オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

レザール・フロリサン日本公演

2017-04-27 | バロックオペラ
<イタリアの庭で~愛のアカデミア/セミ・ステージ形式上演>
2016年10月13日(木)19:00/サントリーホール

指揮/ウィリアム・クリスティ
演出/ソフィー・デインマン
ソプラノ/ルシア・マルティン・カルトン
メゾソプラノ/レア・デザンドレ
カウンターテノール/カルロ・ヴィストリ
テノール/ニコラス・スコット
バリトン/レナート・ドルチーニ
バス/ジョン・テイラー・ウォード
レザール・フロリサン

アドリアーノ・バンキエリ「音楽のザバイオーネ」
アレッサンドロ・ストラデッラ「アマンティ・オーラ(愛のアカデミア)」
オラツィオ・ヴェッキ「シエーナの夜会、又は現代の音楽の様々な気分」
ヘンデル「「オルランド HWV.31/時と真理の勝利 HWV.46a」より
ジャック・デ・ヴェルト「もはや涙も涸れ」
ヴィヴァルディ「オルランド・フリオーソ RV.Anh.84/離宮のオットー大帝 RV.729/愛と憎しみに打ち勝つ徳、又はティグラネス王 RV.740」
チマローザ「惨めな劇場支配人」
ハイドン「歌姫 Hob.XXVIII:2/騎士オルランド Hob.XXVIII:11」
ドメニコ・サッロ「カナリー劇場支配人」
モーツァルト「バスと管弦楽の為のアリエッタ KV541」
ニコラ・ポルポラ「ソロ・カンタータ」


 ウィリアム・クリスティとレザール・フロリサンの来日は十年振り、あの伝説のラモー「レ・パラダン-遍歴騎士」の上演以来だが、彼等は今日の東京で一回切りの公演を終えると、そのままソウルへ向かい、更に上海からマカオへと巡演を重ねるらしい。ヨーロッパから古楽の波が押し寄せて幾星霜、結局日本に成熟した古楽の聞き手は育たないまま、ブームの波は半島から大陸へと去って行くのだろうか。

 演奏が始まり暫くすると、恐らく他の大部分の観客もそうだったように、僕も今回のプログラムの意図を、全く勘違いしていた事に気付く。冒頭のバンキエリのチェンバロ付き五声マドリガーレは、喜劇的なストーリーのあるマドリガル・コメディの前説で、五人の歌手が集まりパート分担を決める曲なのである。今日サントリーホールに集った聴衆の殆どは、セミ・ステージ形式に五人の歌手で、ヘンデルやヴィヴァルディやハイドンのアリアを代わり番こに唱う、ごくフツーのオペラ・コンサートと思い込んでいたと思う。でも、実際に聴いてみれば、これは高度にソフィストケイトされ、巧みに仕組まれたプログラミングだった。

 前半はアレッサンドロ・ストラデッラの、世俗カンタータを軸にコンサートは進む。バンキエリの次にストラデッラのシンフォニアを挟み、再びマドリガル・コメディで、ヴェッキの無伴奏五声マドリガーレは、宴会の余興にゲームとして音楽を競おうと提案する内容。これだけの前振りの後、主筋の愛の神アモーレのお話で、ストラデッラの世俗カンタータのデュエットやアリアの後、「騎士オルランドを狂わせたのはアンジェリカの美しさ」とレシタティーヴォが歌われ、この項続くとなる。次に前項を承け、ヘンデルのオペラ「オルランド」から、愛に狂うオルランドのアリアがカウンターテナーで歌われ、プログラミングの継続性を保つ仕掛けである。この後、やや時代を遡りデ・ヴェルトの六声マドリガーレを挟むのも、対位法的な音楽で口直しする効果があり、僕のようなルネサンス好きならずとも楽しめる工夫である。

 この後は騎士オルランドと直接の関連は無い、ヘンデルとヴィヴァルディの恋に狂うアリアを交互に並べ、最後に再びストラデッラのカンタータを持って来て、フィナーレの合唱で締め括る。勿論、歌詞の内容の緩やかな連続性と共に、音楽的な配慮で聴衆の気を引く点にも怠りは無い。ヘンデルの超有名アリア「私を泣かせて下さい」を、転用されたオペラ「リナルド」からでは無く、元歌のオラトリオ「時と悟りの勝利」の歌詞で唱うのも興味深い。小道具に持ち出したキューピッドの弓矢も、演出家は手際良く上手に使いこなしていた。ただ、今日はオペラ上演並みに客電を落としたので、演奏中にプログラムを読む事は適わず、今歌われているのは果たしてヘンデルなのかヴィヴァルディなのか、良く分からないのは困り物だった。

