オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

ヴェルディ「ファルスタッフ」

2016-06-24 | ヴェルディ
<大阪音楽大学創立百周年記念公演/プレミエ>
2015年10月30日(金)18:00/ザ・カレッジ・オペラハウス

指揮/下野竜也
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

演出/岩田達宗
美術/増田寿子
照明/原中治美
衣裳/前田文子
振付/北浜竜也

ファルスタッフ/田中勉
フォード氏/晴雅彦
フォード夫人アリーチェ/松田昌恵
クイックリー夫人/荒田祐子
ペイジ夫人メグ/並河寿美
ナンネッタ/石橋栄実
フェントン/清水徹太郎
医師カイウス/清原邦仁
従者バルドルフォ&ピストーラ/小林峻/松森治


 去年は関西二期会の五十周年で「ドン・カルロ」、今年は大阪音大の百周年で「ファルスタッフ」と、何故か関西ローカルでは節目にヴェルディを選ぶ。理由は知らない。今回のキャストは大阪音大教員の中でもベテランの大御所と、現役バリバリの准教授クラスの混成チームで、事前の上演への期待と不安は、相半ばすると云った処だった。

 幕が上がり演奏も始まると、開演前に相半ばしていた期待と不安は、良い方向へ転がり始める。その立役者は意外と云うと失礼だが、指揮の下野竜也だった。僕の知る限り、下野にヴェルディの経験は殆んど無い筈で、恐らく「椿姫」すら振った事の無い指揮者が、何故ここまで踏み込んだファルスタッフ解釈を示せるのか、殆んど謎めいていると思える程だ。フォルテ以上の大音量では切れ味鋭く、メゾ・ピアノ以下では生気ある弾むリズムで、緩急の切り替えを巧みに行い、何れもヴェルディの勘所を掴んで見事だ。ただ単に煽って盛り上げるのでは無い、オケを的確にドライヴするノリの良い演奏で、歌手を気分良く歌わせているし、現代音楽のスペシャリストらしく、一幕の九重唱を捌く手付きも水際立っていた。ホントなんで下野さん、こんなにヴェルディが巧いんでしょうねぇ。

 お寺産まれの今回の演出家は、ファルスタッフを煩悩を抱えた凡夫を丸ごと引き受ける、阿弥陀仏やイエス・キリストのような宗教的存在と措定する。そこでガーター亭は宗教施設として、屋根の天辺に十字架を戴く次第となる。アイデアとしては悪くないが、問題はその解釈を如何に舞台上に視覚化し、歌手の演技と共に説得力を持たせるかにある。演出家の能書きは、それはそれとして承るのみである。

 僕も今回のタイトル・ロールの田中勉を、日本有数のヴェルディ・バリトンと認めるのに吝かでは無い。田中の声自体はファルスタッフには軽目だが、ヴェルディの音楽を手の内にして、持ち前の美声に物を言わせる、その歌い振りに余裕を感じさせる。ただ問題は、この方が文字通りの大根役者で、演技面では全く機能しない点にある。これを埋め合わせる為、演出家は大阪音大ミュージカル科出身のダンサー(ちっちゃい女の子だった)を起用し、田中ファルスタッフの周りを飛び回らせる。たが、これで田中は彼女に頼り切りとなり、一層何もしなくなる悪循環に陥っているように見える。

 ファルスタッフと共に演技力を要求される、クイックリー夫人の荒田祐子の大根役者振りも、聊か目に余るものがあった。荒田は演技出来ない上に声量も無く、歌手に取って美味しい筈のクイックリーと云う役を、退屈極まる歌と演技で塗り潰している。タイトル・ロールとクイックリーが大根だと、喜劇としての「ファルスタッフ」は全く弾まない。それを何とか糊塗しようとする、演出家の努力と工夫は分かるが、やはりこれでは処置無しである。同じく声楽科の大御所で、アリーチェの松田昌恵はまずまずの出来だったが、この人も声自体のツヤに乏しく、歌い手としての魅力に欠ける。

 岩田は何も特別な事はしないが、合唱のモブ処理は上手く出来たし、コメディ演出としては遣り過ぎず抑え過ぎずで、オペラを楽しませるツボを的確に押さえていた。それだけに声楽科教授の大根役者に足を引っ張られたのは、見ていて気の毒ですらあった。脇役の筈のカイウスとパルドルフォを悪目立ちさせたのも、恐らく何も出来ない主役三人をカヴァーする為の弥縫策だろうが、その煽りで主役級のフォードを務める、演技派の晴雅彦に何の見せ場も作らなかったのにも疑念は残る。字幕で語尾の助詞を「YO」等と表記するのも、奇を衒った積もりだろうが悪ふざけに過ぎて気色悪い。

