オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

ラッヘンマンを聴くvol.2京都公演

2016-12-06 | 声楽&室内楽
<ラッヘンマン生誕八十年記念企画>
2016年6月25日(土)18:00/ゲーテ・インスティテュート・ヴィラ鴨川

ソプラノ/角田祐子
ピアノ/菅原幸子
クラリネット/上田希
ヴィオラ/多井千洋
パーカッション/葛西友子
ギター/山田岳/土橋庸人

ラッヘンマン「Trio fluido トリオ・フルイド/Salut fur Caudwell コードウェルへの礼砲/Got Lost ゴット・ロスト(日本初演)」


 僕はラッヘンマンに付いて、特殊奏法でキコキコカリカリな音を出させるヒトと、そんな巷に流れる風聞を知るだけで、これまで実際にを聴く機会は無かった。ラッヘンマンだけでプログラムを組むコンサートがあり、あの抱腹絶倒のブログ「職場はオペラハウスだったり」の角田祐子さんが、超難曲の日本初演に挑むと知り、それは是非聴かねばと京都まで出掛けた。ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川と称する、無暗に長ったらしい名前の会場は、実際に行ってみて以前の京都ドイツ文化センターと知った。

 コンサートの冒頭はクラリネットとヴィオラと打楽器の三人組に拠る、「トリオ・フルイド」の演奏で始まる。産まれて初めて聴くラッヘンマンだが、割に古臭い現代音楽と云う印象で、今ひとつ面白味を欠くと感じる。だが、これはラッヘンマンの技法確立前の若書きで、後年の前衛的な作風へ転換する前の、まだ試行錯誤の途上を紹介する意図のようだ。それでも特殊奏法を多用するヴィオラと打楽器で、ロング・トーンを吹くクラリネットを支える構造が、最後に演奏された「ゴット・ロスト」と同じなのが興味深いとは、全て終わってから気付いた事だった。

 ここで三名は御疲れ様で、ギター・デュオのコンビに選手交代。「コードウェルへの礼砲」はカリカリコリコリと、ノイズみたいな音で推進力あるリズムを刻み、また或る時は対位法的に絡み合い、そうかと思えば長いパウゼで聴衆の緊張感を高める、変化に富んだ曲で面白く聴ける。弦をボトルネックで、それもブリッジの傍の随分と低い位置で抑えに掛かるので、ストロークと云うよりバシバシ叩くようにして音を出す奏法が、取り分け目を引く。ボディを叩く特殊奏法も交え、何だかギターを撥弦楽器では無く、打楽器のように扱う曲だ。また、この曲にはスペイン内戦で義勇軍に加わり戦死した、クリストファー・コードウェルの著作から引用された朗読があり、これを二人は途中からボソボソと呟くように、しかも一音節づつ区切って語る。声を出すのは専門外のギター奏者で、そこはかとない違和感と云うか、唐突感のある朗読だった。

 ギターの二人もお役御免となり暫時休憩の後、ラッヘンマンが自作に付いて語る、ヴィデオ上映会の開催となる。ラッヘンマン君は「ゴット・ロスト」を、通常の意味でのリートでは無いと頻りに強調していたが、そんなもん言わずもがなの話で、始めから分かり切ってるやろと思う。この場にシューベルトやR.シュトラウスみたいな曲を期待し、座っている輩が居る筈も無い。いや、もしかすると二、三人居たのかも知れないが、少なくとも前半の二曲を聴いた後に、そんな虚しい期待を抱く者は皆無だっただろう。

 最後は本日のメイン・イヴェント、ラッヘンマンの近作で日本初演の「ゴット・ロスト」である。今回は京都と東京の二公演の為だけに、ドイツ在住でラッヘンマンの嫁はんでもあるピアノの菅原幸子と、シュトゥットガルト州立歌劇場専属の角田祐子と、わざわざ二人のスペシャリストを招く力の入れようである。この曲のテキストはニーチェの箴言と、恋文ってのは常に滑稽なもんだと言ってる詩と、洗濯籠を探す話の三つと支離滅裂で無意味の極みだが、まあラッヘンマン君の意図もその辺りにあるのだろう。

