オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

J.シュトラウス「こうもり」

2016-09-23 | ドイツオペラ
<小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXIV/プレミエ>
2016年2月18日(木)18:30/京都会館

指揮/小澤征爾/村上寿昭
小澤征爾音楽塾オーケストラ
小澤征爾音楽塾合唱団

演出/デイヴィッド・ニース
美術/ギュンター・シュナイダー・シームセン
照明/高沢立生
衣裳/ピーター・J・ホール
振付/マーカス・バグラー
東京シティ・バレエ団

アイゼンシュタイン/アドリアン・エレート
ロザリンデ/タマラ・ウィルソン
アデーレ/アナ・クリスティー  
ファルケ博士/ザッカリー・ネルソン
オルロフスキー公爵/マリー・ルノルマン
音楽教師アルフレード/ディミトリー・ピタス
刑務所長フランク/デール・トラヴィス
弁護士ブリント/ジャン・ポール・フーシェクール 
女優イーダ/鷲尾麻衣
看守フロッシュ/笹野高史


 一昨日、サイトウ・キネン「子供と魔法」の、グラミー賞受賞と云う朗報の届いた直後で、今日の会場には心無し華やいだ雰囲気も漂う。毎度感じる事だが小澤の振るオペラの客層は、西宮や大津の常連客とも、また少し異なっている。皆さん一際お上品でハイソだが、余りコンサート擦れしておらず、拍手のタイミングや幕間の会話等、如何にもナイーヴな印象を受けるのである。

 今回の上演は三十年前に初演され、我々はカルロス・クライバーのヴィデオでお馴染みの、オットー・シェンク演出を焼き直した舞台である。古色蒼然と言うも愚かな骨董品な上に、既視感バリバリの為、僕は家で寝転がってテレビを観ているような気分になる。お約束の日捲りカレンダーのギャグ等、もはや古典の領域に入った観もある中、笹野高史の炭鉱節のネタだけは笑えたが、他のお客様方は詰らないクスグリにも律義にお笑いになる。一体何処が面白いのか、怪訝に思われるような演出にも、皆さんヴィヴィッドに反応されるのには、恐らく小澤に迎合する愛想笑いの意味がある。要するに皆さん、舞台そのものを楽しんでいると云うより、小澤ブランドに満足を得ようとしているだけでは無いのかと言えば、それは意地悪い見方に過ぎるのだろうか。

 小澤に続いて村上もオケピットに現れ、二人並んで拍手を受けた後、まず小澤が序曲を指揮する。その後はアデーレとロザリンデのデュエットまでで、小澤は暫時休憩に入り、ブリントの登場から「泣き泣きお別れ」のトリオまでを村上に任せる。アルフレードの歌う「誰も寝てはならぬ」に、オケが伴奏を付けるネタもあったが、村上の指揮では笑えなかったので、これは是非とも小澤に振らせるべきだと思う。アルフレードとロザリンデのデュエットから、幕切れまで再び小澤がタクトを取る。

 正直、小澤の指揮では演奏のテンションも昂まり、聴く方も集中力を保てるが、村上の番になると聴き方もやや雑になって終う。交互に見ていて気付いたのは、村上の指揮では打点とほぼ同時に音の出るのに対し、小澤の場合は音の出るまでに少し間がある。恐らくそこにタメを作る事で、音楽をレガートに流しているのだろう。二人で交互に振れば両者の比較も容易で、バトンテクニックの差は明瞭に見て取れるし、村上の振っている間は澱んでいた音楽が、小澤に代わると途端に流れ出すのも分かる。

 二幕で小澤が振ったのは、チャルダッシュとシャンパーニュの歌の二曲だけで、後は「雷鳴と電光」もフィナーレのワルツも、全て村上の指揮だったのはやや肩透かしに感じる。そのポルカからワルツに掛けて、気持ち良さそうに踊る村上の真後ろには、凄い形相で若いオケを睨み付ける、小澤が座っているのである。僕の思うに小澤のカリスマは、ただ前に座っているだけで放射される。だから幾ら演奏が盛り上がっても、どちらの手柄なのか良く分からず、これは結構聴く際のストレスになる。演奏そのものは悪くなかったと思うが、二人の指揮者に交互に振られると、一体どちらが振っているのか、ピットの中も気になって仕方無くなる。

