りより、例え素人っぽくともポップな映像を見せてくれれば、それで充分なのにと思う。詰め込み過ぎた舞台の整理は、全体を仕切る大人の仕事の筈だが、刈り込みは行われず放置された印象だ。プロジェクションマッピングとやらのハイテクも、所詮は単なる小手先の技術に過ぎず、そこで何を表現するかが問題なのだ。それと初めて観るオペラだし、もう少し親切にストーリーの絵解きをしてくれないと、話の運びが良く分からなくなるのも困る。

 歌手ではタイトル・ロールの岩川亮子が期待通りの出来で、予想外に柔らかい声を駆使した上で、勘所は強い声でキメて見せる、幅広い表現力がある。ただ、基本的にレジェーロな柔らかい声の方が、この役とドヴォルザークには合うと思うが、そこは居る人間で間に合わせねばならない、この上演の辛い処である。対する王子様の古屋彰久は喉を詰めたような発声の上に、出した声は常に真っ直ぐそのままで音色の変化も無い、一本調子で単調な歌い振りに終始する。ただ、今日のプリマとプリモは二人共コロコロした体形で、並んで歌う姿は結構可愛らしかった。

 水の精の的場正剛は美声で聴かせるが、もう少し声量を出せるようになれば、大化けする可能性のある人と思う。王女様の藤村江李奈はキツ目の声が役にハマるし、魔女の島影聖人もちょっとクセのある声で良い味を出していた。びわ湖ホール声楽アンサンブルに脇を固める人材は居ても、主役級となると声の適性の問題もあり、そうそう都合良く打って付けの歌手は居ないのである。

 大勝の指揮では音楽の明暗の切り替えが甘い。オケに甘く歌わせる分には良いのだが、悲劇的な場面への転換にキチンと対応しておらず、もっと劇的に彫りの深いに音楽作りが望まれる。大勝は職人的に手堅い指揮者で、それが良い方向へ作用する場合もあれば、今日のように曲を外面的に捉えて上滑りする事もある。果たして彼が何処まで、ドヴォルザークの音楽に共感して演奏しているのか、僕は疑問に感じる所以である。

 「ルサルカ」と云う曲自体は、オペラとして良く出来ているとは言い難いように思う。だが、ドヴォルザークの書いた、甘く切ない音楽の美しさは本物だ。歌手にも指揮にも演出にも、それぞれ少しづつ不満の残る上演ではあったが、また一つ未知の美しいオペラを知る機会を得ただけでも、わざわざ大津まで足を運んだ甲斐はあったと云うものだ。
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