 ラッヘンマン君の力説する通り、「ゴット・ロスト」での角田祐子は舌打ちしたり、頬っぺたを叩いて音を出したり、弦に声を共鳴させようと、ピアノの蓋の下に頭を入れて歌ったりする、特殊奏法テンコ盛りの曲である。その多様な特殊奏法は、ただ単に奇を衒っている訳では無く、角田祐子が声をスピントさせた際、ソプラノの高音域の美しさを際立たせる効果も図られている。彼女にはレジェーロでも濃い目の音色があり、その声質そのものを表現力として、ラッヘンマンの峻厳な音楽に寄り添っている。

 菅原幸子にも立ち上がってピアノに首を突っ込み、手で弦をハジく内部奏法だけでは無く、何やらモゴモゴと唱わせ、角田に合いの手を入れさせる。まあ、歌は兎も角として、菅原には堅実なテクニックがあり、角田の広いダイナミク・レンジを駆使する歌と渡り合い、お互いに相乗効果を揚げていた。ギター・デュオは絶対的な音量が小さく、振幅の広い音楽を作れない代わりに、ピアニシモに耳を傾けさせるテンションの高さがあった。これに対し、ソプラノ歌手とピアニストの丁々発止の遣り取りで演奏を盛り上げる、「ゴット・ロスト」はコンサートの掉尾を飾るのに相応しい、力の籠った音楽だった。

 特殊奏法ばかりが喧伝され、奇を衒った技巧に走る作曲家と、そんな風に思われ勝ちなラッヘンマンだが、今日は初めてを実際に聴く機会を得て、この方は二十一世紀の今を生きる我々に取り、掛け替えの無いアクチュアルな存在と知らされた。次回「ラッヘンマンを聴くvol3」のコンサートの開催は一体何時になるのか、今から待ち遠しい想いのする程だ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ハイドン「天地創造」Hob.XXI-2

2016-06-11 | モダンオケ
<関西フィルハーモニー管弦楽団第275回定期演奏会>
2016年6月11日(土)14:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/高関健
ソプラノ/市原愛
アルト/米谷優
テノール/畑儀文
バリトン/枡貴志
関西フィルハーモニー管弦楽団
関西フィルハーモニー合唱団


 「天地創造」はハイドンの代表作にして超有名曲だが、演奏に一時間以上を要する大曲でもあり、実際に耳にする機会は少ない。それに昨今、ハイドンはピリオド業界に取り込まれ、モダン楽器での演奏はトレンドから外れつつある。でも、指揮の高関健は使用するスコアに拘る、学究肌の理知的なタイプで、旧来型の演奏を踏襲しないとの予測は付く。案の定、会場に入ると真っ先に、指揮台の前に鎮座するチェンバロが目に入る。

 高関は左手で指示を出しながら、右手は鍵盤の上に置き、チェロ首席と共にコンティヌオを付ける。弦楽器にヴィブラートを掛けない、ピリオド・アプローチを徹底させ、オケから明快な響きを引き出す。二月に聴いた大阪響定期もピリオド・アプローチで、既に日本のオケもハイドンであれば、古楽奏法はデフォルトとなっているのだろうか。ただ、コンティヌオではヴィブラートを掛けないチェロ首席が、トゥッティになると次席と共に盛大に掛ける。一見した処、弦楽奏者の大勢はノン・ヴィブラートのようなので、何故そのような使い分けをするのか、摩訶不思議としか言いようも無い。

 指揮者は軽く弾むリズムで、歯切れの良いアーティキュレーションを作り、ハイドンの快活を表現する。ただ、高関は明解に、やや明解に過ぎる程に打点を示し、リズムは弾んでもドルチェな表現力に乏しく、「天地創造」の音楽を充全に表現出来ていないとも云える。でも、そんなケチを付けなければ、オケのパフォーマンスは木管陣の奮闘もあり、ほぼ満足すべき出来だった。

