オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

モーツァルト「魔笛」K.620

2016-07-14 | モーツァルト
<歌唱ドイツ語・台詞日本語上演/プレミエ即千秋楽>
2015年11月28日(土)14:00/いずみホール

指揮/河原忠之
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

演出/高岸未朝
照明/原中治美

タミーノ/中井亮一
パミーナ/砂川涼子
夜の女王/大武彩子
ザラストロ/ジョン・ハオ
パパゲーノ/晴雅彦
パパゲーナ/田邉織恵
モノスタトス/布施雅也
弁者&僧侶/三原剛
武士&僧侶/松本薫平
武士/山川大樹
侍女/畑田弘美/雑賀美可/福原寿美枝
童子/彌勒忠史/藤木大地/村松稔之


 今年のいずみホール独自企画オペラは、東西実力派を揃えての「魔笛」上演である。目玉商品として三人の童子にカウンター・テノールを起用する等、意表を突いたキャスティングで話題作りにも勤しみ、事前の期待を大いに煽る公演だった。今日、その期待は半ば適えられ、半ばは大きく外されたと感じている。

 まず指揮の河原だが、基本のテンポ設定は全曲を通じ遅目で、もう少し畳み掛けるような局面を作らないと、上演自体ダレて終うように感じた。また、この人は緩徐部分での拍の示し方が如何にも素人臭く、速い箇所での打点は曖昧になる傾向があるし、妙な処でリタルダントを掛ける悪癖もある。まあ、以前は素人丸出しだった指揮姿も、それなりの経験を積んで、やや板に付いて来たようには見えるけれども。一幕の締め括りの盛り上げ方等、なかなか堂に入っていて、絶賛する程では無いにせよ、一応は安心して楽しめるレヴェルにはあった。それとオペラハウス管のモーツァルトは手慣れていて、彼等には指揮者の顔色を窺わずとも、演奏を着々と進めるだけの経験値がある。

 幕開けに中学校の文化祭みたいな、手作り感満載の平べったいハリボテ大蛇が登場し、上演の前途への不安を掻き立てる。でも、その後は関西勢のベテランで固めた、ダーメ・トリオが闊達な歌と演技を披露し、滑り出しはソコソコ調子良く進む。畑田弘美は飯守泰次郎さんの指揮する、関西フィル定期ヴァーグナー・シリーズの常連で、イゾルデブリュンヒルデを歌っている人。福原寿美枝は関西ではピカイチのアルトで、エボリにブランゲーネにオクタヴィアンと、目ぼしい公演に引っ張りだこの人で、雑賀美可も関西二期会「ヴァルキューレ」ではブリュンヒルデを、「ナクソス島のアリアドネ」ではタイトル・ロールを歌った実力派である。三人とも活動範囲が大井川を越さない為、首都圏での知名度は低いものの、今日の侍女トリオは関西最強の布陣と云える。

 やがてホールの外からパン・フルートの音が聴こえると、パパゲーノの登場は客席後方からと、僕が即座に予期出来るのは、それが晴雅彦のお馴染みのスタイルだからだ。客席に愛想を振り撒きつつ、通路を舞台へ向かう見慣れた晴の姿は、恐らく歌手と演出家の間の力関係を暗示している。どうやら今日の演出では、歌手に自由裁量の余地を幅広く与えていて、晴は何時もの流儀で押し通す事が出来ると、僕は憶測するのである。

 タミーノの中井亮一は冒頭の「助けてくれ、神々よ」 と、アリア「何と美しい絵姿」での、これまでの蚊細い声のイメージとは異なる、やや太目のリリコの声質に軽く驚かされる。中井のモーツァルトは初めて聴くが、ロッシーニやドニゼッティでの甘ったるい歌い振りとは異なり、力強い声で聴かせる凛々しい王子様である。テノール歌手としての新たな一面を垣間見せ、これは本日の大きな収穫と感じる。

