オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

ワーグナー「ラインの黄金」

2017-02-16 | ヴァーグナー
<コンサートオペラ/プレミエ即千秋楽>
2016年9月11日(日)16:00/愛知県芸術劇場コンサートホール

指揮/三澤洋史
愛知祝祭管弦楽団

演出/佐藤美晴
美術/松村あや
照明/杉浦清数
衣装/塚本行子

ヴォータン/青山貴
ローゲ/升島唯博
アルベリヒ/大森いちえい
ミーメ/神田豊壽
ファゾルト/長谷川顕
ファフナー/松下雅人
フリッカ/相可佐代子
フライア/金原聡子
ドンナー/滝沢博
フロー/大久保亮
エルダ/三輪陽子
ラインの乙女/大須賀園枝/船越亜弥/加藤愛


 餡かけスパと海老ふりゃードッグの街、名古屋のアマチュア・オーケストラが、四年越しでリング・チクルスに取り組む。世界的に例を見ない壮挙との説もある、愛知祝祭管弦楽団に拠る歴史的な挑戦である。このオケを僕は六年前、「トリスタンとイゾルデ」の抜粋上演で聴いているが、その際にも指揮者を務めた三澤洋史に、僕は余り良い印象を持たなかった。今日にしても、一体どのような演奏になるのか、半信半疑で訪れたと云うのが正直な処だ。ただ、ホールに入って舞台を見渡せば、そこには六台のハープと十挺のコントラバスが鎮座していて、こりゃこいつら本気だなと思う。

 実際に演奏が始まると、冒頭のホルンの揺れる音程に不安を覚えるが、その後は持ち直した演奏に、ジックリと耳を傾ける。だが、やはり三澤の指揮に、僕は納得し難いものを感じる。盛り上げるべき場面で盛り上がらず、強調すべきフレーズを素通りし、聴いていて歯痒い思いをさせられる。考えてみれば、この人にバイロイトでの長い経験はあっても、オーケストラとは無縁なので、リングでは合唱のある「神々の黄昏」にしか関わってはいない筈だ。勿論、アマオケの場合、多忙な有名人を呼ぶより、親身に付き合ってくれる指揮者を選ぶ方が、良い結果を出す可能性は高そうだけれども。

 アマオケ相手に言っても詮無い事だが、弦楽パート内部の音程がバラけて倍音も鳴らず、ヴァーグナーらしい重厚な響きは出て来ない。また、オケのメンバーはヴァーグナーを演奏する際の、コツのようなものを掴んでおらず、旋律は横に流れて行くだけで、振幅の広いウネるような音楽にならないのである。指揮者のオケドライブにも不審な点は多く、アマチュアらしい熱演にも空回りの印象しか残らない。

 歌手には専門家を揃え、隙のない無い布陣を敷いていたと思う。中でもヴォータンの青山貴は、やはり声量と声そのものの輝きの両面に傑出していて、他とのバランスを失すると感じる程に、立派な歌い振りだった。今回のキャストはそれぞれに適役を集めて、良いアンサンブルを作っていたと思う。取り分けアルベリヒにローゲとミーメの三人組は、それぞれの役柄にピッタリの声質とキャラの立ち具合で、今日の上演の良質の部分を担ったと思う。ただ、みんな声量に乏しいようで、偏差値は高くとも平均点は低かったかも知れない。終盤のワン・シーンに登場し、ひとくさり唱うだけのエルダで、三輪陽子も抜群の声の存在感を示した。それが彼女の声の力に拠るのか、或いは計算されたお膳立あっての事なのか、僕に判断は付かなかったけれども。

 逆に残念だったのはファゾルトの長谷川顕で、あれ?何だか全然声出てないじゃんと、僕は聴いている間ずっと首を捻っていた。これが一時の不調に過ぎず、経年劣化に拠る衰えでなければ幸いである。隣りで唱うファフナーもイマイチで、巨人兄弟の声は何れも迫力を欠き、ファゾルト殺しの陰惨な場面の、インパクトまで削いで終ったのは残念至極だった。その他のキャストに多少のデコボコはあるものの、アンサンブルとしては何の不満も無かった。クラシック業界に伝手を持たないアマオケの主催公演で、これを誰の功績かと考えれば、恐らく新国立劇場合唱団指揮者の手柄に帰すのだろう。さすがに声の専門家のセンスの良さと、これだけはを誉めて置きたい。