 通常、貧乏オケの関西フィルでは、声楽ソリストを関西勢で固めるが、今日はソプラノにジャパン・アーツ所属の市原愛を招聘した。恐らくは指揮者の拘りの人選だろうが、市原はアリア「野に爽やかな緑が萌え」で、見事なコロラトゥーラのテクニックを披露し、指揮者の期待に応えていた。彼女は国内では数少ない、完璧なアジリタを身に付けた歌手で、その超絶技巧を聴けばハイドンのオラトリオは、実はオペラと全く同じ書法で作られていると気付く。

 僕もハイドンのオペラ作品は、北とぴあ国際音楽祭の「月の世界」を聴いただけで、余り口幅ったい事は言えないが、どうやらそこには未開拓の沃野が広がっているようだ。今日は市原の卓越した歌唱技術に接し、ハイドン・オペラの上質な音楽性の一端を垣間見たように思う。市原は以前に一度、「後宮からの逃走」のブロンテで聴いていて、その際は余り良い印象を持たなかったが、今回は素晴らしい歌声を堪能させてくれた。コロラトゥーラにしてはソコソコ声量もあり、中音域も充実していて、敢えて難点を挙げれば、高音部で時々キツイ声になる事位だが、これも恐らく修正可能だろうと思う。

 テノールの畑儀文はベテランのエヴァンゲリスト歌いで、実は僕もこの方の後ろでコーラスを歌った事がある。さすがにドイツ語のディクションと、それに合わせて作るデュナーミクは的確で、持ち前の美声も相俟って、聴き応えのある歌い振りだった。これに対してバリトンの枡貴志は、宗教曲の実績に乏しい歌手で、ただ譜面通りに歌う平板な唱い振りに終始する。ここは市原愛を見習い、オペラティックに歌い飛ばせば良いのに、と思う。

 ハイドンのオラトリオに宗教曲専門では無く、オペラ歌手の市原愛や枡貴志等を起用する傾向は、何時から始まったのかは知らないが、音楽的な様式を考えれば当然の処置だろう。国内の古楽演奏団体でも声楽関係は、精々バロックやモーツァルトまでで、なかなかハイドンまで手は回らないようだ。でも、僕としてはモダンの演奏であっても、歌手さえマトモなら充分に満足出来る。いよいよハイドン・ルネサンスの到来かも知れないと、根拠に乏しい夢を見る次第である。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ザ・キングズ・シンガーズ伊丹公演

2016-06-04 | 声楽&室内楽
<至高のア・カペラ>
2016年6月4日(土)14:00/伊丹アイフォニックホール

ザ・キングズ・シンガーズ The King's Singers
カウンターテナー/デビッド・ハーリー/ティモシー・ウェイン・ライト
テノール/ジュリアン・グレゴリー
バリトン/クリストファー・ブリュートン/クリストファー・ガビタス
バス/ジョナサン・ハワード

ピーター・ルイス・ヴァン・ダイク「地平線」
ボブ・チルコット「フェラー・フロム・フォーチュン/グリーンスリーヴス/アンド・アイ・ラブ・ハー/イエスタディ」
ミゲル・エステバン「コンティゴ・アプレンティ/情熱のパシージョ/チコ・チコ・ノ・フバー」
エレーナ・カッツ・チェルニン「川の嘆き」(全四楽章)
「バイレロ」(オーベルニュの歌)
ロバート・ライス「ヴォラーレ」
ビル・アイヴス「ドンパン節/佐渡おけさ/竹田の子守唄」
キャリントン「スカボロー・フェア」
ポール・ハート「ホエン・アイム・シックスティー・フォー/ハニー・パイ」
アレクサンダー・レストレンジ「ビギン・ザ・ビギン/アイヴ・ゴッド・ザ・ワールド・オン・ア・ストリング/ナイト・アンド・ディ/アット・ラスト/レッツ・ミスビヘイブ」