 パミーナの砂川涼子は肉厚の声で、ヴィオレッタデズデモナを歌うヴェルディ・ソプラノだが、その美しいリリコの声質には、モーツァルトへの適性も有る筈と、僕は事前に見立てていた。彼女は低音域に力があるので、音色に自然な変化も付いて表現の幅も広く、高低にムラの無いレガートで歌える特質がある。パミーナも強目のリリコで歌われると、気丈夫そうで頼もしいし、レジェーロな夜の女王との対比も付いていて、砂川はほぼ満足の行く出来栄え。ただ、中井も砂川も指揮者の所為か、単独のアリアでテンポの遅過ぎるのは気になる。

 夜の女王の大武彩子は無名のソプラノだが、この豪華キャストの一人に抜擢され、期待通りの存在感を示してくれた。美しいレジェーロの声質に、アジリタのテクニックも抜群で、高音のコロラトゥーラにも全く力みは無く、軽やかに歌ってのけて胸の透くような快感がある。まあ、声量に乏しい線の細いソプラノで、現状で歌える役は、かなり限られている印象ではある。それと小学生レヴェルの演技は、観ていて気恥ずかしい程なので、演出の工夫で何とかすべきと思う。新人で無経験の大武を使いこなし、アンサンブルに組み込むのも演出家の芸の内だろう。

 ザラストロのジョン・ハオも歌は額面通りの出来だが、日本語の台詞で訛るのは如何ともし難い。今日のザラストロは中国人の設定かよとか思う訳で、そこに何のエクスキューズも無いのにも、大きな疑問符が付く。ここは一つ、ザラストロを爆買いする外人客に仕立て、笑いを取る位に図太く遣って欲しい処だ。また、タミーノの問い掛けに対し、パパゲーノが関西弁の台詞で答えた際、僕はその抑揚とリズムに強い違和感を覚えた。晴雅彦の語り口は如何にも不自然で、故意に奇妙なイントネーションを作っているとしか思えないのだ。他の主役級の歌手は普通の科白回しなのに、晴のような芸達者が何故、わざわざ捏ねくり回すようにクドイ喋り方をするのか、僕には理解し難い所以だ。

 断わって置くが、僕は日本のオペラ歌手の演技力に付いて、いちいちアゲつらう積もりは無い。問題は演出家の指導力不足に尽きると考える。だから今日のキャストの中で、スピーカーの三原剛の台詞回しだけ耳に心地良く響いたのは、彼の日本語の抑揚とリズムに対する、日頃の研鑽の成果でしか無いと思うのだ。R.シュトラウス「イノック・アーデン」の朗読を試みる等、三原はオペラ歌手の演技に付いて、思いを致す処のある人のようだ。勿論、歌の方も立派なもので、持ち前のノーブルな声の魅力は当然として、ドイツ語の子音の的確な処理で、美しいフレージングを作り聴かせてくれる。彼の歌を聴いていると、日本語の台詞もマトモに喋れない輩に、ドイツ語も歌える筈は無いと云う思いが込み上げて来る。

 元来、日本語はリズムと抑揚に乏しく、喋るテンポに緩急を付けないと間延びして、「魔笛」の台詞部分は退屈の極みとなる。ドイツ語で喋ってさえくれれば、抑揚やリズムに自然な変化も付き、お芝居も快調に進む筈だ。ジンクシュピールの日本語上演では、その辺りに陥穽があり、ドイツ語なら誤魔化せるアラを露呈して終う。肌理細かい演出の不可欠な所以だが、今日の歌手達の一本調子で工夫の無い語り口から、そのような演技指導の痕跡は見えて来なかった。歌手にダラダラと台詞を喋らせる、澱んだテンポ感の演出で、しかも台詞部分の翻案はクドくてダサく、メリハリや緩急を欠く小芝居が続き、ひたすらに長ったらしく感じられる。芝居の段取りも悪く、変なマの開くのにもイラッとさせられ、何故もっとスマートに出来んものかと思う。「魔笛」は吉本新喜劇の演目では無い!と啖呵を切りたい処だが、それではキチンと作り込んだコメディーを提供する、吉本新喜劇に対し失礼な言い草になる。