 ここで休憩に入るが、その間も舞台上では何かゴソゴソやっている。どうやら作曲家が遅筆で本番に間に合わず、まだ楽譜を書いていると云う設定のようで、演奏再開で出て来た歌手達に渡す演技がある。こうして後半は趣向を変え、作曲家や劇場支配人が歌手のワガママに翻弄される、今も昔も変わらぬオペラハウスお約束のゴタゴタ騒ぎを繰り広げる。時代も後期バロックから古典派ロココへ進め、ハイドンのオペラ「歌姫」抜粋を中心に、チマローザ、ポルポラ、モーツァルト等をあしらう。最後はハイドンの「騎士オルランド」からのフィナーレで、前後半の首尾を一貫させ、コンサートの締め括りとした。

 歌手はオーディションで選ばれた、何れも芸達者な若手六名で、歌も演技も非の打ち所は無かった。レジェーロなソプラノのマルティン・カルトンに、メゾのデザンドレはリリコで、声の対称性も彩り美しく、またバリトンのドルチーニに至るまでアジリタに秀でていて、この点でも全く申し分は無い。バスのテイラー・ウォードの声がエライ軽かったのも、オペラ重唱やマドリガーレをハモらせるのに好都合だからかも知れない。勿論、ボウイングでクレシェンドとディミヌエントを入れ味わいを醸す、レザール・フロリサンの美しい演奏も素晴らしかった。

 今回のようなパッチワークの如く編集された音楽劇を、パスティッチョ・オペラと呼ぶ史実はあるようだが、果たして今回の上演が、何処まで時代考証に耐え得るのか、素人の僕には判断の仕様も無い。でも、クリスティとレザール・フロリサンは、時代様式も個々のスタイルも異なった音楽を、一篇のオペラ作品のように纏まり良く聴かせ、存分に楽しませてくれた。正直な話、ヘンデルやハイドンのオペラ等、歌手が入れ代わり立ち代わり出て来て唱うだけで、劇音楽としての面白さは希薄なようにも思う。ルネサンスから古典派までの様々な曲で、彩り豊かなな花束を編むようなプログラムは、クリスティのサービス精神の精華とも云えそうだ。また、「私を泣かせて下さい」とか良く知っているアリアや、ルネサンス・マドリガーレなど織り込まれているのが、僕は単純に楽しかったのである。

 上掲の写真は開演前のロビーでお見掛けした鈴木秀美さんです。その節はご協力有り難うございました。
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モンテヴェルディ「オルフェオ」

2016-10-12 | バロックオペラ
<日伊修好百五十周年記念/沼尻竜典五幕補筆版>
2016年10月12日(水)19:00/東京芸術劇場

指揮&チェンバロ/アーロン・カルペネ
ジャパン・オルフェオ管弦楽団
ジャパン・オルフェオ合唱団

演出/ステファノ・ヴィツィオーリ
美術/白石恵子
照明/ネヴィオ・カヴィーナ
衣装/アンジェラ&ルカ・ミッソーニ

オルフェオ/ヴィットリオ・プラート
エウリディーチェ/阿部早希子
音楽の女神&希望/ジェンマ・ベルタニョッリ
使者&プロセルピナ妃/フランチェスカ・ロンバルディ・マッズーリ
カロンテ&プルトーネ王/ウーゴ・グァリアルド
妖精ニンファ/佐藤裕希恵
冥界の霊/西久保孝弘
牧人パストラーレ/相山潤平/新田壮人/北嶋信也/金子慧一


 モンテヴェルディ大好きで、オペラ上演と知れば東奔西走するが、今回の「ジャパン・オルフェオ」と称する催しは随分と大掛かりで、そこへ逆に不安を感じる程の規模である。そもそも二千席の東京芸術劇場で二回上演も凄いが、更にプルミエは鎌倉の鶴岡八幡宮に特設ステージを設けた野外上演で、一体どんだけ金掛けてんだと思う。奏者には日伊の手練れをズラリと揃え、アントネッロの三人組にチェンバロの渡辺順生やチェロの懸田貴嗣と、古楽器オーケストラにも万全の布陣を敷くが、これには大して費用は掛からない筈だ。