 今日は伊丹まで赴き、何十年振りかでザ・キングズ・シンガーズ(以下、TKSと略す)のコンサートを聴いた。二年後に結成五十周年を迎えるTKSは、プロ・カンティオーネ・アンティクァと並ぶ、イギリス声楽アンサンブル界の老舗である。前回、僕の聴いた際から、メンバーは総入れ替えとなったようだが、その端整な歌い口と完璧なハーモニーは、何も変わっていなかった。だが、それにも関わらず、僕はその演奏に落胆させられた。

 コンサートのプログラムは事前に一部しか発表されず、会場へ来て初めて全曲を確認すると、個人的に期待していたイングリッシュ・マドリガルは一曲も入っておらず、この時点でコンサートへの期待度は半減である。前半のプログラムでは、この半世紀の間にメンバーの編曲したフォークロアや、外部委嘱の現代曲等のオリジナル曲を演奏する。受付で配布された、二つ折りの冊子にカタカナ表記された、作曲家の名前に知っている人は綺麗サッパリいない。

 冒頭に演奏されたのは委嘱曲のようで、TKSの声楽技術を当て込んで作曲された、内容に乏しいけれども難易度の高いショー・ピースで、それはそれとして良く出来た曲である。これを聴けばメンバーの交代でも揺るがない、TKSの技巧的な卓越は明らかで、満員札止めの聴衆は息を詰め、その精密な演奏に聴き入る次第となる。だが、そのような技術を誇示する曲ばかり並べられると、僕は次第に集中力の薄れるのを感じる。これを平たく言えば、聴いていて退屈なのである。僕はコンサートやオペラを聴いて寝る事など殆ど無いが、内容に乏しい曲の完璧な演奏には、一種の催眠効果があるようだ。

 美しいけれど空疎な演奏では、歌い手の巧拙にしか気は回らず、曲そのものに思いを馳せる事は無い。TKSは技巧の誇示に特化した曲を欲していて、委嘱を受けた作曲家もお得意様の意図を忖度し、そのような曲を唯々諾々と作っている。ただ、豪州の作曲家で四楽章の曲からは、音楽的な意図のようなものを感じ取れたが、この組曲を一気に通さず、バラして演奏した点にも疑問は残る。何故、連作歌曲の合間に、「ドンパン節」を挟まねばならぬのか、僕には理解し難いのである。休憩後もビートルズとコール・ポーターでは、前半の各国民謡、グリーンスリーヴスやスカボロー・フェアとの対比は付き難い。コンサートのプログラミングとして、もう少しジックリと聴ける曲も入れないと、今日は声楽アンサンブルの演奏会では無く、アカペラ・グループのライヴに来たのかと錯覚しそうだ。

 TKSでは伝統的に個性に乏しい、均質な声の歌い手を選んでいるように思う。現任のメンバーもその例に漏れず、テノールとバリトンに声質の差は殆んど無く、バスの低音も飽くまで軽やかである。中でも気になるのはカウンター・テノールの腰の弱さで、これも昔からそうだったと言えばそれまでだが、ハーモニーに乗っかり主旋律を歌い上げるだけの声量に欠ける。TKSは兎に角ハモり重視で、カウンターは概ねオブリガード扱いされる。テノールかバリトンのリードする旋律を、ハーモニーで包み込むようにするアレンジばかりで、音楽にクッキリとした輪郭線は浮き立って来ない。

 モーリーやウィルビーやギボンズの、イングリッシュ・マドリガルズを歌うのは英国紳士の嗜みで、エスタブリッシュのTKSが、よもやエンターテインメント一辺倒の、アカペラ・グループに堕したとも思えない。今日のチケットは事前に完売し、当日券も出ない人気振りだった。今回のプログラミングは、昨今の日本のアカペラ・ブームへの、あからさまな迎合のようにも思われる。半世紀近い伝統を受け継ぐTKSには、一時の流行に惑わされない、イギリス声楽アンサンブルの王道を歩んで欲しいと、ただ切望するのみである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