 だが、今日つくづく思い知らされたのは、幾ら歌手が上手な歌を唱っても、満足すべきヴァーグナー演奏にはならない事だ。オケは決して歌手の伴奏では無いし、最も雄弁にヴァーグナーの音楽を語るのは、恐らく歌手では無くオケだろう。今日、表現力に乏しいオケに乗っかり、唱う歌手達の声を聴いて思うのは、この演奏を歌抜きで聴けるだろうか?云う事である。僕はピアノ伴奏のヴァーグナー上演等、全く聴きたいとも思わないが、歌無しのオーケストラ・コンサートであれば、ちょっと興味を唆られるのである。
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モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」K.527

2016-09-06 | モーツァルト
<いずみホール・オペラ2016/プレミエ即千秋楽>
2016年9月3日(土)14:00/いずみホール

指揮&チェンバロ/河原忠之
チェロ/上塚憲一
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

演出/粟國淳
照明/原中治美

ドン・ジョヴァンニ/黒田博
レポレッロ/西尾岳史
ドンナ・アンナ/石橋栄実
ドンナ・エルヴィーラ/澤畑恵美
ドン・オッターヴィオ/清水徹太郎
ツェルリーナ/老田裕子
マゼット/東平聞
騎士長/ジョン・ハオ


 九月は演奏会シーズンの開幕だが、先月はオペラ一本にオケ定期を二つ聴き、額面通りの高揚感は一向に湧かない。そう云えば今年の夏は、遠出の旅行もせずに終わりそうだし、秋風の立つ頃には何処かへ泊まり掛けで、オペラなど観て回りたいと思う。

 今年のいずみホール特集企画はシューベルトだが、それとは関係無く、年に一度のホール・オペラはモーツァルトで、三年前の「イドメネオ」に始まり、一昨年の「フィガロの結婚」、そして去年の「魔笛」と上演を重ね、今年は「ドン・ジョヴァンニ」を取り上げる。いずみホール・オペラの魅力は、何と云っても東西の所属団体を問わず集めた、豪華キャストの筈だが、コレペティ上がりの指揮者さんの場合、歌手の選択に情実を絡ませ、必ずしもベストの布陣を敷かないのではと、僕は以前から疑念を抱いている。

 河原は指揮のド素人なのに、今日見た処でも指揮法を学習する気配は微塵も無い。打点はバラバラな上に、左右の手は同じ動きをする等、基本を知らない指揮だが、それよりも問題はオケとコミュニケーションを取ろうとせず、完全に自分の世界に浸り切っている点にある。つまり一聴衆として客席から窺う限りでは、指揮にオケが反応し、音楽を変化させているように見えないのだ。オケの方で河原の能力を見切っていて、度々後追いになる指揮を無視し、着々と演奏を進める、そんな風にしか見えないのだ。この人の拍節の示し方は生硬で、音楽を堰き止めているので、もし指揮に忠実に演奏すれば、レガートに流れるモーツァルトにはならない筈だ。

 二幕のフィナーレで、指揮者は唐突に四拍振りを二拍に切り替え、テンポはガクンと速くなる。それはアチェルラントとは呼ばず、「走り出した」と云うのだと、僕は思わず突っ込んで終う。彼の指揮は素人に有り勝ちな自己陶酔型で、見苦しく目障りですらある。ずっとチェンバロだけ弾いていれば、後はオケが宜しく遣ってくれるし、ボロを出す事も無いのにと思う。これからでも遅くは無い、河原君には地道に指揮法を習得するようお勧めしたいが、彼には長いコレペティの経験がある為、変なプライドを捨て切れないのだろう。

 また、オケは指揮抜きであっても、フォルテを盛り上げるのは容易だが、自分達だけで音量をピアニシモまで下げるのは難しい。それこそ指揮者の役割だが、河原にはそのような指示を出す素振りも無い。例えば一幕のデュエット「お手をどうぞ」や、アリア「打ってよマゼット」等、ピアニシモ主導の曲でもオケの音量は小さくならず、歌手の声はマトモに聴こえて来ない。ここで黒田や老田が、オケに負けじと声を張り上げれば、全ては打ち壊しになる。歌と伴奏の音量のバランスを取る事も出来ないのでは、オペラ指揮者失格と謗られても仕方無いだろう。