 ベタで泥臭い演出が鼻に付き、最後のパパゲーノとパパゲーナの遣り取りを、僕はウンザリしながら見ていた。晴と田邉のサービス精神が空回りするのを見ていると、演出の無為無策に踊らされているようで、何だか気の毒にすら思えて来る。田邉織恵は軽やかなレジェーロが役にハマるし、度々晴雅彦の相手役を務めている演技派でもあるが、素材のまま放り出されては処置無しである。優雅で快活なモーツァルトの音楽の合間に、笑えないドタバタを挟む演出に、僕はホトホト呆れて終った。こんな詰まらない舞台でゲラゲラ笑う観客は、テレビのバラエティ番組の見過ぎで、機智や諧謔と悪ふざけの区別も付かなくなっているのだろう。

 今日の演出は最低だったが、一線級を集めた歌手陣は流石の充実振りだった。強いて言えばモノスタトスが声も演技も役に合わずに埋没し、注目のカウンター・テノール童子がダサい衣装を着せられ、演技面で不発気味だった位だろうか。そのカウンター・テノール童子にしても実に良くハモって、バスを欠いたファルセット・アンサンブルの美しさと云う、未知の分野に目を開かされる思いをして、歌唱面は充分満足すべき出来栄えだった。

 ピッチの正確なカウンター・テノールを三人揃えれば、基本的に音程の悪いボーイ・ソプラノなど及びも付かぬ、超絶的なハーモニーが実現するとは、今日初めて知らされた。でも、こう言ってはアレだがカウンター・テノール、特に彌勒忠史のような奇声を発するタイプは、元々アンサンブルに溶け込み難いし、もう少し主旋律は抑え気味に歌って欲しかったとは思う。そこを改善し、今日のカウンター三人組でルネサンス世俗曲のコンサートを行えば、大きな音楽的成功を収めるのは間違い無い。

 でも、クナーベなんて所詮はガキの歌で、やはり「魔笛」ではボーイ・ソプラノを起用する、オーセンティックなアプローチが望まれる。モーツァルト本来の意図は未熟で可憐な歌唱と演技で、そこに天使の羽を背負ったムサイおっさんが三人出て来れば打ち壊しになると、今日は深く納得させられた。
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春夏秋冬、磐城壽を呑む。

2016-01-01 | 震災関連


 皆様に謹んで新年のお祝いを申し上げます。太平洋を間近に望む浪江町請戸の酒蔵で、東日本大震災の津波に一切を流された上、フクシマ・ダイイチの事故で故郷を追われ、今は雪深い山形県長井市で酒名「磐城壽」を醸す、鈴木酒造店長井蔵を支援(只ひたすら磐城壽を呑み酔っ払う)する記事です。



 自称“磐城壽マニア”の割烹居酒屋「堂島雪花菜」謹製のお節料理と、我が家のお雑煮をアテに、磐城壽・季造りしぼりたて生酒で新年を寿ぎました(実は去年の正月写真の虫干しですけど)。勿論、実店舗にも赴き、磐城壽で呑んだくれました。磐城壽三昧の一年を振り返ります。


      磐城壽・季造りしぼりたて中汲み純米酒


          磐城壽・純米吟醸夢の香


        磐城壽・赤ラベル山廃純米原酒


         これは酒のアテの八寸。


       磐城壽・山廃熟成純米酒アカガネ


        春のお料理で鰆の茶碗蒸し。



 磐城寿・純米吟醸「甦る」は、福島県内から長井市に避難した被災者が、循環型農業を目指し運営する福幸ファームで、回収した一般家庭ゴミで作る堆肥で栽培した「さわのはな」米を使い醸したお酒。原発事故による避難の一番の被害者である子供達の為、「甦る」の売上の一部は避難児童・生徒の支援に使われている。