アンサンブル・レ・フィギュール大阪公演

2016-05-18 | ピリオド
<フランソワ・クープラン「クラヴサン奏法」出版三百年に寄せて>
2016年5月18日(水)19:00/フェニックスホール

アンサンブル・レ・フィギュール
ソプラノ/高橋美千子
トラヴェルソ/石橋輝樹
ヴァイオリン/榎田摩耶
ヴィオラ・ダ・ガンバ/原澄子
チェンバロ/會田賢寿

F.クープラン「プレリュード1番/3番/5番/8番(クラヴサン奏法)
/Tabescere me fecit 私は苦しみに憔悴し
/ignitium eloquium tuum あなたの熱い言葉は崇められ
/adolescentulus sum ego 私は幼く蔑まれ
/Venitas de terra orta est 真実は大地から芽吹き(プチモテット)
/フランス人/シャコンヌ(諸国の人々)/Doux lience de mon coeur 我が心の甘い絆
/Qu'on ne me dise どうか私に言わずに(エール・ド・クール)
/プレリュード(ヴィオール組曲第2番)/波/アンジェリック(クラヴサン曲集第1巻)
/パルナソス山に導かれ/アポロンへの賛辞/リュリとコレルリ
/楽園シャンゼリゼで精霊と共に(リュリ讃)/無題/アルマンド/悪魔のアリア
/魅力/活気(趣味の融合)/神秘的な障壁(クラヴサン曲集第2巻)」
リュリ「シャコンヌ」(王の眠りの為の音楽)
ランベール「Vos mespris chaque jour あなたの蔑みは
/Ombre de mon amant 愛する人の影」(エール・ド・クール)


 昨年九月、伊丹でのコンサートの際は名無しだった五人組が、晴れて「アンサンブル・レ・フィギュール」を名乗り、前回と同じくフレンチ・バロックをプロフラムとした公演を行う。今回のテーマは「宗教曲と様式の融合」だそうで、リュリが確立した優美で洗練されたフランス様式に、明るく闊達なコレルリのイタリア様式を融合させた、大クープランの作曲家人生を辿る試みだそうである。

 客電を落として真っ暗なホールに、チェンバロとフルートの二人が静々と入場すると、まずクープランの教則本「クラヴサン奏法」所載、前奏曲の演奏でコンサートは始まる。「クラヴサン奏法」には八曲の譜例があり、これ等は初心者用の練習曲らしい。つまりフレンチ様式のチェンバロ奏法を、先生に取っては教え易く、生徒も習得し易いよう、それまでテキトーに書かれていた楽譜(ノンムジュレと云うらしい)に、小節線を入れリズムをキチンと記譜した上で、ルバート等を加えるよう工夫されているらしい。今日は練習曲としてのチェンバロ曲を適宜に挟む事で、フレンチ・バロック様式のレクチャー・コンサートの意味合いを持たせているようだ。

 チェンバロ独奏に続きモテットで、二階客席後方に現れたソプラノの高橋美千子が、フルートとチェンバロの伴奏で歌う。照明を落とした暗がりで演奏したり、二階から歌いながら現れたり、これだけ冒頭でカマして置けば、聴衆をスムーズに演奏へ引き込める。これが彼等の思い付きの演出なのか、或いは文献や伝承に則った由緒正しい舞台作法なのか、そこまでは知らないけれども。