 メグの並河寿美とナンネッタの石橋栄実は、国内一線級のオペラ歌手で、その額面通りの実力を発揮した。並河の声には潤いと輝きがあり、アンサンブルの中に入っても一際の精彩を放つ。フェントンの清水徹太郎は石橋と同じくレジェーロな声質で、この二人のデュエットは柔らかく美しく、また見た目も若々しいので役にピッタリ嵌まっている。三幕のナンネッタの女声合唱付きアリアも、石橋が柔らかい美声を振り撒き実に素晴らしかった。ただ、並河と石橋が主導権を握り、演技と歌の両面でパッとしない松田と荒田をリードする形となり、ファルスタッフを懲らしめる為に謀議を凝らす、お楽しみの女声アンサンブルもバランスを失して終う。

 「適材適所」と云う言葉が裸足で逃げ出しそうな上演だったが、それでもキャストの配置転換をするだけで、改善の余地はありそうに思う。クイックリーに並河を、アリーチェには石橋を、そしてピストーラに晴を回せば、ずっとマトモなアンサンブルになる事を請け合う。ナントカと鋏は使いようで、大根役者を使いこなすのも演出家の芸の内だろう。それとタイトル・ロールの周りを、ピラピラ跳び回っていた女の子も目障りなので、彼女にメグを歌わせれば結構ハマったかも知れない。まあ、そうすると女声歌手は一人余るけれども…。
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春夏秋冬、磐城壽を呑む。

2016-01-01 | 震災関連


 皆様に謹んで新年のお祝いを申し上げます。太平洋を間近に望む浪江町請戸の酒蔵で、東日本大震災の津波に一切を流された上、フクシマ・ダイイチの事故で故郷を追われ、今は雪深い山形県長井市で酒名「磐城壽」を醸す、鈴木酒造店長井蔵を支援(只ひたすら磐城壽を呑み酔っ払う)する記事です。



 自称“磐城壽マニア”の割烹居酒屋「堂島雪花菜」謹製のお節料理と、我が家のお雑煮をアテに、磐城壽・季造りしぼりたて生酒で新年を寿ぎました(実は去年の正月写真の虫干しですけど)。勿論、実店舗にも赴き、磐城壽で呑んだくれました。磐城壽三昧の一年を振り返ります。


      磐城壽・季造りしぼりたて中汲み純米酒


          磐城壽・純米吟醸夢の香


        磐城壽・赤ラベル山廃純米原酒


         これは酒のアテの八寸。


       磐城壽・山廃熟成純米酒アカガネ


        春のお料理で鰆の茶碗蒸し。



 磐城寿・純米吟醸「甦る」は、福島県内から長井市に避難した被災者が、循環型農業を目指し運営する福幸ファームで、回収した一般家庭ゴミで作る堆肥で栽培した「さわのはな」米を使い醸したお酒。原発事故による避難の一番の被害者である子供達の為、「甦る」の売上の一部は避難児童・生徒の支援に使われている。


         初夏のお造り盛り合わせ。



 磐城壽・限定純米酒「空水土」は原発事故以前、広く県内の酒造家に酒造好適米を供給していたが、事故の影響で栽培委託が激減し、存続も危ぶまれる事態に陥った農家の支援の為、福島市松川町水原地区で栽培された山田錦で仕込んだお酒。「本当の空・水・土を取戻し、私達の故郷を震災前より誇れるものにしよう!」と云う願いを込めている。


         秋のお造り盛り合わせ。



 廃業の後を承け鈴木酒造店が引き継いだ、元の東洋酒造の銘柄で、長井市産亀の尾を使い仕込まれたお酒、純米吟醸「鄙の影法師」。右側は磐城壽・純米酒。


これは私の口には入りません。他の客の注文した鮑を盗撮しました。



 やはり旧東洋酒造の銘柄で大吟醸・一生幸福と、磐城壽・山廃純米大吟醸山田錦。磐城壽の方は兵庫県産山田錦を四十五%まで精米し、協会九号酵母で仕込んだ鑑評会出品酒。但し、全く香らないし、そもそも何故に大吟醸で山廃なのか、謎に包まれたお酒。