 ツェルリーナの老田裕子は、指揮者に足を引っ張られ気の毒だったが、二幕の「薬屋の歌」では柔らかい声で、甘いモーツァルトを聴かせてくれる。去年のロッシーニでは重目に感じられた声も、モーツァルトではレジェーロに響き、この方はベルカントでも抽象的な音楽とは相性が悪いと感じる。ドンナ・アンナの石橋栄実もレジェーロな声質だが、こちらはパセティックな役柄を、フィジカルの強さと直向きな歌で押し通す。石橋は蚊細いコロラトゥーラのイメージから程遠い、ソプラノ・レジェーロにしては破格の声量の持ち主で、常に力任せに成り勝ちな人である。この方の一本調子な歌は毎度の事で、細かい表現の襞とかは端から期待していない。

 ドンナ・エルヴィーラの澤畑恵美はメゾでもスピントでも無い、標準的なソプラノ・リリコと思っていたが、今日聴いた処ではパセティックな情動を表現出来るので、元カレを追い駈け回すストーカーみたいな役柄にハマったと思う。今回の三人の女声主役に付いて、僕は実際に聴くまで懸念と云うか、その配役に不審を感じていた。やや重目の老田にツェルリーナは相応しいのか、典型的なレジェーロの石橋の方が適役だろうし、リリコの澤畑もドンナ・アンナで良いのでは?等と考えていた。聴き終えた後の感想として、老田と澤畑はそれなりに適役だったが、やはり石橋にツェルリーナを唱わせれば、もっと肩の力を抜いた歌になっただろうと思う。こう言ってはアレだが、この方にはノー天気な役柄がフィットするのだ。

 僕は黒田博のタイトル・ロールを、以前びわ湖ホールの上演で聴いている。彼は役柄を完全に手の内に入れていて、持ち前の美声を強力な武器に、闊達な歌い振りで聴かせてくれる。レガートに歌いながらも、フレーズの終わり際をキッチリと切り上げる、端正なフレージングも聴いていて心地良い。これはモーツァルトの様式観に関わる問題で、出来ていて当然だが言うは易しで、この基本を素っ飛ばす歌手は幾らでも居るのである。

 この点はドン・オッターヴィオの清水徹太郎も良く心得ていて、清潔なフレージングを作っている上に、デュナーミクの抑揚と音色の変化を結び付け、委曲を尽くしたモーツァルトを歌ってくれる。今日は二幕のアリアに加えて、ウィーン上演版で追加された一幕のアリアも唱われ、清水君のレジェーロな美声をタップリ聴けて、まずは満足である。今日は二幕のエルヴィーラのアリアも唱われたので、地獄落ちの前に長いアリアを三曲も立て続けに聴かされ、いよいよお腹一杯だった。

 騎士長のジョン・ハオは額面通り、声に力のある処を聴かせ自分の職責を果たしたが、マゼットの東平聞は低音のサッパリ出ないバスで、平べったい嗄れ声で力むだけなのが鬱陶しい。レポレッロの西尾岳史も微妙で、演技はソコソコだし声量にも不満は無いが、声の個性と云うか魅力に乏しく、聴いていて面白くないのでは致し方も無い。

 演出に付いて平凡でも安心して観ていられると取るか、或いは独自の解釈も何も無い、退屈極まる舞台と見るかで意見の分かれる処だろうが、それよりも僕が問題にしたいのは、ルーティン・ワークに陥った演技て、細かい仕草や動きを歌手に丸投げしているように見える点にある。一体に日本のオペラ歌手には様式化された身振りがあり、演出家は敢えて手を出さずとも、歌手だけで適当に舞台に仕立て上げる事が出来るように思う。

 開幕直後のドンジョと騎士長の果し合いの場面、黒田の手からポロっと剣が落ちて終った処へ、ジョン・ハオは間髪を入れず剣を突き掛け、これに黒田も素手のまま身を躱す演技で応じ、最後はハオから剣を奪い取り刺し殺して見せた。決着の付いた処で、床に落ちていた剣を拾ったフルート奏者が、黒田の足元に置いた事で、一連の遣り取りは演出では無く、二人のアドリブである事もハッキリした。実に巧く誤魔化したものだが、それは同時に彼等の演技が、既成の約束事の上に成り立っている事を、図らずも顕わにしたように思う。
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フォーレ「レクイエム」op.48