 三幕の前半は村上が振り、後半のアイゼンシュタイン夫婦とアルフレードの三重唱からは、最後まで小澤の指揮でオペラ全幕のフィナーレを迎える。小澤のバトンテクニックは堅実でも、何時も同じ格好でキメるのは芸が無い、これまで僕はそう思っていた。しかし、こうして若い指揮者と並べて見せられると、八十歳のマエストロの衰えない技術に敬服せざるを得ないが、やはり小澤一人でオペラ全幕を振らない事に、割り切れない思いは残る。弟子とは云え、既に一本立ちしている村上に振らせる後ろから、小澤は若いオケを射竦め、コントロールしようとしているように見える。本人に問えば、そんな積もりはサラサラ無いと否定するだろうが、岡目八目の野次馬にはそう見えて終うのだ。僕の思うに指揮者二人制と云う、常識的には不自然極まりない遣り口も、稀代のカリスマ小澤征爾本人は、然程に奇妙とも考えていないフシはある。やはり二人羽織の指揮は、凡人の理解を超えていると云わざるを得ない。

 それぞれに適役を集めた歌手陣に全く隙は無く、今日はアンサンブルも高いレヴェルで充実していた。取り分け女声主役の三人共に、高低の音域でムラの無い歌なのは流石と思う。ロザリンデのウィルソンはトゥーランドットやアイーダを歌う、かなり重目のリリコ・スピントで、高音も楽々と出すし豊かな表現力もある。アデーレのクリスティーは綺麗な声のレジェーロで、完璧なアジリタの技術を身に付けた、典型的なスープレッド・ソプラノ。こちらは専らバロック・オペラを歌う、古楽歌手のようだ。オルロフスキーのルノルマンもメゾながら、ウットリするように美しいレジェーロで、この三名の歌い振りは全く申し分無かった。

 男声主役なのにソロの分量の少ない、どちらかと云えばアンサンブル要員のアイゼンシュタインを務めるエレートも、流石にアリアでは良い声を聴かせてくれる。アルフレードのピタスもイタリアっぽく明るい声質で、椿姫のアルフレードやカラフも歌う、実力派のテノールのようだ。だが、何度も同じ事を言うが、僕はピットに気を取られるので、どうしても歌手の聴き方はお座なりになって終う。歌をユックリ楽しめない上演は、本末転倒と僕は思うのだ。

 役にピッタリ合う歌手を集め、キチンとアンサンブルを作った手柄は、恐らく全て小澤に帰すのだろう。村上寿昭は小澤の子飼いで仕方無いのかも知れないが、こんなに損な役回りも他では見つけ難い。聴いていて訳も分からないし、二人羽織の指揮はもう懲り懲りである。
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武満徹のシネマ・ミュージック

2016-02-11 | 声楽&室内楽
<武満徹没後二十年>
2016年2月11日(木)14:00/兵庫芸術文化センター中ホール

武満徹「フォリオス第1番/不良少年/伊豆の踊子/どですかでん/日本の青春/太平洋ひとりぼっち/ホゼー・トレス/狂った果実/最後の審判/他人の顔/写楽」

アコーディオン/coba
ギター/渡辺香津美/鈴木大介
パーカッション/ヤヒロトモヒロ


 見た目ちょいワル親爺の渡辺香津美の弁で、「愛と尊敬を持って無茶苦茶する」をコンセプトに、武満徹をジャズ風アレンジで演奏するコンサートである。編曲と演奏を担う四名は八年前、ワシントンで行われたジャパン・フェスティヴァルでの初演に集い、サイトウ・キネン等でも再演を重ねて来た、手練れの人気プログラムを引っ提げての兵庫公演である。これまでにも西宮北口ホールは、熱心に武満徹を取り上げていて、ここで僕もソングブック・コンサートや、林美智子&大萩康司デュオ等で、武満を纏めて聴く機会を得ている。今年も二十周忌を前に武満を沢山聴けて、まずは企画担当に感謝である。