 昨年十月に行われた日本酒イベントの為、鈴木酒造店長井蔵から来阪された鈴木荘司常務と、堂島雪花菜の大将をツーショットで記念撮影。その節はご協力有難うございました。序でに翌日は堂島雪花菜の十周年のお祝いの会だが、僕は残念ながらオペラ見物で欠席なので、鈴木常務さんの為に明日開栓する筈だった、大将秘蔵の震災前の磐城壽を試飲させて頂く。


           磐城壽・山廃純米生原酒「土耕ん醸」(製造年月22.3)



           磐城壽・中汲み純米酒(製造年月2010/1月)

 酒の味は記憶に基づくし、震災前後に福島と山形で作られた磐城壽の、どちらが旨いとかは軽々に言える問題では無いとの感想を抱く。要するに震災前に請戸の蔵で作られた酒に、郷愁は感じても幻想を抱くのは難しくなった。今現在の磐城壽を有りのままに応援(只ひたすら磐城壽を呑み酔っ払う)する事を、年頭に当たり改めて誓う次第である。
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ドニゼッティ「愛の妙薬」

2015-10-12 | イタリアオペラ
<文化庁委託事業/藤原歌劇団公演>
2015年10月12日(月)16:30/香川県民ホール

指揮/柴田真郁
テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ
藤原歌劇団合唱部

演出/粟國淳
美術/横田あつみ
照明/稲葉直人
衣装/パスクアーレ・グロッシ

アディーナ/高橋薫子
ネモリーノ/中井亮一
ベルコーレ軍曹/折江忠道
ドゥルカマーラ博士/東原貞彦
村娘ジャンネッタ/楠野麻衣


 「文化庁委託事業戦略的芸術文化創造推進事業」と長ったらしい、行政から補助金を引き出す企画で、七月には東京二期会「魔笛」を聴きに鳥取へ、今回は藤原歌劇団の「愛の妙薬」で、うどん巡りがてら高松まで出掛けた。主役にベテランと若手でアジリタのある二人を据える、魅力的なキャストに惹かれての訪問である。

 先に言って置くと、そもそも「愛の妙薬」に深い解釈等ある筈も無く、只もう声さえコロコロと転がれば、それで満足出来ると思い込んでいた僕は、今日の上演に肩透かしを喰らった気分である。まず初めて聴く指揮者である、柴田真郁の白黒ハッキリさせる音楽作りは悪くないが、今ひとつ弾まないオケに不満を覚える。畳み掛けるアチェルラントと、爆発するフォルテシモが無いのには、四十名足らずのオケの規模の問題もあるのだろうか。演出も一向に弾まない。コーラスを含めたほぼ全員が棒立ちのままで、何故イタオペらしい大袈裟な演技を付けないのか解せない。みんな踊りながら歌い演技し、盛り上げるのが「愛の妙薬」だろうにと思う。まだ若手の粟國淳に才気はあると思うが、良い時とダメな時の落差は大きいようだ。

 ノー天気オペラの代表選手「愛の妙薬」であっても、オケも舞台もイマイチでは、幾ら歌手だけ頑張っても限界はある。アディーナの高橋薫子は立ち上がり不調で、加齢でヴィブラートもキツくなったかと心配したが、直ぐに立て直して来る。レジェーロの透明で清澄な声の美しさは健在で、今日の五人の歌手の中では、声量的にも際立っている。ネモリーノの中井亮一はスタイリッシュな歌で、恋する若者らしい激情の表現が無く、その辺りに物足りなさを残す。ベルコーレとのデュエットは楽しかったし、「人知れぬ涙」は切々として良かったけれども。

 ベルコーレの折江忠道は大ベテランで、さすがに存在感のある声と演技で舞台を引き締めている。これを逆に言えば、この方が居なかった場合の今日の舞台は、かなりユルかっただろうと云う事。地元高松出身でドゥルカマーラの東原貞彦は、小じんまりしたバリトンで、このオペラの要とも云うべき役には無理がある。声も演技も力不足で、この人が舞台に出て来るだけで著しく盛り下がる。ジャンネッタの楠野麻衣も徳島出身の若手だが、こちらはコケットリーを声と演技で表現出来るソプラノで、充分に職責を果たしていた。