 古楽器オケのトッカータからリトルネッロの演奏の後、衣冠束帯に身を固めた雅楽隊が、シズシズと舞台に現れる。篳篥に笙と竜笛の管楽器三人組だが、彼等はチョロっと吹くと、直ぐに引っ込んで終う。オルフェオが三途の川の渡し守に、黄泉の国に渡らせろと交渉する場面では、日本舞踊の五人組が冥界側要員として、一差し舞って見せる。一方、迎え撃つイタリア勢は、結婚式の場面で民族ダンスを三人組で踊り、三途の川の場面でオルフェオのアリアには、ハイテクの楽器で見た目もド派手な、レーザー・ハープを伴奏に使用する。今回の上演のコンセプトは東西文化の融合だそうで、日本側は雅楽に能楽に日舞の家元を動員し、古楽器の雅びな響きに和式の音を織り込む、木に竹を接ごうとする試みである。

 邦楽は置いてモンテヴェルディの方だが、オルフェオのプラートには圧倒的な美声と、抜群のアジリタがある。伸びやかな高音と共に、中音域には艶やかな音色があり、長身のイケメンで舞台映えする容姿も相俟って、オペラティックに華やかなタイトル・ロールである。エウリディーチェの阿部早希子と、ムーサとスペランツァを歌うベルタニョッリの二人は、似通った声質で対照は付かないが、それぞれテンぺラメントに富んでいて、こちらもオペラ歌手らしい唱い振りだ。シルヴィアとプロセルピナ妃のマッズーリにしても、イタオペっぽく歌い上げるタイプで、イタ公は古楽歌手である以前に、まず飽くまでオペラの歌い手であると感じる。今日は一人二役でデフォルトだが、ハスキー系のバスでグァリアルドは、カロンテとプルトーネ王を兼ねていて、さすがに親玉と子分の二役には違和感を残す。

 エウリディーチェの返還交渉の場面では、能役者が傍らでチョロチョロと舞い、妻を再び連れ去られたオルフェオが、独りトボトボと現世に戻ると、日本舞踊五人組も再登場する。通常、日舞の伴奏は三味線だろうが、ここでは何故か能楽隊の演奏で舞い踊る。また、能役者の伴奏も、雅楽隊で付ける場面もあって、邦楽部門間の交流も図られる。笙と竜笛はコッソリと古楽オケに混って吹いていたが、この辺りの邦楽器はコルネットと大して変わらない音色で、特に違和感は無い。ミッソーニの衣装も演出のコンセプトに合わせ、和式テイストを含む無国籍風なのも面白い。

 今回の上演ではオルフェオがアポロに導かれ昇天する、終幕のストーリーをギリシャ神話の原典に則り、バッカスの送り込んだ刺客に嬲り殺しにされるエンディングに差し替えている。歌詞を変えるので、これに合わせた音楽も沼尻竜典に委嘱している。沼尻の作ったのは疑似バロックでは無く、演出に合わせた邦楽風で、不協和なハーモニーの続く女声合唱だったが、特に面白いとも面白くないとも思えず、オリジナルに対する蛇足のように感じた。

 誠に多彩と云うか闇鍋風の上演で、これを纏め上げる演出の力技に、聊かの無理は感じるけれども、まあイヴェントとしては良く出来た方だろう。舞台演出で和洋の融合を芸術的に仕上げるのは、至難の業と改めて感じさせる。昔、若杉弘さんの手掛けた和式の演出で、僕の観た「ポッペアの戴冠」や「サロメ」は、その華やかな美しさを未だに忘れ難い。そもそも東京芸術劇場は、箱物としてバロックオペラの上演には不向きで、鶴岡八幡宮での野外上演と条件も違い過ぎたのだろう。

 それに単なるオペラ好きとしては、こんなに良質の古楽オケを巨大ホールの薄暗がりに押し込み、ピリオド楽器を観客に積極的に披露しないのでは、余りにも勿体無いと云う気持ちも先に立つ。バロックオペラのピリオド上演では、テオルボやダブル・ハープやコルネット等、珍しい楽器を見せるのも演出の内だろう。もっと素直にモンテヴェルディの音楽を聴かせて欲しかったと、国際交流の超豪華イヴェントに溜息を吐くのである。
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チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」