 客電を完全に落とし、舞台にのみスポットを当て、聴衆の目と耳を引き寄せる雰囲気を作った後、コンサートは鈴木大介の弾く、武満オリジナルのギター独奏曲で始まる。その後は間を置かず、他の三人の奏者も加わり、羽仁進監督の映画「不良少年」からの音楽を演奏する。でも、このままのシットリした雰囲気で、コンサートは進む筈も無かった。リーダー格の渡辺がマイクを握り、鈴木大介やコバに話題を振れば、この三人はマジメな話しは殆どせず、専ら馬鹿話に耽るのである。八尋知洋だけは他の連中に付和雷同しない、ごく生真面目な人のようだ。

 武満の映画音楽と云っても、僕のようなオッサンも封切りでは観た事の無い、古い映画ばかりを選び、演奏しているような印象を受ける。作品目録に拠ると、武満は若い頃に映画音楽を量産していて、現代音楽の巨匠と目されるようになってからは、制作側も頼み難くなっていたのか、機会音楽に関わる事もメッキリ減っていたようだ。何れにせよ僕としては、彼等の演奏から映画のワンシーンなど思い起こすのは難しい。

 アコーディオンをトップとするカルテットで、基本的にスィングする事を目的に、ジャズっぽい曲を選び編曲している。打楽器はリズムを刻むよりもバスとしての役回りを務め、ギターは渡辺香津美をファーストに立て、鈴木大介はセカンドに回るアレンジのようだ。演奏は四人の音楽に成り切っていると共に、渡辺の言う通り、タケミツへのリスペクトは通底していると感じる。鍵盤楽器のアコーディオンに旋律を弾かせる編成で、演奏は自ずとコバの歌心で聴かせる事となる。

 武満のポピュラー音楽の魅力は詰まる処、甘く感傷的なメロディと、ジャズっぽい曲想に収斂される。今日の四人組はジャズ・カルテットで、リズムを生命線とする演奏だが、旋律を甘く歌い上げると云う点で、どうしても管楽器や擦弦楽器を含む編成に及ばない面がある。映画音楽のアレンジなので、原曲からの切り取り方に拠り、自分達のフィールドに引き込む訳だが、それも成功しているとは限らないと感じる。「伊豆の踊り子」や「他人の顔」等、甘ったるい程に甘い旋律の曲でも物足りなく感じ、もっとコッテリたっぷり聴かせて欲しいと思う。

 アンコールは「小さな空」。コバが深い思い入れを感じさせる、情緒纏綿とした演奏で、タケミツの甘い旋律を嫋々と歌い上げる。出来れば全曲、この調子でやって欲しかったと思う程に、心揺さぶられる演奏だった。ただ、近くの席でメロディに合わせ、鼻歌をハミングするオバチャンがいたので、それは幾ら何でも勘弁してくれと思った事だった。
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びわ湖ホール声楽アンサンブル第60回定期公演

2016-02-06 | 混声合唱
<日本合唱音楽の古典IV>
2016年2月6日(土)14:00/びわ湖小ホール

指揮/沼尻竜典
ピアノ/渡辺治子

びわ湖ホール声楽アンサンブル
ソプラノ/飯嶋幸子/岩川亮子/栗原未和/黒田恵美/藤村江李奈
アルト/鈴木望/田中千佳子/本田華奈子/森季子/山際きみ佳
テノール/川野貴之/島影聖人/古屋彰久/増田貴寛
バス/五島真澄/砂場拓也/林隆史/的場正剛

廣瀬量平「海の詩」(全5曲)
三善晃「三つの抒情」(全3曲)
寺嶋陸也編曲「宮崎駿アニメ名曲集~さくらんぼの実る頃」(全5曲)
湯山昭「コタンの歌」(全8曲)


 二年に一度、沼尻竜典びわ湖ホール芸術監督が自らタクトを取る、声楽アンサンブル定期公演も四回目を迎える。合唱おたくな芸術監督の方針で、敢えてバッハやブラームス等のクラシック音楽を避け、邦人合唱曲のみでプログラムを組む演奏会である。邦人作曲家の混声合唱組曲とやらを、一般的なクラシック愛好家へ無理矢理に聴かせる企画でも、びわ湖ホールを支援する心優しい滋賀県民のお陰を持って、今日も満員御礼の盛況である。