 会場の香川県民ホールのある高松城址は、海水をお堀に引き入れる海城で、瀬戸内海の島々を見渡す絶好のロケーションにある。香川には現代アートの瀬戸内国際芸術祭と云う成功例があり、これと連動して高松市立のサンポートホールも使い、コンテンポラリーな舞台芸術の展開を図れば、讃岐うどん県のイメージ・アップに繋がる筈だ。眺望の良さは日本でも屈指なだけに、効果的な活用法を考えて欲しいホールである。正直、僕には藤原の旧態依然としたオペラ公演の、地元の音楽文化への貢献度を計り難いのだ。歌手はソコソコ満足すべき出来だったが、指揮と演出に物足りない部分を残す、不完全燃焼な気分を引き摺る公演だった。

 三連休最終日の公演でもあり、前日から泊まり掛けでうどん屋を回るが、高松市街地では日曜祝日は休みのお店も多く、レンタサイクルで郊外まで遠出した。久し振りに竹清と馬淵を訪れるが、両店とも代替わりしたようで、年配の大将の姿は見えず、若い衆がうどんを打っている。それと共に以前の柔らかく味わい深い麺も、今風の硬い麺に変わったように感じる。こればかりは個人の嗜好の問題で、偶に来る県外人の口出しする事では無いが、うどん屋の画一化が進むようで気になる処である。赤坂と橋本の大将も亡くなられたと知り、香川の讃岐うどん店にも世代交代の時期が来ているのかと、一抹の寂しさを覚える今日この頃である。
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ロベルタ・マメリ ソング・コレクション

2015-09-29 | 声楽&室内楽
2015年9月29日(火)19:00/ザ・フェニックスホール

ソプラノ/ロベルタ・マメリ
ギター/つのだたかし

マウロ・ジュリアーニ「1.Abeschied 別れ/3.Abeschied 別れ(六つのリート)op.89/アレグレット」
フェルナンド・ソル「1.Cesa de atormentarme 私を苦しめないで/2.De amor en las prisiones 恋の牢獄に/6.Muchacha y la verguenza 娘と羞恥心/11.Las mujeres y cuerdas 女とギターの弦は(12のセギディーリャ)/Lagrime mie d'affanno 悲しみの涙」
カタルーニャ民謡「鳥の歌」
グラナドス「La maja dolorosa 悲しみのマハ」(昔風のスペイン歌曲集)
武満徹「雪/翼/○と△の歌」
ヴィラ・ロボス「アリア(ブラジル風バッハ第5番)/Melodia Sentimental メロディアス・センチメンタル/Veleiros 帆船(アマゾンの森)」
プーランク「サラバンド」
モンポウ「Damunt de tu nomes les flors 君の上には花だけが」(夢の戦い)
ピアソラ「Ave Maria アヴェ・マリア/Oblivion 忘却 Oblivion /Se potessi ancora もしもう一度」


 ロベルタ・マメリは八年前、ラ・ヴェネクシアーナの一員として初来日し、圧巻の演奏を聴かせた後にソリストとして一本立ちし、オペラリサイタルに出演を重ねているソプラノである。これまでマメリの歌曲レパートリーは、ディンディアやカッチーニ等、初期イタリア・バロックに限られていたが、そこにはコンサートをプロデュースする、つのだたかしがリュート奏者だからと云う、とてもシンプルな理由があったらしい。でも、マメリの来日リサイタルも回を重ねて、そろそろリュート・ソングもネタ切れとなった処で、つのだ長老が自分はギターも弾けると申し出て、今日のラテン音楽プロの採用に至ったらしい。

 コンサートは専ら十九世紀のヴィーンで活動したイタリア人で、「調子の良い鍛冶屋」や「セビリアの理髪師」のギター編曲で知られる、マウロ・ジュリアーニのドイツ・リートで始まる。別にそのような先入観を持って聴いたからでも無く、ごく普通にロマン派っぽい、安物のシューベルトみたいな曲と感じる。それとマメリの歌い口では、ピアニシモの音量が大き過ぎる上に、フォルテの出し方も唐突に聴こえて、何処かで計算違いしているように感じられる。やはりドイツ・リートであれば、もう少し語るように歌って欲しい。