 その後は五人揃って、器楽合奏と歌入りと鍵盤独奏と、三種類を交互に演奏してコンサートは進む。今日のプログラミングで、彼等は漫然と曲を並べたのでは無く、調性毎に三曲か四曲を一纏めにする趣向を凝らしている。バロック期のフランスでは調性に意味付けがあり、例えばホ短調は「真意」で、イ長調は「幸福感」を表わすのだそうである。解説を担当するフルート奏者は、現代とバロック時代では社会環境も大きく異なり、感覚的な受け止め方も自ずと違って来る。だから今日、イ長調の曲を聴いても幸福感は無いかも知れないと、そんな風に言っていた。

 トリオ・ソナタの「リュリ讃」で、各楽章に付されている標題的な説明を、演奏に先立ちソプラノの高橋美千子がフランス語で読み上げるのだが、これが実に美しく響いて、何だかそれだけで陶然として終う程だ。トリオ・ソナタでは、通奏低音をチェンバロとガンバで、旋律はヴァイオリンとフルートの掛け合いで弾く編成を取る。五人しか居ないアンサンブルで、ヴァイオリンを二挺よりも、管楽器を入れた方が音色の変化も付くし、多様な編成の曲に対応出来ると考えているのだろう。

 四名の奏者には達者なテクニックがあり、優美で典雅で対位法的な音楽を、安心して楽しむ事が出来る。解説するフルート奏者は頻りに、フランスとイタリアの趣味の融合を強調する。曲目にリュリとランベールをチョロっと入れたのも、クープランの前世代に確立されたフレンチ・バロック風味を、我々に味あわせる意図だそうである。彼の言に拠るとフランス趣味は、均整の取れたシンメトリーが基本で、ヴェルサイユ宮殿の左右対称の建物をイメージすれば良いそうである。優美で典雅なフレンチ・バロックも、裏を返せば杓子定規で融通の利かない、一つのスタイルに凝り固まった音楽と云う事になる。そう云えばリュリの舞曲を、鎧甲冑を着けたままバロック・ダンスを踊っているような、と評した人が居て、僕は成程と膝を打ち同意したものだ。

 今日はオペラを作曲していないクープランから、ラテン語宗教曲と仏語世俗曲を取り混ぜ、ソプラノ独唱で八曲が歌われた。高橋美千子は一昨年、北とぴあと練馬で相次いで上演されたラモー「プラテ」で、その双方に出演し名を挙げた人である。彼女はラモーのオペラや、クレランボーのカンタータでは、劇的な局面でキツ目の声を出していたように思うが、今日は謂わばドビュッシーやラヴェルに連なる、フランス歌曲の演奏である。高橋は曲に合わせ中音域では濃い目の、高音部では柔らかい音色を作り、フランス語のディクションを伝えるべく、歌い口を工夫しているように思う。クープランの場合、モテットとエール・ド・クールで、特に様式的な違いは感じられず、何れも装飾的に洗練された、クラヴサン曲の延長線上にあるように思う。

 冒頭に弾かれたチェンバロ曲はハ長調で、その花言葉は「本質・原点」だそうである。この曲を最後にもう一度演奏し、コンサートは円環を閉じるように締め括られる。前回は全くの不見転で聴きに出掛け、皆さんお若いなぁとしか思わなかったが、今回はチェンバロとヴィオールの二人は年少で、後の三名は年嵩のようだと気付く。ヴィオールの女性奏者はアガリ症のようで、ヴァイオリン奏者が頻りにアイコンタクトを取り、彼女の緊張を和らげようと配慮している様子だ。そのヴァイオリン奏者の方はアンコールの際、二階席に居る知り合いを見付け、投げキッスしたのには笑って終った。どうやら彼女の方は姉御肌のようで、これは如何にも仲の良さそうな五人組だなと、何かホノボノとした気分にさせられた。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