 本日の沼尻のステージ衣装は、燕尾服では無くタキシードで、これは一般的な日本の合唱指揮者の出で立ちでもある。幼少の頃、児童合唱団や中学校コーラス部に所属した沼尻は、自他共に認める真性の合唱おたくで、恐らくは着用に及んだタキシードにも、そのような意味は込められている筈だ。沼尻は日本の合唱音楽の成り立ちに付いて、国内的な特殊事情に拠り、前世紀の六十年代から量産されたと説明する。

 前衛的な現代音楽の作曲家が、片手間にアマチュア向けの合唱曲も供給する、これは恐らく沼尻の言う通り、欧米諸国には見られない日本特有の現象だろう。今現在、日本以外で合唱曲の量産に励む国は、ハンガリーやエストニアなどヨーロッパの周縁に多いが、これ等の国々での合唱曲製造業務は、専門家の仕事とされているようだ。この辺りの事情に付いて、沼尻は難しい現代曲に取り組む際、同じ人の作った平易な合唱曲を知る事で、この人にはこんなにロマンティックな側面もあると考えれば、曲に対し異なる視点を持てると主張する。

 小難しいゲンダイ音楽で一流と評される作曲家のクセに、蔭でコソコソと三和音の合唱曲を書いていると謗られる、廣瀬量平辺りはその典型的な例かも知れない。混声合唱組曲「海の詩」の第一曲「海はなかった」は、NHK全国学校音楽コンクール高校部門の課題曲として作曲された。つまり、廣瀬量平は日本放送協会からの委嘱曲を基に、合唱界の需要を当て込み「混声合唱組曲」に仕立てた訳で、そこに経済的な事情も絡まないとは考え難いのである。

 また、第二曲の「内なる怪魚」には、部分的に図形楽譜に拠るトーン・クラスターもある為、これを現代音楽と受け取る向きもあるようだが、僕に言わせれば「海の詩」は単なる通俗合唱曲で、それも駄作の部類に入ると考えている。廣瀬量平の合唱曲であれば、僕は「五つのラメント」を最高傑作と評価する者だ。まあそれは兎も角、びわ湖ホール声楽アンサンブルの「海の詩」の演奏は、デュナーミクと子音に工夫を凝らして、日本語を明瞭に聞かせるし、極小のピアニシモとフル・ヴォイスのフォルテシモを使う、ダイナミク・レンジの広さも瞠目すべきレヴェルにあった。

 アマチュア合唱界の超定番曲、女声合唱の「三つの抒情」は、エキストラを入れて十名での演奏。この人数では個々の声も聴こえ、コーラスでは無くアンサンブルっぽいが、第一曲「或る風に寄せて」の最後のピアニシモのロング・トーンでは、さすがにプロ歌手の力量を見せ付けたし、ヴィブラートを排除しないと話にならない曲で、ほぼ完璧なノン・ヴィブラートを実現していた。只まあ、ピアノ伴奏はもう少しネッチョリ弾いて欲しかったし、終曲「ふるさとの夜に寄す」の最後のフェルマータを持ち堪えられず、フェルマータを短か目に切り上げたのも残念だったけれども。

 沼尻は近年のポピュラー編曲を、シンセサイザーの普及やゲーム音楽の隆盛で、一般的な水準は下がっているが、寺嶋のアレンジはヴォイス・パーカッションのような下品な技法を排する対位法的なもので、和音の鳴りも良く評価出来るとしている。沼尻に言わせるとアレンジのセンスは、ハーモニーの鳴り方で測れるそうだ。ちょとヴィブラートは聞こえたが、オリジナルな合唱曲とは違い、沼尻も自由にやっている感じで、さすがに伴奏パートも良く出来ていて楽しく聴ける編曲だった。アレンジはシンプルなのが良い、余計な小細工は必要無いとの、沼尻の主張を肯える作品だった。