2016-10-08 | 各国オペラ
<マリインスキー・オペラ2016来日公演>
2016年10月8日(土)14:00/京都会館

指揮/ヴァレリー・ゲルギエフ
マリインスキー・テアトル管弦楽団
マリインスキー・テアトル合唱団

演出/アレクセイ・ステパニュク
美術/アレクサンドル・オルロフ
照明/アレクサンドル・シヴァエフ
衣装/イリーナ・チェレドニコワ
振付/イリヤ・ウスチャンツェフ

タチヤーナ/マリア・バヤンキナ
オネーギン/アレクセイ・マルコフ
レンスキー/エフゲニー・アフメドフ
オルガ/エカテリーナ・セルゲイエワ
グレーミン公爵/エドワルド・ツァンガ
ラーリナ夫人/スヴェトラーナ・フォルコヴァ
乳母フィリピエヴナ/エレーナ・ヴィトマン
ムッシュゥ・トリケ/アンドレイ・ゾーリン
立会人ザレツキー/アレクサンドル・ゲラシモフ
隊長/ユーリー・ブラソフ


 ヴァレリー・ゲルギエフは弱冠三十五歳で、キーロフ(現マリインスキー)劇場の芸術監督に就いた後、ソヴィエト崩壊と云う最大の危機を乗り越え、三十年近くに亘りその重責を担い続けると共に、人気指揮者として世界中を駆け回る、絵に描いたようにエネルギッシュな人物である事は、皆様ご存じの通りである。マリインスキー劇場は度々来日を重ねていて、僕もこれまでにびわ湖ホールで「運命の力」を、東京遠征ではリング・チクルスを観る機会を得た。改めて考えると、肝心要のロシア物は今日が初めてで、あたら貴重な機会を逃して来たと、我が人生の来し方を振り返るのである。

 一幕のタチヤナとオルガの姉妹が無邪気に絡む場面。タチヤナのバヤンキナは、声の立ち上げからスピントの位置に入り、そのまま真っ直ぐ強力に引き伸ばすストレートな発声で、とてもでは無いが夢見る文学少女とは思えず、最初から公爵夫人の貫録を感じさせる歌い振りである。声の音色自体は余り変わらないが、中音域以下を確り出せて、高低の音域で自然な変化が付くのと、豊かな声量で広いダイナミク・レンジを駆使し、抒情的と云うより女性の芯の強さを表現している。オルガのセルゲイエワも、声量に恵まれた柔らかいメゾで、デュエットではタチヤナと存分に張り合い、この二人の歌は聴き応え充分である。女声陣はラーリナ夫人と乳母も役にハマる声で、脇もキッチリと固めている。

 これに対する男声陣でタイトル・ロールのマルコフは、鼻腔より下に響かせるような発声で、オネーギンを悪役っぽくする、クセのある声質のバリトンである。個人的にオネーギンはロシアっぽく暗い音色でも、美声である事は必須条件と思う。レンスキーのアフメドフは声量に乏しく、高音部にも伸びやさを欠き、平べったい歌い振りに終始した印象を受ける。グレーミンのツァンガも、この役に必要なバスの深みに欠けて味わいに乏しく、最低音も出し切れていない。まだ若い人のようで、これからバス歌手として経験を積んだ上で、グレーミンに挑戦すべき素材だろう。

 ゲルギエフはマリインスキーのオケから軽やかな音を引き出し、歌と絡む木管の出し入れを浮き立たせ、曲の対位法的な側面を強調する。爆演派のイメージとは異なる美しく抒情的な演奏で、合唱入りの陽気で愉快な場面から、タチヤナの情緒纏綿とした歌へ、一瞬の内に切り替える手際も、手紙のアリアでピアニシモから、いきなりフォルテシモを炸裂する、あざとい音楽作りも堂に入っている。ただ、僕は美しく軽やかな音楽作りと、オケに対する分析的な手付きに、やや違和感を覚える。もう少しオケに厚みがあれば、演奏に泣きも入るだろうし、果たしてゲルギエフは何処まで、チャイコフスキーの音楽に入り込んでいるのか疑念を覚える。