         初夏のお造り盛り合わせ。



 磐城壽・限定純米酒「空水土」は原発事故以前、広く県内の酒造家に酒造好適米を供給していたが、事故の影響で栽培委託が激減し、存続も危ぶまれる事態に陥った農家の支援の為、福島市松川町水原地区で栽培された山田錦で仕込んだお酒。「本当の空・水・土を取戻し、私達の故郷を震災前より誇れるものにしよう!」と云う願いを込めている。


         秋のお造り盛り合わせ。



 廃業の後を承け鈴木酒造店が引き継いだ、元の東洋酒造の銘柄で、長井市産亀の尾を使い仕込まれたお酒、純米吟醸「鄙の影法師」。右側は磐城壽・純米酒。


これは私の口には入りません。他の客の注文した鮑を盗撮しました。



 やはり旧東洋酒造の銘柄で大吟醸・一生幸福と、磐城壽・山廃純米大吟醸山田錦。磐城壽の方は兵庫県産山田錦を四十五%まで精米し、協会九号酵母で仕込んだ鑑評会出品酒。但し、全く香らないし、そもそも何故に大吟醸で山廃なのか、謎に包まれたお酒。



 昨年十月に行われた日本酒イベントの為、鈴木酒造店長井蔵から来阪された鈴木荘司常務と、堂島雪花菜の大将をツーショットで記念撮影。その節はご協力有難うございました。序でに翌日は堂島雪花菜の十周年のお祝いの会だが、僕は残念ながらオペラ見物で欠席なので、鈴木常務さんの為に明日開栓する筈だった、大将秘蔵の震災前の磐城壽を試飲させて頂く。


           磐城壽・山廃純米生原酒「土耕ん醸」(製造年月22.3)



           磐城壽・中汲み純米酒(製造年月2010/1月)

 酒の味は記憶に基づくし、震災前後に福島と山形で作られた磐城壽の、どちらが旨いとかは軽々に言える問題では無いとの感想を抱く。要するに震災前に請戸の蔵で作られた酒に、郷愁は感じても幻想を抱くのは難しくなった。今現在の磐城壽を有りのままに応援(只ひたすら磐城壽を呑み酔っ払う)する事を、年頭に当たり改めて誓う次第である。
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信時潔「海道東征」

2015-11-22 | モダンオケ
<信時潔没後五十年記念>
2015年11月22日(日)14:00/ザ・シンフォニーホール

ベートーヴェン「交響曲第五番(近衛秀麿編曲版)」op.67
信時潔「海道東征(皇紀二千六百年奉祝曲)/海行かば」

指揮/北原幸男
ソプラノ/幸田浩子/太田尚見
アルト/山田愛子
テノール/中鉢聡
バリトン/田中純
大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー合唱団
大阪すみよし少年少女合唱団


 自宅を出る前に開演時間を確認すると、チラシの記載は午後二時だが、チケットの方は一時半になっていた。恐らく一時半に始まるのはプレ・トークと思われ、その頃に現地到着の予定で出発するが、着いてみると案の定で二時開演だった。この公演の主催者は産経新聞社だが、チラシとチケットの開演時間の齟齬に付いて、特にエクスキューズは無かった。

 大阪で「海道東征」のコンサートがあると知った時、既にチケットは完売していて、その後の追加公演分を発売日に確保した。今日の追加コンサートもほぼ満席で、客層の男女比もほぼ半々ではあるものの、その平均年齢の高さはやや異様に感じられる程だった。どうせ招待券をバラ撒いた残りを一般発売し、二日公演を完売したのだろうが、やはり年寄りは律儀で皆さん自分の足で歩ける内は、ご招待の義理を果たさねばと御来駕の様子だ。実際の話、そこら中に足元の覚束ないご老体が居て、気兼ねで通路を歩き難い程だった。