 最後は湯山昭畢生の大曲、七声の「コタンの歌」である。沼尻は子供の頃、湯山夫人の主宰する児童合唱団に所属していたそうで、これを見ても縁故に拠る選曲の多い傾向は否めない。その演奏はびわ湖ホール声楽アンサンブル二十八名に、出せる声は全て出せと云う物凄い勢いの、それもノン・ヴィブラートでフォルテシモを出す強烈なもの。また、他の曲では結構ユルかったのに、ここでは縦のフレージングもピッタリ揃えて、全く隙を見ぜない演奏振りである。七声曲であっても複雑な要素は何も無い、長ったらしいだけの曲としか僕は思わないが、ここまでフィジカルな快感に満ちた演奏であれば、やはり声そのものの魅力に勝るものは無いと、否応も無く納得させられる。プロ歌手の凄味を誇示する、沼尻の確信犯的な演奏だった。

 アンコールは沼尻竜典「竹取物語」からフィナーレと、佐藤眞「大地讃頌」で、コンサートの締め括りは恒例となった「怪獣のバラード」。ここでも沼尻は「竹取物語」は静岡公演の際、ご当地ソングとしてサプライズ演奏したいので、曲名はSNSとかに出すなと釘を刺す。そんな事を言われてもアンコールの曲名は、びわ湖ホールのホームページに発表されるじゃないかと、僕は思わず突っ込んで終う。

 沼尻竜典はオペラ「竹取物語」の作曲に際し、その多くの部分を邦人合唱曲の技法に負っていたとは、本人も認める処である。ポピュラー・ソングをクラシックの理論に基づき処理する、戦後に蓄積された合唱の作曲技法は、そのままオペラ作りに援用出来ると、沼尻は証明して見せた訳である。アマチュア合唱界からの委嘱を受け、愚作と駄作を量産して恥じない、凡百の合唱作曲家どもが全てミュージカル紛いのオペラ作りを志せば、そこから必ずヒット作も出るであろうと、僕は確信しているのである。
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大阪交響楽団第199回定期演奏会

2016-01-26 | モダンオケ
<ハイドン疾風怒濤の時代>
2016年1月26日(火)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/園田隆一郎
ソプラノ/砂川涼子
チェンバロ/岡本佐紀子
大阪交響楽団

ハイドン「無人島序曲 Hob.Ia-13
/私が貴方を愛しているのを分かって~憎しみ、怒り、侮辱、苦しみが(アルミーダ)
/交響曲第49番〈受難〉Hob.I-49
/ベレニーチェ、どうするの?お前の愛する人が死ぬというのに(コンサート・アリア)
/交響曲第45番〈告別〉Hob.I-45」


 近年、ハイドンのシンフォニーは古楽業界の縄張りとなり、オケ定期で取り上げられる機会は減っているように感じる。それが大阪では、日本センチュリー響がハイドン・マラソンと称し、シンフォニー全曲演奏を目指す連続コンサートを行い、一方の大阪響はオール・ハイドン・プロで定期公演を行う。大阪響は「忘れられた作曲家」の発掘を売り物としていて、ハイドンは勿論その範疇には入らないが、何れにせよ余り演奏されないには違い無い。

 今日のオケは弦の八型を基本に、木管はオーボエ・ホルン・ファゴット、そこにチェンバロを加えた二管編成で、これは原譜通りのオリジナルな布陣らしい。コンサート・アリアのみ、フルートとクラリネットを増強する拡大編成で、オペラは派手でシンフォニーは地味目なのが、如何にも古典派のハイドンらしい。でも、こうして原譜通りのハイドンを聴いていると、ティンパニーや金管を欠く小編成に、やや物足りなさを感じたりするのだから、僕も存外モダンの演奏に毒されているのかも知れないと思う。

 一曲目が始まり、暫らく聴く内に気付いたのだが、どうやら今日はノン・ヴィブラートを取り入れた、ピリオド奏法を採用しているようだ。弦楽の音色に透明感は無くとも、確固としたフォルムがあり、良く纏まっているように感じたのも、その所為だろうか。園田隆一郎はペーザロでの「ランスへの旅」を皮切りに、あちらで「アルジェのイタリア女」や「泥棒かささぎ」を振った事で、ロッシーニのスペシャリストと目される、若手のオペラ指揮者である。ピリオド志向のあるとは知らなかったが、今時のロッシーニ指揮者であれば、それも当然と考えて良いのだろう。