池田ジュニア合唱団八回目の演奏会

2016-05-01 | 児童合唱
2016年5月1日(日)14:00/池田アゼリアホール

指揮/しぶやかよこ
ピアノ/宮崎未来
パーカッション/天倉正裕
池田ジュニア合唱団

松下耕「歌声よ響け/マザールヘ行こう/ほらね」
江口泰央「背くらべ」
源田俊一郎「ふるさとの四季」(唱歌メドレー)抜粋
信長貴富「故郷/積水ハウスの歌」
民族音楽「Oremi/Si mi yadeh/Na parzalkata」
バルトーク「Csujogato 誘惑の歌」(27のハンガリー民謡)
丸尾喜久子「うちしってんねん/どこからやってきた/ぼくらの森」
米米CLUB「君がいるだけで」
久石譲「さんぽ」


 昨年は夏休み中の八月開催だった定演が、今年はゴールデン・ウィークの真っ只中、五月一日のメーデーに行われた。理由は知らない。GW気分に足を引っ張られたのか、日曜マチネで今日の客入りは千席のホールに半分にも満たず、大入りの盛況からは程遠い。池田ジュニア合唱団はその実力に見合う、世間的な評価を未だ得てはいないようだ。まずは団員の一人が指揮する、オリジナル団歌の演奏でコンサートは始まる。子供っぽさを強調する曲想と、その内容に沿った歌い振りは、如何にも児童合唱らしい演奏と云える。つまりステレオ・タイプな元気一杯の子供を演じる訳だが、池田ジュニアの場合はメンバーの自発性が伝わるので、小学校の部活に有り勝ちな、作為的な演奏とは一線を画しているように感じる。

 最初のプログラムは文部省唱歌の編曲物で、最初と最後にアカペラ曲を置き、その間にピアノ伴奏付きのメドレー曲を挟む構成で、指揮は下振りと思しき大学生が務める。この合唱団にしては珍しく、最初の「背くらべ」から後押しのリズムを感じたが、ピアノ伴奏の入る唱歌メドレーでは修正され、最後の「故郷」で無伴奏に戻ると、リズムも再び後押しになった。つまり幼い子供を放置すれば、日本人の民族性としてリズムは澱むと考えられ、そこに適切なリトミック教育は必須と、気付かされる次第である。

 ここで満を持し、常任指揮者の登場で「世界のお国めぐり」と題し、ポンチョのような原色の衣装を纏った子供達が、お得意の民族音楽をパーカッション入りで披露する。池田ジュニア名物と呼ぶべき、動きの多いシアターピース的な演奏だが、どうやら入手した楽譜だけを頼りに曲に解釈を施し、振付けを工夫しているようで、その多くは何語の曲かも良く分からず、テキスト不在の感は否めない。しかし、それにも拘らず、彼女達の演奏の持つ説得力に、我々聴衆は否応も無く納得させられるのである。指揮者は馴染み難く、掴み処の無い曲を切れ味鋭いリズムで進め、内容を噛み砕き分かり易く伝えてくれる。頭声よりも低目に響かせる、ザラリとした感触のある中音域の地声と、素直に柔らかく伸びる高音部の使い分けも、見知らぬ異国の民族音楽に打って付けと感じる。

 この合唱団のモットーの一つで、「心を歌声に載せて届けよう」とあるのは、如何にも有り勝ちで面白くないが、もう一つには「体いっぱいに歌う楽しさを表現しよう」とあって、こちらはその言葉通り、指揮者が率先して激しく踊るのは興味深い。踊る指揮者と云えば井上道義や、広上淳一を連想する向きもあろうが、彼等の踊るスペースは、ほぼ狭い指揮台の上に限られている。これに対し池田ジュニアの指揮者は、そのような制約を取り払い、指揮しながら舞台狭しと縦横に飛び回る。そこには全身を使い、自らの表現意欲を子供達に伝えようとする熱意と共に、歌う側に訴え掛ける効果も図られている。そこらから拾って来たみたいな木箱に腰掛け、その箱を両手で叩きながら演奏をリードする、指揮者の個性的なスタイルも楽しい。