 コンサートの前半は、何故かベートーヴェンの運命交響曲で、それも近衛秀麿編曲版と云う骨董品である。この編曲版は要するに、往時の技術的に頼り無い金管を補強する目的で、ホルン六人にトランペットとフルートとファゴットは四人づつに増員した処へ、更にピッコロとコントラファゴットの加わる、突拍子も無い大編成である。でも、弦楽の方は通常の十四型なので、四楽章ともなれば金管は弦を圧倒する、轟音を発する次第となる。遅目のテンポでヌルい解釈ではあったが、ここでバカみたいなフォルテシモを出せばバランスを崩すのは必定で、その瀬戸際で何とか踏み止まった印象だ。結局、何の為の近衛版だったのかは、謎のまま残された。序でながら演奏の途中、楽章間でイチイチ拍手が起こり、今日の客層を端的に示したように思う。

 暫しの休憩の後、メインの「海道東征」の演奏に移る。結論から言って終うと、珍しいものを聴かせて頂けて良かった、と云う感想しか出て来ない曲だった。演奏自体はオケもコーラスも、初めての曲を良く攫っていて、特に過不足の無い出来栄えではある。ソリストに関してはテノールの中鉢聡は顔を真っ赤にして力み返り、ソプラノの幸田浩子は軽やかに歌って共に精彩を放っていた。しかし、人気美人歌手の幸田を起用したにも関わらず、彼女の歌った量の少なさは終わった後、えっ!たったこれっぽっち?こりゃ楽な仕事だよなぁ、と慨嘆させられる程だった。勿論、コロラトゥーラなど欠片も無い。アルトとバリトンは声量不足の為、狭いダイナミク・レンジの平べったい歌だったが、それは同時に信時潔の作った、旋律の平板さをも露呈したように思う。

 信時潔の代表作として「海道東征」と「海行かば」を挙げるのは、恐らく政治的な理由に基づくもので、音楽的な根拠は乏しい。信時潔の最高傑作は歌曲集「沙羅」に止めを刺す、僕はそう考えている。「海道東征」に付いても事前の先入観で、「沙羅」のような起伏に富む組曲か、或いはアリアと重唱とコーラスとレシタティーヴォを交互に配する、バッハやヘンデルのカンタータやオラトリオの形式を踏襲した曲と、僕は思い込んでいた。だが、その実演に接した感想を率直に述べれば、全曲の構成は平板な上に、個々の曲を見ても変化に乏しい、著しく面白味に欠ける曲と云った処だ。

 単純な話、ソリストの歌はアリアなのか、或いはレシタティーヴォの積もりなのかも良く分からない、平坦な旋律ばかりなのである。全曲の大詰めとなる七曲目の「白肩津上陸」や、終曲の「天業恢弘」では、平坦な旋律のまま曲の終わり際だけ、取って付けたようなフォルテシモで盛り上げ、演奏の辻褄を合わせに掛かる。北原の指揮振りも安全運転に終始した印象で、転調に拠る音色の明暗の変化や、テンポの早い部分でのリズムの立て方等、全てアッサリ流して起伏に乏しい演奏だった。まあ、この曲を如何にもそれらしく遣れば、逆に音楽の弱さを露呈する結果を招くだけかも知れないけれども。

 「海道東征」を聴きながら僕が連想したのは、清水脩「修禅寺物語」だった。清水脩は日本語を自然に美しく歌わせる事を目指し、レシタティーヴォばかり延々と続くようなオペラを書き、西洋音階の旋律へ日本語の抑揚を合わせる基礎を固めた。「修禅寺物語」の以前に作曲された、山田耕筰「黒船」や団伊玖磨「夕鶴」にアリアの旋律美はあっても、ストーリーを進める為のレシタティーヴォは皆無に等しかった。「海道東征」は「修禅寺物語」と同じく、抑揚に乏しい日本語のイントネーションを、西洋音階の旋律に生かそうとした、過渡期の実験的な試みなのである。