 でも、これは大阪響として、恐らく史上初のピリオド・アプローチで、指揮者の威令も今一つ徹底せず、一部にチラホラとヴィブラートを掛けている奏者も見える。流石にコンマスは律義に、ノン・ヴィブラートを維持していても、チェロ主席が率先し、ヴィブラートを掛けているのには笑って終う。だが、これもチェロ・パートの後の四名が、一同右に倣えでヴィブラートを掛けているのを見れば、笑ってばかりもいられない。演奏そのものはハイドンらしい活気に満ちていたが、余り明るい音楽一辺倒にせず、もう少し緩徐楽章ではタメを作り、ニュアンスを醸す工夫も欲しかった。

 オペラ・アリアでの砂川涼子は意外にも、低い声に結構ドスを効かせ、ヴェルディ・ソプラノとして培った、リリックな声質に力のある処を存分に聴かせる。我々がハイドン・オペラに対し抱く、軽やかに優美な音楽と云うイメージを、良い意味で突き崩して見せる、劇的な力と情感に満ちた歌だ。後半のコンサート・アリアは今夜の白眉で、持ち前のコロラトゥーラの技術を活かした、鋭く激しい決然としたフォルテシモと共に、高低の音域での音色の変化で、ハイドンの劇的な側面を情感豊かに伝えてくれる。今回の砂川の定期出演は園田の肝入りだそうで、ハイドンを多角的に捉え提示しようとする、指揮者の意図を体現する歌だったと思う。

 プログラムの最後は告別交響曲で、四楽章では舞台の照明を落とし、一人また一人と奏者が袖へ戻って行く演出があった。指揮の園田も軽く一礼して退場し、最後に残ったコンマスとセカンド首席の二人で、全曲を弾き終え立ち去ると、舞台の照明も全て落とされる。ここで通常、オケのメンバー全員で舞台に戻り答礼する筈だが、今日は園田一人が戻り、楽団員はホールの出口で皆様をお見送りすると言いつつ、ハイドンのシュトルム・ウント・ドランク時代の曲を取り上げた理由など縷々説明してくれた。この子は本当に口八丁手八丁だなぁと、僕は良く喋る園田を少し呆れて眺めていた。

 僕はハイドンのオペラは以前に一度だけ、十年前の北とぴあ国際音楽祭で、「月の世界」を観た事がある。朧気でアヤフヤな記憶ではあるが、その際の森麻季や野々下由香里をキャストに迎えた上演では、バロック風に端正な解釈を施していたように思う。今日、指揮者はアリアで砂川涼子にアグレッシブに攻めさせると共に、オケにはピリオド・アプローチを要求した。園田はハイドンのオペラティックに劇的な側面を強調すると共に、古典派として均整の取れたフォルムも保とうとしたのだろう。彼はハイドンを真っ当に解釈しようとする、本物のオペラ指揮者なのかも知れないと思った事だった。
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ベートーヴェン「フィデリオ」op.72

2016-01-11 | ドイツオペラ
<ロームシアター京都プロデュース・オペラ/プレミエ即千秋楽>
2016年1月11日(月)17:00/京都会館

指揮/下野竜也
京都市交響楽団
京響コーラス
京都市少年合唱団

演出/三浦基
美術/杉山到
照明/藤本隆行
衣装/堂本教子
映像/小西小多郎

レオノーレ/木下美穂子
フロレスタン/小原啓楼
看守ロッコ/久保和範
娘マルツェリーネ/石橋栄実
門番ヤキーノ/糸賀修平
刑務所長ドン・ピツァロ/小森輝彦
司法大臣ドン・フェルナンド/黒田博


 新装なった京都会館の柿落しの記念に、お目出度い演目として「フィデリオ」が新制作された。お日柄も宜しく成人の祝日で、お向かいの勧業館みやこめっせでは、京都市主催の成人式が華やかに挙行されている。僕の着いた頃合に式典もハネたようで、岡崎公園の周辺は晴れ着姿の、新成人の大群でゴッタ返していた。