 また、井上や広上が踊っても、プロ奏者は自らの経験と実績から、冷静且つ批判的に捉えるが、子供は真っ新の状態で、指揮者のアクションを感覚的に受け止める。そこにプロの演奏に有り勝ちな、目に見えない障壁のような物は無く、表現意欲がダイレクトに伝わる清々しさを感じる。工夫された振付けで、視覚的に観せる要素を備えながら、音楽的な内容にも抜かりの無い演奏は、指揮者の言う通り歌う楽しさを、声と身体で表現している。何十人かの男女が舞台に整列し、観客は誰も知らない邦人曲を直立不動で歌う、そんな世間的な合唱に対するイメージを払拭する、鮮烈な効果のある演奏である。

 中学生以上有志に拠るアンサンブルの後、僕は初めて名前を知る丸尾喜久子と云う人の曲を、これも振付け入りで演奏する。意外と言っては失礼だが、この丸尾の三曲を、僕は興味深く聴かせて貰った。簡素でも多様な技法を駆使し、効果的に曲を構成していて、旋律にハーモニーを付けただけみたいな、ベタな邦人曲とは一線を画す面白さがある。歌詞の無いヴォーカリーズを多用する手法は、児童合唱に有り勝ちな誇張された子供らしさを排し、自然な情感の表出を意図しているように思う。今時の合唱界で持て囃される、若い合唱作曲家の妙に古臭い曲よりも、遣り方次第で演奏効果の揚がる曲だろう。これは良い物を聴けたと、まずは満足である。

 ここで池田ジュニア単独の演奏を終え、子供に刺激された称する保護者の何名かが舞台に上がり、既に練達の域にあるお嬢さん達と共に歌うと云う、単なる野次馬としてはやや不安を感じる企画演奏に移る。でも、曲は米米クラブにCMソングだし、まあ軽く聴き流そうと思っていると、これが随分と盛り上がり、聴き応えのある演奏となったのに驚かされる。何せ保護者でもママさん達の方には、多少の音楽経験のある者も居るようだが、父ちゃん達の方は素人に毛の三本足りない人材のみなのである。六名の男声にはパート・ソロもあり、中にはソロを歌った者も居て、その実力を客観的に把握出来る。

 白紙の状態の子供に芸を仕込むより、未経験のオッサンおばはんに声を出させる方が、遥かに難しいのは自明の事だろう。池田ジュニアの指揮者はその難事を、易々と成し遂げているように、傍目には見受けられる。彼女の活動範囲は現状、市内一円の狭い範囲に限られていて、池田ジュニア以外の合唱団を指導する機会も無いようだ。一昨年、韓国で行われた合唱シンポジウムに出演した際の縁で、彼女はイスラエルから招待され、指導を請われているそうで、これは海外で評価されて初めて、国内での声望も高まる典型例のように思う。

 この近辺から二歳児以上を搔き集め、舞台に上げ歌わせるフィナーレでも、ド素人の保護者を巻き込んだアンコールでも、指揮者の能力の高さは如何無く発揮された。子供達だけの演奏が終われば、後は余興のようなものと思っていたが、指揮者のカリスマで何れも盛り上がり、充分に楽しませて貰えた。去年はプログラム自体に不満だったが、今年は民族音楽もタップリ聴けて、個人的には大満足だった。

 池田市の行政からの池田ジュニアへの支援は、その価値に比し些か控え目のようにも見える。コンクール的な技術基準で評価は出来ないにせよ、池田ジュニアの日常的な活動には、一般的なアマチュアの概念を超えたレヴェルの高さがあり、その辺りは行政の最も好む処で、両者の利害は一致している筈だ。でも、足元を地道に固める活動も重要だが、外部から刺激を与える事も必要だろう。国内外の有力な児童合唱団とのジョイント・コンサートの開催や、高名な指揮者を客演に招聘する等の方策も考えられるが、ここの指導者より能力の高い合唱指揮者は近場に見当たらず、必然的に視野を全国的且つ国際的に広げざるを得ない。視野を池田市内に限定している行政には、最初から尾いて行ける話では無いのだ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加