 この二曲は何れも、我が国の西洋音楽受容の刻苦勉励の記録として、長く記憶されるに足る音楽史的に重要な、駄作とか名作とか云う分類の埒外にある曲である。信時自身で実験的手法をテンコ盛りにした以上、そうならざるを得ない。だが、今も「黒船」や「夕鶴」を喜んで聴く人は多いけれども、「修禅寺物語」と「海道東征」の再演の機会は限られている。戦後長らく「海道東征」の再演が無かった事には、もちろん政治的な事情もあったろうが、それよりも曲自体が生硬で面白く無いと云う理由の方が大きい。今後、「海道東征」の再演の機会が増えたとしても、そこに絡むであろう政治的な意図は、僕の関知する処では無い。「海道東征」は近衛版運命交響曲と共に、博物館行きが至当と考える所以である。こんなもの一度聴けば充分なのだ。

 初日の公演には特攻服の集団が居て、みんな泣きながら「海行かば」を斉唱したとか云う話なので、当日の会場の雰囲気に付いて記して置くと、追加公演では如何にもなネトウヨは見当たらなかった。ただ、プレ・トークに出て来た電波系のおっさんが、「おまえら全員起立して歌え」とか余計な事を言った所為で、プログラムの内の「海行かば」の演奏はイヴェント扱いとなった。オケの間奏で一緒にダミ声で旋律を歌う輩がそこら中に居て、僕は心底からウンザリさせられた。僕自身は一切歌わず座ったままで居たが、そのような方は他にも大勢いらっしゃって、ネトウヨに因縁を付けられる事も無かったのは幸いだった。
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ヴェルディ「ファルスタッフ」

2015-10-30 | ヴェルディ
<大阪音楽大学創立百周年記念公演/プレミエ>
2015年10月30日(金)18:00/ザ・カレッジ・オペラハウス

指揮/下野竜也
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

演出/岩田達宗
美術/増田寿子
照明/原中治美
衣裳/前田文子
振付/北浜竜也

ファルスタッフ/田中勉
フォード氏/晴雅彦
フォード夫人アリーチェ/松田昌恵
クイックリー夫人/荒田祐子
ペイジ夫人メグ/並河寿美
ナンネッタ/石橋栄実
フェントン/清水徹太郎
医師カイウス/清原邦仁
従者バルドルフォ&ピストーラ/小林峻/松森治


 去年は関西二期会の五十周年で「ドン・カルロ」、今年は大阪音大の百周年で「ファルスタッフ」と、何故か関西ローカルでは節目にヴェルディを選ぶ。理由は知らない。今回のキャストは大阪音大教員の中でもベテランの大御所と、現役バリバリの准教授クラスの混成チームで、事前の上演への期待と不安は、相半ばすると云った処だった。

 幕が上がり演奏も始まると、開演前に相半ばしていた期待と不安は、良い方向へ転がり始める。その立役者は意外と云うと失礼だが、指揮の下野竜也だった。僕の知る限り、下野にヴェルディの経験は殆んど無い筈で、恐らく「椿姫」すら振った事の無い指揮者が、何故ここまで踏み込んだファルスタッフ解釈を示せるのか、殆んど謎めいていると思える程だ。フォルテ以上の大音量では切れ味鋭く、メゾ・ピアノ以下では生気ある弾むリズムで、緩急の切り替えを巧みに行い、何れもヴェルディの勘所を掴んで見事だ。ただ単に煽って盛り上げるのでは無い、オケを的確にドライヴするノリの良い演奏で、歌手を気分良く歌わせているし、現代音楽のスペシャリストらしく、一幕の九重唱を捌く手付きも水際立っていた。ホントなんで下野さん、こんなにヴェルディが巧いんでしょうねぇ。

 お寺産まれの今回の演出家は、ファルスタッフを煩悩を抱えた凡夫を丸ごと引き受ける、阿弥陀仏やイエス・キリストのような宗教的存在と措定する。そこでガーター亭は宗教施設として、屋根の天辺に十字架を戴く次第となる。アイデアとしては悪くないが、問題はその解釈を如何に舞台上に視覚化し、歌手の演技と共に説得力を持たせるかにある。演出家の能書きは、それはそれとして承るのみである。