 ホールの傍らまで来て建物を見渡し、その外観が前川國男設計の旧京都会館と殆ど同じなのに驚くが、いざ中に入ると、以前の広々としたロビーや階段の面影は何処へと、今度はその狭苦しさに驚く仕儀となる。これは旧会館と比し、動線の点でかなり見劣りする出来である。全く同じ敷地に建てて、何故ここまで狭く感じられるのか、恐らくは旧京都会館の狭隘だったバック・ヤードを、現代仕様に広げた影響だろうが、そうであってもこれは酷いと感じる。二階まで吹き抜けで開放感に溢れた、以前のロビーが懐かしく思い出されるばかりである。

 メインホールに足を踏み入れ、舞台機構を剥き出しにする殺風景な内観と、殆ど残響の無いデッドなホール・トーンに、こりゃ演劇用だなと思う。コンサートホールは既に北山にあり、オペラ・ハウスなら隣町にびわ湖ホールのある、新京都会館の立ち位置を考えれば、音楽ホールでは無く舞台芸術に特化した劇場とするのは、方向性として間違ってはいない。後はプロデュース力を磨き、貸し館としてでは無く独自企画で、京都の魅力を発信出来るよう励むべきだろう。

 今回の上演はオケが舞台前に陣取り、歌手は奥に組まれたスロープ状の足場の上で演唱する、一般的なセミ・ステージ形式である。また、オケピットを地下牢に見立て、赤一色のフード付きマント(ジェダイ騎士の着てるみたいなヤツ)を纏った俳優に囚人として演技させ、その姿の俯瞰映像を字幕と共にホリゾントに投射する、ひと昔前のヨーロッパで流行った、舞台のヴィデオ映像を同時進行させる手法を取り入れている。舞台の両端には男女一対のナレーターを配し、日本語の台詞をダイアローグで語らせる一方で、舞台奥の歌手達は正面を向いた棒立ちのまま、お互いに傍にも寄らず、常に等間隔を保って唱う。彼等の衣装も全員が赤い上下で、白いシャツブラウスを着た者を二・三名混ぜ、見た目は至ってシンプルと云うか抽象性は高い。

 だが、こんな上っ面の説明では、何も言っていないに等しい訳で、この舞台の特質を伝えようとする、僕の理解度の低さに思い至るのである。そこでもう少し頑張って説明を加えると、前述の通り歌手に演技めいた所作は何も無かったが、実は俳優にも大した演技は無いのである。みんな概ね寝転がっているか、ブラブラ歩き回るだけで、これを牢屋に放り込まれた囚人達の、所在無さ気な行動と考えれば、一応は腑に落ちるのである。

 ナレーターの二名を含む、六人の俳優さん達の緩慢な動きから、僕の思い出すのは太田省吾が主宰し、大杉漣を看板俳優とした転形劇場である。そう考えると彼等のニブい動作も、五メートル進むのに三分掛ける、あの伝説の摺足歩行に似ている。恐らく緩慢そうに見える演技も、実は修練を積んだ動きなのだろう。また、男女の掛け合いによる台詞もデフォルメされ、語順の入れ替えや省略もあり、単純にお話を説明するのでは無く、観客に違和感を与える異化効果を狙っているようだ。割りに普通に台詞を語る男優に対し、妙に甘ったるい「ウッフン(萌え」みたいな女優の喋り方にも、同じ目的があるのだろう。一幕最後の「きゅうけい…にじゅっ…ぷん」と云う、女優のナレーションはその極め付けで、フィデリオの通り一遍なお話しを茶化している気配もある。

 要するに演出家にはフィデリオの勧善懲悪な、八時四十分に格さんが印籠を取り出す、水戸黄門みたいなお話に全く興味は無いのである。再構成された台詞も演出家本人に言わせると、「物語の世界観を通奏低音のように語る」となるが、僕の受けた印象ではフィデリオの陳腐な物語を、解体する目的があるように感じる。つまり抽象的な舞台作りで、ベートーヴェンの音楽に寄り添いつつ、フィデリオの脆弱な台本に対する、批判的な視点も提示しているのだと思う。