 フェルナンド・ソルもロマン派のスペイン人で、ギター曲「魔笛の主題による変奏曲」で有名な人。ドイツ語に続いてスペイン語だが、ここでピアニシモの音量も小さく、フォルテの使い方も適切となり、漸くエンジンも掛かって来たように感じる。次のグラナドスはピアノ独奏の「スペイン舞曲集」を、アリシア・デ・ラローチャが好んで弾いた作曲家で、何だかギター通俗名曲集みたいな顔触れが続く。ここに至ってマメリもフル・スロットルで、低音を強く出せる音域の広さを生かし、ラテンの血を感じさせる情熱を発散する。

 それと比べるまでも無く、マメリの伴奏を務める合間に「鳥の歌」など弾く、つのだ長老の演奏は相変わらずテンションが低い。まあ、リュート・ソングをジャカジャカ弾くのもヘンな話で、この方の常に淡々とした演奏振りも、これまで楽器の性質上の問題と捉えていたが、ギター曲を弾かせても一向にテンションを揚げる気配は無い。こうなるとこの低体温な演奏が、この人本来の持ち味と理解すべきなのだろう。

 グラナドスに続くのはタケミツで、ギター歌曲の作り手の偏りを実感する。ここで驚かされたのはマメリの日本語の巧さで、鼻濁音もキチンと出来ていて、やはり子音に母音のくっ付くイタリア語には親近性があるのだろうか。ここでもマメリのアルトっぽい低音の使い方は巧みで、「翼」でフォルテを出さずに歌い収めたのも効果的だった。

 こうしてヴィラ・ロボスに辿り着く訳だが、ここまでマメリの声に一切のヴィブラートの掛からないのを、やや物足りなく感じる。やはりロマン派や民族音楽では、ヴィブラートを掛ければ効果的な場合もあり、その辺りに古楽歌手の限界は感じざるを得ない。サラバンドはプーランク唯一のギター・ソロ曲だそうで、ポロポロと爪弾く音でも、如何にもなプーランク節なのが面白い。

 プログラムの最後はピアソラのタンゴ。アヴェ・マリアは歌詞抜きのヴォーカリーズで、母音のみで存分に聴かせる、マメリの声の魅力を堪能する。後の二曲はスペイン語では無くイタリア語訳で歌われたが、叫ぶようなフォルテと囁くようなピアニシモで、これこそ本日の白眉と言える絶唱。持ち前のテンペラメントを、思い切り表出して見事だった。

 今月はロベルタ・マメリの他にも、高橋美千子太田真紀と三人のソプラノをコンサートで聴く機会を得た。スター歌手とは呼び難いし、世間的に名の通った存在とは云えない三人だが、それそれに掛け替えの無い個性を持つソプラノだった。そこには評価の定まった大歌手を聴くのとは違う、純粋に音楽を聴く楽しみがあったように思う。
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ベッリーニ「ノルマ」

2015-09-20 | イタリアオペラ
<第24回みつなかオペラ/V.ベッリーニ“ベルカント・オペラ”シリーズ>
2015年9月20日(日)14:00/川西みつなかホール

指揮/牧村邦彦
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
みつなかオペラ合唱団

演出/井原広樹
美術/アントニオ・マストロマッテイ
照明/原中治美
衣裳/村上まさあき

ノルマ/尾崎比佐子
ポリオーネ/藤田卓也
アダルジーザ/木澤佐江子
族長オロヴェーゾ/片桐直樹
乳母クロティルデ/味岡真紀子
副官フラーヴィオ/小林峻


 川西市民オペラの重量企画で、ドニゼッティとベッリーニを三作づつ連続で、計六連発するベルカント・シリーズも、目出度く最終年度を迎えた。結局、僕はその内の半分しか聴けなかったが、多少のデコボコはあるにせよ、概ね良質で内容豊富な上演だった。まずはベッド・タウン・オペラの敢行した、国内では稀有な好企画の完遂を寿ぎたい。

 キャパ四百席余りの小ホールで、ピットにオリジナル編成のオケの入り切らない難点はあったが、その代わりに歌手は声を張り上げる必要も無く、ベルカント・オペラの上演に相応しい環境が整っていた。切り詰められたオケ編成にしても、ハープは舞台脇の狭い空間に、バスドラムはピットの出入り口の奥に配置する等、涙ぐましい様な工夫を凝らし、原曲と聴き紛う豊かな響きを実現していた。これまでのベルカント・シリーズでオケに関し、僕は一切の不満を感じる事は無かった。