 僕も今回のタイトル・ロールの田中勉を、日本有数のヴェルディ・バリトンと認めるのに吝かでは無い。田中の声自体はファルスタッフには軽目だが、ヴェルディの音楽を手の内にして、持ち前の美声に物を言わせる、その歌い振りに余裕を感じさせる。ただ問題は、この方が文字通りの大根役者で、演技面では全く機能しない点にある。これを埋め合わせる為、演出家は大阪音大ミュージカル科出身のダンサー(ちっちゃい女の子だった)を起用し、田中ファルスタッフの周りを飛び回らせる。たが、これで田中は彼女に頼り切りとなり、一層何もしなくなる悪循環に陥っているように見える。

 ファルスタッフと共に演技力を要求される、クイックリー夫人の荒田祐子の大根役者振りも、聊か目に余るものがあった。荒田は演技出来ない上に声量も無く、歌手に取って美味しい筈のクイックリーと云う役を、退屈極まる歌と演技で塗り潰している。タイトル・ロールとクイックリーが大根だと、喜劇としての「ファルスタッフ」は全く弾まない。それを何とか糊塗しようとする、演出家の努力と工夫は分かるが、やはりこれでは処置無しである。同じく声楽科の大御所で、アリーチェの松田昌恵はまずまずの出来だったが、この人も声自体のツヤに乏しく、歌い手としての魅力に欠ける。

 岩田は何も特別な事はしないが、合唱のモブ処理は上手く出来たし、コメディ演出としては遣り過ぎず抑え過ぎずで、オペラを楽しませるツボを的確に押さえていた。それだけに声楽科教授の大根役者に足を引っ張られたのは、見ていて気の毒ですらあった。脇役の筈のカイウスとパルドルフォを悪目立ちさせたのも、恐らく何も出来ない主役三人をカヴァーする為の弥縫策だろうが、その煽りで主役級のフォードを務める、演技派の晴雅彦に何の見せ場も作らなかったのにも疑念は残る。字幕で語尾の助詞を「YO」等と表記するのも、奇を衒った積もりだろうが悪ふざけに過ぎて気色悪い。

 メグの並河寿美とナンネッタの石橋栄実は、国内一線級のオペラ歌手で、その額面通りの実力を発揮した。並河の声には潤いと輝きがあり、アンサンブルの中に入っても一際の精彩を放つ。フェントンの清水徹太郎は石橋と同じくレジェーロな声質で、この二人のデュエットは柔らかく美しく、また見た目も若々しいので役にピッタリ嵌まっている。三幕のナンネッタの女声合唱付きアリアも、石橋が柔らかい美声を振り撒き実に素晴らしかった。ただ、並河と石橋が主導権を握り、演技と歌の両面でパッとしない松田と荒田をリードする形となり、ファルスタッフを懲らしめる為に謀議を凝らす、お楽しみの女声アンサンブルもバランスを失して終う。

 「適材適所」と云う言葉が裸足で逃げ出しそうな上演だったが、それでもキャストの配置転換をするだけで、改善の余地はありそうに思う。クイックリーに並河を、アリーチェには石橋を、そしてピストーラに晴を回せば、ずっとマトモなアンサンブルになる事を請け合う。ナントカと鋏は使いようで、大根役者を使いこなすのも演出家の芸の内だろう。それとタイトル・ロールの周りを、ピラピラ跳び回っていた女の子も目障りなので、彼女にメグを歌わせれば結構ハマったかも知れない。まあ、そうすると女声歌手は一人余るけれども…。
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ドニゼッティ「愛の妙薬」

2015-10-12 | イタリアオペラ
<文化庁委託事業/藤原歌劇団公演>
2015年10月12日(月)16:30/香川県民ホール

指揮/柴田真郁
テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ
藤原歌劇団合唱部

演出/粟國淳
美術/横田あつみ
照明/稲葉直人
衣装/パスクアーレ・グロッシ

アディーナ/高橋薫子
ネモリーノ/中井亮一
ベルコーレ軍曹/折江忠道
ドゥルカマーラ博士/東原貞彦
村娘ジャンネッタ/楠野麻衣


 「文化庁委託事業戦略的芸術文化創造推進事業」と長ったらしい、行政から補助金を引き出す企画で、七月には東京二期会「魔笛」を聴きに鳥取へ、今回は藤原歌劇団の「愛の妙薬」で、うどん巡りがてら高松まで出掛けた。主役にベテランと若手でアジリタのある二人を据える、魅力的なキャストに惹かれての訪問である。