 舞台作りの手法自体は、これまでの地点演劇の延長線上にあるようだが、これがベートーヴェンのオペラティックに説明しない、人類みな兄弟の抽象的な音楽に合うのは驚きだった。下野のベートーヴェン解釈も、イン・テンポ且つザッハリヒナなもので、抒情性みたいな部分は切り捨てる、筋肉質な音楽を作っている。歌手のフレージングも四角四面に仕切り、アゴーギグの揺れ等は殆ど無く、情感を醸す歌を排している。みんなドイツ語のデュナーミクと、音量の強弱だけの歌で、オケにアチェルラントやリタルダンドはあるものの、歌には殆ど無く、健康的と云うかアッサリしていると云うか、やや物足りなさも残す演奏である。

 それとこの遣り方は、歌手に余計な負担も掛ける。そもそもデッドな音響のホールで、声に相当な力が無いと、前へ飛ばし響かせるのは難しい。その中で際立っていたのはマルツェリーネの石橋栄実で、力尽くでは克服し難いホールに、持ち前のレジェーロな美声を柔らかく響かせ見事だった。フロレスタンの小原啓楼も及第点で、リリコでも重目の声を、デッドな空間に響かせようと奮闘した。

 でも、レオノーレの木下美穂子は声の力不足で、高音部の伸びやかさを欠き、タイトル・ロールとしては物足りない歌い振りだ。ロッコの久保和範も今ひとつ、聴き映えのしない地味な声と歌だが、これは脇役には合うし、本人も自分の役回りを心得ている様子である。木下・小原・久保のトリオは、やはり下野の振った大阪フィル定期でも、三人でソリストを務めているが、「フィデリオ」と「戦争レクイエム」は全く異なる曲と云うか、そこに何かしらの共通点を探す方が難しい。ただ、両曲ともソプラノにはスピントの声を必要とするので、リリコの木下では力不足だし、小原の声質でスピントのフロレスタンと、リリコ・レジェーロな英国軍兵士を歌い分けるのも、如何にも無理がある。

 下野の歌手の選択に疑問を抱くのは、役に合う声で選ぶのでは無く、ただ単に自分の好みで選んでいるように思うからだ。木下も小原も情感で聴かせるタイプでは無く、音楽の陰影とかを求めるとサッパリだが、今日はそれはそれで楽しく聴けたのは、下野の志向には合うからだろう。時に無機的に陥る、下野の音楽性はそれとして、やはり主役二人にはスピントの声が欲しい。彼の歌手の選択は偏向し過ぎていると、僕は以前から考えている。

 ピツァロの小森輝彦は初役らしいが、音色とデュナーミクの工夫で、悪役っぽい声を作っている。逆にフェルナンドの黒田博の方は、正義の味方っぽく聴こえたが、こう云うのは僕の受け取り方の問題でもあり、恐らく二人の役を入れ替えても、それなりにハマるのだと思う。下野の指揮はアッサリ目なので、その速目のリズムに乗る歌手も、余りクドイ歌にはならない。個人的には皆さんもう少し、ねっちょりコッテリ歌って欲しかったけれども。

 合唱はアマチュアだし、まあこんなものかと思う。ただ、素人の男声二十名余りで、「囚人の合唱」はややキツく無理があり、感動的に歌い上げるとまでは行かない。フィナーレのコーラスで大人は自前の服、少年合唱団の子供達は制服でオケピットから現れ、抽象的な舞台は現実の世界へ移行する。序でに建て込みも取り払い、舞台裏を丸見えにしたのに、如何なる意図のあるのかは良く分からなかった。

 演出家の説明に拠ると「市民の解放は祝祭的に見えるが、それと裏腹に囚人達が幽霊のように浮遊している姿は、抜け道の無い負の部分」となるらしく、そこで六名の俳優が隅っこの方で何かしていたのを思い出し、そう云う事だったかと納得した次第である。どうやら地点の舞台に、ある程度の慣れは必要なようで、一見の客には取っ付き難い処がある。また、機会さえあれば何処かで観てみたいし、そう思わせるだけの力の籠った舞台だった。
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