2016-08-26 | モダンオケ
<Meet the Classic Vol.33/敬虔な祈りに満ちた夏の一夜>
2016年8月26日(金)19:00/いずみホール

指揮/藤岡幸夫
ソプラノ/半田美和子
バリトン/池内響
オルガン/片桐聖子
関西フィルハーモニー管弦楽団
関西フィルハーモニー合唱団

ルロイ・アンダーソン「舞踏会の美女」
モーツァルト「アレルヤ」(エクスルターテ・ユビラーテ)K.165
ドニゼッティ「天使のように美しい娘」(ドン・パスクアーレ)
オルフ「天秤棒に心をかけて」(カルミナ・ブラーナ)
ハイドン「農夫は今、喜び勇み」(四季)Hob.XXI-3
グリーグ「ソルヴェイグの歌」(ペール・ギュント)op.23-19
メンデルスゾーン「主よ、もう充分です」(エリア)
ラヴェル「マ・メール・ロワ」組曲
フォーレ「レクイエム」(ジョン・ラター改訂第二稿復元版)op.48


 僕は只もう単純に、フォーレのレクイエムを聴きに来ただけで何も知らなかったが、「ミート・ザ・クラシック」は既に十七年も続いている、関西フィルの名曲コンサート・シリーズだそうである。十七年前、まだ三十代の若手だった藤岡幸夫が、「クラシックをもっと身近なものにしたい」と、始めた企画らしい。でも、今日の客席を見渡すと六分程度しか埋っておらず、良く今まで続いたと云うか、先行きに不安を抱かせる客入りである。

 冒頭のルロイ・アンダーソンは恒例だそうで、名曲コンサートは誠に景気良く始まる。これに僕のようなフリの観客は違和感を覚えるが、その後もゴタゴタと曲を並べた感じで、指揮者のプログラミングの意図は今ひとつ分かり難い。コンサートの前半は、ポピュラー・ソングの部類に入るルロイ・アンダーソンと、マ・メール・ロワ組曲の間に、半田美和子と池内響の歌を三曲づつ挟む構成だが、その選曲に脈絡が見えて来ない。テーマは「敬虔な祈り」だが、音楽的には何だか闇鍋っぽく、要するに指揮者の藤岡の要望と、二人の歌手の唱いたいものとを擦り合わせ、並べただけのようにも思える。

 モーツァルトのモテットとドニゼッティのアリア、或いはオルフの舞台音楽とハイドンのオラトリオと云う取り合わせを、一体どう関連付けるのか、指揮者にジックリ尋ねて見たい処だ。これは詰まる処、フォーレのレクイエムのソロだけでは、わざわざ東京から歌手を呼んでも元は取れないと云う、コストパフォーマンスの問題だろう。だからと云って、聴き易そうな歌を適当に詰め込んで置けみたいな発想で、名曲コンサートをプログラミングするのでは安易に過ぎる。

 僕は半田美和子を細川俊夫「班女」の、日本初演の際に初めて聴いた。レジェーロな声質で、細川のオペラには打って付けだったが、今日歌われたモーツァルトのモテットは、リズムに生気を欠く平板な歌い振りで、折角のアジリタのテクニックも生かせなかった。その半田が「ソルヴェイグの歌」を歌うと、別人のように精彩を放つのだから、歌手と曲の相性は分からないものだ。ノルウェイ語の抑揚に合わせたデュナーミクに、多彩な音色の変化を絡ませて、ロマンティックに細かやな情感を表出して見事だった。

 バリトンの池内響は初めて聴く人だが、紛れも無い美声の持ち主で、前途有為な人材である。ただ、イタリア語とドイツ語の三曲を、如何にも気持ち良さそうに歌い飛ばし、ハイドンにドニゼッティにメンデルスゾーンの、それぞれの時代様式を描き分ける事に思いを致す様子は無く、取り敢えず今後の精進に期待したい。