 先に言って置くと、そもそも「愛の妙薬」に深い解釈等ある筈も無く、只もう声さえコロコロと転がれば、それで満足出来ると思い込んでいた僕は、今日の上演に肩透かしを喰らった気分である。まず初めて聴く指揮者である、柴田真郁の白黒ハッキリさせる音楽作りは悪くないが、今ひとつ弾まないオケに不満を覚える。畳み掛けるアチェルラントと、爆発するフォルテシモが無いのには、四十名足らずのオケの規模の問題もあるのだろうか。演出も一向に弾まない。コーラスを含めたほぼ全員が棒立ちのままで、何故イタオペらしい大袈裟な演技を付けないのか解せない。みんな踊りながら歌い演技し、盛り上げるのが「愛の妙薬」だろうにと思う。まだ若手の粟國淳に才気はあると思うが、良い時とダメな時の落差は大きいようだ。

 ノー天気オペラの代表選手「愛の妙薬」であっても、オケも舞台もイマイチでは、幾ら歌手だけ頑張っても限界はある。アディーナの高橋薫子は立ち上がり不調で、加齢でヴィブラートもキツくなったかと心配したが、直ぐに立て直して来る。レジェーロの透明で清澄な声の美しさは健在で、今日の五人の歌手の中では、声量的にも際立っている。ネモリーノの中井亮一はスタイリッシュな歌で、恋する若者らしい激情の表現が無く、その辺りに物足りなさを残す。ベルコーレとのデュエットは楽しかったし、「人知れぬ涙」は切々として良かったけれども。

 ベルコーレの折江忠道は大ベテランで、さすがに存在感のある声と演技で舞台を引き締めている。これを逆に言えば、この方が居なかった場合の今日の舞台は、かなりユルかっただろうと云う事。地元高松出身でドゥルカマーラの東原貞彦は、小じんまりしたバリトンで、このオペラの要とも云うべき役には無理がある。声も演技も力不足で、この人が舞台に出て来るだけで著しく盛り下がる。ジャンネッタの楠野麻衣も徳島出身の若手だが、こちらはコケットリーを声と演技で表現出来るソプラノで、充分に職責を果たしていた。

 会場の香川県民ホールのある高松城址は、海水をお堀に引き入れる海城で、瀬戸内海の島々を見渡す絶好のロケーションにある。香川には現代アートの瀬戸内国際芸術祭と云う成功例があり、これと連動して高松市立のサンポートホールも使い、コンテンポラリーな舞台芸術の展開を図れば、讃岐うどん県のイメージ・アップに繋がる筈だ。眺望の良さは日本でも屈指なだけに、効果的な活用法を考えて欲しいホールである。正直、僕には藤原の旧態依然としたオペラ公演の、地元の音楽文化への貢献度を計り難いのだ。歌手はソコソコ満足すべき出来だったが、指揮と演出に物足りない部分を残す、不完全燃焼な気分を引き摺る公演だった。

 三連休最終日の公演でもあり、前日から泊まり掛けでうどん屋を回るが、高松市街地では日曜祝日は休みのお店も多く、レンタサイクルで郊外まで遠出した。久し振りに竹清と馬淵を訪れるが、両店とも代替わりしたようで、年配の大将の姿は見えず、若い衆がうどんを打っている。それと共に以前の柔らかく味わい深い麺も、今風の硬い麺に変わったように感じる。こればかりは個人の嗜好の問題で、偶に来る県外人の口出しする事では無いが、うどん屋の画一化が進むようで気になる処だ。赤坂と橋本の大将も亡くなられたと知り、香川の讃岐うどん店にも世代交代の時期が来ているのかと、一抹の寂しさを覚える今日この頃である。
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