 歌手に付いて、今回の公演で事前の期待が最も高かったのは、何と云っても昨年の「清教徒」でアルトゥーロを務め、ハイFを出した藤田卓也と思われる。彼が今回のポリオーネでも、行くとして可成ら去るは無しの超高音を、存分に聴かせてくれるか否かに、興味の焦点は絞られていたと云える。従ってオペラ冒頭で歌われる、「共にヴィーナスの祭壇へ」で、多分ハイCだと思うが出し損なった時点で、もう今日はこれで終ったと、僕は諦め気分に陥った。

 気の毒なポリオーネには、これ一曲しか単独のアリアは無く、名誉挽回のチャンスも無いのである。ベルカント・オペラでのプリモ・テノールの存在価値は、ハイC以上を出せるか否かで測られると、僕は断言して憚らない。そもそも今回の藤田はやや力み過ぎで、これがヴェルディやプッチーニを歌う為、故意に重い声を作り、高音の出なくなったので無ければ幸いである。オロヴェーゾの片桐直樹は声に揺れが目立ち、こちらは加齢に拠る衰えの兆しかも知れない。

 ノルマの尾崎比佐子はヴィブラートの少ない、透明な声質が役にハマっている。コロラトゥーラの技術は堅実だし、多少メリスマの滑る傾きはあるが、アジリタはソコソコ頑張って、アリア「清き女神」ではベテランらしく安定した実力を発揮する。アダルジーザの木澤佐江子も柔らかく暖かい、少女っぽい清純さを自ずと表現出来る声質の上に、デュナーミクの強弱で音楽に変化を与える工夫もある。最初は重かった藤田の声も、木澤とのデュエット「去れ残酷な人よ」では軽くなって来る。主役の三人は総じてヴィブラートのキツくない、ベルカント向きの声で安心して聴けるレヴェルにあった。

 ただ、演出は毎度の事ながら、安心して観ている訳には行かない。歌手やコーラスへの振り付けが皆目意図不明で、ただ単に何か動いていさえすれば、それで良しと考えているとしか思えず、観ていて煩わしいとしか感じないのである。一方、主役三人のみが舞台に残る一幕二場になると、動きはパタリと止まって終う。何もしないとなると、今度は全く動かなくなり、見ていて退屈の極みとなる。ノルマとアダルジーザの間で、意味も無くウロウロするだけのポリオーネを見ていると、次第に怒りすら込み上げて来る。

 しかもこの長丁場の間、薄暮のようなサスライトには何の変化も無い。三人の内の誰かにスポットを当てるとか、何かしら工夫の仕様もあるだろうに等と思いつつ、休憩時間を過ごした後、二幕冒頭から再びノルマとアダルジーザのデュエットが終わるまで、引き続き牢固として照明に何の変化も無かったのには、呆れるのを通り越して力が抜けて終った。

 まあ、演出には目を瞑るとしても、問題は二幕以降のノルマだ。兎に角、大きな良い声で歌おうと意識し過ぎで、音色の変化にも乏しく、言葉の意味も置き去りとなり、音楽の内容を無視して力み出す。力み勝ちだった藤田君の方は、ノルマやアダルジーザとのデュエットやトリオでは肩の力も抜け、上手く女声二人を支えたが、その代わりにタイトル・ロールの張り切り方も目立つのだ。

 こんな小さなホールで、しかもベルカント・オペラであれば、声を出すのに力む必要など全く無い。ところが今日はノルマが大声を張り上げると、観客も興奮し始め、逆に歌う側も煽られる悪循環を起こす。幕切れに向け尾崎が力み返ると、客席は益々ヒート・アップして行く。もっと力を抜いて歌えば、声も伸びやかに響き、より美しいノルマを聴かせられる筈と思うが、一世一代の大舞台に力む歌手を責める気にもならない。どうも今日の客席の盛り上がりは内輪受けクサく、果たして何処まで本気なのかも疑われるのである。

 関西ローカルのオペラ上演で、客席に関係者の詰め掛けるのは毎度の事で、それをとやかく言うのも詮無い話だ。カーテン・コールに移っても、客席の興奮は一向に収まらず、その延々と続く空騒ぎに、僕は鼻白む思いで一足先に失礼した。今日の出来は過去の公演と比べても、可も無く不可も無しと云った処だろう。不発に終わったポリオーネと、伸びやかさを欠いたノルマと、主役二人の出来を考え合わせれば、あのカーテン・コールの盛り上がりには、やはり聊かの違和感を覚えるのだ。
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