 休憩後、いよいよメインとなるレクイエム。その最大の眼目は、一般的なプロオケで使われる第三稿では無く、ジョン・ラター校訂の第二稿復元版の使用にある。ラター版の売り物は、フォーレ自筆原典版の復元を目指し、弦楽はヴィオラ以下の十八名とソロ・ヴァイオリンのみで、管楽器もホルンこそ四本と多目だが、後はファゴットとトランペットの二本のみで、オケの総勢三十名足らずと云う小編成にある。それにも関わらずアマチュアの合唱団の方は、恐らく在籍団員を全て舞台に上げたのだろう、八十余名で山台から零れ落ちる多人数である。この大編成はラター版採用の趣旨に反し、指揮者はオケに付いては、いずみホールのキャパに合わせた選択と説明したが、合唱団の人数に付いての言及は無かった。

 藤岡のフォーレ解釈も旧態依然としたもので、サンクトゥスやリベラ・メではパワー全開の小編成オケを、大編成コーラスと張り合わせて景気良く盛り上げ、一体何の為のラター版なのかと、いよいよ分からなくなる。本気でレクイエム原典版に取り組むのなら、ソリストにはボーイ・ソプラノを起用すべきだし、古楽器オーケストラも必須だろう。フォーレの真意を忖度すれば、必然的にそうなるのである。

 まあ、中小オケの名曲コンサートに、そんな高望みをする方が間違っているとは、自分でも良く分かっている。ただ、原典版使用を謳い、作曲者の意図を尊重するみたいな言い方をしながら、従来通りの大編成志向の演奏をするのは、羊頭狗肉と云うものだ。それは指揮者にフォーレへの、リスペクトの無い故であると、そう判断ぜざるを得ないのである。
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京都市交響楽団第604回定期演奏会

2016-08-19 | モダンオケ
2016年8月19日(金)19:00/京都コンサートホール

指揮/沼尻竜典
ピアノ/石井楓子
京都市交響楽団

三善晃「ピアノ協奏曲」
ショスタコーヴィチ「交響曲第四番」op.43


 八月の京響定期は三善晃のピアノ・コンチェルトに、ショスタコーヴィチの四番のシンフォニーと、この酷暑に輪を掛けるような、やや暑苦しい重量級プログラムである。でも、特に三善晃の管弦楽曲を実演で聴く機会は貴重で、やはり聴いて置きたいと考え京都まで赴いた。

 まずはプレ・トークで指揮の沼尻と共に、本日のソリストを務める石井楓子嬢も舞台に現われる。芳紀やや過ぎて正に二十五歳の楓子嬢は、本人は口では緊張している等と宣っていたが、誠に活発なお嬢さんである。楓子嬢はTシャツにジーンズの軽装なのに、沼尻先生は既に燕尾服に着替えている事で、先生にクレームを付ける遣り取りからも、この方の物怖じしない性格を窺える。

 三善晃のコンチェルトは、古典的な急緩急の三部形式を踏襲する、十五分にも満たない短かい曲。一気呵成に進んで爽快感のある曲で、もちろん標題など付かない真っ新の器楽曲だが、そこに僕はレクイエム三部作に通ずる、三善晃の死者への鎮魂の想いを感る。恐らく七十余年前の戦死者への想いは、三善晃の全ての曲に通底しているのだと思う。

 ソリストの楓子嬢はタッチの鋭いピアニストでは無いが、三善晃に打って付けの硬質な音色と、難曲を弾きこなすテクニックの持ち主である。ラヴェル辺りを弾けば合いそうだが、柔らかい表現力もありそうで、何と云っても若い方だしレパートリーを広げる途上にあるのだろう。この秋からバーゼルに留学するそうで、これから大いに研鑽を積んで欲しい。

 後半のショスタコ四番はマーラーの三番と並び、長ったらしいシンフォニーの代表選手として知られる曲で、事実ショスタコはマーラーのスコアを傍らに置き作曲を進めたそうな。編成も矢鱈にデカく、沼尻の言に拠ると本日のオンステは百八名だそうである。若い作曲家が喋れども喋れども語り尽せず、思わず知らず長くなって終った感じの曲だが、こちらは三善とは異なり、標題音楽の気配はアリアリで、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と対になる交響曲と云う印象を受ける。ショスタコは作風に相通ずる処のあるシュトラウスを、目標ともライバルともしていたようで、「ツァラトゥストラはかく語りき」も、参考にした可能性はある(因みにマーラー三番の歌詞にも、ニーチェからの引用がある)。