 つまりタチヤナもオネーギンも個性の強い声で、彼等の歌から抒情性は伝わらず、軽やかなオケの音と齟齬を来たすのである。歌手は若くて美男美女揃いだが、声は必ずしも役とマッチせず、そこにゲルギエフの計算違いは無かっただろうか。主役二人の声に合わせ、もっとネッチョリと濃厚に、オケを歌わせても良かったと思うのだ。三幕のポロネーズ辺りも、聴衆が思わず踊り出したくなる位、思い切り遣って欲しかった。

 読み替えの無いオーソドックスな演出は、本場ロシアのご当地物と云う意味で、一応の見応えはあったと思う。一幕では玉入れのように、そこら中に転がっている赤と黄色の林檎を、二幕はコーラスのメンバーの纏ったルバシカやサラファンを彩りとする舞台で、三幕では林立する灯籠のような照明と共に、チャイコフスキーの抒情的な音楽に対応する美しい舞台だった。このプロダクションは中国国家大劇院との共同制作で、外国人向けにステレオ・タイプな帝政ロシアを視覚化したとも云えるが、でもこれを本場のロシア人も結構喜んで観ているようで、ゲルギエフは「理想的なプロダクション」で「これだけは何時も満員」と主張するのである。

 只まあ、巡業向きに簡素なセットや、灯籠のような照明の使い方や、緞帳を引いて舞台空間を狭める手法等、どうしても昔懐かしいスタニスラフ・ガウダシンスキーの舞台を連想して終う。要するにオーソドックスなロシア物の演出では、未だガウダシンスキーの呪縛から逃れ切れないと云う事だろう。何処かで見たようなデジャヴに襲われる舞台で、そろそろチャイコフスキーやムソルグスキーやボロディンも、もう少し捻った演出で観たいと思う今日この頃である。
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プッチーニ「マノン・レスコー」

2016-10-02 | プッチーニ
<第25回みつなかオペラ/プッチーニ・シリーズ>
2016年10月2日(日)14:00/川西みつなかホール

指揮/牧村邦彦
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
みつなかオペラ合唱団

演出/井原広樹
美術/アントニオ・マストロマッテイ
照明/原中治美
衣裳/村上まさあき
振付/生駒里奈

マノン/並河寿美
デ・グリュー/藤田卓也
レスコー/迎肇聡
財務官ジェロンテ/片桐直樹
学友エドモンド/谷村悟史
音楽教師/森理奈
舞踏教師/橋本恵史
船長/西村明浩
点灯夫/柏原保典
宿屋の主人&警備隊長/赤澤俊明


 昨年まででベッリーニ三連発上演を終え、今年から新たにプッチーニ三連発に取り組む、川西みつなかオペラの演目選定は常に意欲的である。キャパ五百名のホールでプッチーニを遣る、その蛮勇も誠に凄まじい。このホールは一見した処、室内楽専用のようにも見えるが、小さいながらオケピットを完備して、オペラ上演に対応している。

 そのピットを開演前に覗き込むと、トランペットとトロンボーンは一本づつで、コンバスは二台にチェロは四台と、オケは総勢で三十名余りのようである。切り詰めた編成でプッチーニでもヴァーグナーでも、何でも遣るのは、ヨーロッパの田舎のオペラハウスでは普通にあるらしいが、原典絶対主義的な傾向のある日本では珍しいかも知れない。まあ、原典通りの編成か、然らずんばヴォーカル・スコアと云うのも融通の利かない話で、臨機応変なリダクション版での演奏は、もっと奨励されて然るべきだろう。

 でも、指揮の牧村は実に気持良さそうにオケを煽るが、二幕までは空回りした印象で、演奏自体は然程に盛り上がらない。また、マノンの並河寿美は最初から確り歌えていたが、デ・グリューの藤田卓也の方は、一幕のアリア「見た事もない美人」が、くぐもったような抜け切らない声で、不安定な立ち上がりを露呈し、演奏全体のクオリティを下げて終う。ただ、デ・グリューは全曲に亘り、立て続けにアリアやデュエットを歌わねばならず、負担の大きい役である事は間違い無い。序盤を抑え気味に入るのは、致し方無い部分もあるが、やはり藤田の力不足と云うか、エンジンの掛かりの遅いのは否めない処だ。