 一聴した処では前後の長大さに比し、挟まれた二楽章は妙に短く、曲を通し只もう脈絡の無い音型の繰り出されるばかりで、何れの楽章も尻すぼみにピアニシモで終わる、オケにすれば労多くして益少なしの超大曲と云う印象である。弦楽のユニゾンでのフーガでの強奏は凄まじく、盛り上がっては鎮まりを繰り返し、やがて三楽章の金管のファンファーレが鳴ると、おお!この大曲にも遂に終わりが来たか、と感慨も込み上げる。オケも指揮も大熱演だったが、この長大な曲を隅々まで攫うなど不可能に近く、あちこちに練習不足は散見される。そもそも幾ら熱演されても、この曲で感動はしねぇよなぁ…。その辺りはシュトラウスの交響詩と同じと思うし、終演後にブラボーを叫んでいた連中には、おまえら本気か?と小一時間問い詰めたい気分だった。

 チェレスタの点描と共に、ピアニシモで曲を終えてから沼尻が棒を下すまで、十秒間は優にあったように思う。その静寂の間、もしかして沼尻は拍手の起こるの待っているのだろうか?と疑問に感じ、拍手して上げた方が良いのかも等と、僕は考えていた。でも、拍手しなくて良かった。タクトを下ろす前に拍手したら、ネットでボロクソに叩かれる処だった…。まあ、これも劇的に盛り上がる場面はあっても、僕は一向に感動を覚えなかった証左でもあります。

 それとソリストだらけのシンフォニーで、指揮者は一体誰を真っ先に立たせるのだろう?とも思っていると、まずファゴットで続いてトランペット、そしてトロンボーンの順番だった。この選択も分かるような分からないような…。とにかく不可解な曲でありました。
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マスネ「ドン・キホーテ」

2016-08-07 | フランスオペラ
<びわ湖ホール・オペラへの招待>
2016年8月7日(日)14:00/びわ湖中ホール

指揮/園田隆一郎
ギター/山田唯雄
日本センチュリー交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/菅尾友
美術/柴田隆弘
照明/吉本有輝子
衣装/太田雅公
振付/砂連尾理

ドン・キホーテ/松森治
サンチョ・パンサ/五島真澄
ドゥルシネ姫/鈴木望
ペドロ/藤村江李奈
ガルシアス/本田華奈子
ロドリゲス/島影聖人
ジュアン/古屋彰久


 びわ湖ホール声楽アンサンブル出演に拠る、格安提供のオペラ公演で、今夏はマスネの「ドン・キホーテ」と云うか「ドン・キショット」と、これはまた随分とレア物を取り上げる。聞き齧りの知識に拠ると、初演のタイトル・ロールだったシャリアピンへの、作曲家に拠る宛て書きオペラで、強力なバス歌手の存在を前提とした演目である。

 バス歌手を主役とするオペラは当り前だが数少なく、それもムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」や、ボロディンの「イーゴリ公」等、ロシア物に偏っている。イタオペではボイトの「メフィストフェレ」、フランス語ならば「ドン・キショット」が、それぞれ唯一の有名オペラかと思われる。一たびバス歌手として身を立てれば、一生の内に一度は唱いたい役で、ここはお鉢の回って来た若手バスの張り切り振りを、ジックリ拝聴したい処である。

 指揮者がオケピットに現われ前奏を始めると、そのテンポの速い賑やかな音楽に、やや意表を突かれる。僕はマスネのオペラは六年前「マノン」を聴き、そのスタイリッシュな美しい音楽を楽しんだ記憶がある。そこで「ドン・キショット」に付いても、僕は聴く前から流麗な旋律美のある、フランス音楽らしい曲だろうと思い込んでいた訳だ。それが思いの外にリズムを弾ませ進む、如何にもブッファらしい曲想で、これは題材に拠って作風を使い分ける、マスネと云う作曲家の職人気質なのだろうか。

 滅多に上演されないフランス物と云う事で、びわ湖ホールでは仏人女性指揮者を招聘するも、公演まで一ヶ月を切った時点でキャンセルとなり、若手有望株の園田隆一郎が火中の栗を拾う代役を引き受けた。初めて振るオペラを譜読みから始め、何とか本番に間に合わせたようだが、やはりその演奏に準備不足は否めない。三幕や五幕への間奏曲は美しいけれども、フランス音楽らしいエスプリの表現は乏しい印象を受ける。ただ、その辺りの事情はオケも良く心得ていて、四幕のサンチョ・パンサのアリアから幕切れに掛けての盛り上がりは、指揮者の意図を斟酌した協働作業の雰囲気も漂う。

 サンチョ・パンサの五島真澄は美声のバリトンで、ヴェルディやプッチーニなら良いかも知れないが、ブッフォを歌うにはリズムが甘く、コメディ演技も彼なりに頑張っていても、板に付いていないのは観ていて辛い処である。多分、これは稽古で解決するとも思えない、持って産まれた資質の問題も絡む、日本オペラ界の問題点かも知れない。

 タイトル・ロールを務めた松森治は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの卒業生で、やはりドン・キショットを歌えるバスを、現役の二人で揃えるのは端から無理な相談のようだ。それと松森は声量は充分でも、仏語が片仮名なのには興醒めさせられる。今日聴いた処では松森君も上達したなぁと、若い歌手の精進に賛辞を贈るのに吝かでは無いけれども、これを手放しで誉める訳にも行かない。ドゥルシネア姫のメゾは単調な音色で、力むと音程が低目に聴こえる難もある。ソット・ヴォーチェは綺麗なので、デュナーミクの工夫に声の色合いの変化を絡ませれば、多彩な音楽を作れる筈と思う。

 演出を担当した菅尾友は三十代の若手だが、既に国内外で実績を積みつつある、将来有望な成長株のようだ。予算不足の煽りを受けたのか、今日の舞台にセットらしいセットは無く、制約の厳しさを感じさせる。足場と階段を組み合わせた作業用設備を、セットの代わりとするのはびわ湖ホールの常套手段で、これまでに僕も何度も見ている。演出家は故意に舞台機構を顕わにして見せ、メタ演劇的な効果を狙ったと説明していたが、そのような芸術的意図を読み取る事は、少なくとも僕には出来なかった。

 若い演出家は先にコンセプト有りきでは無く、予算制限に対し柔軟に対応し、単純に観客を楽しませようとするエンターテインメント志向が顕著で、制約を逆手に取って自己主張するようなタイプでは無さそうだ。ドン・キホーテが突進する風車も、簡素なセットの中で工夫を凝らし、歌手のコメディ演技も上手に引き出して手堅く、音楽の邪魔をせず安心して観ていられる演出である。その手堅い舞台の中で演出家が最も重視したのは、コンテンポラリーダンスで先鋭的な活動を展開する、砂連尾理と云う興味深い人材に、振付けを任せた事だろう。

 砂連尾はオペラ歌手にダンスを仕込む作業を、「歌手はダンサーと方法は違っても、身体で表現するという共通性があり呑み込みが早い。音が全て体に入っているので、細かいタイミングの指示にも的確に反応して貰える」と説明していて、なるほど若い歌手達の動きは一見すると激しそうだが、見た目程には身体を動かしておらず、一息を付く間合いも充分に設けてある。さすがにプロの振付家には、ダンスの素人に無理な要求を出さずとも、自分の思い描く群舞を作り上げる確かな手腕がある。

 でも、コンテンポラリーダンスを取り入れると云うので、一体どんな鋭った事を試みるのかと、観る前は結構期待していたので、やや肩透かしの感はあった。菅尾友は若いのに似合わず、舞台作りの基本を弁えて、国内でベテランと称される演出家の及ばない技術力がある。只まあ、ここまで手堅い舞台を観せられると、何かしらの発見や閃きも欲しくなる。サンチョ・パンサが切々と訴える場面や、息を引き取るドン・キホーテを悼む幕切れ等、音楽的な感動に加えて演出上の、もう一工夫は欲しい処だ。

 今日は端からタイトル・ロールに過大な期待はしていないし、初めてのオペラを楽しめる演出で観る事も出来た。急場の代役にしては指揮者も頑張ってくれて、取り敢えず満足すべき上演だった。今後のびわ湖ホール声楽アンサンブルのオペラ公演は、全て園田と菅尾のコンビに任せて貰っても、何も不都合は無いように思う。若い二人の更なる精進と活躍に期待したい。

 上掲の写真はロビーでお見掛けした、びわ湖ホール芸術監督の沼尻竜典さんです。ご協力有難うございました。
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