 中音域以下のヴォリュームに不足し、高音部とのバランスを失していた藤田の歌声も、曲の進むに連れて次第に修正される。高低の音域で満遍なく磨かれた美声で、フレージングもスムーズに繋げ、超高音も余裕で聴かせ、三幕のアリア「正気を失くした私を」では絶唱と云える出来栄えを示す。並河寿美の方は、二幕のアリア「柔らかいレースに包まれても」から既に本調子で、四幕の「棄てられて一人寂しく」では、高低の音域で満遍無く声を響かせ、ピアニシモでは倍音を存分に鳴らし、そこからフォルテシモまで持って行く、抜群のテクニックで存分に聴かせる。

 レスコーの迎肇聡は小さなホールで楽々と歌えて、声量不足を感じさせず、恐らくは実力以上に聴かせる。ちょっと癖のある声質も、エドモンドの谷村悟史の素直な声と対照的で、良いアンサンブルを作っていた。ジェロンテの片桐直樹は寄る年波か、声の音色が年寄り臭くシワ枯れて、でもなかなか良い味を出していた。

 しかし、そんな風に歌手の揃って来た三幕以降も、上演としては今一つ不完全燃焼の感が残る。プッチーニが「マノン・レスコー」に付けた音楽は、ブンチャッチャの単純なイタオペの伴奏と、完全に一線を画してシンフォニックだが、但し現代的にクロマティックな響きは無い。今日の指揮者のように、ベルカント・オペラのような調子で煽るだけでは、その音楽を充全に表現出来ない憾みは残る。

 これまで僕は完全にボンクラ認定していた演出だが、今回は不自然な小細工を控え、交通整理に徹したのは祝着至極である。ただ、二幕でマノンとデ・グリューがイチャつく場面は、折角ダブル・ベッドも出した事だし、もっと露骨に性行為を表現すれば、ジェロンテの嫉妬の深さも伝わる筈だが、そこまで彼に望むのは酷と云うものだろう。
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モンテヴェルディ「ポッペアの戴冠」

2016-09-24 | バロックオペラ
<あいちトリエンナーレ2016舞台芸術公募プログラム>
2016年9月24日(土)14:00/名古屋市芸術創造センター

演出/池山奈都子
照明/曽我裕幸
衣装/下斗米大輔

東海バロックプロジェクト
ヴァイオリン/荻野美和/廣田雅史
チェロ/高橋弘治
ガンバ&リローネ/宇田川貞夫
テオルボ&バロックギター/佐藤亜紀子
リコーダー/小谷智子/片岡博明
チェンバロ/杉浦道子
チェンバロ&オルガン/鈴木美香

ポッペーア/加藤佳代子
ネローネ/小林木綿
オットーネ/彌勒忠史
オッターヴィア/志田理早
セネカ/森田学
乳母アルナルタ/丹羽幸子
侍女ドゥルシッラ/本田美香
小姓ヴァレット/長谷川菊
侍女ダミジェッラ/石原由佳子
愛の神アモーレ/原田幸子
兵士/片山博貴
兵士&警吏リットーレ/蔦谷明夫


 東海バロックプロジェクトは名古屋近辺の古楽器奏者が集まり、専ら室内楽のコンサートを自主公演している団体らしい。音楽監督的な存在は置かず、大編成の曲に取り組む際には、その都度他所からリーダー格を呼ぶようで、今回はガンバ奏者の宇田川貞夫をアドヴァイザーとして招聘している。因みに「ポッペーアの戴冠」は、今日が名古屋初演だそうである。

 器楽と声楽でほぼ半々づつ、二十名余りでの上演だが前に立つ指揮者は居らず、コンミスの合図で演奏は始まる。前奏の後、まずはプロローグで愛の神アモーレ、つまりキューピッドの登場だが、暫く待っても運命の神と美徳の神は出て来ない。はて?と首を傾げ配役表を見ると、三人で掛け合いする筈の神様は、アモーレの原田幸子しかクレジットされていない。全く開けてビックリだが、今日は昼夜二回公演で時間短縮の為の大幅カットも、当然と言えば当然だった。まあ、そんな実際的な事情は分かるにせよ、セネカがネローネに死を命ぜられる場面を、完全に素っ飛ばしたのには仰天したし、オッターヴィアのアリア「さらばローマ」の後、直ちに愛のデュエット「ずっと貴方を見つめ」に移り、そのまま幕切れとなったのには、呆れるよりも笑って終った。

 それはさて置いて話を戻すと、アモーレの原田幸子は軽やかなレジェーロで聴かせ、まずは快調な滑り出しである。しかし、続いてネローネを警護する兵士は、若い二人の歌と演技が未熟で、又もや気を削がれて終う。脇役に若手を使うのは日本オペラ界の悪しき慣習で、小さな役にベテランを配してこそ、上演全体のレヴェルも高まるのだ。

 本日出演の歌手の中で唯一、名を知られた存在であるオットーネの彌勒忠史は、さすがの声量で他を圧倒するが、モンテヴェルディらしい曲想の切り替えが出来ない。一幕のアリア「やはりここに帰って来た」で、疲労困憊でローマに帰着した安堵感から嫉妬へ、喜びから躊躇いへと、一瞬の内に転換する劇的な効果が測られていないのである。ただ、これは彌勒独りの責任では無く、オケの演奏も曲想の転換は上手く行っていない。もっとテンポをハッキリ切り替え、明暗をクッキリ際立たせないと、モンテヴェルディを特徴付ける劇的な彫りの深さは失われて終う。

 今日、歌手の中で傑出していると感じたのは、ネローネの小林木綿だった。スピントしてから柔らかく歌って、音色を多彩に変化させ、ネローネの激情を表現して見事だった。だが、その相方を務めるポッペーアのソプラノはパッとせず、上演全体の印象まで悪くしている。スルスルと横に流れるだけで、聴かせ処を把握しておらず、音色の変化も無いので明暗の対照は付かない。技術的に中音域以下で声に芯が感じられず、表現力そのものを失くして終う。

 これに対し、オッターヴィアの志田理早は声に力のあるメゾで、スピントしてから音量をメゾピアノまで落とす、バロック唱法を心得ているし、ドゥルシッラの本田美香も自分の役処を弁えた歌い振りだった。バロック唱法では基本的に力を入れてから抜くフレージングで、その際にクレシェンドするのかディミヌエンドなのか、或いはリタルダンドするのかアチェルランドなのか、臨機応変に個人で判断せねばならない。その辺りの理解を欠く歌手の場合、起伏は無く彫りの浅い、表現力を欠いた歌になって終う。今日の歌手で云うと、アルナルタはテノールの音域の役をメゾに歌わせ、サッパリ声を出せずに平板で、ヴァレットは声自体はスープレッド系で面白かったが、やはり平板な歌い振りに終始した。セネカはそもそも声量不足で、メリハリが付かなかった。

 この公演の為、掻き集められた歌手達には経験豊富な者も居れば、バッハ以前の音楽の様式感を根本的に欠く者も居て、モンテヴェルディへの理解度に激しくデコボコがある。様式感を欠いた浅い解釈で、訳も分からず上っ面の歌を唱っている連中は、然るべき専門家がビシバシ指導すべきで、今回その役割は顧問格の宇田川貞夫が担うべきだった。だが、アドヴァイザー等と云う、ユルイ肩書で参加している時点で宇田川に、そのような責任を負う意志の無いのは明白だ。今回の上演全体の責任を引き受ける、ディレクターを明示しない時点で、上演の成功が覚束ないのは分かり切った話だ。

 演出も「こんなもの本当に必要か?」と言いたくなるレヴェルだった。ホリゾントの映像も、舞台上に置いたライトだけの照明もショボく、何れも場面毎の雰囲気を伝える効果は無い。歌手は手を胸に当てたり、前へ差し伸べたりするだけで、動作に何の意味付けも無く、もう少し内容に絡めた動きを考えて欲しい。女声で脇役の四名は、何れも黒のドレスに色違いのショールを掛け、舞台に出て来た段階では誰が誰だか良く分からない。恐らく演出家は、舞台上の交通整理すらままならない程、モンテヴェルディの音楽に無理解なのだと思われる。

 無い方がマシな演出に、抜粋上演と云うべきダイジェスト版で、かなり残念な「ポッペーアの戴冠」だった。今後は舞台作りに掛ける手間と費用を、全て音楽的な練磨に充当し、演奏会形式全曲上演を目指して欲しい。取り敢えずは充全なオペラ上演の為、モンテヴェルディとルネサンス・バロック音楽に精通した、適任の指揮者を探す事からお勧めしたい。
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